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プロローグ 崖の上で恋人と

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 どうしてこうなったのか、私にもまったくわからない。


 私、渡辺咲良わたなべさくらは今、渓谷の崖の上に立っている。目だけを動かして下を見ると、昨日雨が降ったのだろうか、谷底の川はドウドウという濁流の音が耳元に届くほど、激しく流れていた。


 もちろん落ちたら怪我ではすまないだろう。しかし後ろに下がることもできない。今の私はこの国の罪人であり、背中には剣先が向けてあるからだ。


 その剣を握っているのは、恋人のカイルだ。ううん。もう「元恋人」といってもいいだろう。どこの世界に恋人に剣を突きつけ崖に追いやり、谷底に落とそうとする人がいるだろうか。


「カイル、早く突き落としなさい。お兄様が隣国から帰ってきたら、うるさいわ」


 まるでゴミでも捨ててほしいと言う軽さで、崖から突き落とす指示を出しているのは、アンジェラ王女だ。私からすべてを奪い、過去すらも葬り去ろうとしている。


「アンジェラ王女、馬車に戻ってください。ここにいると危険です!」
「だって、あなたが早く、その女を殺さないから」


 王女がカイルの腕に、自分の腕をからませたのだろう。その振動で私の背中にチクリと痛みが走った。


「……っ!」


 ほんの少しの刺激でさえ、今の私には大きく感じる。ふらつく足をなんとか気力で踏ん張ったけど、どうせ落とされるなら意味のない行為かもしれない。


「ケリー、王女を馬車へお連れしろ」
「は!」


 もう涙も出ない。昨夜一晩、地下のカビ臭い牢屋で、さんざん泣いてしまった。今はただ、悪い夢を見ているようで、これから自分が死ぬというのに、実感がわかない。


 そんな呆然と立ち尽くす私に、カイルは私にしか聞こえない声で囁く。


「……悪く思わないでくれ」


 そんな馬鹿な。私はで、聖女としてこの国の瘴気しょうきを浄化したじゃないか。あなたと共にいろんな土地に行き、慣れない浄化で熱を出すこともあった。


 それなのに、では、みんな私のことを忘れ、聖女の力も、声すらも奪われ、愛するあなたに崖から突き落とされそうになっている。


(でもあなたを悪く思えない。だってこれは、私が呪われてしまったからなんだもの……)


 私はそっと瞼を閉じて、カイルとの楽しかった日々を思い出す。どうせ死ぬなら幸せな記憶の中で死にたいわ。


 後ろから、ジャリッと地面を踏みしめる音がした。そろそろか。


(昨日、召喚の魔法陣が見えた時は、あなたに会えると思って、あんなに喜んでたのに。今だったら必死に魔法陣から逃げ出すわね)


 そんな叶うはずもない妄想に唇を歪めた時。


 ドンと強い力で背中を押され、私の体はそのまま谷底へと落ちていった。

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