不動の果て

乍冥かたる

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弘誓編

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一人の僧兵の戯れの言に、さしもの荒くれ者達も、にわかに二の句を失った。

千日回峰は生半なまなかな行ではない。現にこの行により命を落としたもの数知れず、殆ど浮浪に近い男にこれを勧めることは、三途の渡しに向けて背を押す行為にほかならない。

だが、言葉を失った僧兵たちは、すぐに興を起こし、

「おお、さすがは智慧第一等の恵福。見事、回峰行を満願すれば入門を許可す。これは筋が通っている」

本来、この行を修するに当たっては、天台座主に上申の上に許可を得て、全山に行入りを知らしめなければならない。

しかし、乱世の現在、この座主の席は、名跡だけの事実上の空位となっている。僧兵たちは、一応に根本中堂へ行入りの願を届け、無動寺谷の主たる堂、法曼院へも押し切るように届けをし、ついに、この一浮浪たる男を明王堂へ押しやってしまった。

千日回峰。

文字通り、山の中を練り歩き千日を費やす。

明王堂を拠点とし、午前2時に堂を出る。

谷道を上り、東塔へ出て、西塔を経て横川。さらに麓の坂本まで下り、坂本にある日吉大社を巡る。

距離にして三十キロほどだが、言うまでもなく、勾配の乱雑な、歩くに難儀な山道だ。

後世になると、行者の服装は定型化され、真っ白な装束に蓮華笠という型が確立されるのだが、無論、弘誓ぐぜいの時期にはそんなものは用意されず、但し、古草鞋だけは用意された。

さらに、明王堂に二名、東塔、西塔、横川、坂本各所に一人を付け、回峰に不正がないかを監視した。


本来、一年目に百日を歩く。

これを二年、三年と続け、三百日を費やす。

四年目からは日数が二百日に増え、五年目と合わせ、七百日を消化する。


しかし、弘誓は毎日歩いた。


「半ば死ぬ気でいたし、どうせ死ぬのなら、時間を置くことはない」


後年、彼はこう言っている。


もともとは、越前の荏胡麻えごまを売る家に生まれたという。

越前は、当節流行りの真宗の土地で、特に父は熱心な門徒であった。

家柄として弘誓は文字が読めたが、ある日、一乗谷の小さな市で、法華経を手にしたのが転機となった。町の物知りに法華経の指南を受け、遂にはその虜となり、父との熾烈な口論の末に家を出た。

その後は、北陸に数少ない天台の寺々を訪れ、多少の教えを受けることもあったが、いずれの寺でも得心のいく日を送れずに、ついには絶望に近い有様で、北陸における最後の寺までを飛び出した。

やがて弘誓は、越前から敦賀へ抜け、琵琶湖の西岸を縫って、叡山へ赴いた。

もとより法華経への帰心もあり、その思想体系の大本山ともいえる山門を叩くに当たって、追われようが、突かれようが、その胸中、浮薄なものではなかった。


「これこれ、回峰の初年は三日に一度となっておる」


監察の言うのも聞かず、弘誓は歩いた。


「いつまで持つやら」

「なあに、頓死して山犬に食われるが落ちよ」

「それならまだいい。いやなに、今日にも逃散ちょうさんすると見た」


弘誓は歩いた。


歩きに歩くうち、そこは人の心。そうした雑音も、次第に澄んできた。


「今日も逃げなんだか」

「逃げるどころか、あれは本物じゃわい」

「毎日古草鞋じゃ。をあてがうべきではないか」



彼は雪道までも侵し、ついには、二年目にして七百日を消化してしまった。


ここに、叡山の本堂である根本中堂から達しが下り、男をして、剃髪せしめ、弘誓という法名が与えられた。

ただし、まだ比丘びくではない。沙弥というには年経りすぎているが、ともかく、出家は認められてはおらず、便法としての名に過ぎない。

剃髪の方はさらに露骨な必要性から剃られたものだった。


「七百日目を満了し、これより、堂入りの行とする」


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