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第2部・第2話:美貌の悪魔
第4章
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「――大丈夫?」
午後。町の食料品店に水の手配に向かいながら、ルカは同行するユージーンに声を掛けた。
問題解決の糸口は掴めていないが、急な出立になることも想定しておかなければならない。小さな町の商店では在庫に余裕がないことも考えられるため、異変の調査と並行する形で、あらかじめ物資調達の依頼を掛けておこうという話になったのだ。
差し当たって出来ることの少ないルカがこれに立候補をし、次いでユージーンとネイトがお供を申し出るまではいつも通りだったが――今日に限ってはユージーンに理があった。
『残念ですが、僕はあまり浄化が得意ではないので――ねえ、ベイリー神父?』
ルカを一人にさせる訳にはいかない、というのは斥候隊の総意だが、調査を進めなければ出立もままならない。この町では必然的に、浄化の得意なネイトは調査班に配属されることが確定したようなものだ。
昨日来のネイトの嫌味を逆手に取った仕返しは、実に的確だった。ルカとの時間を失ったネイトは、ジェイクとフィンレーに宥められながら、渋々森に向かったのである。
ちなみに、そのジェイクとフィンレーが調査班に回っているのは、魔物と遭遇した際の速やかな討伐のためだ。普段から積極的にルカと行動を共にしたがるのはユージーンとネイトだが、こちらの二人はそれぞれルカに対する「兄」や「親友」といった自身の立ち位置を理由に、自制しているところがある。
更に言うなら、成人男性に変化することも可能なレフに関しては、ルカに構おうとするすべての人間とトラブルを引き起こすため、数に入れられていないのが現状だった。まずは社会通念を身に着けてからだと言い含められて、渋々ルカのフードの中に納まっている。
ルカの知らないところで、ルカを巡り、様々な駆け引きが行われているのだ。
そうとは知らないルカは、今はひたすらユージーンの心中を慮っていた。彼が幼い頃、美しいというだけで向けられてきた、謂れなき非難を思い出していなければ良いがと、それだけが気掛かりだ。
しかし、ユージーンは気にした風もなく、にこりと完璧な笑顔を向けて来た。
「心配してくれるのかい? やっぱりルカは優しいな」
ルカが自分のために怒っていることが、嬉しくてたまらないといった様子だ。――ううむ、調子が狂う。
「いや、そんなことは……でも、酷いよね! 何で急にあんなこと言い出したんだろ?」
憤慨しながらも、ルカは首を傾げた。「悪魔」だなんて、あまりにも唐突で突拍子もない言い掛かりだ。
そういえばあの老爺、斥候隊が初めてこの町にやって来た日も、随分剣呑な目付きで睨み付けてくれたものだが、今にして思えば、あの視線が追っていたのはユージーンだったような気がする。王都生まれハーフェル育ちのユージーンとは初対面のはずなのに、なぜあんな悪意を向けられなければならないのか。
「どうだろうね」
やはり心を動かされた様子もなく、ユージーンは幸せそうにルカを見返してくる。
宿は町中から少し離れた閑静なエリアにあり、食料品店のある大通りまでは少々距離があった。宿の前の道と、住民の住む宅地エリアに向かう道が交差する辺りには人影もなく、明るい陽射しが燦々と降り注ぐ光景は、平和そのものだ。
「ユージーンは、腹が立たないの?」
穏やかに笑うユージーンに、ルカは思わず聞いていた。根も葉もないとはいえ、大勢の前で中傷されたのは彼なのに、器が大き過ぎやしないだろうか。これでは、ルカばかりがプリプリと腹を立てているようで、何となく釈然としない。
ユージーンは何でもないことのように小首を傾げた。
「だって、僕にとってはどうでもいいことだよ」
「でも……!」
もどかしさのあまり、更に言い募ろうとしたルカの手を、ユージーンが取った。瞬間的に身体を硬くしたルカの瞳を覗き込むように、秀麗な顔が近付いて来る。
「――僕は、君以外にどう思われようと構わない」
囁きは、まったくの真実だった。
ユージーンにとって、ルカが世界のすべてであり、それ以外に嫌われようと興味がない。師であるベリンダや親友のジェイクが失いたくない存在であることは間違いないが、ルカを失えば世界は闇だ。その先の生に意味はない。
ルカだけがユージーンの光。何にも代え難い至高の存在。
だから、知らない娘に(部屋に押し入られるのは困るが)誘惑されるようなことはないし、旅の途中で出会った爺さんに悪魔呼ばわりされても、どうということもないのだ。
「――ッ……!!」
美しい青年に真正面から迫られて、ルカはサッと頬を染めた。いくら何でも顔が近過ぎる! これ以上イケメントラウマを刺激しないで欲しい! と心中激しく抵抗するが、肝心の身体はユージーンに魅入られたように動けない。
至近距離で見詰めあうふたりに、ルカのフードの中でレフがもぞもぞと暴れ出した。不穏な空気を察したらしく、今にもライオン体になって飛び出してきそうな勢いだ。
――呻き声のようなものが聞こえてきたのは、その時だった。
「!」
ルカが驚いている間に、身を離したユージーンは辺りの様子を窺う。
『あっちだ!』
野生動物の優れた嗅覚で以てレフの示した先は、並木道を町とは反対の、住宅地エリア側に少し下った辺りだった。
背の高い茂みの中に、半ば埋もれるようにして倒れているのは、あの老爺だ。森で一仕事終えた後だったのか、小さく伐り出された木材の束が、周囲に散乱している。
「だ、大丈夫ですか!?」
ルカは慌てて老爺に駆け寄った。顔色は蒼褪め、呼吸も荒い。腕輪を嵌めた細い左腕が、ガクガクと震えている。
取り敢えず、木の幹に凭れさせ、胸元を寛げてから水を飲ませたのは、ユージーンの指示だ。彼としては、悪魔呼ばわりされる自分が具合の悪い人間に近付くのは、相手の精神衛生上良くないと踏んだのだろう。
やがて呼吸は落ち着き、震えも治まってきたが、血色は戻らない。医者に連れて行くべきかと考えたところで、老爺がうっすらと目を開いた。
「……エマ……?」
「――え?」
耳慣れない呟きに、ルカは瞳を瞬かせ、ユージーンが訝しげに眉根を寄せる。人の名前だろうか。
そこへ更に、驚いたような声が割って入った。
「あっ! 爺さん、大丈夫かよ!?」
振り返ると、青年が一人、慌てた様子で掛けてくる。気安い口調から、この町の知人であることは間違いない。
「!」
青年の声で我に返ったらしい老爺は、咄嗟にルカの手を振り払った。水筒を取り落とし、驚愕に硬直するルカを尻目に、精気を取り戻した両の目で、ギラリとユージーンを睨み付ける。
視線を外さないまま、老爺は手早く木材を掻き集めた。忌々しげな舌打ちを一つ残して立ち去る、かに思えたが――少しだけ足を止めて、ルカの方を振り返る。その目に悪意は感じられず、ルカは逆に戸惑った。老爺の毛嫌いするユージーンの仲間として、邪険に振り払われたのだろうが、介抱の恩を仇で返す行為に躊躇しているようにも見える。
しかし、結局老爺は何も言わずに、ヨロヨロと立ち去って行った。
追うことも出来ずに座り込むルカに、ユージーンが駆け寄る。
「ルカ、大丈夫かい?」
「ごめんな、お礼も言わないなんて……」
二人に向かって代わりに詫びてきたのは、町の青年だった。悲しげに首を振る様子からも、彼が状況を正確に理解してくれたらしいことはわかる。
「大丈夫です」と笑いながら、ルカはユージーンに手を引かれて立ち上がった。フードの中では、レフが額を背中にごちんと擦り付けて、慰めてくれている。
独居老人に野菜を配達する途中だという青果店の青年は、言い訳するように続けた。
「あんなんでも、昔は信心深くて、腕のいい木彫り職人だったんだよ。娘さんのことがあってから、どうにも偏屈になっちまったらしくて……」
青年が溜め息混じりに語ったところによると、老爺は名をゲオルグといい、近隣でも名の知れた木工職人だったらしい。頑固だが気前の良い人物で、慕う者も多かった。妻に先立たれ、男手一つで手塩にかけて育ててきた一人娘が、旅の吟遊詩人と駆け落ちしてしまったことで、以来すっかり偏屈者になってしまったのだという。
青年の父親は、若かりし日のゲオルグ老人に可愛がって貰った恩義があり、またその才能を惜しむ気持ちから、折に触れて息子にこの話を聞かせてきたのだそうだ。
「アンタに酷いこと言ったってのも、その吟遊詩人って奴が、割と男前だったらしくてね。ただの八つ当たりだって、みんな言ってるよ」
青年はそう言って、ユージーンに気の毒そうな表情を向けた。わざわざ老人のプライベートを二人に話して聞かせたのは、噂好きなどの下世話な意味でなく、ゲオルグ爺さんに代わって、ユージーンに謝りたかったのだろう。
現代日本で育ったがゆえ、『吟遊詩人』というある種のパワーワードに、「ホントに居るんだ!」と密かにはしゃいでしまったことを、ルカは恥ずかしく思った。
しかしこうなると、今朝の宿前での騒動も、既に町内に広まっているらしい。ゲオルグ老人の奇行の原因が、町長の娘達の蛮行にあることも、きっと同様だろう。
「あの、『エマ』って……」
先程から気に掛かっていたことを、思い切って尋ねてみる。すると、青年はやはり、「ああ、娘さんの名前だよ」と答えた。
では、ゲオルグ老人は先程、ルカを娘と間違えたのだ。苦しむ自分を、娘が助けに来てくれたのだと。
「…………」
ルカは唇を引き結んだ。信心深く真面目に生きてきたのに、唯一の家族を失ったことで信仰心が揺らぎ、以来すっかり性格がひん曲がってしまったというゲオルグ老人。八つ当たりだか逆恨みだかでユージーンを侮辱したとはいえ、その事情そのものには、ちょっと同情してしまうところもなくはない。
「せっかく来てくれたのに、嫌な思いさせちまって申し訳ないな」
人の良さそうな青年は、町民を代表する形で、何度も謝罪を口にしながら去っていった。
「――」
余所行きの顔で青年を見送ったユージーンが、口元に手を当てて、何事か考え込む様子を見せる。
この町へ来て初めての幼馴染みの行動に、ルカの小さな胸は落ち着きなくざわめいた。
その後、ルカ達は無事に水の手配を済ませ、夕方になって宿に戻ってきた仲間達と合流した。
二日間の浄化作業によって、イェルヘイヴン周辺の森の悪氣の渦はほとんど一掃されたが、どうにも町内の嫌な氣が濃い。明日からは町内に持ち込まれた、その「良くないもの」「悪氣を媒介する何か」の捜索に掛かることに話は決まった。
しかし、町長の娘と洗濯屋の次女の噂については、デリケートな問題でもあり、ひとまずは静観するしかないとの結論以外は見出せなかったのである。
○ ● ○
住居兼作業場で、ゲオルグ老人は白木の豹の像と向き合っていた。
背後に深い森を背負った室内は、日中であるにも関わらず薄暗い。そこへ更に空気の澱みが加わって、感受性の強い人間であれば、卒倒しかねない禍々しさに満ちている。
町民達が何も気付かないのは、ここが町外れの一軒家であるためだ。嫌な気配を察した者達が騒ぎ出すのも、そう遠い日のことではないだろう。
「――」
どこか憑かれたような目付きで豹像を睨み付けながら、ゲオルグ老人は、先程不覚にも町中で意識を失いかけた時のことを考えていた。
このところ、持病ひとつないはずの自分が、突如として強烈な悪寒に襲われ、昏倒することがある。数時間前の発作はまさにその前兆であり、草むらに倒れ込んで不調が過ぎるのを待つしかなかったのだが――救いは突然現れた。
昨日、魔王斥候隊の一員として、この町にやって来た少年。彼の手が触れた瞬間から、苦痛が嘘のように和らいだ。きっとあれが「予言の子供」だ。
予言の子供は、決して印象の良くないはずの自分を、当たり前のように介抱してくれた。慈しみと憐れみに満ちたあの眼差しを、ゲオルグは知っている。
こんな老人を気に掛けてくれる者の心根が、清くないはずはない。
「…………」
ゲオルグの視線の先で、白木の木像の輪郭がぼんやりと歪んだ。そして白い霧が湧き上がるようにして、純白の体毛に身を包んだ豹が実体を持ち、ぶわりと躍り出る。
驚いた風もなく、ゲオルグ老人はその場に膝を着いた。
真白き豹は、主神エドゥアルトの騎獣だ。木彫り職人であるゲオルグの掘り起こした木像に、神の御使いが憑依するようになったのは、いつの頃だっただろうか。
実体化した白豹は、優美な動作で首を巡らし、ゲオルグを見据える。
『――その穢れなき魂が悪魔に毒される前に、ここへ連れて来るのです』
思考を読み取られたことに、ゲオルグは驚かなかった。相手は神の使いなのだ。自分のような矮小な人間ごときの浅慮など、見抜かれても当然である。
神は、穢れなき「予言の子供」を、美貌の悪魔の手から救えと仰せなのだ。
「承知いたしました」
信託を受け取ったと確信して、ゲオルグは恭しく頭を垂れた。
午後。町の食料品店に水の手配に向かいながら、ルカは同行するユージーンに声を掛けた。
問題解決の糸口は掴めていないが、急な出立になることも想定しておかなければならない。小さな町の商店では在庫に余裕がないことも考えられるため、異変の調査と並行する形で、あらかじめ物資調達の依頼を掛けておこうという話になったのだ。
差し当たって出来ることの少ないルカがこれに立候補をし、次いでユージーンとネイトがお供を申し出るまではいつも通りだったが――今日に限ってはユージーンに理があった。
『残念ですが、僕はあまり浄化が得意ではないので――ねえ、ベイリー神父?』
ルカを一人にさせる訳にはいかない、というのは斥候隊の総意だが、調査を進めなければ出立もままならない。この町では必然的に、浄化の得意なネイトは調査班に配属されることが確定したようなものだ。
昨日来のネイトの嫌味を逆手に取った仕返しは、実に的確だった。ルカとの時間を失ったネイトは、ジェイクとフィンレーに宥められながら、渋々森に向かったのである。
ちなみに、そのジェイクとフィンレーが調査班に回っているのは、魔物と遭遇した際の速やかな討伐のためだ。普段から積極的にルカと行動を共にしたがるのはユージーンとネイトだが、こちらの二人はそれぞれルカに対する「兄」や「親友」といった自身の立ち位置を理由に、自制しているところがある。
更に言うなら、成人男性に変化することも可能なレフに関しては、ルカに構おうとするすべての人間とトラブルを引き起こすため、数に入れられていないのが現状だった。まずは社会通念を身に着けてからだと言い含められて、渋々ルカのフードの中に納まっている。
ルカの知らないところで、ルカを巡り、様々な駆け引きが行われているのだ。
そうとは知らないルカは、今はひたすらユージーンの心中を慮っていた。彼が幼い頃、美しいというだけで向けられてきた、謂れなき非難を思い出していなければ良いがと、それだけが気掛かりだ。
しかし、ユージーンは気にした風もなく、にこりと完璧な笑顔を向けて来た。
「心配してくれるのかい? やっぱりルカは優しいな」
ルカが自分のために怒っていることが、嬉しくてたまらないといった様子だ。――ううむ、調子が狂う。
「いや、そんなことは……でも、酷いよね! 何で急にあんなこと言い出したんだろ?」
憤慨しながらも、ルカは首を傾げた。「悪魔」だなんて、あまりにも唐突で突拍子もない言い掛かりだ。
そういえばあの老爺、斥候隊が初めてこの町にやって来た日も、随分剣呑な目付きで睨み付けてくれたものだが、今にして思えば、あの視線が追っていたのはユージーンだったような気がする。王都生まれハーフェル育ちのユージーンとは初対面のはずなのに、なぜあんな悪意を向けられなければならないのか。
「どうだろうね」
やはり心を動かされた様子もなく、ユージーンは幸せそうにルカを見返してくる。
宿は町中から少し離れた閑静なエリアにあり、食料品店のある大通りまでは少々距離があった。宿の前の道と、住民の住む宅地エリアに向かう道が交差する辺りには人影もなく、明るい陽射しが燦々と降り注ぐ光景は、平和そのものだ。
「ユージーンは、腹が立たないの?」
穏やかに笑うユージーンに、ルカは思わず聞いていた。根も葉もないとはいえ、大勢の前で中傷されたのは彼なのに、器が大き過ぎやしないだろうか。これでは、ルカばかりがプリプリと腹を立てているようで、何となく釈然としない。
ユージーンは何でもないことのように小首を傾げた。
「だって、僕にとってはどうでもいいことだよ」
「でも……!」
もどかしさのあまり、更に言い募ろうとしたルカの手を、ユージーンが取った。瞬間的に身体を硬くしたルカの瞳を覗き込むように、秀麗な顔が近付いて来る。
「――僕は、君以外にどう思われようと構わない」
囁きは、まったくの真実だった。
ユージーンにとって、ルカが世界のすべてであり、それ以外に嫌われようと興味がない。師であるベリンダや親友のジェイクが失いたくない存在であることは間違いないが、ルカを失えば世界は闇だ。その先の生に意味はない。
ルカだけがユージーンの光。何にも代え難い至高の存在。
だから、知らない娘に(部屋に押し入られるのは困るが)誘惑されるようなことはないし、旅の途中で出会った爺さんに悪魔呼ばわりされても、どうということもないのだ。
「――ッ……!!」
美しい青年に真正面から迫られて、ルカはサッと頬を染めた。いくら何でも顔が近過ぎる! これ以上イケメントラウマを刺激しないで欲しい! と心中激しく抵抗するが、肝心の身体はユージーンに魅入られたように動けない。
至近距離で見詰めあうふたりに、ルカのフードの中でレフがもぞもぞと暴れ出した。不穏な空気を察したらしく、今にもライオン体になって飛び出してきそうな勢いだ。
――呻き声のようなものが聞こえてきたのは、その時だった。
「!」
ルカが驚いている間に、身を離したユージーンは辺りの様子を窺う。
『あっちだ!』
野生動物の優れた嗅覚で以てレフの示した先は、並木道を町とは反対の、住宅地エリア側に少し下った辺りだった。
背の高い茂みの中に、半ば埋もれるようにして倒れているのは、あの老爺だ。森で一仕事終えた後だったのか、小さく伐り出された木材の束が、周囲に散乱している。
「だ、大丈夫ですか!?」
ルカは慌てて老爺に駆け寄った。顔色は蒼褪め、呼吸も荒い。腕輪を嵌めた細い左腕が、ガクガクと震えている。
取り敢えず、木の幹に凭れさせ、胸元を寛げてから水を飲ませたのは、ユージーンの指示だ。彼としては、悪魔呼ばわりされる自分が具合の悪い人間に近付くのは、相手の精神衛生上良くないと踏んだのだろう。
やがて呼吸は落ち着き、震えも治まってきたが、血色は戻らない。医者に連れて行くべきかと考えたところで、老爺がうっすらと目を開いた。
「……エマ……?」
「――え?」
耳慣れない呟きに、ルカは瞳を瞬かせ、ユージーンが訝しげに眉根を寄せる。人の名前だろうか。
そこへ更に、驚いたような声が割って入った。
「あっ! 爺さん、大丈夫かよ!?」
振り返ると、青年が一人、慌てた様子で掛けてくる。気安い口調から、この町の知人であることは間違いない。
「!」
青年の声で我に返ったらしい老爺は、咄嗟にルカの手を振り払った。水筒を取り落とし、驚愕に硬直するルカを尻目に、精気を取り戻した両の目で、ギラリとユージーンを睨み付ける。
視線を外さないまま、老爺は手早く木材を掻き集めた。忌々しげな舌打ちを一つ残して立ち去る、かに思えたが――少しだけ足を止めて、ルカの方を振り返る。その目に悪意は感じられず、ルカは逆に戸惑った。老爺の毛嫌いするユージーンの仲間として、邪険に振り払われたのだろうが、介抱の恩を仇で返す行為に躊躇しているようにも見える。
しかし、結局老爺は何も言わずに、ヨロヨロと立ち去って行った。
追うことも出来ずに座り込むルカに、ユージーンが駆け寄る。
「ルカ、大丈夫かい?」
「ごめんな、お礼も言わないなんて……」
二人に向かって代わりに詫びてきたのは、町の青年だった。悲しげに首を振る様子からも、彼が状況を正確に理解してくれたらしいことはわかる。
「大丈夫です」と笑いながら、ルカはユージーンに手を引かれて立ち上がった。フードの中では、レフが額を背中にごちんと擦り付けて、慰めてくれている。
独居老人に野菜を配達する途中だという青果店の青年は、言い訳するように続けた。
「あんなんでも、昔は信心深くて、腕のいい木彫り職人だったんだよ。娘さんのことがあってから、どうにも偏屈になっちまったらしくて……」
青年が溜め息混じりに語ったところによると、老爺は名をゲオルグといい、近隣でも名の知れた木工職人だったらしい。頑固だが気前の良い人物で、慕う者も多かった。妻に先立たれ、男手一つで手塩にかけて育ててきた一人娘が、旅の吟遊詩人と駆け落ちしてしまったことで、以来すっかり偏屈者になってしまったのだという。
青年の父親は、若かりし日のゲオルグ老人に可愛がって貰った恩義があり、またその才能を惜しむ気持ちから、折に触れて息子にこの話を聞かせてきたのだそうだ。
「アンタに酷いこと言ったってのも、その吟遊詩人って奴が、割と男前だったらしくてね。ただの八つ当たりだって、みんな言ってるよ」
青年はそう言って、ユージーンに気の毒そうな表情を向けた。わざわざ老人のプライベートを二人に話して聞かせたのは、噂好きなどの下世話な意味でなく、ゲオルグ爺さんに代わって、ユージーンに謝りたかったのだろう。
現代日本で育ったがゆえ、『吟遊詩人』というある種のパワーワードに、「ホントに居るんだ!」と密かにはしゃいでしまったことを、ルカは恥ずかしく思った。
しかしこうなると、今朝の宿前での騒動も、既に町内に広まっているらしい。ゲオルグ老人の奇行の原因が、町長の娘達の蛮行にあることも、きっと同様だろう。
「あの、『エマ』って……」
先程から気に掛かっていたことを、思い切って尋ねてみる。すると、青年はやはり、「ああ、娘さんの名前だよ」と答えた。
では、ゲオルグ老人は先程、ルカを娘と間違えたのだ。苦しむ自分を、娘が助けに来てくれたのだと。
「…………」
ルカは唇を引き結んだ。信心深く真面目に生きてきたのに、唯一の家族を失ったことで信仰心が揺らぎ、以来すっかり性格がひん曲がってしまったというゲオルグ老人。八つ当たりだか逆恨みだかでユージーンを侮辱したとはいえ、その事情そのものには、ちょっと同情してしまうところもなくはない。
「せっかく来てくれたのに、嫌な思いさせちまって申し訳ないな」
人の良さそうな青年は、町民を代表する形で、何度も謝罪を口にしながら去っていった。
「――」
余所行きの顔で青年を見送ったユージーンが、口元に手を当てて、何事か考え込む様子を見せる。
この町へ来て初めての幼馴染みの行動に、ルカの小さな胸は落ち着きなくざわめいた。
その後、ルカ達は無事に水の手配を済ませ、夕方になって宿に戻ってきた仲間達と合流した。
二日間の浄化作業によって、イェルヘイヴン周辺の森の悪氣の渦はほとんど一掃されたが、どうにも町内の嫌な氣が濃い。明日からは町内に持ち込まれた、その「良くないもの」「悪氣を媒介する何か」の捜索に掛かることに話は決まった。
しかし、町長の娘と洗濯屋の次女の噂については、デリケートな問題でもあり、ひとまずは静観するしかないとの結論以外は見出せなかったのである。
○ ● ○
住居兼作業場で、ゲオルグ老人は白木の豹の像と向き合っていた。
背後に深い森を背負った室内は、日中であるにも関わらず薄暗い。そこへ更に空気の澱みが加わって、感受性の強い人間であれば、卒倒しかねない禍々しさに満ちている。
町民達が何も気付かないのは、ここが町外れの一軒家であるためだ。嫌な気配を察した者達が騒ぎ出すのも、そう遠い日のことではないだろう。
「――」
どこか憑かれたような目付きで豹像を睨み付けながら、ゲオルグ老人は、先程不覚にも町中で意識を失いかけた時のことを考えていた。
このところ、持病ひとつないはずの自分が、突如として強烈な悪寒に襲われ、昏倒することがある。数時間前の発作はまさにその前兆であり、草むらに倒れ込んで不調が過ぎるのを待つしかなかったのだが――救いは突然現れた。
昨日、魔王斥候隊の一員として、この町にやって来た少年。彼の手が触れた瞬間から、苦痛が嘘のように和らいだ。きっとあれが「予言の子供」だ。
予言の子供は、決して印象の良くないはずの自分を、当たり前のように介抱してくれた。慈しみと憐れみに満ちたあの眼差しを、ゲオルグは知っている。
こんな老人を気に掛けてくれる者の心根が、清くないはずはない。
「…………」
ゲオルグの視線の先で、白木の木像の輪郭がぼんやりと歪んだ。そして白い霧が湧き上がるようにして、純白の体毛に身を包んだ豹が実体を持ち、ぶわりと躍り出る。
驚いた風もなく、ゲオルグ老人はその場に膝を着いた。
真白き豹は、主神エドゥアルトの騎獣だ。木彫り職人であるゲオルグの掘り起こした木像に、神の御使いが憑依するようになったのは、いつの頃だっただろうか。
実体化した白豹は、優美な動作で首を巡らし、ゲオルグを見据える。
『――その穢れなき魂が悪魔に毒される前に、ここへ連れて来るのです』
思考を読み取られたことに、ゲオルグは驚かなかった。相手は神の使いなのだ。自分のような矮小な人間ごときの浅慮など、見抜かれても当然である。
神は、穢れなき「予言の子供」を、美貌の悪魔の手から救えと仰せなのだ。
「承知いたしました」
信託を受け取ったと確信して、ゲオルグは恭しく頭を垂れた。
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BLゲーでのチート。それはとにかく攻略対象の好感度がバグレベルで上がっていくということ。
このままではなにもしなくても総受けルートが確定してしまう!
男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!?
溺愛&執着されまくりの学園ラブコメです。
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
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気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
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優しい彼が、唯一触れられる竜神に溺愛されて生活するお話。
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