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シーズンⅠ-34 姿見の女王様

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 二〇〇八年九月十五日。

 この日を境に、世界中の需要が消えた。

 感覚的には三日間、実際はもっと長く、忽然と消えた。

 この日を人々がリーマン・ショックと呼ぶようになったのは、需要が消えたことが分かってしばらく経ってからだ。

 翌日の十六日、日本株は前日のニューヨーク株式市場につられる形で暴落した。
 
 北部女学院高等部に進学していた宮藤涼子は、学校から戻り、どのニュースも米国発の世界金融危機が昨夜から今朝にかけて起きたことを報じているのを目にし、さずがに、お父さん大丈夫だろうかと心配になった。

 どのチャンネルを回しても恐怖だけが伝わってくる。

 今日のお母さんは深夜勤で、すでに家を出た様子で明日にならないと戻って来ない。

 カレンダーを見て確認した。

 朝美にお母さんの所へ行ってくると告げて涼子は家を出た。

 今まで一度もお母さんの病院に会いに行ったことはなかった。

 お父さんが初めての単身赴任をしてからまだ二週間しか経っていないのに、よりによってこんな大事件が起きるなんて。

 お父さん可哀想、お父さんの仕事なくなったら私はこの先どうなるの、中高一貫なのに学校辞めることになったらどうしよう。

 思い始めたら止まらない、悪いことばかりが浮かんでくる。

 とにかく、お母さんに会わないと。

 お母さんに会ってお父さんが大丈夫なのかどうか教えてもらいたかった。


****


 たどり着いたそこは木がいっぱい茂っている公園みたいだった。

 公園の中に病棟があると涼子は思った。

 終点まで乗っていたのは涼子だけで降りるとすぐその先に正面玄関が見える、迷ったがせっかくここまで来たんだから降車場右手に見える少し急な石段を登って公園全体を見てみたくなった。

 石段を登り切ると道が病棟の横に沿って奥へと続いている、小高いこの道は施設全体がよく見える、病棟の裏側まで歩き木々が生い茂っている場所に出た、真下に駐車場が見える、そこにお母さんの車を見つけた。

 きっと職員専用でいくつかある中の一つなのだと思った。

 横一列で駐車するようになっており一つ一つのスペースが広くとってある、十台程度止められる駐車場だった。

 そこで、看護師姿でいるはずのお母さんではなく、私服のお母さんを見た。

 この季節の夕方はまだまだ日が暮れない。

 涼子はお母さんの車をほぼ正面から見下ろす位置まで移動した。

 もう一台が涼子から見て右側に並んでいたが、この二台以外には駐車している車はなかった。

 お母さんが乗っているのはすぐに分かった。

 でも、お母さんは右側ばかりを気にしていた。

 しばらくするとお母さんの視線の先に、お母さんが乗っている車の方に向かってくる、若い女性が見えた。

 その人の顔つきが見えてきた。

 ・・・有佳さんっ。

 工藤有佳さんだ。

 有佳さんは、お母さんの車の隣に止まっていた車に乗り込んだ。

 有佳さんが乗り込んだ車の隣は、小高い丘になっていて行き止まりになっている。

 乗り込むまでにお母さんに気がついたはずだが、会釈をするわけでもなく、そのまま通り過ぎていた。

 どうしてなんだろう。

 お母さんの方は間違いなく気にしていたのに。

 涼子は今いる場所から動けなくなってしまい、とっさに大きな木の陰にしゃがんでのぞき見る形になった。

 少しして、お母さんが車から降りてきた。

 お母さんはカジュアルな服装だったがいつもと違い、スカート姿だった。

 膝が見えるスカート、誰の為に・・・。

 お母さんは有佳さんの車の前を通って助手席に滑り込み、後ろを大きく振り向き、自分の荷物を後部座席に置いた。

 サンバイザーでよく見えなかったが二人は挨拶を交わすわけでもなく無言な感じがした。

 運転席にいる有佳さんの躰は前を向いたままだったし、お母さんもそうだった。

 一瞬だけ躊躇った後で涼子は腹ばいになった。

 これで二人の顔が見られる。

 二人とも無言の時間が長く続いている。

 見てはいけないものを見ている。

 すでに、涼子の鼓動は早鐘を打ち始めていた。

 なんで無言のままでいるのかの意味が分からない。

 挨拶も交わさないのに、お母さんは自分の意思で車に乗り込んでいる。

 持ってきたバックまで一緒に有佳さんの車に置くなんて。

 きっとお仕事とかしないんだ。

 このまま、有佳さんの車に乗ってどこかへ行っちゃう、それしか考えられない。

 やがて有佳さんが何かを口にした。

 なんと言ったのだろう?

 一瞬びくっとしたお母さんもそれに応えたように口元が動いた。

 それからお母さんの両腕が、ゆっくり動き出したのが見えた。

 両腕の上しか見えないが動いている仕草には見覚えがある。

 時間をかけて動いていたお母さんの両腕が止まり、両手が運転席の有佳さんへ向けて差し出され始めた。

 すると、有佳さんの腕が伸びてきてお母さんの両手を絡め取り、両手が抱えていたものに顔を近づかせ、嗅ぐ仕草を見せた。

 その瞬間に涼子の心臓は雷に打たれた。

 一生、この光景は忘れられないと躰が言っていた。

 有佳さんは長い時間を掛けて嗅いでいた、有佳さんとお母さんがじっと見つめ合っている。

 そして、お母さんはシートを最大まで倒して両腕を伸ばして脇に揃えまっすぐに横たわり、顔だけドア側に向けて身じろぎもしなくなった。

 有佳さんはお母さんから受け取ったものをしまい、しばらくお母さんの姿を見下ろしていた。

 やがて、二人を乗せた車は駐車場から出て行った。


****


 お母さんの深夜勤はウソだったんだ。

 どうやって家に戻ったのか、うろ覚えで記憶が飛んでいた。

 一方で、焼き付けたい記憶の方は何度も反復した。

 熱い躰はやがて冷めるだろうが、余熱は生涯に亘り残すと決めた。

 朝美には、道に迷って病院までぜんぜん行けなかったんで途中で冷静になって戻って来たと嘘をついた。

 お母さんの病院に行こうとしたことは生涯口に出してはダメだと朝美に言い聞かせた。

 少し首をひねったあとで「分かった」と言ってきた朝美の目を見て納得する。

 朝美が生涯に亘り口に出すことはない。

 その晩は眠れなかった。

 有佳さんとお母さんの光景を思い出すたびに興奮する。

 ドアを開けて滑り込んだお母さんが、その後で見せた私の知らない顔。

 お母さんは綺麗だし自慢だ。

 ベットで眠れないまま自分が興奮した後でたどり着く感情に戸惑っている。

 何度試みても同じ感情に行き着き涼子を悩ませる。

 綺麗な女性があんな表情をするところをもっと見たい。

 この感情から離れられないままで悶々と過ごし知らぬ間に眠りに就いていた。

 次の晩も同じだった。

 そして一つの結論にたどり着いた。

 容姿に問題がないわたしならスキルさえ磨けばどんなレベルの女性でもああいう表情を引き出せるに違いない。

 二晩の間にスキルの磨き方も見つけていた。

 二日目の夜を境に、涼子はキャスター付きの姿見に自分を映し出し想像することでスキルを磨くのが最高の息抜きになった。

 姿見の中で、学院の中から綺麗な生徒を思い浮かべる。

 街で会った女性で涼子のお眼鏡にかなった顔立ちを思い浮かべる。

 下着姿で姿見に立つとより一層、スキルが磨かれ息抜きもできることに気が付いた。

 想像でスキルを磨くことを見つけた自分を誇ってやりたい。

 想像力が豊かな自分にしかできない、他の人は真似できないはずだ。

 もっともっと磨きたい。

 だが、そのためには大きな壁が立ち塞がっている。

 大人っぽい下着を一枚も持っていないのだ。

 お母さんに怪しまれないように大人っぽい下着を購入するには、どんな作戦を立てるのがいいか。

 宿題より難しいと思ったが、なんのことはなかった。

 ごく身近に答えがあったことに気が付いた。

 夕ご飯のあとで作戦を決行する。

「お母さん、杏仁豆腐、美味しいね」

「いつものと一緒でしょ」

「杏仁豆腐は三国志時代にできた中国のデザートなの」

「お姉ちゃん。それって発祥の地ってこと?」

「そうよ。三国志時代はもっと驚くこともあるの。聞きたい?」

「涼子、だんだんお父さんに似て来たわね。お母さんも聞いてみたい。三国志の時代ってどのへんだったかしら」

「三世紀ごろだから千八百年ぐらい前。この時代になんとお母さん、すでにブラはあったんです。パンツは千年先の明の時代まで待つけど」

「そんな文献まで残ってるのってすごいわね。お母さん驚いたわ、涼子からブラジャーの講義を受ける日がくるなんて。涼子、成長したわね」

「涼子お姉ちゃん。なんで千年もパンツ待つの、なんで」

 朝美の馬鹿めっ。

 食いつくとこが違ってる。

 作戦台無しにするつもり?

「朝美、そこ食いつくとこじゃないから。どんなブラがあったかに食いつくべきでしょ。はい、やり直し」

 ちょっと睨んでやった。

「涼子先生っ! 三国志時代のブラ、朝美もっと知りたいっ」

 この愛すべき小学六年生の妹は反応が早いから好き。

 お母さんがなにか言い出す前に決行する。

「はい、朝美さん。教えましょう。『しんい』って言って字は『心衣』って書きます。裏地は綿でできていて、表面は刺しゅうがしてあって色彩豊かなの。お年頃の娘は大人と同じブラを欲しがったのよ。涼子もお年頃になりました」

 これなら、お母さんに怪しまれないで済む。

 あの時代のお年頃の娘が欲しがったかどうかなんて文献は見たことないけど、きっと涼子を助けてくれる。

「いま、涼子達の間ではどんなブラが多いのかな。涼子も持ってないと恥ずかしい思いするんでしょう。分かったわ、買いにいきましょう」

 これだから、お母さんは好き。

 一緒に出歩くのも好き。

 次のお母さんの休みの土曜日に、買いにいくことになった。

 いままで目を向けなかったが、大人ブラで高い物は一万円近くする。

 あり得ない値段に思えたのでパス。

 探してみると中高生向けの大人ブラもあった。

 未知の世界だ。

 価格帯は三千円前後、ショーツも合わせると結構な値段になる。

 お母さんがいいと言うのでその中から探し出した。

 デコルテをメイクするってキャッチコピーにはまった。

 四分の三カップブラという未知の単語に出会い、その場から動けなくなった。

 ブラの上、四分の一をカットしてあることで、胸元の空いた服装でも下着が覗きにくくしてある形状を差し、寄せて見せるとも書いてあり、この形状から選ぶことにした。

 涼子の胸は小さい、お母さん似なのだ。

 お母さんはそれでもBカップぐらいはあると思うが涼子のは間違いなくAカップだ。

 朝美に抜かれる日が来るかも知れない、というかA以下は無いのだから朝美とは良くて引き分けしか残っていない。

 四分の一カットで寄せて見せて今のうちに朝美に勝ちに行くと思うと、お買い物はなんて楽しいんだろう。

 涼子が選んだのは、薄い水色系。

 黒の刺しゅうが施されていてストラップも黒で出来ていて大人っぽい。

 お揃いのショーツがセットになっていて価格もお手頃だった。

 これに決めたと思った時にお母さんからアドバイスを受けた、それはショーツの選び方でクロッチの幅についてだった。

 自分のデリケートな部分の幅よりも少しだけ大き目なクロッチ幅のものを選ぶ訓練をしなさいという。

 大人の女への第一歩を踏み出せたような気がした。

 これで、すべての準備が整った。

 まもなく、姿見の女王が誕生する。

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