巷間奇譚

猫山はまぐり

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虚仮(一)

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 豊後と日向に連なる山峰。その麓の村に住む孫次郎まごじろうは、行商で賑わう隣町を訪れていた。
 澄み渡った青空が清々しく、時折吹く乾いた風が汗の滲んだ首筋に心地良い。一歩踏み出すごとに草鞋を履いた足裏が滑り、夜更けまで降り続いた雨の名残を感じた。
 背負った籠の紐が肩に食い込み、少し痛い。篭の中には油や麻布、青菜などが詰まっている。齢十九、父譲りの逞しい体躯を持つ孫次郎は、こうして隣町まで足を運んで生活に必要なものを調達する役を任されることが少なくない。隣とは言うものの、村からは険しい山道を三里ほど下る必要があるため、孫次郎のような若者が重宝するのだ。
 体を揺らして篭を背負い直す。帰路につく前に茶屋で一服しようかと思案していると、前を行く小柄な男が背負った行李からひらりと手ぬぐいが舞ったのが見えた。男は気づかぬ様子で、連れ立って歩く背の高い男の言葉に頷いていた。
「あのっ」
 孫次郎は地に落ちた手ぬぐいを拾い上げると、二人連れの元へと駆け寄った。先に気がついた背の高い方が目を丸くしたが、孫次郎が握る手ぬぐいを見て合点がいったようで、隣の男の頭を小突いて顎をしゃくった。促されて振り向いた男は、大きな目と小づくりな鼻口がどこかあどけなく、孫次郎より年少なのではないかと思われた。
「これ、落としましたよ」
「……ああ、すみません、ありがとうございます」
 小柄な男は特に動揺した様子もなく小さく頭を下げた。孫次郎が差し出した手ぬぐいを受け取ると、今度は落とさぬように懐にしまい込む。
「悪かったなぁ、兄ちゃん」
 背の高い方がへらりと笑った。片方の口角を持ち上げるだけの笑みと軽薄な声色は、気安いというより胡散臭い。
「いえ、それでは」
「お待ちください」
 早々に退散しようとした孫次郎を止めたのは、小柄な方の男だった。表情の変わらない男は、孫次郎の足元を見つめている。
「足首を痛めておいでですね」
「え」
 孫次郎は驚いた。確かに道中、ぬかるみに足をとられて少しばかり捻った。まだ痛みはあるが微かなもので、歩くのにも特に支障はなかったはずだが、傍目から見ると歩き方がおかしかったのだろうか。
「よく効く薬草を持っています。みせてください」
「え、いやでも……」
「手ぬぐいの礼です。銭はいりません。ついでに茶屋で一休みしましょう」
「え、いやちょっと……!?」
 小柄な男は明朗な口調で一方的に言い切ると、すぐそばにある茶屋へ向かって歩き出した。残された孫次郎が口を半開きにして呆けていると、背の高い男が喉奥で笑った。
「あれは人の話を聞かねぇんだ。悪いが、少し付き合ってやってくれねぇか。茶の一杯くらいは奢る」
「はぁ……」
 男に背を押され、孫次郎はよろけながら茶屋へと足を向ける。小柄な男はすでに荷を下ろし、床几に腰かけていた。



「歩きづらいかと思いますが、我慢してください。明日の朝には外していただいて大丈夫です」
 孫次郎は手ぬぐいの巻かれた足を見下ろして感嘆の吐息を漏らした。固定された足はどう力を込めてもぴくりとも動かない。それでいて締め付けるような不快感も痛みもなかった。
 与市よいちと名乗った小柄な男は薬師で、各地を旅しながら薬を売っているとのことだった。腕は確かだから安心しろと、背の高い男―こちらは金蔵きんぞうという名らしい―が茶を啜りながら笑った。
 与市は行李の中からいくつか薬を取り出すと、それを懐紙に包んで孫次郎へと差し出した。
「胃の腑の調子も良くないようでしたので、そちらの薬もお渡しします」
「えっ、よくわかりましたね」
「顔を見れば、大体は」
 わかるものなのだろうか。調子が悪いと言っても食欲が僅かに落ちている程度で、悪心もなければ気怠さも皆無なのだ。腕が良いという金蔵の言が、途端に説得力を増す。そうだとすると……。
 孫次郎の胸中に一筋の光明が差した。
 この男ならば、あの子の病を治せるかもしれない。
「あのっ」
 はからずも大きくなった声に、与市と金蔵のみならず、他の客や茶屋の娘の視線までもが集まるが、孫次郎はそれに構わず身を乗り出した。
「お願いがあります」


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