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第2部・第9話:突入前夜
第5章
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さらさらと清涼な水が流れていく。
大地の恵みをふんだんに含んだキルケ川の支流で、フィンレーは顔を洗っていた。
カロッサの住民達が、昼夜を分かたず作業を続けてくれたおかげで、白ヒイラギの聖水も完成間近だ。手伝えることのなくなったフィンレーは、町の男達を率いて、崩れた見張り塔や防護壁の補修の陣頭指揮を執っている。
不安を払拭するために肉体労働に没頭していたいというのは、フィンレーもジェイクと同じだった。彼も、町民達の手伝いがない時間帯には、ちょくちょく顔を出し、手を貸してくれている。
作業が一段落した今は、休憩を兼ねて、町の女性達からの差し入れをいただくために、手を洗いに来たところだった。
川面を覗き込んだ体勢のまま、軽く頭を振って水気を払う。水滴が作る波紋を見るともなく眺めながら、フィンレーは大きく息をついた。
「…………」
手を休めると、やはりどうしても、魔王軍に攫われたルカのことを考えてしまう。
無事でいるだろうか。グリテンバルドに居た頃は普通に離れて暮らしていたのに、あの笑顔が見えないだけで、こんなにも不安になるとは。それもこれも、生死さえ分からない状況が続いているからだろう……。
やがて凪いだ水面に映った自分の顔は、深い憂いに沈んでいる。気付いてフィンレーは、思わず苦笑を漏らした。情けないことだ。騎士たるもの、いかなる時でも平静を保たなければならないというのに。事がルカの安否に関わるだけに、それさえままならない。
――水鏡に映るその顔が、不意に歪んだ。
風もないのに、などと考える間もなく、見知った美しい姿を象り、フィンレーは眼を見張る。
「!!」
息を呑んだ次の瞬間、水の中から音もなく立ち上がったのは、半身半蛇の神・メルヒオールだった。水面を割って現れたというのに、紺色の波打つ髪も、蒼褪めた肌も鱗も、まったく濡れていない。
「メルヒオール様……!?」
遠くビルダヴァのレスタド山に御座すはずの異教の神の降臨に、フィンレーは呆気に取られた。物理的な距離などものともしない顕現こそが、蛇神の神たる所以だろうか。
驚くフィンレーを、メルヒオールは金色の瞳でじっと見据える。
「そなたは、息災のようだな」
「……はい」
念を押すような問いからは、メルヒオールには、ルカが魔王の手に落ちたことなど筒抜けであることが窺えた。彼を殊の外気に入っていた蛇神にとっては、さぞや腹立たしいことであろうと、フィンレーは悔恨に表情を曇らせる。
しかしメルヒオールは、冷たい美貌に憐れみの色を浮かべて、薄く微笑んだ。
「よい。叱責に来たのではないのだ。そう眉根を寄せていては、美形が台無しではないか」
そして、濡れたままだったフィンレーの顔を撫でるように手を翳す。瞬時に水気の消えた頬に手を当てて、フィンレーは戸惑うように瞳を瞬かせた。
驚きを隠せない剣士を横目に、メルヒオールは半身を水に浸したまま、川縁に腰を落ち着ける。
「――私の助力は必要ないか」
「!?」
思ってもみなかった提案に、フィンレーは束の間、呆然とメルヒオールを見返した。人間であれば耳のあるべき場所に生えたヒレや、川の中に続く蛇体を眺め、そして、以前戦った際の彼の強さを思い出し――改めて、その発言の内容を脳内で精査する。
メルヒオールは、ルカを救出するために、共に魔王軍と戦うと申し出てくれているのだ。
「貴方が居てくださるなら百人力だ! ありがたい、願ってもないことです!」
素直に喜び、頭を下げるフィンレーに、メルヒオールは柔らかく破顔した。人外の繊細な美貌が、慈しみに彩られる。
「何。北の者の影響で魔物共が暴れると、大地に与えた私の加護が無駄になる。それに、ルカは私の妻にも等しい存在だからな」
後半は本気で言っているのか、それともフィンレーの反応を楽しむためなのかはわからない。メルヒオールにはこうして、親友同士の関係を煽ろうとするところがあった。
しかし、普段なら照れたり怒ったりして見せるはずのフィンレーも、この時ばかりはそうもいかない。メルヒオールの参戦に束の間華やいだ表情は、再び物憂げに曇ってしまう。
――ああ、ルカ。今頃お前は、つらい思いなどしてはいないだろうか……。
「そう思い詰めるな。私の加護はそなたにもある。必ずや無事に、そなたの親友殿を取り戻してやろう」
メルヒオールは冷静に、しかし力強く請け負った。その涼やかな声音は、聞く者の心を落ち着かせてくれるようだ。
そうして気持ちが凪いでくると、次に気になったのは、自分の心境の方だった。メルヒオールの発した「友」という言葉に、妙に引っ掛かるものを感じる。
「――俺は、他の者達のように、本人の自主性を無視してまで、ルカを甘やかしたい訳ではないんです。一方的に守ってやりたいっていうのは、親友としてのルカに失礼だとも思うから。ただ……」
「――ただ?」
訥々と語るフィンレーを促すように、メルヒオールは穏やかに聞き返す。一方的に送り付けられる生贄の娘達を養育していたという蛇神は、こう見えて、やはり父性に溢れた存在なのだろう。
背中を押されたような気分になって、フィンレーは顔を上げ、メルヒオールに向き直った。
「ただ、ルカに重い使命があるなら、俺も、共に背負ってやりたいと思っています」
重荷を肩代わりするのでなく、危険から遠ざけるのでもなく。
それは、一緒に成長してきた友人だからこそ言えることだ。ルカを可愛いと――愛しいと感じるのとは、また別の問題である。
一番近くにいて、互いの負担を分け合い、支え合う。それがフィンレーの考える、ルカとの理想的な関係だった。
フィンレーの宣言に、メルヒオールが嬉しげに切れ長の瞳を細める。
「複雑だな。だが、ならば尚のこと、そなたの想いをそのまま伝えてやらねばなるまい」
「……はい」
異教の蛇神と、その愛し子は、深い笑みを交わして頷き合った。
心身共に健康な貴公子は、よき理解者を得たことで、自ら己の進むべき道を選び取ったのだ。
――そこへ、既に休憩を終えた町の男達が、フィンレーを呼びに来た。顔立ちは美しくとも、ヒレや蛇体といった異形のメルヒオールの姿に、ギョッとした様子で立ち竦む。
小さく苦笑しながら、フィンレーは「心配しなくていい」と男達を諭した。カロッサの民達には説明が必要だろうし、何より、仲間達にも、早くこの頼もしい増援について報せてやりたいのだが。
取り敢えずはどう話したものかと考えあぐねる横で、メルヒオールが完全な人間体を取った。青白い肌に羽織った薄物はビルダヴァの民族衣装にも似ているが、人外の圧倒的オーラは隠しようもない。
「この方は、我々の救援に駆け付けてくださったんだ」
神の完璧な造形に感嘆しきりの町民達を眺めながら、フィンレーは密かに決意を新たにする。
――待ってろ、ルカ。翼竜達に加えて、メルヒオール様までが、お前を助けに来てくださった。
もう大丈夫だ。お前だけにつらい想いはさせないからな、と。
大地の恵みをふんだんに含んだキルケ川の支流で、フィンレーは顔を洗っていた。
カロッサの住民達が、昼夜を分かたず作業を続けてくれたおかげで、白ヒイラギの聖水も完成間近だ。手伝えることのなくなったフィンレーは、町の男達を率いて、崩れた見張り塔や防護壁の補修の陣頭指揮を執っている。
不安を払拭するために肉体労働に没頭していたいというのは、フィンレーもジェイクと同じだった。彼も、町民達の手伝いがない時間帯には、ちょくちょく顔を出し、手を貸してくれている。
作業が一段落した今は、休憩を兼ねて、町の女性達からの差し入れをいただくために、手を洗いに来たところだった。
川面を覗き込んだ体勢のまま、軽く頭を振って水気を払う。水滴が作る波紋を見るともなく眺めながら、フィンレーは大きく息をついた。
「…………」
手を休めると、やはりどうしても、魔王軍に攫われたルカのことを考えてしまう。
無事でいるだろうか。グリテンバルドに居た頃は普通に離れて暮らしていたのに、あの笑顔が見えないだけで、こんなにも不安になるとは。それもこれも、生死さえ分からない状況が続いているからだろう……。
やがて凪いだ水面に映った自分の顔は、深い憂いに沈んでいる。気付いてフィンレーは、思わず苦笑を漏らした。情けないことだ。騎士たるもの、いかなる時でも平静を保たなければならないというのに。事がルカの安否に関わるだけに、それさえままならない。
――水鏡に映るその顔が、不意に歪んだ。
風もないのに、などと考える間もなく、見知った美しい姿を象り、フィンレーは眼を見張る。
「!!」
息を呑んだ次の瞬間、水の中から音もなく立ち上がったのは、半身半蛇の神・メルヒオールだった。水面を割って現れたというのに、紺色の波打つ髪も、蒼褪めた肌も鱗も、まったく濡れていない。
「メルヒオール様……!?」
遠くビルダヴァのレスタド山に御座すはずの異教の神の降臨に、フィンレーは呆気に取られた。物理的な距離などものともしない顕現こそが、蛇神の神たる所以だろうか。
驚くフィンレーを、メルヒオールは金色の瞳でじっと見据える。
「そなたは、息災のようだな」
「……はい」
念を押すような問いからは、メルヒオールには、ルカが魔王の手に落ちたことなど筒抜けであることが窺えた。彼を殊の外気に入っていた蛇神にとっては、さぞや腹立たしいことであろうと、フィンレーは悔恨に表情を曇らせる。
しかしメルヒオールは、冷たい美貌に憐れみの色を浮かべて、薄く微笑んだ。
「よい。叱責に来たのではないのだ。そう眉根を寄せていては、美形が台無しではないか」
そして、濡れたままだったフィンレーの顔を撫でるように手を翳す。瞬時に水気の消えた頬に手を当てて、フィンレーは戸惑うように瞳を瞬かせた。
驚きを隠せない剣士を横目に、メルヒオールは半身を水に浸したまま、川縁に腰を落ち着ける。
「――私の助力は必要ないか」
「!?」
思ってもみなかった提案に、フィンレーは束の間、呆然とメルヒオールを見返した。人間であれば耳のあるべき場所に生えたヒレや、川の中に続く蛇体を眺め、そして、以前戦った際の彼の強さを思い出し――改めて、その発言の内容を脳内で精査する。
メルヒオールは、ルカを救出するために、共に魔王軍と戦うと申し出てくれているのだ。
「貴方が居てくださるなら百人力だ! ありがたい、願ってもないことです!」
素直に喜び、頭を下げるフィンレーに、メルヒオールは柔らかく破顔した。人外の繊細な美貌が、慈しみに彩られる。
「何。北の者の影響で魔物共が暴れると、大地に与えた私の加護が無駄になる。それに、ルカは私の妻にも等しい存在だからな」
後半は本気で言っているのか、それともフィンレーの反応を楽しむためなのかはわからない。メルヒオールにはこうして、親友同士の関係を煽ろうとするところがあった。
しかし、普段なら照れたり怒ったりして見せるはずのフィンレーも、この時ばかりはそうもいかない。メルヒオールの参戦に束の間華やいだ表情は、再び物憂げに曇ってしまう。
――ああ、ルカ。今頃お前は、つらい思いなどしてはいないだろうか……。
「そう思い詰めるな。私の加護はそなたにもある。必ずや無事に、そなたの親友殿を取り戻してやろう」
メルヒオールは冷静に、しかし力強く請け負った。その涼やかな声音は、聞く者の心を落ち着かせてくれるようだ。
そうして気持ちが凪いでくると、次に気になったのは、自分の心境の方だった。メルヒオールの発した「友」という言葉に、妙に引っ掛かるものを感じる。
「――俺は、他の者達のように、本人の自主性を無視してまで、ルカを甘やかしたい訳ではないんです。一方的に守ってやりたいっていうのは、親友としてのルカに失礼だとも思うから。ただ……」
「――ただ?」
訥々と語るフィンレーを促すように、メルヒオールは穏やかに聞き返す。一方的に送り付けられる生贄の娘達を養育していたという蛇神は、こう見えて、やはり父性に溢れた存在なのだろう。
背中を押されたような気分になって、フィンレーは顔を上げ、メルヒオールに向き直った。
「ただ、ルカに重い使命があるなら、俺も、共に背負ってやりたいと思っています」
重荷を肩代わりするのでなく、危険から遠ざけるのでもなく。
それは、一緒に成長してきた友人だからこそ言えることだ。ルカを可愛いと――愛しいと感じるのとは、また別の問題である。
一番近くにいて、互いの負担を分け合い、支え合う。それがフィンレーの考える、ルカとの理想的な関係だった。
フィンレーの宣言に、メルヒオールが嬉しげに切れ長の瞳を細める。
「複雑だな。だが、ならば尚のこと、そなたの想いをそのまま伝えてやらねばなるまい」
「……はい」
異教の蛇神と、その愛し子は、深い笑みを交わして頷き合った。
心身共に健康な貴公子は、よき理解者を得たことで、自ら己の進むべき道を選び取ったのだ。
――そこへ、既に休憩を終えた町の男達が、フィンレーを呼びに来た。顔立ちは美しくとも、ヒレや蛇体といった異形のメルヒオールの姿に、ギョッとした様子で立ち竦む。
小さく苦笑しながら、フィンレーは「心配しなくていい」と男達を諭した。カロッサの民達には説明が必要だろうし、何より、仲間達にも、早くこの頼もしい増援について報せてやりたいのだが。
取り敢えずはどう話したものかと考えあぐねる横で、メルヒオールが完全な人間体を取った。青白い肌に羽織った薄物はビルダヴァの民族衣装にも似ているが、人外の圧倒的オーラは隠しようもない。
「この方は、我々の救援に駆け付けてくださったんだ」
神の完璧な造形に感嘆しきりの町民達を眺めながら、フィンレーは密かに決意を新たにする。
――待ってろ、ルカ。翼竜達に加えて、メルヒオール様までが、お前を助けに来てくださった。
もう大丈夫だ。お前だけにつらい想いはさせないからな、と。
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