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第1話:しづたまき野辺の花⑫

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 憤怒と屈辱を押し殺し、紫苑は決行の日を待った。
 見知らぬ男が迎えにやって来たのは、それから十日あまりのちのこと。まだ陽も高い時間帯、かねてからの計画通り、家族には「紅を助けてくれたお公家様を通して仕事をいただいた」とだけ伝えて、紫苑は身一つで家を出た。余計なことを一切話さぬまま先導する男は、道服どうふくのようなものを身に纏っている。といっても、これはあくまで紫苑が少ない経験の中でそのように感じただけで、本当に道士どうしが身に着ける衣装なのかどうかはわからない。実際に男は、道術どうじゅつよりも荒事の方が向いていそうな、屈強な身体つきをしていた。
 西寺さいじの辺りで牛車に乗せられたのには驚いたが、これには御簾みすの内側に戸板が立てられ、厳重に目隠しを施されている。そして運び込まれたのは公家の物らしき邸宅。しかし、それ以外には状況を確認するような余裕もなく、紫苑はそのまま、良い香りのする女房装束一式と共に、木箱の中に押し込められた。そこから先は、周囲の物音と伝わってくる振動とで判別するしかなかったが、どうやら荷車に載せられて、またいずこかへ運ばれていくらしい。快適な牛車とは違い、車輪が道端の小石に乗り上げるごとに、嫌な衝撃が伝わってくる。薄暗がりの中で紫苑は、自分如きを牛車に乗せたのは、人目に付かず木箱の中に潜ませるのに安全な場所が屋敷以外に見付けられず、住所から黒幕の素性を割り出されることを警戒したためだろうと考えた。
 荷車が止まったのは、そろそろ時間の感覚がなくなりかけた頃だ。周囲で何人かの会話が聞こえる。どこそこの方にご実家から云々という言葉があったような気がするが、定かではない。その直後に、文字通り木箱ごと荷物のように担ぎ上げられて、紫苑はそれが、自分をその場所に連れ込むための方便なのだと悟った。
 意外なことに、人力で運ばれるのは、荷車よりも楽だった。木箱の中に横たわった状態で体勢が安定しており、揺れるといっても人の歩幅に合わせた一定の調子が保たれているせいだろうか。それにしても、自分ひとりと女房装束一式、木箱そのものの重さもあろうに、これを難なく担ぎ上げて運ぶ人物の腕力には驚嘆するしかない。道服の男だろうか。だとすれば、やはりあの身体つきは伊達ではないのだろう。
 感心しながらも、紫苑は周囲の状況を探ろうと、必死に神経を研ぎ澄ませていた。いつの間にか、足音は二つになっている。会話はないが、怪力の道服男には連れがいるようだ。以前交渉した家礼けらい風の男かもしれない。そんなことを考えていると、男達は急に速足になった。それまでの快適さは失われ、狭い木箱の中でゴロリゴロリと揺さぶられる。うっかり舌など噛まぬよう、紫苑はきつく奥歯を噛み締めなければならなかった。
 しかし、それもどうやら束の間だったようで、やがて紫苑を容れた木箱は、乱暴に地面に投げ出された。出ろと命じたのはやはり道服の男で、言われるまでもなく紫苑は、したたかに打ち付けた背中の痛みを堪えながら、飛び出るようにして男から距離を取る。が、男は紫苑に構うことなく、運び込んだ荷物の方をあらため始めた。取り敢えず危害を加えられるようなことはなさそうだと安堵してから、紫苑はもう一人の声の主を探す。が、こちらは仲間のはずの道服の男にさえ一言も告げずに、既に背を向けていた。まるで紫苑に顔を見られまいとでもするかのような振る舞いと背格好から、家礼風の男とは別人のように思われる。もしや、これが首謀者である「主」だろうか?
 遠ざかる束帯そくたいの背をじっと見つめていた紫苑は、そこでようやく、その場所が松林の中だと気付いた。男は木々の間を抜け、外界へと出て行ったらしい。辺りは既に夕闇が近付いており、秋の風が吹き抜ける。急に現実感が襲ってきて、紫苑はぶるりと肩を震わせた。
 男達が自分に内情を明かすとは考えにくい。だがそれでも、現状理解のためには少しでも情報が欲しい。両手を擦り合わせながら道服の男を振り返り、紫苑はギョッと目を剥いた。女房装束を引っ張り出したのとは反対の手に握り締められていたものが、人間の足のように見えたからだ。声を上げることなく、男に気付かれる前にサッと視線を引き剥がしたのは、紫苑が並外れて敏いことの証左しょうさだと言っていい。男にとっても、それは明確な失態であったらしく、探るような視線が注がれる。束帯の男が消えていった方角を見遣る芝居で何とか誤魔化しながら、紫苑は背中を嫌な汗が伝うのを感じていた。
 来い、と乱暴に腕を引かれて、思わず息を呑む。が、ぞんざいな手付きで顔を拭われただけだった。胸を撫で下ろしたのも束の間、白粉をはたかれて、いよいよ女装束に着替えさせられるのだと腹を括る。手際よく紫苑を着付けていきながら、男は簡単にこれからの流れを説明した――曰く、お前はいずこかの后妃ごうひに仕える女房として、こちらが選んだ者達に「心細いから」とでも何とでも伝えて同行を申し出よ。先程の方がやって来てお前を手招くので、そこで「薔薇そうびの君様」と呼び掛ければいい――
 改めて、ここが大内裏の内側であると知らされ、紫苑は事の重大さに、今更ながら頭を抱えたくなった。貴族同士の恨みつらみと聞いてはいたし、途中で牛車や荷車から降ろされ徒歩になったことでも何となく想像は付いたが、実際にこの場に立つと、恐れ多さに目眩がしそうだ。
 緊張と後悔で蒼褪める紫苑をよそに、女装の方は、男も満足のいく仕上がりになったらしい。「見れるようになったじゃねえか」と男が軽口を叩くのを紫苑は初めて聞いたし、笑顔を向けられるのも初めてだったが、あまりに露骨で下卑た態度に、これが紅でなくて良かったと心の底から思ったものだ。
 やがて道服の男もいずこかへ姿を消し、紫苑は一人、松林の中に残された。その場所がえんの松原と呼ばれていることを紫苑は知らなかったが、幸いだったと言える。知っていたら、そんな薄気味悪い場所に一人で取り残されることに、恐怖を覚えずにはいられなかったかもしれない。意に染まぬ女装もまた、重ねられた着物のお陰で、秋の夜長の寒さから身を護るのに大いに役立ってくれた。しかし、どれほど寒さに震えようと、木箱の中を検めようとまでは思わなかっただろう。
 殿上人達の行き交う別世界で、鬱蒼と茂る松林に一人。萎えそうになる気力を奮い立たせたのはたった一つ、これで少しは家族に楽をさせてやれるのだという希望だ。思い出したように胸を掠める罪悪感からは、相手は紅が怪我を負う原因になった貴族なのだからと言い聞かせることで、必死に目を背ける。
 そうして、夜もとっぷりと更けた頃。先に戻ってきたのは道服の男の方で、これに乱れた着衣を直されている間に、今一人が近付いてきた。月夜とはいえ明かりもない場所であるにもかかわらず、顔を隠すように扇を広げている。余程紫苑に顔を見られたくないのだろうが、着物も違っているので、状況と背格好から何となく、先程の束帯の貴族だろうなと推測するしかない。
 ――そこからは、世間に知られている通りだ。
 三人揃って闇夜に身を潜めていたのは束の間の事で、道服の男に指示されるまま、紫苑はやって来た二人の女房に女の声色を使って同行を願い出た。二人は怪しむことなく、それはさぞ心細かろうと道行みちゆきを共にしてくれる。「どちらにお勤め?」と聞かれた時には肝を冷やしたが、言い澱むよりも先に女の一人が、松の木の下で紫苑を手招く男の存在に気付いた。紫苑は渾身の力で陶然とした表情を作り、「薔薇の君様」と呼び掛けてから、男の元へ走り寄る。その時、紫苑は初めて間近で男の顔――正確には鼻から下を檜扇ひおうぎで覆っているので目元だけだが――を見、いかにも楽しげな談笑を装うための含み笑いを聞いた。目元は涼やかと言って差し支えはないだろうが、どことなく冷酷さも感じる。忍び笑い程度では、若そうだということくらいしかわからなかった。
 やがて頃合いを見計らって、男が静かに踵を返す。直衣のうしの裾が翻って、紫苑は焚き染められた香の香りが、自分が纏う装束と同じものであることに気付いたが、それが何なのかはもちろん知る由もない。後を追ってその場を離れ、紫苑は指示されたとおりに、今一度木箱の中へ、女房装束のまま潜り込んだ。中には紫苑の着てきた粗末な衣服があるだけで、他に怪しいものは見当たらない。一緒に運ばれた衣装を身に纏っていることを差し引いても、荷物の嵩が少ないような気がしたが、もうそれ以上は考えることをやめて、紫苑はひたすら時が過ぎるのを待った。
 来た時と同じようにして、荷物同然に担ぎ上げられるのとほぼ同時に、悲鳴が聞こえてくる。あの気のいい女房達が、何か恐ろしい目に遭わされていなければいいがと祈るうちに、紫苑はどこか屋内に運び込まれた。そこでしばらく待たされたのち、急に木箱の蓋が開いたかと思うと、まだ暖かい着物が投げ入れられる。おそらくはあの冷酷そうな青年貴族が着ていた直衣だろう。これも紫苑の知るところではないが、直衣で参内できるのは公卿くぎょうの中でも特別に宣旨せんじを受けた、ごく一部の者に限られている。そんな姿で、しかも夜間に宮城きゅうじょうのいずれかの門を開けさせたとなると、人目に立たないはずがない。内裏から怪しまれずに脱出するためには、着替える必要があったのだ。紫苑の推測通り、そこからまたしばらくは、慌ただしい衣擦れの音だけが聞こえていた。紫苑を着付けた手際から考えて、道服の男が手伝っているものと思われる。
 騒ぎになる前に辛くも帰り着いた門らしき場所では、「つい女御にょうごと話し込んでしまって」という言い訳めいた声が聞こえた。が、特に詮議も受けずあっさりと通されたことからも、あの青年貴族がそれなりの立場であることは疑いようもない。既に買収済みとも考えられるが、何にせよ、家礼風の男がいう「主」、かつこの企みの首謀者は、きっとこの男なのだろう……。
 ――そして紫苑は、やって来たのをそのまま逆に辿る順序で送り返された。荷車でどこかの屋敷に運び込まれ、辺りを確認するいとまも与えられず、目隠しした牛車に自分の衣服と共に押し込まれる。乗車中に着替えを済ませろとのことと受け取って、紫苑は忌々しくも煌びやかな女房装束を脱ぎ捨てた。一人で着るのは無理でも、脱ぐのはたやすい。下ろされたのはやはり西寺付近で、そこで紫苑は女房装束一式と共に、青年貴族が着ていた直衣も下賜かしされた。無駄だとわかっていながらも、「仕事の件は?」と聞いたのが、紫苑から道服の男への最初で最後の問い掛けだが、男はニヤリと人の悪い笑みを浮かべて「また連絡するとさ」とだけ言い捨て、背を向けた。
 追い掛けて、主共々身元を確かめたい。しかし、それが酷く危険な行為であることもわかっている。
 紫苑は腕の中の豪華な着物を握り締めることで、何とかその衝動を堪えた。
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