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騎士団は魔女を放さない
恋は難儀なもの
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「まだ食べ切らないのか?」
「こんなに美味しいもの、もったいないです」
美味しいものを食べていると、人は自然と、無言になってしまう。エルートと会話を交わす余裕もなく、ケーキとお茶を、交互に口にする。最高の時間は、飛ぶように過ぎて行った。感動的な美味しさに心を奪われ、最後のひと口を前に名残惜しく粘る私を見て、エルートが笑った。
「そう惜しまずとも、また来よう。気に入ってくれて良かった」
私は諦めて、最後のかけらを頬張る。甘いクリームがふわりと溶け、生地は時間差でなくなる。果物だけが残り、噛み締めると、じゅわりと甘酸っぱい果汁が染み出る。
お茶を口に含むと、舌に残った甘みが程よく消える。飲み込むと、お茶の香ばしさがしみじみと抜けた。
「……ご馳走様でした」
これほどに気持ちの込もった食後の挨拶を、私は初めてしたかもしれない。
「本当に美味しかったです。こんなに美味しいケーキ、生まれて初めて食べました」
「良い場所だよな。俺も初めて来た時、こんなに美味しい甘味があるのかと衝撃を受けた。それまで、甘いものは嫌いだったんだ」
エルートには「甘いものは苦手」という言葉がよく似合う。彼を変えた、甘いケーキ。手作りのケーキの素朴な味わいとは全く違った、繊細で感動的な味だった。
「エルートさんは、どうしてこのお店をご存知なんですか?」
「養父の紹介だ」
「ようふ……ああ、養父」
聞き慣れない言葉を口の中で繰り返し、その意味がわかる。養い親。
彼は幼くして、魔獣の襲撃により、両親を亡くしている。幼い彼がここまで成長するために、面倒を見た養い親がいるはずだ。
「俺の養父は、先代の騎士団長なんだ。父の、騎士としての死に様を高く評価し、俺を引き取ってくれた。養父の推薦で、俺は騎士団の試験を受けた」
私は、騎士団長と聞いて、現在の団長であるガムリを思い出す。目の前にすると背筋を正さざるを得ない、並々ならぬオーラを持つ団長。先代の団長は知らないが、同様に常人離れした雰囲気があったことだろう。
エルートは、そんな凄い人に育てられたのか。テーブルの広さは同じなのに、懐かしい目で語るエルートが、いやに遠のいて見えた。
「俺の世話をしたのは下女で、養父にも養母にも、会ったことはほとんどない。ただ、騎士となった日、養父が祝ってくれたのがこの店だ。それから、俺も通っている」
騎士になったばかりの彼は、どんな人だったのだろう。店内を見渡して想像しようとしたが、何も浮かんで来なかった。十歳ほど若返ったエルートを想像しようとしてみても、今ひとつピンと来ない。彼の過去の話は、私の知る世界と違いすぎる。
当然だ。彼は立派な騎士で、私は庶民。分かり合える過去など、何ひとつない。
「ただ……他人を連れてきたのは初めてだな」
いろいろと考え込んでいた頭は、エルートの呟きであっという間に喜びに染まる。
それは、どういう意味なのだろう。勘違いして舞い上がりそうになる心を、深呼吸して落ち着ける。特別な意味が、あるはずがない。
「ニーナの親はどんな人なんだ?」
「私の親ですか?」
エルートが、私の親に興味を持つなんて思わなかった。一瞬驚き、話すことなんてないと迷った。私の過去の話など聞いても、エルートは何も理解できないだろう。
逡巡してから、母のことを話せばいいのだと思い当たる。レガットもエルートも、私の「魔法」を求めている。私の鼻は母譲り。その話を、きっと聞きたいはずだ。
「私の母は、私と同じように勘が良いんです。故郷で『占い師』を名乗って、たくさんの人を笑顔にしていました。私とは違って、多くの人の役に立って、時には心も救う、そんな素敵な母です」
「母は『占い師』で、娘は『魔女』か。面白い」
面白い、と言われると胸が痛む。彼が私に抱いている感情は、「面白い」ということだけ。わかってはいても、改めて伝えられると辛い。
興味を持たれている事実に、ありがたく感謝すれば良いのに。それ以上を求める私の心は、なんて身の程知らずなんだろう。
「父親は?」
「父ですか? 父は、優しい人でした。母が占い師なんて不思議な仕事をしていても、家にお客さんが連日押し寄せても、夕食で薬草が出てきても、いつもにこにこして応援していました。私も、よく『ニーナの好きにするといい』と言われて、伸び伸びと育ててもらいました」
口にすると、懐かしさが込み上げてくる。
母と父の関係は、素敵なものだった。喧嘩もするが、お互い尊敬しあっていた。カプンの町長、ルカルデとエマもそうだ。理想の夫婦とは、あのように、互いに尊重しあい、支え合うものだ。
「なんとなくわかった。君は幸せに育ったから、人の幸せのために働けるんだな」
エルートの言葉がしんみりと響く。
一理あると思った。両親や祖父母に、惜しみなく愛を注がれた故郷での暮らしは、確かに幸せだった。私の心の土台には、故郷での幸せな暮らしが、しっかりと根付いている。
「……ありがとうございます」
家族を褒められ、どう返事をしたらいいのかわからなくて礼を言うと、エルートは緩く微笑んだ。優しくて、切なげな表情。なんとも言えない表情に、はっとする。
彼には両親がいないのだ。養父、養母ともほとんど会わなかったと言っていた。そんなこと考えもせず、のんきに、両親の幸せな話などしてしまった。エルートに嫌な思いをさせたかもしれない。
「申し訳なくなんて、思わなくて良い」
「え……」
「君は表情が、目に出るんだ。大丈夫、俺の幼少期も幸せなものだった。君が想像するような、悲惨なものではない」
心の内を言い当てられ、どきりとする。エルートは悪戯っ子のように笑った。
「お茶が垂れているぞ」
「えっ!」
今度こそ、動揺の声が出た。見下ろすと、ワンピースの白い胸元に、一滴の茶色い染みができている。いつ紅茶をこぼしたのか、自覚がなかった。
「どうしましょう、ごめんなさい、素敵な服が……」
「案じるな。俺が染み抜きをするから、動かなくていい。……ありがとう」
エルートが礼を言ったのは、店の男性がそっと、水の入ったコップを差し出したからだ。懐から取り出した黒い布に水を染み込ませ、硬く絞る。布を片手に近寄ると、エルートは、私の胸元の染みを布で軽く叩いた。
彼の金髪が、私の目の前で揺れている。騎士様をこんな風に見下ろして、服の染み抜きをさせるなんて、罰が当たりそうだ。そわそわした気分でいるうちに、エルートが離れる。お茶の染みは消え、真っ白な布が現れた。水の跡は残っているが、乾けば消えるだろう。
「うん、もう大丈夫だ」
「ありがとうございます……!」
贈ってもらった高級そうな服を、汚さずに済んでほっとした。エルートは軽く笑い、「気にするな」と答える。
「エルートさんは、準備が入念なんですね。服から……染み抜きまで」
帰りの馬車で、私は彼をそう賞賛した。事実だった。まさかこんなに、至れり尽くせりの1日になるとは思わなかった。素晴らしい1日だった。例えこれが、体裁のための「恋仲ごっこ」だったとしても。
「俺じゃない。実は昨日、同室の奴に相談したんだ」
エルートは、照れたように頬をかく。
「ニーナの知っている男ではないが、奴はなかなか、女性を喜ばせる術に長けていてな。よく貴族の女と浮名を流しているんだ。レガットにも、出かける前に、あれこれとやり方を聞いて教わった」
いつもと変わらない穏やかなトーンで、そう説明する。エルートの声を聞きながら、私の胸はどんどん重たく沈んでいった。
同僚へ対して「恋仲」という体裁を整えるために、全てが取り繕われていたのか。出かける名目は体裁でも、その内容はエルートのものだと思った、私が甘かった。私が喜びを感じたことは、エルートが私のために用意したものではない。準備の段階から、全て体裁のために整えられただけだった。
この服も。見下ろした胸元には、もう水の痕はない。あんなに心が浮き立った白いワンピースが、急に重たく感じられた。ちくちくと、胸の奥を刺すような痛み。
「……気分が悪いのか?」
エルートが、案じる瞳でこちらを覗き込む。この優しい目は、袋から出て苦しんでいる私を案じる、スオシーの目に似ている。
私の目に表情が出るというのは、疑うべくもなく本当らしい。エルートは、今の気持ちを的確に言い当ててくる。彼の前で、迂闊に落ち込んではいけなかった。
「いえ、大丈夫です。ここまで良くしてくださって、ありがとうございます」
前向きに捉えないといけない。私のために恋仲を取り繕ってくれるのは、彼の優しさに他ならない。その気持ちに感謝こそすれ、落ち込むなんて的外れだ。
声を出すと、思いのほか喉が締め付けられた。声が震える前に、喉に力を込めて最後まで勢いで言い切る。
「ニーナを巻き込んだのは、俺だから。君を守るためなら、できるだけのことをするさ」
「求めに応じると決めたのは私なのに、……すみません」
どちらがどちらに巻き込まれたのかを考えると、事態はそれほどシンプルではないと思う。
何にせよ、私は私なりに騎士団での生活を楽しんでいるのに、エルートが責任を感じているのは申し訳ない。私の謝罪に、エルートは何も答えなかった。代わりに、閉ざされた馬車の窓を、遠い目で見つめる。
「明日はどこへ行こうか。小雨なら、君の乗馬の練習に付き合うのもいいが」
「明日も、外に出られるんですか?」
「雨は危険だからな。急な討伐が入らなければ、この時期は休みが多い。馬は要るだろう、いつまでも俺達とばかり討伐に向かうのは難しい」
馬を用意するというのは、その場だけの思いつきではなかったらしい。あの時もその話を聞いて嬉しかったが、今の私は本気で自分の馬が欲しかった。
エルート達と移動する時、私は必ず彼とスオシーに乗る。エルートに背後から抱き寄せられ、支えられて。その優しい腕に包み込まれると、今の私は、きっと嬉しくなる。そして、切なくなる。エルートにとって私は、荷物同然だからだ。
その時の気持ちを想像するだけで、胸が苦しくなった。余計なことは考えなければいいのに、思考は勝手に、自分が辛くなる方向へ走っていく。
これが恋というものなのだろう。恋とは本当に、どうしようもなく、難儀なものだ。
「こんなに美味しいもの、もったいないです」
美味しいものを食べていると、人は自然と、無言になってしまう。エルートと会話を交わす余裕もなく、ケーキとお茶を、交互に口にする。最高の時間は、飛ぶように過ぎて行った。感動的な美味しさに心を奪われ、最後のひと口を前に名残惜しく粘る私を見て、エルートが笑った。
「そう惜しまずとも、また来よう。気に入ってくれて良かった」
私は諦めて、最後のかけらを頬張る。甘いクリームがふわりと溶け、生地は時間差でなくなる。果物だけが残り、噛み締めると、じゅわりと甘酸っぱい果汁が染み出る。
お茶を口に含むと、舌に残った甘みが程よく消える。飲み込むと、お茶の香ばしさがしみじみと抜けた。
「……ご馳走様でした」
これほどに気持ちの込もった食後の挨拶を、私は初めてしたかもしれない。
「本当に美味しかったです。こんなに美味しいケーキ、生まれて初めて食べました」
「良い場所だよな。俺も初めて来た時、こんなに美味しい甘味があるのかと衝撃を受けた。それまで、甘いものは嫌いだったんだ」
エルートには「甘いものは苦手」という言葉がよく似合う。彼を変えた、甘いケーキ。手作りのケーキの素朴な味わいとは全く違った、繊細で感動的な味だった。
「エルートさんは、どうしてこのお店をご存知なんですか?」
「養父の紹介だ」
「ようふ……ああ、養父」
聞き慣れない言葉を口の中で繰り返し、その意味がわかる。養い親。
彼は幼くして、魔獣の襲撃により、両親を亡くしている。幼い彼がここまで成長するために、面倒を見た養い親がいるはずだ。
「俺の養父は、先代の騎士団長なんだ。父の、騎士としての死に様を高く評価し、俺を引き取ってくれた。養父の推薦で、俺は騎士団の試験を受けた」
私は、騎士団長と聞いて、現在の団長であるガムリを思い出す。目の前にすると背筋を正さざるを得ない、並々ならぬオーラを持つ団長。先代の団長は知らないが、同様に常人離れした雰囲気があったことだろう。
エルートは、そんな凄い人に育てられたのか。テーブルの広さは同じなのに、懐かしい目で語るエルートが、いやに遠のいて見えた。
「俺の世話をしたのは下女で、養父にも養母にも、会ったことはほとんどない。ただ、騎士となった日、養父が祝ってくれたのがこの店だ。それから、俺も通っている」
騎士になったばかりの彼は、どんな人だったのだろう。店内を見渡して想像しようとしたが、何も浮かんで来なかった。十歳ほど若返ったエルートを想像しようとしてみても、今ひとつピンと来ない。彼の過去の話は、私の知る世界と違いすぎる。
当然だ。彼は立派な騎士で、私は庶民。分かり合える過去など、何ひとつない。
「ただ……他人を連れてきたのは初めてだな」
いろいろと考え込んでいた頭は、エルートの呟きであっという間に喜びに染まる。
それは、どういう意味なのだろう。勘違いして舞い上がりそうになる心を、深呼吸して落ち着ける。特別な意味が、あるはずがない。
「ニーナの親はどんな人なんだ?」
「私の親ですか?」
エルートが、私の親に興味を持つなんて思わなかった。一瞬驚き、話すことなんてないと迷った。私の過去の話など聞いても、エルートは何も理解できないだろう。
逡巡してから、母のことを話せばいいのだと思い当たる。レガットもエルートも、私の「魔法」を求めている。私の鼻は母譲り。その話を、きっと聞きたいはずだ。
「私の母は、私と同じように勘が良いんです。故郷で『占い師』を名乗って、たくさんの人を笑顔にしていました。私とは違って、多くの人の役に立って、時には心も救う、そんな素敵な母です」
「母は『占い師』で、娘は『魔女』か。面白い」
面白い、と言われると胸が痛む。彼が私に抱いている感情は、「面白い」ということだけ。わかってはいても、改めて伝えられると辛い。
興味を持たれている事実に、ありがたく感謝すれば良いのに。それ以上を求める私の心は、なんて身の程知らずなんだろう。
「父親は?」
「父ですか? 父は、優しい人でした。母が占い師なんて不思議な仕事をしていても、家にお客さんが連日押し寄せても、夕食で薬草が出てきても、いつもにこにこして応援していました。私も、よく『ニーナの好きにするといい』と言われて、伸び伸びと育ててもらいました」
口にすると、懐かしさが込み上げてくる。
母と父の関係は、素敵なものだった。喧嘩もするが、お互い尊敬しあっていた。カプンの町長、ルカルデとエマもそうだ。理想の夫婦とは、あのように、互いに尊重しあい、支え合うものだ。
「なんとなくわかった。君は幸せに育ったから、人の幸せのために働けるんだな」
エルートの言葉がしんみりと響く。
一理あると思った。両親や祖父母に、惜しみなく愛を注がれた故郷での暮らしは、確かに幸せだった。私の心の土台には、故郷での幸せな暮らしが、しっかりと根付いている。
「……ありがとうございます」
家族を褒められ、どう返事をしたらいいのかわからなくて礼を言うと、エルートは緩く微笑んだ。優しくて、切なげな表情。なんとも言えない表情に、はっとする。
彼には両親がいないのだ。養父、養母ともほとんど会わなかったと言っていた。そんなこと考えもせず、のんきに、両親の幸せな話などしてしまった。エルートに嫌な思いをさせたかもしれない。
「申し訳なくなんて、思わなくて良い」
「え……」
「君は表情が、目に出るんだ。大丈夫、俺の幼少期も幸せなものだった。君が想像するような、悲惨なものではない」
心の内を言い当てられ、どきりとする。エルートは悪戯っ子のように笑った。
「お茶が垂れているぞ」
「えっ!」
今度こそ、動揺の声が出た。見下ろすと、ワンピースの白い胸元に、一滴の茶色い染みができている。いつ紅茶をこぼしたのか、自覚がなかった。
「どうしましょう、ごめんなさい、素敵な服が……」
「案じるな。俺が染み抜きをするから、動かなくていい。……ありがとう」
エルートが礼を言ったのは、店の男性がそっと、水の入ったコップを差し出したからだ。懐から取り出した黒い布に水を染み込ませ、硬く絞る。布を片手に近寄ると、エルートは、私の胸元の染みを布で軽く叩いた。
彼の金髪が、私の目の前で揺れている。騎士様をこんな風に見下ろして、服の染み抜きをさせるなんて、罰が当たりそうだ。そわそわした気分でいるうちに、エルートが離れる。お茶の染みは消え、真っ白な布が現れた。水の跡は残っているが、乾けば消えるだろう。
「うん、もう大丈夫だ」
「ありがとうございます……!」
贈ってもらった高級そうな服を、汚さずに済んでほっとした。エルートは軽く笑い、「気にするな」と答える。
「エルートさんは、準備が入念なんですね。服から……染み抜きまで」
帰りの馬車で、私は彼をそう賞賛した。事実だった。まさかこんなに、至れり尽くせりの1日になるとは思わなかった。素晴らしい1日だった。例えこれが、体裁のための「恋仲ごっこ」だったとしても。
「俺じゃない。実は昨日、同室の奴に相談したんだ」
エルートは、照れたように頬をかく。
「ニーナの知っている男ではないが、奴はなかなか、女性を喜ばせる術に長けていてな。よく貴族の女と浮名を流しているんだ。レガットにも、出かける前に、あれこれとやり方を聞いて教わった」
いつもと変わらない穏やかなトーンで、そう説明する。エルートの声を聞きながら、私の胸はどんどん重たく沈んでいった。
同僚へ対して「恋仲」という体裁を整えるために、全てが取り繕われていたのか。出かける名目は体裁でも、その内容はエルートのものだと思った、私が甘かった。私が喜びを感じたことは、エルートが私のために用意したものではない。準備の段階から、全て体裁のために整えられただけだった。
この服も。見下ろした胸元には、もう水の痕はない。あんなに心が浮き立った白いワンピースが、急に重たく感じられた。ちくちくと、胸の奥を刺すような痛み。
「……気分が悪いのか?」
エルートが、案じる瞳でこちらを覗き込む。この優しい目は、袋から出て苦しんでいる私を案じる、スオシーの目に似ている。
私の目に表情が出るというのは、疑うべくもなく本当らしい。エルートは、今の気持ちを的確に言い当ててくる。彼の前で、迂闊に落ち込んではいけなかった。
「いえ、大丈夫です。ここまで良くしてくださって、ありがとうございます」
前向きに捉えないといけない。私のために恋仲を取り繕ってくれるのは、彼の優しさに他ならない。その気持ちに感謝こそすれ、落ち込むなんて的外れだ。
声を出すと、思いのほか喉が締め付けられた。声が震える前に、喉に力を込めて最後まで勢いで言い切る。
「ニーナを巻き込んだのは、俺だから。君を守るためなら、できるだけのことをするさ」
「求めに応じると決めたのは私なのに、……すみません」
どちらがどちらに巻き込まれたのかを考えると、事態はそれほどシンプルではないと思う。
何にせよ、私は私なりに騎士団での生活を楽しんでいるのに、エルートが責任を感じているのは申し訳ない。私の謝罪に、エルートは何も答えなかった。代わりに、閉ざされた馬車の窓を、遠い目で見つめる。
「明日はどこへ行こうか。小雨なら、君の乗馬の練習に付き合うのもいいが」
「明日も、外に出られるんですか?」
「雨は危険だからな。急な討伐が入らなければ、この時期は休みが多い。馬は要るだろう、いつまでも俺達とばかり討伐に向かうのは難しい」
馬を用意するというのは、その場だけの思いつきではなかったらしい。あの時もその話を聞いて嬉しかったが、今の私は本気で自分の馬が欲しかった。
エルート達と移動する時、私は必ず彼とスオシーに乗る。エルートに背後から抱き寄せられ、支えられて。その優しい腕に包み込まれると、今の私は、きっと嬉しくなる。そして、切なくなる。エルートにとって私は、荷物同然だからだ。
その時の気持ちを想像するだけで、胸が苦しくなった。余計なことは考えなければいいのに、思考は勝手に、自分が辛くなる方向へ走っていく。
これが恋というものなのだろう。恋とは本当に、どうしようもなく、難儀なものだ。
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