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第2部・第5話:勇者と囚われの乙女

第5章

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 大地が不可解な鳴動を繰り返し始めたのは、それから程なくのことだった。
「!」
 尋常でない地響きに思わず震えたルカの肩を、フィンレーが横から支えるように抱き留める。殆ど視界の効かない中、周囲からは何かが這い回るような音が聞こえてきた。ズルリズルリという、耳障りな音だ。
 ――いつの間に。
 思った瞬間、遥か上空に二つ、金色の光が灯った。新月の空には不自然な現象に、背筋が凍る。それは生物としての本能、不吉な予感と言い換えることも出来ただろう。
 光源から目を逸らさないまま、フィンレーが空いた方の手で、器用にランタンを点ける。
「――ッ!!」
 小さな灯りに照らし出されたのは、暗闇に爛々らんらんと輝く、大蛇の瞳だった。
 大蛇とは言うが、その身の丈を測ることは容易ではない。頭部の大きさから考えても、その下に続く胴体は、大人がいったい何人がかりであれば捉えられるのであろうかという太さだ。何より、その頭部が制止した状態であるにもかかわらず、周囲を這い回る音が止まないことも、この魔物の巨大さを如実に表している。
 青い鱗に覆われた大蛇の姿に、ルカは総毛立った。元々爬虫類は苦手というほどではないが、さすがに大きすぎる。想像を上回るサイズの蛇の魔物が、口から鋭い犬歯を覗かせ、その隙間から二股に別れた長い舌をチロチロとうごめかせながら、鎌首をもたげているのだ。現代日本で一般人として育ってきたルカが、恐怖を感じずにいられる訳がない。
『――か』
 それが大蛇の放った思念波だと気付くまでには、少し時間が必要だった。言葉を解するからには、やはり相当に高次の存在と言える。
『また、なのか……』
 内容を理解するよりも先に、大蛇は独白するように繰り返した。意外にも耳に心地よいそのテノールには、怒りとも悲しみともつかぬ、憤りのようなものが感じられて、ルカは思わず首を傾げる。
 ――何かがおかしい。
 そう感じたのは、フィンレーも同じだったようだ。呼吸と同時に大蛇が吐き出す冷気に怯んだ様子もなく、金色の眼を見据えて声を上げる。
「――お前がこの山のいただきに棲むという大蛇か」
 本来なら居ないはずの介添え人役の姿を見止めても、大蛇に感情の揺らぎのようなものは窺えない。こちらを見据える黄金の両眼が、わずかに細められたのみだ。
『懲りぬ奴らめ』
 吐き捨てるような思念波に、ルカとフィンレーは混乱を深めた。どうにも会話が噛み合っていない。交流の意図がないにしても、「街の少女を生贄に要求する魔物」の言い分として、「また」というのは筋が通っていないように思われる。
 その間にも、大蛇の胴体はズルズルと音を立てて、ルカ達を包囲し続けていた。果ての見えないほど長大な体躯は、まさに鉄壁のおりと言っていい。その圧迫感は、筆舌に尽くし難いものがある。
 不意に大蛇が、鎌首を一層高く持ち上げた。
 地を這う音が、ピタリと途絶える。
 思念波が、攻撃的な響きを帯びた。
『――それほどに、同胞の命が惜しくないと言うなら、娘を置いて早々に立ち去れ!!』
 叫ぶが早いか、大蛇は一気に距離を詰めてきた。顔ごと突っ込んできたところを、ルカは間一髪、フィンレーに抱きかかえられて後方へ逃れる。
 祠の傍、二人が居た場所は、大蛇の頭突きで、岩盤ごと激しく砕けていた。あまりの威力、と同時に、巨躯に似合わぬ素早さに、ルカは思わず身を硬くする。
「怪我はないな、ルカ? 少し離れてろ!」
 ほとんど叫ぶようにしながらルカの顔を覗き込んできたフィンレーは、すぐさま押しやるようにして、ルカの身体を大蛇から遠ざけた。同時に、岩陰に潜んでいた仲間達が、灯りを手に、一斉に飛び出してくる。フィンレーは咄嗟の判断で、仲間達の近くにルカを運んだのだ。
 これを受け、ネイトが真っ先に、ルカに結界を施した。黄金のベリンダとまではいかなくとも、補助魔法に秀でた彼の能力であれば、ルカが安全な場所まで距離を取る間の防御としては申し分ない。続いて戦闘メンバー全員の耐久力を上げる。
「フィンレー!!」
 ジェイクが叫んで、代わりに運んできたフィンレーの長剣を放った。これを見事にキャッチして、フィンレーはすらりと鞘を払う。
 二人がそれぞれ武器を構える横で、ユージーンが流れるような美しい所作で、魔導書を開いた。彼の魔力が青い光となって膨れ上がるのと同時に、成獣体のレフが中空に向かい、雄々しい咆哮を放つ。
 邪魔にならないよう、広場の端まで後退しながら、ルカは、大蛇が皮肉げに目を細めるのを見た。
『まだ歯向かう気概のある者がいたか……面白い』
 嘲るような哄笑と共に、大蛇は尾を振り上げた。人間の力を侮っているのか、魔法ではなく力技で攻めて来るつもりのようだ。
 鞭のようにしなる尾は、一撃で、叩き付けられた岩肌をボロボロに破壊した。四方に散った仲間達は無事なようだが、反動で地面がぐらぐらと揺れる。ビルダヴァの街に入ってから経験してきた地震のすべてが、この大蛇の引き起こしたものであることを確信させる、強大な威力だ。
 仲間達の奮闘を見守りながら、ルカは倒れないように必死で岩壁に縋り付いていた――。

                  ●

 その頃、ビルダヴァの市街地では、想定外の騒動が起こっていた。
 大蛇が断続的に引き起こす地震のせいか、予想よりも早く目覚めた本来の介添え役が拘束を解き、街の代表ら要人に、事態を報告したのである。
 慌てて街外れの農園に押し掛け、そこに送り出したはずの生贄の娘の姿を見付けた代表は、激昂した。
「カリスタ! お前、何ということを……ッ!!」
 振り上げた拳を代わりに受けたのは、足の悪い父親だった。細身の身体は杖ごと弾き飛ばされ、質素なチェストに叩き付けられる。
 母と姉に守られるように、左右から抱き締められていたカリスタは悲鳴を上げた。
「父さん……ッ」
「――ベリンダ様だ!!」
 背中をしたたかにぶつけ、何度か咳き込んだカリスタの父は、呼吸を荒げながらも必死で声を上げた。殴られた拍子に歯が当たりでもしたのだろう、唇の端からは鮮血が滴り落ちている。
「あの旅人は、黄金のベリンダ様と、魔王軍斥候隊せっこうたいの皆様だったんだ!」
「――元々、魔物の調査のためにいらしたんです! 天候不順と地震がレスタド山の魔物のせいなら、退治しなくちゃいけないって……!」
 父を援護するように、カリスタも声を張り上げた。ベリンダから与えられた、落ち着いたデザインの闇色のドレスの裾が、ふわりと揺れる。
 カリスタをここまで送り届けてくれた美しき大魔法使いは、驚き、感謝の涙に暮れる家族一人一人の手を取って、励ましてくれた。無事に戻ったあかつきには、父の傷付いた足の具合を診させてほしいとさえ言ってくれたのだ。
「――希望を捨てないでいいって、約束してくださったのよ!」
 カリスタの涙ながらの訴えに、母と姉も揃って賛同した。
 これを受けて、集った人々の中に、動揺と期待が広がり始める。
「あの魔物を……?」
「まさか、でも……」
「本当に黄金のベリンダ様なら、何とかしてくれるんじゃないか?」
「――余計なことを!!」
 にわかに活気付いた人々の口を噤ませたのは、代表の一言だった。一瞬呆気に取られたような空気が広がり、次いで集った顔に、続々と訝しげな表情が浮かび始める。
 なぜ「余計なこと」なのか。魔物さえ居なくなれば、年頃の娘を生贄に捧げるような、野蛮な真似をしなくて済む。自分の血縁者が選ばれるのではないかという恐怖に震えることもなくなるし、実際に選出された娘とその家族に対して、後ろめたい気持ちを感じることもなくなるのに。
 ――それは、ビルダヴァの街の人々が、ほとんど妄信してきた風習に対して、明確な疑問を持った瞬間だった。
 街にとっての救い主の出現に周囲が沸く中、代表とその縁者数人のみは、なぜか取り乱し続けている。
「――!」
 住民達が芽生えた不信感を口にするよりも先に、地面がぐらりと揺れた。いつもの地震かとやり過ごそうとした人々は、断続的に続く大きな揺れに、不安げな表情で視線を交わし合う。
「……ッ」
 カリスタはサッと涙を拭った。やまない地震に狼狽える代表達の隙を突く形で、母と姉の手を振り払い、手近な者のランタンを奪って、家を飛び出す。
「カリスタ!!」
 家族の声が追い掛けて来るのが聞こえたが、カリスタは振り返らずに走った。地響きが起こるたびに足元を取られ、ドレスの裾が乱れても、構わず前へ――レスタド山へ向かって。
 出会ったばかりの自分を命懸けで助けてくれようとしている人達を、放っておいてはいけない。当事者である自分達が、その優しさに甘えるだけではいけないような気がした。
 多少気が強いだけで、非力なカリスタに何が出来るという訳でもない。自分でもそんなことは理解していたが、何が起こっていたのか、これから何が起こるのかを、この目で確認するのが義務ではないだろうか。そんな風に思えてならなかったのだ。
 今はただ、彼らの元へ向かわなければならない。
 カリスタは自身の衝動を、改めてそんな風に理由付け、ひたすらに砂漠の岩山を目指した。
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