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弘誓編
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庭に、淡い紅色の叡山菫が咲き始めた。
弘誓は、紀州から取り寄せた青墨を擦り、引き戸を開け放っては、春の風を自然のままに取り入れ、台密の研鑽をさらに進めるべく、理趣経の写経に臨んでいた。
昨今、僧位が上がるほど、この写経を避ける者も増えてきたが、弘誓は折を見ては経典を開き、その一字一字を写しながら、そこにある形而上的真理を、己の心髄に埋め込んでいくことを課とした。
そんな弘誓の筆が止まった。
なにやら騒がしい。
「うぬら、どこから来よった? はよ失せい!」
見ると、高下駄の僧兵らが、何かを見下ろし囲んでいる。はじめは、犬だろうかとも思った。
「この餓鬼、ここには食うものなどないわい。はよ去ねぃ」
山では時折ある光景で、稀に、犬ではなく、猿が来ることもある。
弘誓は目を細め、珍しく口角を上げた。
そうした光景もまた、自然の中の摂理的情景であり、そのもの自体が美しく思える。
理趣経にある。
「妙適清浄」
妙適とは、男女が心身に絡み合い愛し合った末にある、性的恍惚の状態のことだが、これをもって、それもまた自然の摂理として清浄だと説く。
さらに、「是菩薩位」と続け、これはまさに、菩薩の位にほかならないという。
叡山では、顕教の対に密教も修する。
密教とは、宇宙論であり、その宇宙の化身として、大日如来を置く。
大日如来とは宇宙そのものであり、宇宙下にある、ありとあらゆる存在は、大日如来そのものの微々たる一表現に過ぎない。
つまりは、石は大日如来であり、風もまた、花もまた、己もまた、他者もまた、犬もまた、月もまた。
この徹底的思想は、有とは無であると言うこともでき、色は即ち空であり、同時に、空こそ色であるとも、遂には言い切ってしまえるのだ。
もとは、奈良の大仏で有名な東大寺の華厳宗における考えに源流を求めることができ、ローマ神話のジュピターがギリシア神話のゼウスに当てられるように、あの毘盧遮那仏こそ大日如来に当てることができる。
あの大仏を仰ぐ時、あの巨大な存在にこそ、自分は内包されていると見るのが、正しい見方なのだ。
ちょうど、理趣経を写経していたこともあり、弘誓の心は摂理の中に浸っており、僧兵らの宇宙的一表現に目を細めたに過ぎない。
ところが、様子が変わった。
「弘誓様に会わせてください!」
人間の声がした。
それも、幼い。男か女かは、その甲高い叫び声からは判別できなかった。
「阿呆っ! 北嶺大先達様が、うぬらごとき犬畜生に会ってくださるかぃ!」
「会うまで帰らん! もう何度も来た! もう今日は帰らん!」
先ほどとは違う声だ。
この子は、男の子だということが分かった。
ぱんと弾けるような澄んだ声で、健気にも、あの鬼のような僧兵たちに囲まれ、泣きもせずに言い返している。
弘誓は静かに立ち上がった。
もう、その時には、声の主が、あの堂入りの時に見た少年と少女だということが分かっていた。
弘誓は、紀州から取り寄せた青墨を擦り、引き戸を開け放っては、春の風を自然のままに取り入れ、台密の研鑽をさらに進めるべく、理趣経の写経に臨んでいた。
昨今、僧位が上がるほど、この写経を避ける者も増えてきたが、弘誓は折を見ては経典を開き、その一字一字を写しながら、そこにある形而上的真理を、己の心髄に埋め込んでいくことを課とした。
そんな弘誓の筆が止まった。
なにやら騒がしい。
「うぬら、どこから来よった? はよ失せい!」
見ると、高下駄の僧兵らが、何かを見下ろし囲んでいる。はじめは、犬だろうかとも思った。
「この餓鬼、ここには食うものなどないわい。はよ去ねぃ」
山では時折ある光景で、稀に、犬ではなく、猿が来ることもある。
弘誓は目を細め、珍しく口角を上げた。
そうした光景もまた、自然の中の摂理的情景であり、そのもの自体が美しく思える。
理趣経にある。
「妙適清浄」
妙適とは、男女が心身に絡み合い愛し合った末にある、性的恍惚の状態のことだが、これをもって、それもまた自然の摂理として清浄だと説く。
さらに、「是菩薩位」と続け、これはまさに、菩薩の位にほかならないという。
叡山では、顕教の対に密教も修する。
密教とは、宇宙論であり、その宇宙の化身として、大日如来を置く。
大日如来とは宇宙そのものであり、宇宙下にある、ありとあらゆる存在は、大日如来そのものの微々たる一表現に過ぎない。
つまりは、石は大日如来であり、風もまた、花もまた、己もまた、他者もまた、犬もまた、月もまた。
この徹底的思想は、有とは無であると言うこともでき、色は即ち空であり、同時に、空こそ色であるとも、遂には言い切ってしまえるのだ。
もとは、奈良の大仏で有名な東大寺の華厳宗における考えに源流を求めることができ、ローマ神話のジュピターがギリシア神話のゼウスに当てられるように、あの毘盧遮那仏こそ大日如来に当てることができる。
あの大仏を仰ぐ時、あの巨大な存在にこそ、自分は内包されていると見るのが、正しい見方なのだ。
ちょうど、理趣経を写経していたこともあり、弘誓の心は摂理の中に浸っており、僧兵らの宇宙的一表現に目を細めたに過ぎない。
ところが、様子が変わった。
「弘誓様に会わせてください!」
人間の声がした。
それも、幼い。男か女かは、その甲高い叫び声からは判別できなかった。
「阿呆っ! 北嶺大先達様が、うぬらごとき犬畜生に会ってくださるかぃ!」
「会うまで帰らん! もう何度も来た! もう今日は帰らん!」
先ほどとは違う声だ。
この子は、男の子だということが分かった。
ぱんと弾けるような澄んだ声で、健気にも、あの鬼のような僧兵たちに囲まれ、泣きもせずに言い返している。
弘誓は静かに立ち上がった。
もう、その時には、声の主が、あの堂入りの時に見た少年と少女だということが分かっていた。
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