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シーズンⅠ-13 リスク回避策

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 蒸し暑かった梅雨が明けた。

「お母さん、今日はどっち」

 朝美は勤務表を貼ったボードに目をやっているが私の口から確認したそうに口を尖らせている。

「今日は、準夜勤だから」

 君子は三月半ばから県立の療育センターに勤め出した。

 十八歳までの肢体不自由児を二十四時間体制で支援している。

 それ以外にも診療科目として小児科、整形外科、児童精神科、神経内科、泌尿器科、歯科を持っている。

 北部市内からは高砂の池を通りすぎてさらに車で十分ほど走った少し小高い丘に広大な敷地を有していた。

 療育センター行きバス路線の終点でもあった。

 勤務体系は四週八休で日勤、準夜勤、深夜勤の三交代制。

 今日の準夜勤は夕方からの出勤で帰宅は深夜一時くらいになる。

 君子は通勤用に中古の軽自動車を購入し使っている。

 耕三さんのは七人乗りのワンボックスカーで大きいし燃費も良くない。

「今日は、お父さんの方が早いぞぅ。じゃ行ってきます」

 玄関の方から間延びした口調が聞こえたので急いでお見送りに向かう。

「明日、ディキャンプだからよろしくね」

「ほぉぉい。まかせといて」

 耕三さんを送り出して時計を見ると六時四十分を過ぎていた。

 もう一人のお嬢様はまだ起きてこない。

 リビングに戻って、次の仕事に取り掛かった。

「朝美ちゃん。四千年、起こしてきて」

「いま行ったら、呪うとか言われるもん」

 朝美はこの四月から小学五年生になりボイストレーニングと声優専門学校通いが本当に嬉しそう、学校の友達には内緒にしている。

 中学三年になった涼子の方は、四千年の旅が始まってまだ半年足らずだが順調に旅を続けている。

「そっか。じゃぁ自分で起きてくるの待つか。明日、土曜日でお休みなんだから週末の今日ぐらいはちゃんと起きてほしいんだけど・・・無理か」

 結局、耕三さんと相談して涼子にはデスクトップパソコンを買ってあげたが、ハマりようには感心する。

 三国志あたりでは、曹操《そうそう》さんとかいう人が好みだそうで、ネットカフェに連れて行くと曹操さんの漫画ばかり読んでいる。

「おはようぅございまぁーす」

 テンション低めの涼子が目をこすりながら起きてきた。

 たぶん、学校に着くまでテンションが上がることはない。


****


 有佳とのお付き合いは、だいたい月二回のペースで続いている。

 ランチをするか有佳の授業が引けた後でお茶をするかがお決まりになってきた。

 二回目のデートの時に豹変しただけで、それからは優しい顔のままで有佳は君子に接して来るが、一瞬で凍る有佳の顔を見てしまってから君子の中でいろんな意味でのリスクが頭をよぎらない日はない。

 有佳が君子と会っているのは、工藤先生を落胆させたくないという一点だけだと言うのが分かった。

 十六歳も年上の君子に少しも関心を持っていない。

 素振りをみれば明らかだ。

 だから、あんな言い方ができるに違いない。

 あの日、「物欲しそうだったくせに」と言ったときの蔑む有佳の目線は、おばさんっ!あんたは侮辱されてんだよそれくらい分かるでしょって言われている気がして君子は強烈な屈辱を覚えた。

 続けざまに、私を様付けで呼べる日がくることをずっと考えてたんじゃないの?と見下された時には、君子を服従させている有佳の姿を想像してしまいどうしようもない羞恥心と敗北感に襲われた。

 服従させられることへの期待を持っている君子の心は屈辱や羞恥心、敗北感が甘美な味に変わるのを止められない。

 それでも、「もう逃げれないのよ」の言い方と雰囲気には恐怖しかなかった。

 どうしてそんなことを平気で言えるんだろう。

 有佳は君子への恋愛感情の欠片《かけら》も持っていないから平気で言えるし、逃げられても別に気にしないんだと思う。

 言われた君子がどれだけびっくりして恐怖を抱いたかなんて考えもしない。
 
 有佳は間違っている。
 
 相手に関心を持たず、恋愛感情の欠片もない中で自分本位だけでプレイをすればそれは大きなリスクを伴うことになるのを分かっていない。

 有佳を様付けで呼ぶ日が来れば、有佳は必ず豹変するのは間違いない。

 怪我をする事態が待っているかもしれない。

 怪我まで大げさじゃなくてもあちこちに傷や打撲の跡ができる可能性も否定できない。

 夫や子供がいる身でこの不安は桁違いに大きい。

 そう考えると有佳との交際はリスクが高すぎる。

 普通に始めてみたい、どのくらいかかってもいい、という台詞に少しぐらいは有佳の本音があると思っていた自分が馬鹿だった。
 
 君子と会っている時の有佳は女優なのだろう。

 そしてほとんどが演技なのだろう。

 それが悔しい。

 君子はリスクを少しでも回避しておきたいと思うようになり、毎日そればかりを考えるようになっていた。

 そして一つの結論にたどり着いた。

 看護の先輩として会っている分にはなにも隠す必要がないのに涼子にも七海ちゃんにも隠しているので公開する。

 みんなが知ることになれば有佳も自重してくれると思う。

 考えたあげく、梅雨が明けたら耕三さんの前の赴任地でもやっていた宮藤家恒例のディキャンプに行くので、そこで偶然出会うことにしたいと有佳に打ち明けてみた。

 これなら両方の家族が顔を知ることになるので、主従関係になった時に有佳が暴力を振ってくることは無さそうに思える。

 一番いいのは主従関係にならないことだが、正直言って君子にその自信はない。

 求められればきっと従ってしまうと思う。

 今の君子は有佳に性的な感情を抱いたまま生煮えな状態が続いている。

 君子の渇きを文香さんは見抜けなかった、それを有佳は見抜いている気がする。

 文香さんは服従という関係を与えてくれなかったが有佳のは初めからそうだった。

 最初は、選ばれし者という一点で舞い上がってはみたもののそれで満たされることはなかった。

「君子は、それでいいの?」

「有佳さんさえよければそうしたいんだけど」

「わかった」

 有佳の反応はさっぱりとしたもので、有佳が家族みんなの調整をしてみると言ってくれた。

 しばらくして、有佳から日時が送られてきた。

 場所が北部市内から車で一時間くらいで行ける県民の森にあるディキャンプ用スペースなのは既に有佳に伝えてある。

 有佳のメールには、お母さんも了解している、と書かれていた。


****


 ディキャンプの日がやってきた。

 君子は準夜勤明けだったが、疲れている場合なんかじゃないと自分を奮い立たせた。

 今日、キャンプ場で有佳の家族と会うことになる。

 今日からは看護師の先輩として有佳に接することが公に許される。

 自分が求めたリスク回避策に従うまでのこと。

 家族同士が顔見知りになれば有佳がそれを機に君子と距離を置く可能性もあるが、もう決めてしまったことなので後には引けない。

 距離を置かれた場合、いまの君子には辛いことになる。

 辛い時の自分に向かって言う言葉はもう決めてある。

 『人の心は案外丈夫にできている。だから君子は大丈夫だよ』、そう思うことにして決断している。
 
 君子は朝から子供達と同じくらいテンションを高めに自分を持っていった。

 でも、かなり緊張してる、なんとかごまかすしかない。

 車二台で出発した。

 途中で耕三さんのご両親を拾ったので宮藤家は総勢六名だった。


****


「あっ、工藤先生が来てるっ!」

 着くなり涼子が甲高い声を上げた。

 向こうも驚いた様子。

 先生の所に涼子と一緒に出向いて挨拶を交わし、せっかくですのでご一緒しませんか? と予定どおりに声を掛け合流することになった。

「宮藤涼子の祖母です。長男も次男も故郷を出ていますので、涼子の父親の耕三が帰って来ると聞いた時は本当に嬉しかったんですよ。涼子も学園生活が楽しいようで、これも先生のおかげです」

「いえいえとんでもありません、涼子さんはとてもお淑《しと》やかでご家族想いのお嬢様でいらっしゃいます。まさかここでお会いするとは思いませんでしたが、これも何かの縁だと思います、今日はゆっくりと楽しみましょう」

 このあとそれぞれの家族の紹介をし、工藤先生が最後に有佳を紹介したときにちょっとしたハプニングが起きた。

「看護師さんになられるんですね。うちの奥さんと一緒だなんて嬉しい限りだなぁ、うちは二十歳で結婚してました、なぁ君子」

「耕三さんたら、もうっ」

 工藤家の方から一斉に驚きの声が上がった。

「有佳おまえもうすぐ二十歳だろっ、宮藤さんにいろいろ教えてもらったほうがいいんじゃね」

 そう言うと兄の正樹さんは、有佳が人見知りだしそういうことには縁がないんで心配してたんですよ、と続けてきた。

 有佳を見ると、優しい顔に加え少しはにかんだ仕草をしている。

 なんという演技力だろう。

 あれじゃ家族も気がつかないのも分かる。

 みんな騙されてる。

 演技で自分を隠してる恐ろしい女、悪魔みたいな女、言ってやりたいが言えない。

「有佳さんさえ構わなければ、私でよかったらレクチャーしますよ。いまここでってのはあれなんで、お時間とって頂ければ」

 レクチャー? お時間とって頂ければ? 君子は自然と口を継いで言葉が出ていた。

 悪魔に指図されなくても二人きりになるための口実づくりをしている自分がいる。

 逃げれない状況を自ら作ってる。

 君子は自分に絶望した。

 どうしようもなかった。

 二回目のデートで有佳の凍りついた顔から投げつけられた言葉は、長い間の御無沙汰を埋めるのに十分すぎた。

 独りで自分を慰める時に想像する相手がしてくれることを有佳ならきっとしてくる。

 有佳の中心部とそこの先端にある突起物が頭から離れない。

 あのテカりは君子を見て感じてくれたからだと信じたい。

「お兄さんったら。わたしなんか、ご迷惑でしょう。でも、ありがたいです」

 正樹さんは、よしっ決まった宜しくお願いします、などと言ってきた。

 いまこの場には両方の家族がいる。

 君子は頭の切り替えを必死でおこなった。

 なんとか切り替えることができた。

 それからは、タープを張って雰囲気をつくり合同で宴会を始めた。

 ゆっくり過ごせる時間、火を起こす楽しさ、同じカレーライスでもわいわいしながら作ると、笑顔のスパイスが効いて美味しい。
 
 来てよかった。

 耕三さんのお父さんの昔話が今日のクライマックスだった。

 そのお話は君子は耕三さんから聞かされていたけど、直接ご本人から聞くのは初めてで改めて感動してしまった。

 みんなも心が揺さぶられたようだった。

 お父さんは、東京証券取引所に上場している建設会社の今で言う地域限定社員だったそうで、勤め先では後半のほとんどを現場監督として過ごし、お母さんは税理士事務所の事務員をしていたと話し始めた。

 子供が三人とも男の子だったので、父親として何をしてやれるかいっぱい考え、持ち株会で財産が増えていくことに考えがたどり着いたと話された。

 その時の長男は十五歳、次男は十二歳、そして耕三さんはまだ八歳だったと。

 お父さんが勤め出した時に先輩と上司から、持株会だけは入っておいたほうがいいとアドバイスされたそうで、聞くと自分の会社の株式を給与天引きでコツコツと買い貯めしていくのが持株会だと教えられ、これなら使ってしまう心配はないと思い結構な金額を天引きに回し、自社株が大きく下がった時は恐怖だったそうで、そこから株価なるものを見るようになったと、苦笑いしながら自嘲気味に話された。

 子供三人の名義で証券口座を作りに行った時は、証券会社の敷居が高すぎて店舗の前で引き返し、日を改めて電話で要件を伝え、日時が決まり最後に、お待ちしています、の一言で背中を押されやっと決断できたんだぞっ耕三、って耕三さんのせいでもないのに。

 最後にお父さんは、誰でもが知っている会社の株を最低単位だったけど買ったと、懐かしむような口調で披露してくれた。

「税金がかからない範囲だったしね、お父さん」

 お母さんが一言補足された。

 こんないいお話は初めて聞きましたと、正樹さんが一番感動してた。

 お酒を飲むので運転しない正樹さんとお父さんは二人で乾杯して盛り上がって、楽しそう。

 二十歳になった時にそれぞれに口座の管理を任せ、購入した株も一度じゃなかったそう。

 耕三さんは、その口座はそのままにしてますと言ったあと、お父さんに感謝してますって、少しはにかんでいた。





 
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