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ニッポニア編
64 緋色の蝶
しおりを挟むジェイドはオリヴィンに続いて父までもが行ってしまうと、心細さで身が竦む思いだった。
そんな中、『月華楼』の黒曜様が訪ねて来た。
黒曜は、デュモン卿もオリヴィンも留守と知ると、その間自分の家に来ないかと誘ってくれた。自宅は閑静な住宅地にあるのだそうだ。
ずっと父とオリヴィンと旅をしていて、それがいつの間にか当たり前になってしまっていたジェイドは、人恋しさもありその誘いにありがたく乗ることにした。
身の回りのものだけを簡単にまとめて、黒曜の乗って来た『人力車』という人が引く二輪の乗り物に乗り、出島の橋を渡る。
表通りからいくつもの裏通りを曲がって進むと、門に立派な格子戸が付いた一軒の屋敷の前に停まった。格子戸をくぐり、庭木に挟まれた飛び石の通路を進むと、平家の立派な邸宅が現れた。
玄関を入ると中庭があり、そこを中心に回廊が巡らされた、なかなか立派な設えの建物だった。
家具も、おそらく外国からもたらされたのであろう、美しいペイズリー柄の絨毯の上に、細工の施された椅子とテーブルが置かれている。
椅子を勧められてジェイドが座ると、女中さんが紅茶のセットを盆に乗せて入って来た。胸が透くような良い香りがする。
「こちらは、家の中の細々したことをお願いしているシズさんです。シズ、この方はジェイドさんよ。しばらく家で暮らしていただくので、頼むわね」
「シズさん…ジェイドと申します。お世話になります」
ジェイドは片言のニッポニア語で話しかけた。
「はい、何でもいってくださいましね」
そう言うとシズは下がって言った。
黒曜は紅茶を一口飲むと、
「実を言うとオリヴィン殿が出立される前に、私に頼んで行ったのですよ。ジェイド様のお力になってくれと。…優しいお方ですね」
と言ってにっこりした。
「そうなのですか…」
ジェイドはオリヴィンにも父にも
『私のことは何も心配しないで、行って来てください』
と言って送り出しているのだが、自分の知らないところで密かに気遣ってもらっていたことが嬉しかった。オリヴィンのやさしい顔が脳裏に浮かんで、ジェイドもふっと頬が緩んだ。
そんな僅かな気持ちの変化に、黒曜は何か温かなものに触れた気がして、安堵する。
世界の裏側の国から遥々旅をして、母に会いにやって来た少女…その距離の果てしなさに気が遠くなる。遥かな旅を三人で支え合っていたのであろう絆の深さに感心もする。
お茶を飲み終えると、『屋敷の中を案内する』と言って黒曜が立ち上がる。
ジェイドも合わせて荷物を持って立ち上がった。
「こちらがジェイドさんのお部屋です。お荷物を置いてくださいな」
先に立って案内していた黒曜が立ち止る。
「荷物を置かれたら、他を案内してしまいますね」
ジェイドが荷物を部屋の隅に置くのを待って、黒曜は次々に家の中を案内していった。
「ごめんなさいね、こんな急足で。実を言うとこれから店の女の子たちが、踊りの稽古に来るの。もしよかったら、見学してもらっても良いわ」
黒曜はそう言うと、奥の広い部屋の『襖ドア』を開け始めた。
「とりあえずは、支度を崩していらっしゃい」
ジェイドは、部屋に戻って若草色のワンピースに着替えた。これなら、片付けや食事の支度を手伝っても大丈夫だ。
そのうち、玄関の方で声がした。
「おたの申します。女将さん、お邪魔いたします」
二、三人だろうか?若い女性の声が聞こえた。
わいわい楽しそうな声が廊下に響いて来た。先ほどの奥の広い座敷で稽古するのであろう。ジェイドはどうしようかと考え込んでいた。自分なぞが稽古を覗きに行って良いものやらどうか…
少しの間静かになった後、三味線と唄が聞こえて来た。
ジェイドは少しだけ覗いてみたくなって、そっと部屋を出て廊下を進んで行った。庭を挟んで廊下の反対側の部屋で、若い女が踊っている。
三味線はこの家のシズさんが弾いているようだ。すると唄っているのは…?
ジェイドはそっと静かな足取りで近づいて行った。
すると、不意に踊っていた女と目が合い、女が動きを止めた。
「あ、ごめんなさい。邪魔をしてしまって…」
咄嗟にジェイドが謝ると、奥から軟らかな黒曜の声がした。
「どうぞ、こちらへいらっしゃい。皆に紹介するわ」
そう言われて、ジェイドは思い切って部屋の前に立ってお辞儀をした。
「こちらは私のお客様で、ジェイドさんよ。皆んなよろしくね」
先ほど踊っていた女がこちらをじっと見つめる。
ジェイドは、その目が明るい赤色なことに気がついた。
その目はあからさまにジェイドに無遠慮な視線を投げかけて来る。
「ジェイドさん、こちらはアイリン。先日、迎賓館でもお会いしていたかしら?…後ろのこちらはコギクで、こちらはユキナよ」
座ってアイリンの稽古を見ていた二人がペコリと頭を下げた。
ジェイドをコギクとユキナの隣に座らせると、
「さあアイリン、もう一度最初から!」
と声を上げた。
三味線の音に合わせて黒曜の唄が重なり、その音の波に乗ってアイリンが踊り出す。
(きれい。上手だわこの女!この間はミメット氏との話に夢中で、舞を見る余裕もなかったし…)
ジェイドは艶やかな蝶のように舞うアイリンを見て、憧憬の念を抱いた。
アイリン、コギク、ユキナの順で、一人につき三曲ほど練習をさせ改善点などを指導した後、練習は終了となった。
ジェイドはニッポニア式に膝を折る形で『正座』していたのだが、慣れない姿勢にすっかり足が痺れてしまっていた。
「あちらでお茶とお菓子をいただきましょう」
と言われて立ちあがろうとしたが、立ち上がれない。踏ん張った足に力が入らず、見事にその場に転んで突っ伏してしまった。
「あらあら、大丈夫?」
小馬鹿にしたような声でアイリンが声を掛けて来る。
「黒曜様、わたしジェイド様の足を揉んで差し上げるので、お先に行ってくださいな」
黒曜は少し心配そうな顔をしたが、
「そう?アイリンお願いするわね」
とお茶の用意をしに行ってしまった。
「ほうら、足を伸ばしてくださいな。こうして摩ると良くなりますのよ」
アイリンはぎゅうぎゅうとジェイドの足を揉んでくる。
「痛っ!」
その声を聞いて、足を揉むアイリンの手つきはもっと強くなった。
あまりの痛さでジェイドは涙目になって呻く。
「…ユングさまは、今遠くへお出かけなのですか?」
急に虚を突かれて、思わず『はい』と答えると、
「お寂しいですわね。閨の隣に居られなくて」
その言葉の意味がわからず、
「はい?」
と聞き返すと、とんでもない言葉が返って来た。
「いつも閨で可愛がってくださるのでしょう?私も先日、可愛がっていただきましたわ」
(え、なに?このひと何を言っているの?)
「あまりに激しくて…いつもああなのですか?」
ジェイドは耳を疑う…
「なかなか離してくださらなくて、困りましたわ」
「………」
呆然とするジェイドを見て、アイリンは不敵な笑みを浮かべた。
「あら、お茶の準備ができましたわ。わたし、お先に参りますわね」
そう言うとアイリンは部屋を出て行ってしまった。
* * *
「おやアイリン、ジェイド様はどうされました?」
黒曜の言葉に、アイリンはしれっと答える。
「足が痛いので、お部屋で休まれるそうです」
「そう…」
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