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夜行列車1
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車窓に映る煌びやかなネオンサインも、気が付けばすっかりLEDの冷たい光に置き換わっていた。
もう何年、この列車に乗り続けてきただろうか。書類鞄に詰め込んでいた緊張や野心といった類のものは、縫い目がほつれてくたびれていくうちに隙間からこぼれ落ちて消えてしまい、今はただぽっかりと開いた闇だけがその空間の大部分を占めている。
仕事はそれなりには順調で、見合っただけの賃金だって貰っている。身体だって三十代半ばにしては健康な方で、実家の両親も幸いなことに健在だ。十分恵まれていて、満たされている。これ以上望んだらバチが当たるかもしれない。
でも、それでも、もう何年も前から、心の底から笑ったり泣いたりした思い出が無かった。このまま、十年二十年とこの当たり障りのない生き方を続けた先には何が待っているというのか。十一階建てのマンションの一室で独居老人が孤独死。死後数ヶ月は経過しており、近隣住民が異臭に気付き発覚。そんな地方の新聞の記事にすら載らないありきたりの未来。僕は誰の為に、何を残そうとしているのだろう。
無機質な機械音声が降車のアナウンスを繰り返す。こんな事、考えても仕方ないさ。悲劇のヒロインぶってみたところで、何も特別な事は無い。みんな同じなんだから。愚鈍な頭で三十余年ばかしかけて気が付いたのは、自分はこの物語の主人公でも何でもない、ただのモブだという事なのだから。
開かれたドアから押し出されるようにホームに降り立つと、じっとりとした熱帯夜が身体中を舐め回した。いつものコンビニでビールと弁当を買って、ストリーミングサービスで小さい頃に夢中になったアニメでも眺めて、僅かばかりの現実逃避をしよう。そうしてまた数時間後に訪れる日常の中に組み込まれていくのだ。
改札口へと歩みを進めながら、ふと何気なく足を止めて天を仰ぎ見る。駅舎の屋根の合間から生える高層ビルの窓に、紅く歪な満月が張り付いていた。
自分では小心者だと思っていたけれど、意外と大胆な所もあるのだな。そう心の中で自嘲と呆れから来る笑いを押し留めて目を瞑る。向かいのホームの隅に停車していた一両編成の列車。行き先も発車時刻も見ずに、空席だらけのボックスシートに腰掛けて鞄を抱き締めた。座面から伝わるディーゼルエンジンの振動が眠気を誘う。非電化区間を走るローカル線ということであれば、かなり田舎の方に行くのだろう。恐らくはこれが終電かもしれない。今すぐ飛び起きてこの列車を降りれば、いつもの無機質だけれども平穏に満ちた日常に戻れるだろう。残業で溜まっていた眠気が噴き出して、微睡の中に思考は溶けていく。
次に意識が戻った時には、枕木を叩くゆりかごの音。どのくらい時間が経っただろうか。目を閉じたまま、明日は体調不良ということにして有給休暇を取ってしまおうと画策する。どうせ使いきれない程に貯まっているんだ。一日くらいズル休みしても大目に見てほしいところだ。それに明日は会議も入っていないし、別段急ぎの案件も無かった筈だ。ああよそう、そんなことを考えるのは……。
小さい頃に読んだ絵本。もうタイトルも忘れてしまって内容もぼんやりとしか覚えていないけれど、その中に出て来た悪いオオカミ。腹を空かせて森の中を彷徨いて、ウサギやシカを食べようとする度に、彼らは機転をきかせてオオカミを欺いて危機を脱する。悪いオオカミは最後には退治されて、森には平和が訪れる。その話は何度読み返しただろうか。今にして思えば、悪いことをすれば罰せられて仲間はずれになるから、身の回りの人たちに優しくしましょうといった類の寓話なのだから、作者だって別段オオカミが嫌いという訳では無かったのだろう。だけれど、まだ小学校にも上がる前の僕にとっては空腹に耐え忍び「はらがへった」と嘆くオオカミが不憫で仕方がなかった。テーブルの上に並んでいるスナック菓子を引っ掴んで絵本の中に飛び込んで、オオカミに食べさせてあげたかった。あのオオカミは、今も腹を空かせているのだろうか。
意識が鮮明になるにつれて、違和感が鎌首をもたげてくる。やたらと静かなのだ。自らが息を吐く音、身体を少し動かすと椅子が軋む音、耳鳴りの奥に聞こえる血潮の音。
瞼の裏で閃輝暗点がチカチカと踊り星座を形作る。その中でも一等明るい天狼星がストロボのように弾けてから、すべての星を飲み干した。ブラックホールにかかれば、光さえも脱することができないらしい。なんでも事象の地平面を超えたものは……
「…………は?」
目を開けると、闇、闇、暗闇。青白い月光の中にぼんやりと自分の手が浮かんでいた。
ぐるりと辺りを見渡してみる。車両の中には誰もおらず、死んだ鯨の腹の中のように冷房の切れた生温かさが充満している。スマートフォンを取り出してみる。時刻は0時を過ぎた辺り、しかも圏外。
やってしまった! 終電を過ぎて、おそらく車庫かどこかに回送されてしまったのだろう。運悪く車掌に起こされることもなく、見知らぬ土地に置き去りにされてしまったようだ。どうする、このまま車両の中で朝まで過ごせば駅員に呆れられながらもまた最寄りの駅まで戻ることが出来るだろう。だが、夜とはいえ真夏に冷房も無い車内は蒸し暑く喉もカラカラだ。何よりも晩ご飯も食べていない。スマートフォンは圏外で役に立ちそうにないが、少し歩けば電波の入るところに出られるかもしれない。見たところ人家の灯りも見えないから、コンビニエンスストアがある望みは少ないが、それでも自動販売機か、最悪駅に併設されたトイレの手洗い用の水で命を繋ぐことぐらいはできるだろう。
そうと決まれば、この車両から脱出しなければならない。電気は通っていないだろうから、ボタンを押しても無駄だろう。力を込めてドアをスライドする。ギギ、という音と共に僅かな隙間が出来た。よし、いける。
外に出た頃には、気温も手伝って汗だくになっていた。さすがに開けっ放しでは虫が入ったりするだろうからできる限りドアを閉めてから、ホームを見渡してみた。
車内に居た時は気を取られて気付かなかったが、虫の大合唱。オマケに遠くからは夜行性の鳥の鳴き声が不気味に響く。切り開かれた山間にへばり付くように作られたホームには電灯一つ無く、月明かりだけが唯一の光源となっていた。所謂秘境駅というやつだろうか。鉄道マニアなら小躍りするところだろうが、今の僕には恐怖の対象でしかなかった。
改札口を探してホームを探索する。錆びついた駅名標は極めて可読性が悪く、殆どの文字が判別不能になっていた。き……ら、ぎ?
まあ、ここがどこだっていいさ。駅前周辺に目ぼしいものがなければ、トイレと水分補給だけ済ませて車両の中で夜を明かすほうが懸命かもしれない。改札と思われる場所には駅舎もなくポツンと切符入れのポストのようなものが立っていた。これは望みが薄そうだ。正規の運賃がいくらなのかはわからなかったが、気持ちばかりと千円札を一枚放り込んで、改札の外に出てみる。鬱蒼とした森の中に続く一本の獣道。
少しだけ、少しだけ歩いてみて、何も無さそうならすぐに引き返そう。恐怖心がビリビリと背中を伝ってくるものの、どこか廃墟を探索しているかのような好奇心も同時に沸き上がってくる。こういう非日常のスリルを心の奥底で求めていたのかもしれないな。
スマートフォンのライトで照らしながら、森の中を進んでいく。子供の頃に林間学習で肝試しをしたのを思い出した。流石にオバケなんかは出てこないだろうが、危険な野生動物が出てくる可能性は否定できない。登山をする時、クマを避けるために物音を立てながら歩いた方が良いというが、この場合はどうするのが正解だろうか。
何も無い一本道をどのくらい歩いただろうか、暗闇の奥に星が一つ浮かんでいた。更に歩みを進めると、森が開けて建物の輪郭が見えてくる。集落だ!
はやる気持ちを抑えながら慎重に歩みを進める。そりゃあ駅があるんだから集落があるのは当たり前ではある。利用者がいなければ駅を作る意味なんて無いんだから。それよりも、いくら人家があったところで商業施設があるかというのは別問題だ。ここから見える灯りを見るに、十軒前後だろうか、これだけの小規模な村ではコンビニエンスストアはおろか、自動販売機だってあるかは怪しいだろう。おまけに何かしらの店があったとしても、こんな時間に開いているはずもなかろう。眠りについている村人を起こしてまで余所者が図々しい頼み事なんてとても……。
絶望感と、人工物を見ることができた安堵感とが入り混じりながら、少しだけこの村を眺めてから引き換えそうと決意する。こんな時間に不審者が彷徨いているところを見咎められとマズイだろう。
おおかみ亭
提灯に照らされた暖簾に書かれた文字。曇りガラスのドアからは光が煌々と漏れている。こんな時間に開いているんだ、きっと居酒屋か何かだろう。ビールの一杯と、あわよくば乾き物ぐらいにはありつけるかもしれない。あれほど渦巻いていた不安も、現金なことに下心へと昇華していく。
「すみません、まだやってますか?」
ドアを二度叩いてから、引き戸を開けて恐る恐る尋ねてみる。
「ああスマン、今日はもう…………っ!?」
よくホラー映画でモンスターが出て来た時に悲鳴をあげて逃げ惑う描写があるが、あんなのは嘘だ。現実に出くわしたら声すらも出す事は叶わない。
「なっ、なんでニンゲンが」
見開かれた金色の満月が二つ。オオカミの頭を持った人間。いや、人間のように二足歩行するオオカミというべきか? 出立ちはまさに居酒屋の大将といったところだが、まるで童話かアニメの中のように、オオカミだった。ああ、これは夢か?
「あの、長居はしないので、一杯だけいただけないでしょうか?」
たとえ夢の中でも礼節は大事だし、何よりもビールにありつけるかどうかは重要課題だ。
「はっ!? お、おま、オレ、見えてるよな?」
狼狽するオオカミに思わず笑みが溢れてしまう。こういう時は有無を言わさず襲って来たりするのがセオリーじゃないのか。サラリーマン生活が長かったから、こうして夢の中に出てくるモノも大人しくなってしまったのだろうか。
「はい、僕、オオカミすきなので」
口を半開きにして唖然とした表情。下顎から突き出た白いナイフのような犬歯の獰猛さとは裏腹に、コミカルに移り変わる十面相。
「……ほらよ。」
ジョッキに並々と注がれた黄金色のビール。ああこれこれ、空きっ腹にしみる。
「もう余りモンしかねえから、焼き飯ぐらいしか出せねえぞ」
「ホントですか! ありがとうございます!」
嬉しい誤算。深々と頭を下げると、その反動で腹の虫がグウと鳴る。
「お前、オレのことなんとも思わねえのか?」
カウンターの向こうでフライパンに油をひきながら、上目遣いにオオカミが僕を睨む。
「え? さっきオオカミ好きって言いませんでした?」
ため息をつきながらも料理人の手捌き。芳ばしい匂いが胃酸をじくじくと溢れさせる。
「あのな、コレ、遊園地の着ぐるみじゃねえぞ!」
そう言ってずいっと顔を近づけて僕を睨みつける。動物園のオオカミでもここまで近くで見たことは無いが、まさしく本物のオオカミと言って差し支えは無いだろう。高級絨毯のようにきめ細やかな毛並みに思わず見惚れてしまう。
「いや、ビビれよっ! バケモンだぞ! 狼男だぞ!?」
あ、そういうの、自分から言っちゃうスタイルなんだ。
僕の表情から心を読んだのか、オオカミは何かぶつくさと言いながらも手早く具材を炒めて焼き飯を作っていく。褐色のキミに出会える時が心から待ち遠しい。
「味は保証しねえからな」
そういって出された大盛りの、いや特盛りの焼き飯。狼男だから食べる量の基準が違うのだろうか。見たところ、ネギ系の野菜は入っていない。こういう所は夢のくせに変にリアルだな。
「うっ……うまっ、おいしい! めちゃ美味しいですよ!!」
極限まで腹が減っていたとか、ビールを飲んでいるからとか、そういうのを差し引いたとしても絶品だった。大味そうに見えて控えめな塩加減、角切りにされた肉の旨み、油っこさを中和する野菜の食感。これは無限に食える。言葉も忘れて一心不乱にかき込んでいく。普段ならこんな量絶対に食べられないのに、まるで米を飲むように腹の中に収めていく。全部食べてしまうのが勿体無い。なんて幸せなんだろう。現実の僕はどこか山奥で独り死にかけていたとしても、こんなに幸福な気持ちで果てるなら悪くはない。
あれ程あった山盛りの皿の底が見えて、歓喜の吐息を吐きながらカウンターの奥を見ると、神妙に見守っていたオオカミと目が合った。
「ごちそうさまでした!」
手を合わせて頭を下げる。
「お、おう、まあ、料理には結構自信あるんだぜ」
鼻をポリポリとかきながら嬉しそうなオオカミ。あくまで平静を装おうとしながらも口元はにへらと緩んでしまっている。そりゃあ料理人だもの、料理を褒められて嬉しくない訳がないよね。あ、料理狼というべきか?
そんな幸せな気分に浸りながらも、ふいにこの店の暖簾をくぐった時の事を思い出す。そうだ、もう店仕舞いという所に無理矢理頼み込んだのだった。
「あの、すみません。一杯だけと言いながらご馳走になってしまって……お勘定を……」
それまで上の空だったオオカミが、何かを思い出したようにハッと目を見開いた。カウンターの奥から乗り出して、それまで緩んでいた口元を引き締め、これ見よがしに唇を捲れ上がらせて犬歯を見せつける。
「お代は、お前の命……と言ったらどうする?」
怪しく笑う口元。獲物を射て殺す眼光。背筋にピリッと電撃が走る。僕が取るべき行動はもう決まっていた。そう、決まってたんだ。
「はい、どうぞ」
そう言ってオオカミの口元に腕を差し出した。痩せっぽっちのこんな身体じゃきっと美味しくは無いだろうけど。それでも、それでも、少しでもこのオオカミが、腹を空かせたオオカミが満たされるのなら僕は本望だ。痛いのも、怖いのも嫌だけれど、アルコールも手伝って気の大きくなった今なら、ガブリといかれても未練は無いさ。
痛みに備えて目をぎゅっとつぶる。痛いのは初めだけ、すぐに許容量を超えた刺激を脳が遮断してくれる。誰の役にも立たない人生だと思っていたけれど、こうしてオオカミの血肉に…………
いくら待てども、皮膚を破り血管を千切る衝撃は来ない。あるいはもう死んでしまったのか? 思ったよりも呆気なかったな。それにしては、オオカミのグルルという唸り声は聞こえるし、腕の毛を鼻息がくすぐる感触は止まない。不思議に思って目を開けると、オオカミは唸りながら僕の腕を睨みつけ、匂いをクンクンと嗅いでいる。
「……あの?」
悪戯が見つかった子供のような顔をして、オオカミは僕の目を見てから、ふいっと顔を逸らした。
「ふ、太らせて食ったほうがうまそうだからな」
そりゃあまあ、ごもっともだけど。
「明日から店の仕事もやらせるからな、こき使ってやるんだからな!」
無銭飲食する訳にはいかないから、労働という対価を支払うことについては何の異論も無い。
「はい、ふつつかものですが」
なんだか嫁入りみたいな台詞だな。苛立っているのだろうか、オオカミの尻尾は厨房に並んだ調理器具をひっくり返してしまわんばかりに暴れている。
「……ヴォルガ」
聞き慣れぬ単語に首を傾げる。
「ヴォルガ! オレの名前!」
吠えるように大声を立てる。そんな声出したら近所の人起きちゃうんじゃないのか。
「上代、上代 賢一です。よろしくお願いします、ヴォルガさん」
調子狂うわ。そう小声で言いながら洗い物をするオオカミ。せめて自分の使った食器くらいはとカウンターの中に入ろうとすると、毛を逆立てて「いいから座ってろ!」言うものだから、スポンジを握る大きな手をぼんやりと見つめていた。
「べ、ベッドは一つしかねえ、からな!」
満腹の腹をさすりながら寝室に案内されるなり第一声。
「? はい、床で寝ますよ?」
頭を手で押さえてブンブンと振るヴォルガさん。何か選択肢を誤ったか。板張りの床で横になるのは決して快適とは言えないが、雨風をしのげるところで休ませて貰えるだけでもありがたいのだ。特にこんな真夏の夜に外で寝たら、翌朝は身体中虫に刺されてしまうだろうし。
「お前が逃げないように、見張らないといけないからな」
そう自分自身に言い聞かせるように呟き、うんうんと独りで勝手に納得し始めた。いや、別に逃げるきなんてさらさら無いんだけど。
「ほ、ほら、お前はそっちの奥な!」
顎をしゃくってベッドの壁に面した方で寝ろと促す。これだけ身体中もさもさな毛に覆われているのだから、ベッドの上はさぞかし大変な惨状になっているのかと思いきや、抜け毛一つなく新品のようだった。料理人だけあってこの辺りは神経をつかっているのだろうか。
となると……。自分の腕を持ち上げてシャツの匂いを嗅いでみる。うん、汗臭い。予想外の展開の連続ですっかり忘れていたが、あの列車の中にいた時も暑くて汗だくだったし、そこから森の中を歩いたせいで、とてもじゃないが人様のベッドに上がれる状態では無い。オオカミやイヌは嗅覚が特別に発達していると言うし、ヴォルガさんも僕のことを臭いと思っているのではなかろうか。途端に恥ずかしさが込み上げてくる。
「あ、あの」
とっとと寝ろ! と言わんばかりに睨みつける顔。ビールも、ご飯も食べさせてもらって、寝床まで提供してもらった挙句に入浴まで要求するのは図々しさも極まっているものの、このまま彼のベッドを汚してしまうのも憚られた。
「あの、厚かましいお願いなんですが、お風呂に入らせて頂けないでしょうか……身体中汗臭いし……気付かなくてすみません」
「べっ、別にっ、そのままのが、いやそのままでもいいぞ!」
そうは言われても。自分の体臭には気付き難いとはいっても、一度気になってしまうと余計に意識してしまう。そんなこと言って、やっぱり逃げるつもりだろうと疑心暗鬼の目で一歩も譲らないヴォルガさんとしばらく小競り合いを続けた結果。
「じゃあ、一緒に入りません? それなら逃げられないですし」
しばしの間、部屋の空気が音を無くした。何を思い浮かべたのか固唾を飲んでから、携帯電話の回線契約申し込みかと思うほどに、意思確認が入る。
「ふ、風呂の中まで一緒だぞ」
「はい」
「ハダカだって見るんだぞ!」
「ええ」
「浴槽だって一緒に入るからな!」
「ヴォルガさんさえ良ければ」
幾つかの合意を重ねた後に、ようやく締結へとあいなった。
脱衣所へ向かう間もどこか落ち着きない様子のヴォルガさん。じっとこちらを見たかと思うと、目が合った途端に視線を外す。口調は乱暴だが、僕のことを何かしら気にかけてくれているのだろうか。時折、天に向かって突き出した大きな耳が跳ねている。
「じゃ、じゃあ脱げよ……」
脱いだ服はそこのカゴに放り込んでおけ。そう言ったっきり黙りこくって僕の方をじっと見つめる。ああそうか、見張ると言った手前一緒に脱いでは僕に逃げられるかもしれないからな。逃げる気なんてこれっぽっちも浮かんでこないのに。
人前(いや狼前というべきか)で脱ぐのは多少なりとも抵抗感があるものの、銭湯や公衆のプールとさしてかわらないと思い直して服を脱いでいく。スーツのジャケットを脱ぐと、ワイシャツに染み込んだ汗の匂いが鼻をついて思わず顔をしかめてしまう。あのまま寝ていたら目も当てられないことになっていただろう。スーツは流石に洗濯する訳にもいかないと思いカゴの脇に避けて、ワイシャツ、Tシャツ、パンツと順繰りに脱いで、最後に靴下をカゴの中に入れた。
「あの?」
一糸まとわぬ姿となった僕とは対照的に、ヴォルガさんは未だに居酒屋然とした作務衣のまま。さすがに前掛けは厨房を出る際に脱いだようだが、すぐにでもまた料理を作れそうな程には乱れも無い。
「ヴォルガさん?」
じっと僕を睨みつけていたヴォルガさんがハッと気を取り直して頭を振る。
「さ、先に中に入ってろ!」
服の下に隠された毛並みが解放される様を少しだけ楽しみにしていたのだが、こう言われてしまっては仕方ない。まあ、お風呂の中でたっぷり見れるから問題ないのだけれども。いやあまりジロジロと眺めても失礼だろうから、頭を洗っている間に盗み見るぐらいが関の山かもしれないな。
言いつけ通りに浴室の中に入ると、さすがは狼男向けといったところだろうか。大人二人が入るには十分すぎる、僕の住んでいるワンルームの部屋よりも広いかもしれない空間が広がっていた。お風呂を借りる立場ながらも、温泉宿に来たような高揚感すら覚えてしまう。湯船から立ち上る湯気がちょっとしたサウナのようで深呼吸する。なんだろう、懐かしくて安心する匂い。……備え付けのシャンプーが僕が使っているものと同じだとテンションを上げたり、カビや抜け毛もなくピカピカの室内にため息を付いたり、手持ちぶさたのあまりウロウロと歩き回ったりと、当初想定していたよりも三倍以上の時間を過ごしているのだが、それでもまだ彼は現れない。
「あの~……」
痺れを切らして恐る恐る呼びかけてみる。
「っ! つ、つつ、浸かってていいからっ!」
あまりに焦った様子に、何かトラブルでもあったのかと脱衣所に戻ろうとすると、大声で拒絶されてしまった。一体どうしたのか、気になる。
普段はカラスの行水の僕にしてはたっぷりと時間をかけて丹念に身体を洗い、念のため断りを入れてから、足どころか身体を全部伸ばしてもまだ余裕のある湯船に浸かる頃合いになって、ようやく扉が開かれた。
なんて綺麗なんだ。腹側に向かうにつれて白さを増していく灰色の艶やかな毛並み。毛に覆われた上からでもわかるしなやかな筋肉。リンゴなんて丸ごと二つは握りつぶしてしまえそうな大きな手。床にがっしりとその身体を踏みとどまらせる足。二つの大木の間からダラリと垂れた太い尻尾。そして地面にくっつきそうな尻尾からそのまま視線を上げると……
「あ、あっ、あっち向いてろよっ!!」
「すっ、すみませんっ! あまりにも綺麗だったので……」
ねめつけるように見られたことが癪に障ったのか、唸り声混じりに怒鳴られて、思ったことをそのまま口に出してしまった。恩人に対しての非礼を心の中で何度も詫びながら、それでも水面越しに揺らめく一級の生ける芸術品に小さく感嘆のため息をついてしまう。
ヴォルガさんが言った、お代は命だというあの言葉は本気だったのだろうか。狼男なんていう人智を超えた存在なのだから、人間を食べたとしても不思議では無い。それでも、口調は少し乱暴だけれども、見知らぬ人間に、単なる食料品に対してここまで世話を焼いてくれるだろうか。人間を騙して餌食にしてやろうなんて下心があるようにはとても思えない。ああそれとも、やっぱりこれは白昼夢で、本当の僕は列車の中で蒸し殺されかけているか、森の中で野垂れ死かけていて、苦痛を紛らわせるためにこんな都合のいい夢を見ているだけなのだろうか。
「……オレも、入るぞ……」
思考の渦の中に意識を絡め取られていたところに呼び戻す声がかかる。
ちょっと前に詰めろと言われて少し身体を移動させると、ヴォルガさんが僕の後ろに回り込んで抱き抱えるように座った。物凄い勢いで湯船から溢れ出すお湯。二人で浸かっても十分過ぎるぐらいだと思っていたのに、その大きな身体がピタリと密着していく。湯船の縁に乗せられた太い腕。身体中をくすぐる濡れた毛と、一層熱を増したお湯。
なんだろう、こんな邪なことを考えちゃいけないのに、背中を叩くもう一つの鼓動が血圧を上昇させていく。ヴォルガさんは湯の温度が思ったよりも熱かったのだろうか、耳元に生暖かく荒い息が吹き付ける。
「あ、あついですね」
返事の代わりに息が大きく吐かれた。今にも逆上せてしまいそうになりながらも、熱すぎるほどの温もりに心が少しずつとろけ始めていく。こうして誰かと肌を密着させたことなんて大人になってからあっただろうか。
まだ抜けきっていないアルコールが少しだけ僕の勇気を後押しして、大胆で愚かしい考えが頭をよぎる。ヴォルガさんに嫌がられてしまうかもしれないという恐怖心もない訳ではなかった。もし罵声を浴びせられたらすぐに謝ろう。
そうして、ゆっくりゆっくりと、デジタルサーボモーターのように均一な速度を保ちながら体重を背中に預けていく。もっと肌を密着させたい、彼の身体に包み込まれたい。どうしようもなく甘えたくて、心の中で何度も言い訳を紡ぎながら……。
ぶにゅっ。
「ぎゃんっ!?」
ヴォルガさんの全身がビクリと跳ねて、大きな波が出来た。背中の中腹から尾骶骨辺りにかけて、中心部に芯を持ったゴムのような発熱体。それがナニかというのは百も承知ではあったが、念のため頭の中から人体図を引っ張り出してきて、オオカミの身体であることでの誤差も加味しながらコレの正体を推測する。まあ、そんなこと考えるまでもなくアレ、だよな。しかもさっきチラリと見た、いわゆる平常時というやつよりもサイズアップしている。心臓の裏から伝わるヴォルガさんの鼓動と連動するように、多量の血液を吸ったその器官が脈を打っている。例え男同士とはいえ、こういうのは紳士協定として触れずにスルーするべきか。
「ここ、こ、これは! お前が悪いんだぞっ!!」
その声だけで羞恥にまみれて赤面しているであろうことが手に取るように把握できた。グルル、と地響きのような低い唸り声を立てながらも決して密着した身体を離そうとはしなかった。
「あの、大きくなっちゃってますね……」
声にならない声をあげて悶絶するヴォルガさん。思わぬ本人の告白により見てみぬふりができなくなった今、今度は軽いノリの笑い話に変えようと試みたのだがあえなく失敗してしまった。密着している、その、ヴォルガさんの雄がより一層大きくなった気がした。
もしかして、もしかしてだけれど。希望的観測にすぎないかもしれないけれど。単に密着していることによる物理的な刺激で堅くしちゃっているだけだという可能性も否定できない。それでも、僕に、僕の身体に興奮しているのかもしれないと思うと、キャパシティを超えた脳みそがグニャリと視界を歪ませる。
「に、人間の……身体は嫌いですか?」
好きですか、と聞けないあたり僕は小心者なのだと痛感する。それでも、もはや遠慮なく股間を僕の背中に押し付けては、鼻面を髪の毛の中に突っ込んで匂いを嗅ぎまわるその行動が言葉なんて必要ないくらいに彼の心を現している。
「ああクソッ……笑いたきゃ笑えよ」
やぶれかぶれになって取り繕うことをやめたヴォルガさんの姿に胸が苦しくなった。報われない気持ちに違いないが、それでも、身体だけでも、彼の慰み者になってしまいたい。ああいやそうじゃない。僕自身が彼に求められたくてたまらない。
「ヴォルガ、さん」
恥ずかしいのは、みっともないのはヴォルガさんだけじゃない。僕だって、負けないくらいに、いやそれ以上に。
「見て……ください……」
足を閉じて隠していた浅ましい欲望の象徴を、肉欲の滾りを包み隠さず全て供物のように差し出した。恥ずかしい。気持ちいい。もっと見て欲しい。
ヴォルガさんが大きく唸ると水面に白波が立った。湯船にもたれかかっていたその腕が戸惑いがちに、狙い定めるように僕の身体を捕らえようと機会を窺っている。後頭部をまさぐっていた長い鼻面が、特等席で僕の痴態を目に収めようとして肩にのしかかる。このまま横を向けば、僕の唇が産毛のびっしり生えたマズルに触れられる距離。濡れそぼった毛先から雫が垂れて僕の身体を濡らす。横目に見えるオオカミの長いまつ毛と透き通った半球状の角膜。
それから、それから、視界の端からベンタブラックの染みが拡がって、全ての光を吸収していく……。
息苦しい。胸の上に漬物石が乗っているようだ。ユウレイ? 金縛り? 混乱する頭が外界からの刺激を受けて、人間のカタチを思い出して輪郭を象っていく。恐る恐る、まぶたに力を入れて目をこじ開ける。
三センチ先に、オオカミの頭が鎮座していた。どんなサファリパークでも見られないど迫力の光景に、本能的に身体を硬直させる。食われるっ……!
数拍置いた後、僕の胸に頭を乗せて、小さ過ぎる抱き枕に覆い被さって規則正しい寝息を立てるオオカミに気が付いた。ああ、そういうこと。そりゃああれだけ長い間浸かっていたら逆上せるわな。今後訪れるかわからないせっかくのチャンスをふいにした無念さと、オオカミに抱かれながらその寝顔を堪能できるという幸福と、心地よい寝苦しさを感じながら僕はもう一度目を閉じた。明日、ヴォルガさんにお店の仕事を教えてもらおう。上手く出来る自信は無いけれど、早く役に立てるように頑張ろう。それからどうしようか。遠足前夜の子供のように、頭の中に嬉しいことが溢れてきて、次第に夢の中へとまた落ちていった。
翌朝、お互いに全裸で抱き合っていたことに気が付いたヴォルガさんの大声で目が覚めたのは想定外だったけれど。
もう何年、この列車に乗り続けてきただろうか。書類鞄に詰め込んでいた緊張や野心といった類のものは、縫い目がほつれてくたびれていくうちに隙間からこぼれ落ちて消えてしまい、今はただぽっかりと開いた闇だけがその空間の大部分を占めている。
仕事はそれなりには順調で、見合っただけの賃金だって貰っている。身体だって三十代半ばにしては健康な方で、実家の両親も幸いなことに健在だ。十分恵まれていて、満たされている。これ以上望んだらバチが当たるかもしれない。
でも、それでも、もう何年も前から、心の底から笑ったり泣いたりした思い出が無かった。このまま、十年二十年とこの当たり障りのない生き方を続けた先には何が待っているというのか。十一階建てのマンションの一室で独居老人が孤独死。死後数ヶ月は経過しており、近隣住民が異臭に気付き発覚。そんな地方の新聞の記事にすら載らないありきたりの未来。僕は誰の為に、何を残そうとしているのだろう。
無機質な機械音声が降車のアナウンスを繰り返す。こんな事、考えても仕方ないさ。悲劇のヒロインぶってみたところで、何も特別な事は無い。みんな同じなんだから。愚鈍な頭で三十余年ばかしかけて気が付いたのは、自分はこの物語の主人公でも何でもない、ただのモブだという事なのだから。
開かれたドアから押し出されるようにホームに降り立つと、じっとりとした熱帯夜が身体中を舐め回した。いつものコンビニでビールと弁当を買って、ストリーミングサービスで小さい頃に夢中になったアニメでも眺めて、僅かばかりの現実逃避をしよう。そうしてまた数時間後に訪れる日常の中に組み込まれていくのだ。
改札口へと歩みを進めながら、ふと何気なく足を止めて天を仰ぎ見る。駅舎の屋根の合間から生える高層ビルの窓に、紅く歪な満月が張り付いていた。
自分では小心者だと思っていたけれど、意外と大胆な所もあるのだな。そう心の中で自嘲と呆れから来る笑いを押し留めて目を瞑る。向かいのホームの隅に停車していた一両編成の列車。行き先も発車時刻も見ずに、空席だらけのボックスシートに腰掛けて鞄を抱き締めた。座面から伝わるディーゼルエンジンの振動が眠気を誘う。非電化区間を走るローカル線ということであれば、かなり田舎の方に行くのだろう。恐らくはこれが終電かもしれない。今すぐ飛び起きてこの列車を降りれば、いつもの無機質だけれども平穏に満ちた日常に戻れるだろう。残業で溜まっていた眠気が噴き出して、微睡の中に思考は溶けていく。
次に意識が戻った時には、枕木を叩くゆりかごの音。どのくらい時間が経っただろうか。目を閉じたまま、明日は体調不良ということにして有給休暇を取ってしまおうと画策する。どうせ使いきれない程に貯まっているんだ。一日くらいズル休みしても大目に見てほしいところだ。それに明日は会議も入っていないし、別段急ぎの案件も無かった筈だ。ああよそう、そんなことを考えるのは……。
小さい頃に読んだ絵本。もうタイトルも忘れてしまって内容もぼんやりとしか覚えていないけれど、その中に出て来た悪いオオカミ。腹を空かせて森の中を彷徨いて、ウサギやシカを食べようとする度に、彼らは機転をきかせてオオカミを欺いて危機を脱する。悪いオオカミは最後には退治されて、森には平和が訪れる。その話は何度読み返しただろうか。今にして思えば、悪いことをすれば罰せられて仲間はずれになるから、身の回りの人たちに優しくしましょうといった類の寓話なのだから、作者だって別段オオカミが嫌いという訳では無かったのだろう。だけれど、まだ小学校にも上がる前の僕にとっては空腹に耐え忍び「はらがへった」と嘆くオオカミが不憫で仕方がなかった。テーブルの上に並んでいるスナック菓子を引っ掴んで絵本の中に飛び込んで、オオカミに食べさせてあげたかった。あのオオカミは、今も腹を空かせているのだろうか。
意識が鮮明になるにつれて、違和感が鎌首をもたげてくる。やたらと静かなのだ。自らが息を吐く音、身体を少し動かすと椅子が軋む音、耳鳴りの奥に聞こえる血潮の音。
瞼の裏で閃輝暗点がチカチカと踊り星座を形作る。その中でも一等明るい天狼星がストロボのように弾けてから、すべての星を飲み干した。ブラックホールにかかれば、光さえも脱することができないらしい。なんでも事象の地平面を超えたものは……
「…………は?」
目を開けると、闇、闇、暗闇。青白い月光の中にぼんやりと自分の手が浮かんでいた。
ぐるりと辺りを見渡してみる。車両の中には誰もおらず、死んだ鯨の腹の中のように冷房の切れた生温かさが充満している。スマートフォンを取り出してみる。時刻は0時を過ぎた辺り、しかも圏外。
やってしまった! 終電を過ぎて、おそらく車庫かどこかに回送されてしまったのだろう。運悪く車掌に起こされることもなく、見知らぬ土地に置き去りにされてしまったようだ。どうする、このまま車両の中で朝まで過ごせば駅員に呆れられながらもまた最寄りの駅まで戻ることが出来るだろう。だが、夜とはいえ真夏に冷房も無い車内は蒸し暑く喉もカラカラだ。何よりも晩ご飯も食べていない。スマートフォンは圏外で役に立ちそうにないが、少し歩けば電波の入るところに出られるかもしれない。見たところ人家の灯りも見えないから、コンビニエンスストアがある望みは少ないが、それでも自動販売機か、最悪駅に併設されたトイレの手洗い用の水で命を繋ぐことぐらいはできるだろう。
そうと決まれば、この車両から脱出しなければならない。電気は通っていないだろうから、ボタンを押しても無駄だろう。力を込めてドアをスライドする。ギギ、という音と共に僅かな隙間が出来た。よし、いける。
外に出た頃には、気温も手伝って汗だくになっていた。さすがに開けっ放しでは虫が入ったりするだろうからできる限りドアを閉めてから、ホームを見渡してみた。
車内に居た時は気を取られて気付かなかったが、虫の大合唱。オマケに遠くからは夜行性の鳥の鳴き声が不気味に響く。切り開かれた山間にへばり付くように作られたホームには電灯一つ無く、月明かりだけが唯一の光源となっていた。所謂秘境駅というやつだろうか。鉄道マニアなら小躍りするところだろうが、今の僕には恐怖の対象でしかなかった。
改札口を探してホームを探索する。錆びついた駅名標は極めて可読性が悪く、殆どの文字が判別不能になっていた。き……ら、ぎ?
まあ、ここがどこだっていいさ。駅前周辺に目ぼしいものがなければ、トイレと水分補給だけ済ませて車両の中で夜を明かすほうが懸命かもしれない。改札と思われる場所には駅舎もなくポツンと切符入れのポストのようなものが立っていた。これは望みが薄そうだ。正規の運賃がいくらなのかはわからなかったが、気持ちばかりと千円札を一枚放り込んで、改札の外に出てみる。鬱蒼とした森の中に続く一本の獣道。
少しだけ、少しだけ歩いてみて、何も無さそうならすぐに引き返そう。恐怖心がビリビリと背中を伝ってくるものの、どこか廃墟を探索しているかのような好奇心も同時に沸き上がってくる。こういう非日常のスリルを心の奥底で求めていたのかもしれないな。
スマートフォンのライトで照らしながら、森の中を進んでいく。子供の頃に林間学習で肝試しをしたのを思い出した。流石にオバケなんかは出てこないだろうが、危険な野生動物が出てくる可能性は否定できない。登山をする時、クマを避けるために物音を立てながら歩いた方が良いというが、この場合はどうするのが正解だろうか。
何も無い一本道をどのくらい歩いただろうか、暗闇の奥に星が一つ浮かんでいた。更に歩みを進めると、森が開けて建物の輪郭が見えてくる。集落だ!
はやる気持ちを抑えながら慎重に歩みを進める。そりゃあ駅があるんだから集落があるのは当たり前ではある。利用者がいなければ駅を作る意味なんて無いんだから。それよりも、いくら人家があったところで商業施設があるかというのは別問題だ。ここから見える灯りを見るに、十軒前後だろうか、これだけの小規模な村ではコンビニエンスストアはおろか、自動販売機だってあるかは怪しいだろう。おまけに何かしらの店があったとしても、こんな時間に開いているはずもなかろう。眠りについている村人を起こしてまで余所者が図々しい頼み事なんてとても……。
絶望感と、人工物を見ることができた安堵感とが入り混じりながら、少しだけこの村を眺めてから引き換えそうと決意する。こんな時間に不審者が彷徨いているところを見咎められとマズイだろう。
おおかみ亭
提灯に照らされた暖簾に書かれた文字。曇りガラスのドアからは光が煌々と漏れている。こんな時間に開いているんだ、きっと居酒屋か何かだろう。ビールの一杯と、あわよくば乾き物ぐらいにはありつけるかもしれない。あれほど渦巻いていた不安も、現金なことに下心へと昇華していく。
「すみません、まだやってますか?」
ドアを二度叩いてから、引き戸を開けて恐る恐る尋ねてみる。
「ああスマン、今日はもう…………っ!?」
よくホラー映画でモンスターが出て来た時に悲鳴をあげて逃げ惑う描写があるが、あんなのは嘘だ。現実に出くわしたら声すらも出す事は叶わない。
「なっ、なんでニンゲンが」
見開かれた金色の満月が二つ。オオカミの頭を持った人間。いや、人間のように二足歩行するオオカミというべきか? 出立ちはまさに居酒屋の大将といったところだが、まるで童話かアニメの中のように、オオカミだった。ああ、これは夢か?
「あの、長居はしないので、一杯だけいただけないでしょうか?」
たとえ夢の中でも礼節は大事だし、何よりもビールにありつけるかどうかは重要課題だ。
「はっ!? お、おま、オレ、見えてるよな?」
狼狽するオオカミに思わず笑みが溢れてしまう。こういう時は有無を言わさず襲って来たりするのがセオリーじゃないのか。サラリーマン生活が長かったから、こうして夢の中に出てくるモノも大人しくなってしまったのだろうか。
「はい、僕、オオカミすきなので」
口を半開きにして唖然とした表情。下顎から突き出た白いナイフのような犬歯の獰猛さとは裏腹に、コミカルに移り変わる十面相。
「……ほらよ。」
ジョッキに並々と注がれた黄金色のビール。ああこれこれ、空きっ腹にしみる。
「もう余りモンしかねえから、焼き飯ぐらいしか出せねえぞ」
「ホントですか! ありがとうございます!」
嬉しい誤算。深々と頭を下げると、その反動で腹の虫がグウと鳴る。
「お前、オレのことなんとも思わねえのか?」
カウンターの向こうでフライパンに油をひきながら、上目遣いにオオカミが僕を睨む。
「え? さっきオオカミ好きって言いませんでした?」
ため息をつきながらも料理人の手捌き。芳ばしい匂いが胃酸をじくじくと溢れさせる。
「あのな、コレ、遊園地の着ぐるみじゃねえぞ!」
そう言ってずいっと顔を近づけて僕を睨みつける。動物園のオオカミでもここまで近くで見たことは無いが、まさしく本物のオオカミと言って差し支えは無いだろう。高級絨毯のようにきめ細やかな毛並みに思わず見惚れてしまう。
「いや、ビビれよっ! バケモンだぞ! 狼男だぞ!?」
あ、そういうの、自分から言っちゃうスタイルなんだ。
僕の表情から心を読んだのか、オオカミは何かぶつくさと言いながらも手早く具材を炒めて焼き飯を作っていく。褐色のキミに出会える時が心から待ち遠しい。
「味は保証しねえからな」
そういって出された大盛りの、いや特盛りの焼き飯。狼男だから食べる量の基準が違うのだろうか。見たところ、ネギ系の野菜は入っていない。こういう所は夢のくせに変にリアルだな。
「うっ……うまっ、おいしい! めちゃ美味しいですよ!!」
極限まで腹が減っていたとか、ビールを飲んでいるからとか、そういうのを差し引いたとしても絶品だった。大味そうに見えて控えめな塩加減、角切りにされた肉の旨み、油っこさを中和する野菜の食感。これは無限に食える。言葉も忘れて一心不乱にかき込んでいく。普段ならこんな量絶対に食べられないのに、まるで米を飲むように腹の中に収めていく。全部食べてしまうのが勿体無い。なんて幸せなんだろう。現実の僕はどこか山奥で独り死にかけていたとしても、こんなに幸福な気持ちで果てるなら悪くはない。
あれ程あった山盛りの皿の底が見えて、歓喜の吐息を吐きながらカウンターの奥を見ると、神妙に見守っていたオオカミと目が合った。
「ごちそうさまでした!」
手を合わせて頭を下げる。
「お、おう、まあ、料理には結構自信あるんだぜ」
鼻をポリポリとかきながら嬉しそうなオオカミ。あくまで平静を装おうとしながらも口元はにへらと緩んでしまっている。そりゃあ料理人だもの、料理を褒められて嬉しくない訳がないよね。あ、料理狼というべきか?
そんな幸せな気分に浸りながらも、ふいにこの店の暖簾をくぐった時の事を思い出す。そうだ、もう店仕舞いという所に無理矢理頼み込んだのだった。
「あの、すみません。一杯だけと言いながらご馳走になってしまって……お勘定を……」
それまで上の空だったオオカミが、何かを思い出したようにハッと目を見開いた。カウンターの奥から乗り出して、それまで緩んでいた口元を引き締め、これ見よがしに唇を捲れ上がらせて犬歯を見せつける。
「お代は、お前の命……と言ったらどうする?」
怪しく笑う口元。獲物を射て殺す眼光。背筋にピリッと電撃が走る。僕が取るべき行動はもう決まっていた。そう、決まってたんだ。
「はい、どうぞ」
そう言ってオオカミの口元に腕を差し出した。痩せっぽっちのこんな身体じゃきっと美味しくは無いだろうけど。それでも、それでも、少しでもこのオオカミが、腹を空かせたオオカミが満たされるのなら僕は本望だ。痛いのも、怖いのも嫌だけれど、アルコールも手伝って気の大きくなった今なら、ガブリといかれても未練は無いさ。
痛みに備えて目をぎゅっとつぶる。痛いのは初めだけ、すぐに許容量を超えた刺激を脳が遮断してくれる。誰の役にも立たない人生だと思っていたけれど、こうしてオオカミの血肉に…………
いくら待てども、皮膚を破り血管を千切る衝撃は来ない。あるいはもう死んでしまったのか? 思ったよりも呆気なかったな。それにしては、オオカミのグルルという唸り声は聞こえるし、腕の毛を鼻息がくすぐる感触は止まない。不思議に思って目を開けると、オオカミは唸りながら僕の腕を睨みつけ、匂いをクンクンと嗅いでいる。
「……あの?」
悪戯が見つかった子供のような顔をして、オオカミは僕の目を見てから、ふいっと顔を逸らした。
「ふ、太らせて食ったほうがうまそうだからな」
そりゃあまあ、ごもっともだけど。
「明日から店の仕事もやらせるからな、こき使ってやるんだからな!」
無銭飲食する訳にはいかないから、労働という対価を支払うことについては何の異論も無い。
「はい、ふつつかものですが」
なんだか嫁入りみたいな台詞だな。苛立っているのだろうか、オオカミの尻尾は厨房に並んだ調理器具をひっくり返してしまわんばかりに暴れている。
「……ヴォルガ」
聞き慣れぬ単語に首を傾げる。
「ヴォルガ! オレの名前!」
吠えるように大声を立てる。そんな声出したら近所の人起きちゃうんじゃないのか。
「上代、上代 賢一です。よろしくお願いします、ヴォルガさん」
調子狂うわ。そう小声で言いながら洗い物をするオオカミ。せめて自分の使った食器くらいはとカウンターの中に入ろうとすると、毛を逆立てて「いいから座ってろ!」言うものだから、スポンジを握る大きな手をぼんやりと見つめていた。
「べ、ベッドは一つしかねえ、からな!」
満腹の腹をさすりながら寝室に案内されるなり第一声。
「? はい、床で寝ますよ?」
頭を手で押さえてブンブンと振るヴォルガさん。何か選択肢を誤ったか。板張りの床で横になるのは決して快適とは言えないが、雨風をしのげるところで休ませて貰えるだけでもありがたいのだ。特にこんな真夏の夜に外で寝たら、翌朝は身体中虫に刺されてしまうだろうし。
「お前が逃げないように、見張らないといけないからな」
そう自分自身に言い聞かせるように呟き、うんうんと独りで勝手に納得し始めた。いや、別に逃げるきなんてさらさら無いんだけど。
「ほ、ほら、お前はそっちの奥な!」
顎をしゃくってベッドの壁に面した方で寝ろと促す。これだけ身体中もさもさな毛に覆われているのだから、ベッドの上はさぞかし大変な惨状になっているのかと思いきや、抜け毛一つなく新品のようだった。料理人だけあってこの辺りは神経をつかっているのだろうか。
となると……。自分の腕を持ち上げてシャツの匂いを嗅いでみる。うん、汗臭い。予想外の展開の連続ですっかり忘れていたが、あの列車の中にいた時も暑くて汗だくだったし、そこから森の中を歩いたせいで、とてもじゃないが人様のベッドに上がれる状態では無い。オオカミやイヌは嗅覚が特別に発達していると言うし、ヴォルガさんも僕のことを臭いと思っているのではなかろうか。途端に恥ずかしさが込み上げてくる。
「あ、あの」
とっとと寝ろ! と言わんばかりに睨みつける顔。ビールも、ご飯も食べさせてもらって、寝床まで提供してもらった挙句に入浴まで要求するのは図々しさも極まっているものの、このまま彼のベッドを汚してしまうのも憚られた。
「あの、厚かましいお願いなんですが、お風呂に入らせて頂けないでしょうか……身体中汗臭いし……気付かなくてすみません」
「べっ、別にっ、そのままのが、いやそのままでもいいぞ!」
そうは言われても。自分の体臭には気付き難いとはいっても、一度気になってしまうと余計に意識してしまう。そんなこと言って、やっぱり逃げるつもりだろうと疑心暗鬼の目で一歩も譲らないヴォルガさんとしばらく小競り合いを続けた結果。
「じゃあ、一緒に入りません? それなら逃げられないですし」
しばしの間、部屋の空気が音を無くした。何を思い浮かべたのか固唾を飲んでから、携帯電話の回線契約申し込みかと思うほどに、意思確認が入る。
「ふ、風呂の中まで一緒だぞ」
「はい」
「ハダカだって見るんだぞ!」
「ええ」
「浴槽だって一緒に入るからな!」
「ヴォルガさんさえ良ければ」
幾つかの合意を重ねた後に、ようやく締結へとあいなった。
脱衣所へ向かう間もどこか落ち着きない様子のヴォルガさん。じっとこちらを見たかと思うと、目が合った途端に視線を外す。口調は乱暴だが、僕のことを何かしら気にかけてくれているのだろうか。時折、天に向かって突き出した大きな耳が跳ねている。
「じゃ、じゃあ脱げよ……」
脱いだ服はそこのカゴに放り込んでおけ。そう言ったっきり黙りこくって僕の方をじっと見つめる。ああそうか、見張ると言った手前一緒に脱いでは僕に逃げられるかもしれないからな。逃げる気なんてこれっぽっちも浮かんでこないのに。
人前(いや狼前というべきか)で脱ぐのは多少なりとも抵抗感があるものの、銭湯や公衆のプールとさしてかわらないと思い直して服を脱いでいく。スーツのジャケットを脱ぐと、ワイシャツに染み込んだ汗の匂いが鼻をついて思わず顔をしかめてしまう。あのまま寝ていたら目も当てられないことになっていただろう。スーツは流石に洗濯する訳にもいかないと思いカゴの脇に避けて、ワイシャツ、Tシャツ、パンツと順繰りに脱いで、最後に靴下をカゴの中に入れた。
「あの?」
一糸まとわぬ姿となった僕とは対照的に、ヴォルガさんは未だに居酒屋然とした作務衣のまま。さすがに前掛けは厨房を出る際に脱いだようだが、すぐにでもまた料理を作れそうな程には乱れも無い。
「ヴォルガさん?」
じっと僕を睨みつけていたヴォルガさんがハッと気を取り直して頭を振る。
「さ、先に中に入ってろ!」
服の下に隠された毛並みが解放される様を少しだけ楽しみにしていたのだが、こう言われてしまっては仕方ない。まあ、お風呂の中でたっぷり見れるから問題ないのだけれども。いやあまりジロジロと眺めても失礼だろうから、頭を洗っている間に盗み見るぐらいが関の山かもしれないな。
言いつけ通りに浴室の中に入ると、さすがは狼男向けといったところだろうか。大人二人が入るには十分すぎる、僕の住んでいるワンルームの部屋よりも広いかもしれない空間が広がっていた。お風呂を借りる立場ながらも、温泉宿に来たような高揚感すら覚えてしまう。湯船から立ち上る湯気がちょっとしたサウナのようで深呼吸する。なんだろう、懐かしくて安心する匂い。……備え付けのシャンプーが僕が使っているものと同じだとテンションを上げたり、カビや抜け毛もなくピカピカの室内にため息を付いたり、手持ちぶさたのあまりウロウロと歩き回ったりと、当初想定していたよりも三倍以上の時間を過ごしているのだが、それでもまだ彼は現れない。
「あの~……」
痺れを切らして恐る恐る呼びかけてみる。
「っ! つ、つつ、浸かってていいからっ!」
あまりに焦った様子に、何かトラブルでもあったのかと脱衣所に戻ろうとすると、大声で拒絶されてしまった。一体どうしたのか、気になる。
普段はカラスの行水の僕にしてはたっぷりと時間をかけて丹念に身体を洗い、念のため断りを入れてから、足どころか身体を全部伸ばしてもまだ余裕のある湯船に浸かる頃合いになって、ようやく扉が開かれた。
なんて綺麗なんだ。腹側に向かうにつれて白さを増していく灰色の艶やかな毛並み。毛に覆われた上からでもわかるしなやかな筋肉。リンゴなんて丸ごと二つは握りつぶしてしまえそうな大きな手。床にがっしりとその身体を踏みとどまらせる足。二つの大木の間からダラリと垂れた太い尻尾。そして地面にくっつきそうな尻尾からそのまま視線を上げると……
「あ、あっ、あっち向いてろよっ!!」
「すっ、すみませんっ! あまりにも綺麗だったので……」
ねめつけるように見られたことが癪に障ったのか、唸り声混じりに怒鳴られて、思ったことをそのまま口に出してしまった。恩人に対しての非礼を心の中で何度も詫びながら、それでも水面越しに揺らめく一級の生ける芸術品に小さく感嘆のため息をついてしまう。
ヴォルガさんが言った、お代は命だというあの言葉は本気だったのだろうか。狼男なんていう人智を超えた存在なのだから、人間を食べたとしても不思議では無い。それでも、口調は少し乱暴だけれども、見知らぬ人間に、単なる食料品に対してここまで世話を焼いてくれるだろうか。人間を騙して餌食にしてやろうなんて下心があるようにはとても思えない。ああそれとも、やっぱりこれは白昼夢で、本当の僕は列車の中で蒸し殺されかけているか、森の中で野垂れ死かけていて、苦痛を紛らわせるためにこんな都合のいい夢を見ているだけなのだろうか。
「……オレも、入るぞ……」
思考の渦の中に意識を絡め取られていたところに呼び戻す声がかかる。
ちょっと前に詰めろと言われて少し身体を移動させると、ヴォルガさんが僕の後ろに回り込んで抱き抱えるように座った。物凄い勢いで湯船から溢れ出すお湯。二人で浸かっても十分過ぎるぐらいだと思っていたのに、その大きな身体がピタリと密着していく。湯船の縁に乗せられた太い腕。身体中をくすぐる濡れた毛と、一層熱を増したお湯。
なんだろう、こんな邪なことを考えちゃいけないのに、背中を叩くもう一つの鼓動が血圧を上昇させていく。ヴォルガさんは湯の温度が思ったよりも熱かったのだろうか、耳元に生暖かく荒い息が吹き付ける。
「あ、あついですね」
返事の代わりに息が大きく吐かれた。今にも逆上せてしまいそうになりながらも、熱すぎるほどの温もりに心が少しずつとろけ始めていく。こうして誰かと肌を密着させたことなんて大人になってからあっただろうか。
まだ抜けきっていないアルコールが少しだけ僕の勇気を後押しして、大胆で愚かしい考えが頭をよぎる。ヴォルガさんに嫌がられてしまうかもしれないという恐怖心もない訳ではなかった。もし罵声を浴びせられたらすぐに謝ろう。
そうして、ゆっくりゆっくりと、デジタルサーボモーターのように均一な速度を保ちながら体重を背中に預けていく。もっと肌を密着させたい、彼の身体に包み込まれたい。どうしようもなく甘えたくて、心の中で何度も言い訳を紡ぎながら……。
ぶにゅっ。
「ぎゃんっ!?」
ヴォルガさんの全身がビクリと跳ねて、大きな波が出来た。背中の中腹から尾骶骨辺りにかけて、中心部に芯を持ったゴムのような発熱体。それがナニかというのは百も承知ではあったが、念のため頭の中から人体図を引っ張り出してきて、オオカミの身体であることでの誤差も加味しながらコレの正体を推測する。まあ、そんなこと考えるまでもなくアレ、だよな。しかもさっきチラリと見た、いわゆる平常時というやつよりもサイズアップしている。心臓の裏から伝わるヴォルガさんの鼓動と連動するように、多量の血液を吸ったその器官が脈を打っている。例え男同士とはいえ、こういうのは紳士協定として触れずにスルーするべきか。
「ここ、こ、これは! お前が悪いんだぞっ!!」
その声だけで羞恥にまみれて赤面しているであろうことが手に取るように把握できた。グルル、と地響きのような低い唸り声を立てながらも決して密着した身体を離そうとはしなかった。
「あの、大きくなっちゃってますね……」
声にならない声をあげて悶絶するヴォルガさん。思わぬ本人の告白により見てみぬふりができなくなった今、今度は軽いノリの笑い話に変えようと試みたのだがあえなく失敗してしまった。密着している、その、ヴォルガさんの雄がより一層大きくなった気がした。
もしかして、もしかしてだけれど。希望的観測にすぎないかもしれないけれど。単に密着していることによる物理的な刺激で堅くしちゃっているだけだという可能性も否定できない。それでも、僕に、僕の身体に興奮しているのかもしれないと思うと、キャパシティを超えた脳みそがグニャリと視界を歪ませる。
「に、人間の……身体は嫌いですか?」
好きですか、と聞けないあたり僕は小心者なのだと痛感する。それでも、もはや遠慮なく股間を僕の背中に押し付けては、鼻面を髪の毛の中に突っ込んで匂いを嗅ぎまわるその行動が言葉なんて必要ないくらいに彼の心を現している。
「ああクソッ……笑いたきゃ笑えよ」
やぶれかぶれになって取り繕うことをやめたヴォルガさんの姿に胸が苦しくなった。報われない気持ちに違いないが、それでも、身体だけでも、彼の慰み者になってしまいたい。ああいやそうじゃない。僕自身が彼に求められたくてたまらない。
「ヴォルガ、さん」
恥ずかしいのは、みっともないのはヴォルガさんだけじゃない。僕だって、負けないくらいに、いやそれ以上に。
「見て……ください……」
足を閉じて隠していた浅ましい欲望の象徴を、肉欲の滾りを包み隠さず全て供物のように差し出した。恥ずかしい。気持ちいい。もっと見て欲しい。
ヴォルガさんが大きく唸ると水面に白波が立った。湯船にもたれかかっていたその腕が戸惑いがちに、狙い定めるように僕の身体を捕らえようと機会を窺っている。後頭部をまさぐっていた長い鼻面が、特等席で僕の痴態を目に収めようとして肩にのしかかる。このまま横を向けば、僕の唇が産毛のびっしり生えたマズルに触れられる距離。濡れそぼった毛先から雫が垂れて僕の身体を濡らす。横目に見えるオオカミの長いまつ毛と透き通った半球状の角膜。
それから、それから、視界の端からベンタブラックの染みが拡がって、全ての光を吸収していく……。
息苦しい。胸の上に漬物石が乗っているようだ。ユウレイ? 金縛り? 混乱する頭が外界からの刺激を受けて、人間のカタチを思い出して輪郭を象っていく。恐る恐る、まぶたに力を入れて目をこじ開ける。
三センチ先に、オオカミの頭が鎮座していた。どんなサファリパークでも見られないど迫力の光景に、本能的に身体を硬直させる。食われるっ……!
数拍置いた後、僕の胸に頭を乗せて、小さ過ぎる抱き枕に覆い被さって規則正しい寝息を立てるオオカミに気が付いた。ああ、そういうこと。そりゃああれだけ長い間浸かっていたら逆上せるわな。今後訪れるかわからないせっかくのチャンスをふいにした無念さと、オオカミに抱かれながらその寝顔を堪能できるという幸福と、心地よい寝苦しさを感じながら僕はもう一度目を閉じた。明日、ヴォルガさんにお店の仕事を教えてもらおう。上手く出来る自信は無いけれど、早く役に立てるように頑張ろう。それからどうしようか。遠足前夜の子供のように、頭の中に嬉しいことが溢れてきて、次第に夢の中へとまた落ちていった。
翌朝、お互いに全裸で抱き合っていたことに気が付いたヴォルガさんの大声で目が覚めたのは想定外だったけれど。
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・下剋上っぽい関係
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