64 / 64
五歳編
六十一話 絶望 (香苗)
しおりを挟む豪雨が降り注ぐ中、香苗は森を進んでいた。草花が無造作に生い茂り、豪雨の影響で泥濘も多い。走りにくい状況だったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。道を塞ぐように樹木が倒れ、進路を妨害されようが臆することなく突き進んだ。
障碍物を物ともせずに猛スピードで駆け抜ける。もっと早く。もっとだ。時間は限られている。香苗は焦燥感を隠そうともしなかった。
普段は冷静沈着な香苗だが、今回ばかりは慌てずにはいられなかった。暗闇で視界も悪い。木々の枝が頬を引っ掻け、傷ができても気にする余裕もなかった。早くしないと響子様の命が危ない。焦り、緊張、不安。様々な思いが脳裏を駆け巡った。
公道を走っていたら間に合わない可能性があった。だからこそ最短距離である森の中を、ひたすらに走った。もはや、何が正しい選択なのか分からなかった。正常な判断ができているのか疑問だった。思考が働かない状態のまま疾走を続ける。
寒さも忘れるくらい必死だった。左腕の痛みを忘れるくらい混乱していた。今は一分、一秒を争う。まさに死力を尽くしていた。体力の温存、氣の温存、もはや何も考えていなかった。森を抜けると、山を貫く主要道路が見えてきた。
「はぁはぁ……」
呼吸を荒げながらも曲がりくねった山道を急いで上り、ガードレールを飛び越えた。道路に降り立った香苗は、急いで隣町にまで向かう。道路を真っ直ぐに進むと、車のテールランプの灯りが見えた。時間帯も遅いのに道路が渋滞していた。
車の隙間を縫うように走り、様子を窺うと途中で道路が無くなっていた。高熱で溶かされたかのように、道路が溶岩と化していた。あちこちで土砂崩れが起こり、森が轟々と焼かれていた。激しい戦闘が行われていた傷痕が、あちこちに残されていた。
すぐに松衛の仕業だと察しがついた。途切れた道路の先には沢山の人が集まっていた。携帯電話で通話をしている人がいたり、面白半分に写真を撮影している者までいた。混乱していた香苗だったが、沢山の人が慌てる姿を見て、冷静さを取り戻した。
「お嬢ちゃん。そこから先は危険だ。行かない方が良い」
車から降りてきた老年の男性に話し掛けられた。白髪交じりの長髪が印象的な老人だった。大きな杖で身体を支えていた。老人からは異質な雰囲気を感じ取ったが、今はそれどころではなかった。早く助けを呼びに行かないと、取り返しのつかない事態に発展しかねない。今は立ち止まっている時間はない。無力な自分に涙が出てきた。
「ええ、でも急用があるのです。心配してくれてありがとうございます」
「ちょ……待たんか。それ以上先に進むのは危険だ」
老年の男性の制止を振り切り、道路脇の森を進んだ。遠回りになるが、選択の余地がなかった。老人のお蔭で少しだけ心にゆとりが生まれた。思考も働くようになっていた。携帯電話を取り出すが、電源が入らなかった。先程の戦闘で壊れたみたいだ。
本当は信護と連絡を取りたい状況だが、どこに出掛けたのか把握していなかった。携帯電話も使えない状況になり、自力で助けを呼びに行くしかない。一番近くにいるのは分家の当主である政宗と雄介だ。まだ啓二の自宅で家宅捜査をしているはずだ。
「はぁはぁ……急がなきゃ……」
木々の枝を飛び移るように移動し、森を駆け抜けた。凄まじい速度で疾走する香苗は、あっという間に途切れた道路の反対側に出ることができた。反対側も車で混雑していたが、気にしている余裕はなかった。道路沿いを進もうとしたその時だった。
黒塗りのリムジンが渋滞に嵌っているのが視界に入った。信護が乗っていたリムジンだと気付いた香苗は、慌てて駆け寄った。
「信護様っ……大変です。緊急事態です!!」
香苗は大きな声を張り上げた。周りの目を気にしている余裕はなかった。リムジンの助手席のドアが開き、伸彦が降りてきた。香苗の切羽詰まった状態を見て、驚いている様子だったが、すぐに緊急事態だと悟ったようだった。
「香苗さん。何があったのです?」
「信護様はいますか?」
「信護様は本堂院家の屋敷に向かわれました」
「そんな……」
「なにがあったのです?それに左腕は……」
「敵の襲撃を受けました。響子様が危ない状況なのです」
「落ち着いて下さい。とりあえず車に乗って下さい」
「はい……」
伸彦は後部座席のドアを開けると、香苗を車に乗せた。後部座席は対面式になっており、紅葉、誠一、響の三人が座っていた。紅葉も誠一も疲労を隠せていなかった。その上、響は具合が悪そうに呼吸を荒げながら気絶していた。
「香苗さん。左腕が……」
紅葉が香苗の左腕に気付き、驚きの声を上げる。香苗は呼吸を整える余裕もないのか、慌てた様子だった。普段は冷静な香苗が慌てふためく姿を見て、重大な事件が起こったことを悟った。紅葉は何と声を掛ければ良いのか、戸惑いを隠せなかった。
「今はそれどころではありません。響子様が危ないのです」
「な……何があったのです?」
「敵の襲撃を受けたのです」
「落ち着いて下さい。敵の数は?」
「生き残っている敵は二人だけです。その二人は私の能力では手も足も出せないぐらい強く、犠牲も沢山出してしまいました。すみません。私が未熟だったせいで……早くしないと響子様が……伸彦さん。早急に屋敷に戻って下さい。伸彦さんと私が向かえば何とかなるかもしれません。いえ、必ずや響子様をお救いしないと」
香苗は混乱しながらも一生懸命に説明する。香苗の説明はあやふやではあったが、言いたいことは全員が理解したようだった。一刻も早く自宅に戻る必要がある。
「分かりました。急いで向かいましょう。香苗さんは治療に専念して下さい」
「はい……すみません」
香苗は伸彦に事の経由を説明すると、治療を始めた。左腕に巻いた布は朱に染まり、身体も冷え切っていた。体力と氣も消耗が激しかった。少しでも回復できるように休息に専念しなければならない。でなければ再び戦闘になった時に役に立たない。
「車を出して下さい。」
「ですが、この渋滞では車を動かすこともできません。それに前方の道路は途中で途切れています。Uターンして迂回した方が良いと思います」
「いえ、時間はあまりないようです。そのまま前進して下さい。私の能力で空間に切れ目を入れ、向こう側の空間と繋ぎます。心配は無用です。私を信じて下さい」
「分かりました」
助手席に座る信彦は運転手に指示を出すと、魔術を展開させた。リムジンの前方の空間に切れ目が生じ、向こう側の道路に繋がった。リムジンは空間の裂け目を通過すると、向こう側の道路に出た。まるでワープしたように移動した。
「香苗さん、自宅に到着するまで二十分も掛からないと思います。腕の治療は間に合いますか?敵は強大のようですし、私一人では分が悪いです」
「今、紅葉様が治癒の魔術を施してくれています。血は止まったので大丈夫です」
「怪我人の香苗さんに無理を強いるのは気が引けますが、耐えて貰うしかないです」
「ええ、分かっています」
「敵の情報を詳しく知りたいです」
「敵のリーダー格の男は肇と呼ばれていました。もう一人は老年の男性で松衛を呼ばれていました。肇と呼ばれていた男は、放出系で風を操る魔術師でした。天候も操っていたので複数の系統、もしくは複数の属性を操る可能性があります」
「もう一人の男性は?」
「松衛と呼ばれていた男性は放出系で炎に特化した魔術師です。防御不可の炎は強烈でした。対象物が燃え尽きるまで炎が消えない性質らしく、響子様が繰り出した水の魔術でさえも効き目がありませんでした」
「なるほど。詳しい説明をありがとうございます。今、天候が荒れているのも敵の魔術せいですか……厄介な敵ですね。響子様の救出を優先させましょう」
「はい。ですが一つ問題が……」
「問題とは?」
「敵の目的は響子様が契約している精霊の確保らしく、精霊が中途半端な状態で顕現してしまったようなのです。そのため、精霊の意識が混乱しているのです。いえ、暴走していると言った方が正しい表現かもしれません」
「精霊ですか……実際に存在するとは……ですが、信じるしかないようですね。香苗さんは響子様の救出を優先させて下さい。精霊は私が何とかしますので」
香苗と伸彦が会話をしているうちに車は、猛スピードで自宅に向かっていた。時間帯も遅いこともあり、道路には車の姿も人の姿もなかった。気付いたら車内は静かになっていた。エンジンの音でさえも聞こえない。これから戦闘が始まる。
全員が気を引き締めていた。窓から見渡す景色が流れるように移り変わり、あっという間に自宅に到着した。香苗と伸彦は急いで車を降りた。辺りは物静かで戦闘している音は聞こえなかった。香苗は嫌な予感を感じながらも、響子を捜した。
「響子様!?どこにいらっしゃいますか?返事をして下さい」
「香苗さん、あちらに人の気配を感じます」
「急ぎましょう」
あちこちに激しい戦闘が行われていたと思わせる傷痕が残されていた。地面は抉れ、樹木は薙ぎ倒され、火の手が上がっていた。まるで被災地を見ているようだった。人の気配を感じた方向に、慌てて進んだ。すると、地面に横たわっている女性の姿が視界に入った。すぐに響子だと悟った香苗と伸彦は、慌てて駆け寄った。
近付いてみると、響子の姿をはっきりと見ることができた。響子は目を瞑り、ぐったりとしていた。香苗はすぐに応急措置を施そうとするが、響子の身体が冷たくなっていることに気付いた。そんなまさか……。
「響子様!!そんな……」
「響子様!」
既に響子は息をしていなかった。身体は冷たくなっており、生気を感じることができない。心臓を抉られたのか、胸には大きな穴が開いていた。それでも香苗は諦めることができなかった。急いで人工呼吸と心臓マッサージを始める。響子の死を受け入れることができなかった。現実を受け入れる勇気がなかった。
「響子様……響子様!!響子様……」
「香苗さん……」
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
*不快であれば閉じてください。
結婚式をボイコットした王女
椿森
恋愛
請われて隣国の王太子の元に嫁ぐこととなった、王女のナルシア。
しかし、婚姻の儀の直前に王太子が不貞とも言える行動をしたためにボイコットすることにした。もちろん、婚約は解消させていただきます。
※初投稿のため生暖か目で見てくださると幸いです※
1/9:一応、本編完結です。今後、このお話に至るまでを書いていこうと思います。
1/17:王太子の名前を修正しました!申し訳ございませんでした···( ´ཫ`)
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる