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第2部・第9話:突入前夜
第3章
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さわさわと、木々が風に揺れる音がする。
それ以外には、なぜか虫の声もない、静かな夜のことだった。
教会宿舎でライオン体のまま身体を休めていたレフは、近付く気配を察して、ふと顔を上げた。
『……』
あまり愉快でない既視感に眉根を寄せ、しばし考え込む。妙に人間臭い溜め息を一つついてから、ゆっくりと身体を起こした。器用にドアノブを回し、主の居ない個室を後にする。
そのまま屋外まで出てきたレフは、教会の前庭で上空を見上げた。視線が上向くのは、それだけ相手が巨大だからだ。そこにはそれぞれ大きさの違う、3体の影がわだかまっている。
『――ルカの気配が感じられなくなったよ』
どういうこと? と、詰問口調の思念波を飛ばしてきたのは、一番小さな個体だった。苛立ちを抑えかねたように、背に生えた翼をバサリと蠢かすのは、かつて危ないところをルカに救われ、以来すっかり懐いてしまったという、翼竜の子供――フェロールだ。そして、泰然自若として、岩のように鷹揚に構えている巨大な二つの影は、彼の両親である。
闇夜に紛れるように、人々の寝静まる時間を待っての来訪は、ひとまず住民達を怯えさせる意図がないことを、大魔法使いに対して証明する意図があってのことなのかもしれない。
彼らの気配をレフが感じ取ったのは、野生動物特有の勘か、それとも、魔法生物ゆえの自然との同調能力のようなものだろうか。
だが、何にしても。
――嫌な奴らが、嫌なことを聞いてきやがる。
ぎりりと奥歯を噛み締めてから、レフは唸るように吐き出した。
『魔王の手下に攫われた』
音にして発すると、焦燥感がより高まるような気がする。激しい怒りと悔しさが燃え上がる一方で、言い様のない悲しみが胸を塞いだ。
フェロールに驚いた様子はない。レフの口から聞くまでもなく、答えはわかっていたのだろう。しかし、思念波は確実に不快の色を濃くした。
『君達が付いていながら、このザマなの?』
冷淡に吐き捨てられて、思わずレフは舌打ちを返す。そんなことは、言われるまでもない。
『ああ。オレも自分の不甲斐なさに、嫌気が差してるところだ』
二度ならず三度までも。しかも今回に限っては、魔法に掛けられていた訳ではない。それなのに、目の前でむざむざとルカを攫われてしまったのだ。守護聖獣が聞いて呆れる。
フェロールの父が小さく首を横に振り、母は「なんてこと」と独り言のような念を発した。食物連鎖の埒外に君臨する伝説級の生物にして、この反応。魔王の強大さが知れるというものだ。
レフの自嘲を受けて、フェロールが問いを重ねる。
『それで、君達はどうするの?』
『決まってるだろ、魔王の野郎をブチのめして、ルカを取り戻す!』
我慢を強いられている現状への不満をぶつけるように、レフは吠えた。
大事なルカをオレから奪いやがった奴らを許してはおけない。一刻も早く、ルカの元へ向かいたいのに、準備が整っていないからと、この町に留め置かれている。
魔王の結界を破るための、白ヒイラギの聖水の精製は、今日の間に最後の収穫を終え、毒抜きの作業に入った。肉体労働しか出来ないレフ達には、明日から仕事はない。ただ完成を待つだけだ。何をして時間を潰せばいいのかわからない。
――ルカの傍でなら、何もしなくても満ち足りていられたのに。
魔王軍斥候隊の中で、一番この事態に混乱し、腹に据えかねているのは、間違いなくレフだった。本能が動物に近い分、理性で自分を納得させることが難しいのだ。
レフの獰猛な主張に、父竜は黄金の瞳を煌めかせて、賢者のように頷いた。白ヒイラギの効能について、長い時を生きるドラゴンにも、同様の知識があったのだろう。
『――だが、北の魔境へ侵入してからはどうするのだ。魔王の居城までは距離がある。お前達の足では辿り着くまでに、更に時間が必要になろう』
『……そんなに遠いのか?』
相手の冷静な問い掛けに感化されたのか、レフも幾分か、落ち着きを取り戻す。確かに、ベリンダもそんなことを気にしていた。地形に関する知識のない場所では、転移魔法は使えないらしい。
ばあさんが結界を破った後、アイツら置いてオレだけで乗り込むか? などと物騒なことを考え始めたレフに向かって、フェロールが胸を逸らした。
『仕方ないなぁ。ホントはルカが呼んでくれるのを待つつもりだったけど、僕達が助けてあげるよ!』
『――あ゛?』
妙に勝ち誇ったような言い草が何だかムカついて、レフは顎をしゃくるように突き出す。息子の言葉足らずを補うように、母竜が小さく笑った。
『私達が、あなた達を運んであげるわ』
『息子の恩人であるルカに協力すると言っただろう。今こそ、その誓いを果たす時だ』
『……そりゃあ、ありがてぇが……』
父竜までが請け負うのを聞いて、レフは思わず言い澱んだ。斥候隊としては願ってもない申し出だろうが、レフ個人としては、少々引っ掛かるところがある。
その微妙なニュアンスを感じ取ったフェロールが、面白くなさそうに言った。
『ルカは僕達が協力することをあんなに喜んでくれてたのに、守護聖獣様は何が気に入らないの?』
フェロールには、以前も同じようなことを指摘されたことがある。――当たり前だ。レフは実体化してからずっと、ルカに近付くすべての動物(人間含む)が好きではない。レフはルカのためだけにこの世に生まれたのに、そのレフからルカとの時間を奪う、何もかもが憎たらしかった。だが。
『…………』
レフは苦虫を噛み潰したような顔で、風属性の翼竜一家を見上げた。
今は、そんな子供じみた我が儘を言っていられる時ではないことはわかっている。他でもない、ルカの危機だ。レフには、自分一人であってもルカを無事助け出す自信はあったが、少しでもルカに危険が及ぶことのない方法があるなら、それに越したことはない。
レフは一刻も早く、ルカの傍で安心したいのだ。
『オレはルカを守るために生まれたんだ。その意味では、お前らとは格が違う』
レフの思念波に、フェロールがあからさまにムッとした。何か言い返そうと口を開くのを肉球で制して、ニヤリと犬歯を見せる。
『だがまあ、オレは心が広いからな。お前がルカに懐いてんのを、とやかく言うようなことはしねぇよ』
ベリンダ達の様子を見るに、どうやら敵は相当に手強いようだ。
『お前とは一時休戦だ。――ルカを助けるのに、力を貸してくれ』
瞳を伏せ、わずかに頭を垂れる。
ルカと共に仲間達と過ごす旅路の中で、レフにも少しだけ、他者に対する寛容の心が芽生えてきたということなのだろう。
その変化を、翼竜一家はしっかりと受け止めてくれたようだ。
父竜がこくりと頷く。
『承知した。我らがお前達の足となろう』
『――ああ。ばあさんも喜ぶぜ』
照れ隠しに苦笑いを浮かべながら、レフは背後を振り返った。宿舎の玄関ポーチに、黄金のベリンダの姿がある。彼女もまた、翼竜達の気配を感じて、部屋を出て来たのだろう。一連の遣り取りも聞こえていたようで、レフに向かってニコリと微笑んで見せる。
しかし、その流麗な立ち姿は目に見えて憔悴しており、いっそ痛々しいほどだ。
殊に、同じ女性である母竜は、胸を打たれたものらしい。
『安心なさい。あなたが魔王の結界を解いたら、すぐにルカの元へ連れて行ってあげるわ』
「……ええ。ありがとう」
応えるベリンダの頬に、ほんの少し赤みが差すのを見て、レフは小さく息をついた。レフはルカの保護者として、唯一ベリンダの存在だけは認めているのだ。ルカが傍に居ないことも不安だが、彼女に覇気がないのも調子が狂う。
女性同士が理解し合う様子を横目で見守りながら、レフは思い出したように、ハッと目を見開いた。
中空に浮かぶフェロールに向かって、これだけは言っておかねばと釘を刺す。
『おい、お前。忘れんなよ。最初にルカに撫でられんのはオレだからな!』
『……どこが【心が広い】って?』
少しは見直してやろうかと思ったのに、と呆れたようにフェロールが半眼になる。
どうしてもそこだけは譲る気のないレフは、フンと逞しい胸を逸らした。
それ以外には、なぜか虫の声もない、静かな夜のことだった。
教会宿舎でライオン体のまま身体を休めていたレフは、近付く気配を察して、ふと顔を上げた。
『……』
あまり愉快でない既視感に眉根を寄せ、しばし考え込む。妙に人間臭い溜め息を一つついてから、ゆっくりと身体を起こした。器用にドアノブを回し、主の居ない個室を後にする。
そのまま屋外まで出てきたレフは、教会の前庭で上空を見上げた。視線が上向くのは、それだけ相手が巨大だからだ。そこにはそれぞれ大きさの違う、3体の影がわだかまっている。
『――ルカの気配が感じられなくなったよ』
どういうこと? と、詰問口調の思念波を飛ばしてきたのは、一番小さな個体だった。苛立ちを抑えかねたように、背に生えた翼をバサリと蠢かすのは、かつて危ないところをルカに救われ、以来すっかり懐いてしまったという、翼竜の子供――フェロールだ。そして、泰然自若として、岩のように鷹揚に構えている巨大な二つの影は、彼の両親である。
闇夜に紛れるように、人々の寝静まる時間を待っての来訪は、ひとまず住民達を怯えさせる意図がないことを、大魔法使いに対して証明する意図があってのことなのかもしれない。
彼らの気配をレフが感じ取ったのは、野生動物特有の勘か、それとも、魔法生物ゆえの自然との同調能力のようなものだろうか。
だが、何にしても。
――嫌な奴らが、嫌なことを聞いてきやがる。
ぎりりと奥歯を噛み締めてから、レフは唸るように吐き出した。
『魔王の手下に攫われた』
音にして発すると、焦燥感がより高まるような気がする。激しい怒りと悔しさが燃え上がる一方で、言い様のない悲しみが胸を塞いだ。
フェロールに驚いた様子はない。レフの口から聞くまでもなく、答えはわかっていたのだろう。しかし、思念波は確実に不快の色を濃くした。
『君達が付いていながら、このザマなの?』
冷淡に吐き捨てられて、思わずレフは舌打ちを返す。そんなことは、言われるまでもない。
『ああ。オレも自分の不甲斐なさに、嫌気が差してるところだ』
二度ならず三度までも。しかも今回に限っては、魔法に掛けられていた訳ではない。それなのに、目の前でむざむざとルカを攫われてしまったのだ。守護聖獣が聞いて呆れる。
フェロールの父が小さく首を横に振り、母は「なんてこと」と独り言のような念を発した。食物連鎖の埒外に君臨する伝説級の生物にして、この反応。魔王の強大さが知れるというものだ。
レフの自嘲を受けて、フェロールが問いを重ねる。
『それで、君達はどうするの?』
『決まってるだろ、魔王の野郎をブチのめして、ルカを取り戻す!』
我慢を強いられている現状への不満をぶつけるように、レフは吠えた。
大事なルカをオレから奪いやがった奴らを許してはおけない。一刻も早く、ルカの元へ向かいたいのに、準備が整っていないからと、この町に留め置かれている。
魔王の結界を破るための、白ヒイラギの聖水の精製は、今日の間に最後の収穫を終え、毒抜きの作業に入った。肉体労働しか出来ないレフ達には、明日から仕事はない。ただ完成を待つだけだ。何をして時間を潰せばいいのかわからない。
――ルカの傍でなら、何もしなくても満ち足りていられたのに。
魔王軍斥候隊の中で、一番この事態に混乱し、腹に据えかねているのは、間違いなくレフだった。本能が動物に近い分、理性で自分を納得させることが難しいのだ。
レフの獰猛な主張に、父竜は黄金の瞳を煌めかせて、賢者のように頷いた。白ヒイラギの効能について、長い時を生きるドラゴンにも、同様の知識があったのだろう。
『――だが、北の魔境へ侵入してからはどうするのだ。魔王の居城までは距離がある。お前達の足では辿り着くまでに、更に時間が必要になろう』
『……そんなに遠いのか?』
相手の冷静な問い掛けに感化されたのか、レフも幾分か、落ち着きを取り戻す。確かに、ベリンダもそんなことを気にしていた。地形に関する知識のない場所では、転移魔法は使えないらしい。
ばあさんが結界を破った後、アイツら置いてオレだけで乗り込むか? などと物騒なことを考え始めたレフに向かって、フェロールが胸を逸らした。
『仕方ないなぁ。ホントはルカが呼んでくれるのを待つつもりだったけど、僕達が助けてあげるよ!』
『――あ゛?』
妙に勝ち誇ったような言い草が何だかムカついて、レフは顎をしゃくるように突き出す。息子の言葉足らずを補うように、母竜が小さく笑った。
『私達が、あなた達を運んであげるわ』
『息子の恩人であるルカに協力すると言っただろう。今こそ、その誓いを果たす時だ』
『……そりゃあ、ありがてぇが……』
父竜までが請け負うのを聞いて、レフは思わず言い澱んだ。斥候隊としては願ってもない申し出だろうが、レフ個人としては、少々引っ掛かるところがある。
その微妙なニュアンスを感じ取ったフェロールが、面白くなさそうに言った。
『ルカは僕達が協力することをあんなに喜んでくれてたのに、守護聖獣様は何が気に入らないの?』
フェロールには、以前も同じようなことを指摘されたことがある。――当たり前だ。レフは実体化してからずっと、ルカに近付くすべての動物(人間含む)が好きではない。レフはルカのためだけにこの世に生まれたのに、そのレフからルカとの時間を奪う、何もかもが憎たらしかった。だが。
『…………』
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レフは一刻も早く、ルカの傍で安心したいのだ。
『オレはルカを守るために生まれたんだ。その意味では、お前らとは格が違う』
レフの思念波に、フェロールがあからさまにムッとした。何か言い返そうと口を開くのを肉球で制して、ニヤリと犬歯を見せる。
『だがまあ、オレは心が広いからな。お前がルカに懐いてんのを、とやかく言うようなことはしねぇよ』
ベリンダ達の様子を見るに、どうやら敵は相当に手強いようだ。
『お前とは一時休戦だ。――ルカを助けるのに、力を貸してくれ』
瞳を伏せ、わずかに頭を垂れる。
ルカと共に仲間達と過ごす旅路の中で、レフにも少しだけ、他者に対する寛容の心が芽生えてきたということなのだろう。
その変化を、翼竜一家はしっかりと受け止めてくれたようだ。
父竜がこくりと頷く。
『承知した。我らがお前達の足となろう』
『――ああ。ばあさんも喜ぶぜ』
照れ隠しに苦笑いを浮かべながら、レフは背後を振り返った。宿舎の玄関ポーチに、黄金のベリンダの姿がある。彼女もまた、翼竜達の気配を感じて、部屋を出て来たのだろう。一連の遣り取りも聞こえていたようで、レフに向かってニコリと微笑んで見せる。
しかし、その流麗な立ち姿は目に見えて憔悴しており、いっそ痛々しいほどだ。
殊に、同じ女性である母竜は、胸を打たれたものらしい。
『安心なさい。あなたが魔王の結界を解いたら、すぐにルカの元へ連れて行ってあげるわ』
「……ええ。ありがとう」
応えるベリンダの頬に、ほんの少し赤みが差すのを見て、レフは小さく息をついた。レフはルカの保護者として、唯一ベリンダの存在だけは認めているのだ。ルカが傍に居ないことも不安だが、彼女に覇気がないのも調子が狂う。
女性同士が理解し合う様子を横目で見守りながら、レフは思い出したように、ハッと目を見開いた。
中空に浮かぶフェロールに向かって、これだけは言っておかねばと釘を刺す。
『おい、お前。忘れんなよ。最初にルカに撫でられんのはオレだからな!』
『……どこが【心が広い】って?』
少しは見直してやろうかと思ったのに、と呆れたようにフェロールが半眼になる。
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