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第8章 交わり

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 5月8日㈰、連休最後の日。
「あなた、そろそろ」
「わかった、緊張する。加奈は大丈夫?」
「こんな緊張は初めて、とりあえず会ってみて、するかどうかは後で考えましょう」
「それもそうだな、行くか」
 小竹向原駅までゆっくりと歩く加奈と健太郎、会話がない。
 相手と初めての顔合わせ、場所は池袋、相手が望んだ場所が池袋と知った時に加奈に不安がよぎった、自分たちが住むエリアと近かったらどうしようっていう不安だ、いままでと何もかもが違う、不安しかない。
 東口にあるダイニングバーに入る、初めてのお店だ、一歩足を踏み入れれば加奈は佐伯貴子に健太郎は佐伯健司になる、相手を探す、目印は赤いバラを先に来た方がテーブルに置いておく、早すぎたかまだ来ていない。
 グラスビールを2つ頼んで食べ物は相手が来てから決めると店員に告げる、店内の雰囲気は明るく賑やかで少しお洒落な居酒屋って感じ、フロアが広く各テーブルが離れている、これなら個室でなくても普通に話せる、加奈達が座ったテーブルは丸テーブルでそんなに大きくないので4人で座ればひそひそ話も十分にできそうだ、加奈が布で作ったバラのコサージュをテーブルに置く。
 席から入り口が見える、グラスビールで乾杯はしたものの心ここにあらず、二人とも入り口しか見ていない、じっと入り口を見続けるのに耐え切れなくなった健太郎がスマホを取り出して画面に目を向ける。
 ドアが開き二人の人影が入って来るが二人とも女性、たぶん親子だろう、違うので加奈が目を戻す、加奈が「約束の時間になったわね」と健太郎に言い、スマホから目を離さずに「うん」とだけ健太郎が答える、時間を守らない人は信用できない、そんな顔付で健太郎を見る加奈。
「すみません、佐伯さんですか」
 先ほどの親子連れが目の前に立っている。
「はい、佐伯です。あのぅ」
 明らかに想像してたのと違う相手側に戸惑う加奈、健太郎の表情からは何も読み取れない、ただポカンとしている。
「伊藤です、ぎりぎり間に合ってよかったです。池袋ってよく知らないので、すみませんでした」
「いえ、どうぞお掛け下さい」
 席に着いた二人は係の人に加奈達と同じグラスビールを頼んだ、食べ物を聞かれ、お店一番推しの宮崎地鶏の炭火焼を人数分頼み、併せてキュウリにミニトマト、キャベツを頼む、伊藤緋香里と名乗った若い方が「ここ経営が宮崎県の方なんですって、ぜったいに旨いと思うんです」、年配の方が「こちらが決めさせて頂いたお店なのに迷ってしまって本当にすみませんでした、だいぶ待たれましたか」と、すまなさそうに話す、名前は伊藤綾子だと言う。
 運ばれてきた宮崎地鶏炭火焼は鉄板に一口サイズで乗っている、旨そう、4人共手を出す、まず2人前で食べ終わった頃を見計らって後から熱々が追加されると言う、4人ともビールをお替り、伊藤緋香里の「旨いっ」につられ「旨いっ」が伝播していく、知らず知らずに笑顔になる加奈と健太郎。
「あぁー美味しかった、少し休みましょう」
 伊藤緋香里は追加で頼んでいたお新香に手を出し、3杯目のビールを口に運んで「奥様とやり取りをさせてもらったのは私です、隣にいるのがパートナーです、パートナーが女性だったことで驚かせてしまいましたか、もしそうなら謝ります。それが原因で縁が無かったのなら諦めます」
 伊藤緋香里と名乗る若い女は、背丈は加奈より少し高く鎖骨まで届くロングヘアーで普通体型をしている、ツリ目が特徴的で決して美人ではないが一つ一つの所作が様になっている、組んだ脚の上で左腕を支えにして右肘を付いて折り曲げた手首に顎を乗せながら相手を見て話す、服装はスキニーパンツにスニーカー、上はざっくりとした少し厚めのTシャツで袖が肘まである、斜め掛けしてたバックは一目でわかるフランスの高級品だ、伊藤綾子と名乗る中年女は背丈は加奈と同じくらいでショートヘアにパーマ、30歳前後に見える伊藤緋香里を50代にしたような顔つき、スカートに薄手のジャケットを身に着けているがこれもブランド物だと分かる。
「少し驚きました、そこは主人と相談してみないと、内容が内容ですので取り決めも含めてお話ができればと思って今日はやってきました」
 加奈が正直な気持ちを伝える。
「ご主人の方はどうですか」
 伊藤緋香里が顎を乗せたままで小首をかしげる。
「あ、いや、そうですね。驚いたのは事実です、あのぅ、お二方とも・・・」
 自分に振られると思っていなかったのか、健太郎がたじろぐ。
「募集欄に出した通り二人ともSです、いつもは単独の方を募集していたのでマゾ夫婦を募集するのは実は初めてなんです、あそこの会員になったのも最近のことなんで、女性同士で会員になれたのですが募集欄にはあえてパートナーが女性だとは書きませんでした、謝ります」
 伊藤緋香里の言葉には迷いがない、誠実さも感じられる、聞いていた加奈の表情が変わる。
「お二方はご夫婦で同時に調教を受けた経験はどのくらいあるのでしょうか、未経験の私どものやり方が気に入らなければその場で中止して頂いて構いません」
 伊藤緋香里の言い方を見れば、どうしても加奈と健太郎を調教したいという訳でもなさそうに聞こえる、あくまで受け身である加奈達の気持ちを尊重しているとも受け取れる。
 聞いた加奈と健太郎が目を合わす、一度頷いた健太郎が、
「スワッピングの経験はそれなりにあるのですが、今回のようなことはまったく未経験です」
 目を見開く伊藤緋香里、なんで、って顔付に変わる。
「どちらが応募しようと言ったんでしょうか」
 素朴な疑問をぶつける伊藤緋香里。
「わたしです」
 健太郎が答える。
「理由を教えて下さい」
 理由が分からなければ今回のことは無かったことにします、と伊藤緋香里が念を押してくる。
 とまどう健太郎、加奈はチラチラと伊藤緋香里を見るだけで動かずにただじっとしている、先ほどから加奈の表情が微妙に変わっている、マゾ夫婦という言葉に反応しているのだ。
「前から、妻のプライドが剥ぎ取られていく様を見てみたかったんです」
 言い終えた健太郎が下を向く、伊藤緋香里を盗み見ていた加奈も下を向く、目が合わせられなくなっている。
「そうでしたか、奥様は私の調教を受けたがってますよね、何でかな」
 さりげなく、それでいて核心をついて来る。
「それは」
 それはの後が続かない、口ごもる加奈。
「奥様には私が本物だって分かるんですね、私も分かりましたよ」
 伊藤緋香里は貴子さんとは呼ばない、あくまでマゾ夫婦の妻としての呼び名で呼んでくる、伊藤緋香里は隣に居る伊藤綾子に何やら話し掛け始める、聞いていた伊藤綾子が頷く。
「後でお二人で相談して決めて下さい、取り決めはメールでもできますので、私どもはお二人とのプレイを希望したいと思います、綾子も賛成しています」
「分かりました、後日、連絡を入れさせて頂きます」
 加奈が答える。
「さぁ、話は終わりました、また、頼んでもいいですか、地鶏」
 場の雰囲気を戻す伊藤緋香里、みんな賛成して4人前を追加する。
 そこから1時間以上、お互いの正体を明かさずに会話が続く、SDGSの話題が伊藤緋香里から出て、健太郎がSDGSジェンダーに話を振った時に、大学院の時に立ち上げた会社が軌道に乗って今はそれを経営していると伊藤緋香里が教えてきて、健太郎が親の後を継いで会社経営をしていると教えている。

 お店を出て東口に渡る交差点で相手と別れる、二人が東口に向かうのを確かめて加奈と健太郎は来た道を戻り高速道路の降り口方向へ歩き出す、そこからタクシーを捕まえて自宅ではなく小竹向原駅まで行ってもらう、タクシーを降りて周りを確認してからゆっくりと歩き出す加奈と健太郎、「どう見ても親子だよね」と加奈、「だよね」と健太郎、その後の会話はない、結論を出すまで時間が掛かりそうだ。

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