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魔女、騎士に出会う

出立

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「ただいま戻りました……エルートさん?」

 声をかけても返事がない。エルートの花の匂いは、ふんわりと店内に漂っている。しかし、いつもの強烈な、魔獣を求める匂いがしない。
 もしかして。私は、居室につながる扉を静かにノックした。やはり返事がないので、そっと扉を開ける。

 部屋には、小さな台所とベッドがひとつ。あとは細々とした収納しか置かれていない。作りかけだった昼食は、皿の上からすっかり消えている。そして、ベッドに腰掛ける黒い塊。俯いた姿勢のその肩が、小さく上下している。
 何かを求める人からは、その物に向かって匂いが放たれている。私は匂いを辿って物を探すことができる。
 求めるものに向かって匂いが流れるということは、言い換えれば、求めない時には匂いの流れは生じない。例えば、眠っている時。意識がないから、「何かを求める」という気持ちも、感じ取れないほどに小さくなる。

 どうやらエルートは、眠っているらしい。私の分の昼食までぺろりと食べて、私のベッドに座って。疲れているのか、待ちくたびれているのか。断りもなく任せたことに申し訳なさを覚えつつ、起こすかどうか、少し迷う。
 ゆらゆらと揺れる上体。俯いて目蓋を下ろした顔には、あどけなさを感じる。無防備な寝姿は、普段の凛とした様子とは違い、何だか可愛らしかった。

「……エルートさん。戻りました」

 暫く見惚れてから、はっとして声をかけた。無防備な姿を見られるのは嫌だろう、と気づいたのだ。
 起こすと、眉間に皺が寄る。肩に触れて軽く揺らすと、目がぱちりと開いた。ゆっくりと二度瞬いてから、焦げ茶の目が私を捉える。

「おはようございます」
「すまない……寝るつもりはなかったんだ」

 目を覚ましたエルートは、額に手を当て、ぼんやりと瞬きを繰り返す。まだ完全に醒めていないのだろう。私が水を手渡すと、起き上がってゆっくり飲み、長く息を吐いた。

「驚いたな。熟睡してしまった」
「お待たせしてすみません」
「気にするな。君の会話は聞こえていたから、事情はわかっている。恩人と、満足に話はできたか?」
「はい」
「それなら良い。……それよりも」

 エルートはカップを持ったまま、視線を室内にぐるりと巡らす。

「なんだろう、この独特な香りは」
「香り……これでしょうか?」

 私は、壁に吊るした白い花を取る。エルートに渡すと、彼は鼻を近づけた。

「ああ、この香りだ。この白い花は……」
「エルートさんとお会いした、あの広場に咲いていたものを乾かしたんです。煮出して飲むと、よく眠れるんですよ」
「香りだけでも効果があるのかな。不思議とよく眠れた」

 エルートは花を持ち上げ、上下から観察する。白い花が、その細かな花弁を揺らした。ふわりと、甘い香りが辺りを舞う。

「もしよろしければ、どうぞ」
「いいのか?」

 彼は花を布で包み、いそいそと懐にしまった。この花は多めに用意しておいたから、いくらかあげても構わない。
 エルートが薬草の香りも味も好むのは、私にとっては新鮮だった。薬草の話をまともにしたことがあるのは、故郷の家族とルカルデだけ。年齢の近い人と、薬草について話すのは初めてだ。薬草は独特だと言って嫌がる人も多いのに、本当に珍しい。

「これを壁に掛けておいたら、寮でもよく眠れそうだな」
「寮では眠れないんですか?」
「ああ。眠れないという程でもないが、どうも眠りが浅いんだ」

 それはなんとなくわかる気がして、私は頷く。私も、アテリアと同じ部屋で眠った時、どこか眠りが浅い感じがした。他人がいるからだろうか。睡眠不足というほどでもないが、しっかり眠った感じはしなかったものだ。
 その眠りが、これからは毎日続くわけで。

「……たまに昼寝しに来ないと、寝不足になってしまいそうですね」
「はは、そうだな。そのときは俺も一緒に寝かせてくれ」

 声を上げて彼が笑うから、思わず見てしまった。

「何だよ」

 エルートは、怪訝そうだ。

「いえ……そうやって笑うのを見るのは、初めてだと思って、つい。見てしまいました」

 気まずくて、言い訳がましい言い方になった。エルートは何か考えるようにして、自分の顎を手で撫ぜる。

「そうか? あまり意識していなかったが」

 彼はそう言うと、今度はこちらの顔をじっと見てくる。

「そう言えば、俺もニーナの笑う姿は、見たことがない。君は目には表情が出るが、顔にはあまり出ないんだな」

 目に表情が出るなんて指摘するのは、エルートだけだ。そんな風に言われると、彼を見るのが恥ずかしくなる。焦げ茶の綺麗な瞳に全てを見透かされそうで、私は視線を逸らした。
 匂いを誤魔化すため、口元にベールをかけた私は「感情が読み取れなくて怖い」と言われたことしかない。どうして彼は、私の表情を目から読み取れるなんて言うのだろう。それが騎士の洞察力なのだとしたら、恐ろしいことだ。隠し事なんて、きっと何もできない。言わなくても、目が合ったらばれてしまう。

「……出ようか」

 エルートは変なタイミングで咳払いをしてから、そう促した。

 彼とともに居室を出る。エルートには薬草茶を提供して、飲みながら待ってもらうことにした。準備の仕上げに、天井から下がっている薬草をいくつか選び取る。
 騎士団の本部は森で囲まれていたから、この辺りによく生えている薬草は、向こうにも生えていると思う。だから私は、カプンの森の奥の方で見つけた、手に入りにくい薬草を包んで袋にしまった。用途はいろいろだ。煮出して飲む、薬草茶用。アテリアの作る、濃厚な煮込み肉に合わせる用。部屋に飾る用。数日分を見繕って、身支度は終わった。

「それだけか」

 カウンターの丸太に座って待っていたエルートが、目を丸くする。

「少ないですか?」

 私の荷物は、両手でちょうど抱えられるくらいの大きさの袋がひとつ。ここに、着替えと薬草が入っている。
 エルートは自然な動作でそれを持ち、軽さを確かめるように上下させた。

「俺の荷物もこんなものだ。もっと少ないかもしれないな」
「そうですか」
「ああ。生活に必要なものは、騎士団から支給される。俺の荷物は、この剣くらいだ」

 エルートは空いた片手で、腰に下げた剣の鞘を撫でた。精緻な装飾のなされた立派な剣。素人の私にも、高価なものだと見て取れる。

「その剣は、ご自身のなんですね」
「ああ。これは俺の父の形見だ」

 父の形見、ということは、エルートの父は亡くなっているのだ。
 不意に発された切ない事実に、私は言葉を失った。エルートは、私より数歳、歳上なだけ。本来なら、父が亡くなるような年齢ではない。何か特別な事情があるのだろう。

「……きっと、素敵なお父様だったのでしょうね」

 選んだ結果出てきた言葉は、ふわっとした、何とも言えない感想だった。
 でも、本当に素敵な父だったのだろう。私が母に憧れるように、エルートは騎士の父に憧れて騎士になったはずだ。エルートみたいな人が憧れる父なら、さぞ素敵なのだろう。
 ところが、意外にもエルートは、はっと浅く息を吐いて笑った。その吐息には嘲るような色がある。

「全く。俺の父は、まさに『命知らず』だったよ」

 その呼び名には、聞き覚えがある。騎士団本部で聞いたはずだ。騎士団長のガムリが、エルートのことを『命知らず』と呼んでいた。

「だから、エルートさんもその名前で」
「いや。俺は確かに『命知らず』と呼ばれているが、それは誤解だと君はよく知っているだろう?」
「それは存じておりますが」

 エルートは、自分の命が大切だと豪語している。『命知らず』なんて、対極にある表現だ。だからこそ、『命知らず』という呼び名に違和感があった。
 彼は、自らが触れている剣の鞘に視線を落とす。精緻な表面を指の腹でなぞりながら、言葉を紡ぐ。

「俺の父は、騎士らしい騎士だったそうだ。誰かの命のためには、自らの命など惜しくないと考えていたのだろう。勇敢だったと聞くよ。巨大な魔獣にも、臆さず飛び込んで行ったらしい。まさに『命知らず』だ」

 鞘を見つめる瞳は、懐古の色を帯びている。薬草茶でそっと唇を湿らせる彼の、低い声が店内にしっとりと響く。

「家になかなか帰らない父が久しぶりに帰ってきたのは、母の実家に帰るためだった。俺が、まだ十にもならない頃かな。馬車で移動する俺たちは、不運にも魔獣に襲われた。父は真っ先に外に飛び出した。相手は熊の魔獣だった」

 エルートは顔色をひとつも変えずに話し続ける。私は心臓が押しつぶされそうな気持ちになった。熊の魔獣の前に、たとえ騎士とは言え、ひとりで飛び出したらどうなるか。肉食の魔獣の恐ろしさを聞かされた私には、悲惨な結末の予想がついてしまった。
 まだ十にもならない頃に、彼は父を失ったというのか。魔獣によって。

「騎士となった今、父の行動がどれほど『命知らず』なものだったかよくわかる。熊の魔獣に、ひとりで挑むなんてありえない。当然父は死んだ。人間の臭いを感じたんだろうな。俺たちの馬車は熊に破壊されて、母が引きずり出された。……俺が無事だったのは、瓦礫の間に上手く押し込まれたからだ。人間の肉をたらふく食って、魔獣も満足したのかもしれない」

 幼いエルートは、馬車の瓦礫の間に身を潜め、魔獣が去るのを待っていたのだろう。どれほど怖かったことか。両親が命を落とすのを、もしかしたらそのまま連れ去られていくところまで、見てしまったのかもしれない。
 あまりにも残酷な事実に、怖気が走る。涼しい表情だからこそ、エルートの悲しみを痛烈に感じた。本当に悲しいことは、感情を押し殺さないと話せないのだ。

「父は何があっても、魔獣の前に出るべきではなかった。逃げる以外の選択肢はなかった。結局、父は死に、守りたかったはずの母も死んだ。逃した熊の魔獣は他にも死傷者を出し、ようやく討伐されたという。騎士として人々の命を守るなら、何がなんでも生き延びて、魔獣の情報を騎士団に流すべきだった。……ああいう向こう見ずな行動を、『命知らず』というんだ」

 淡々と話すエルートの言葉が、切々と胸に染みる。まるで何も感じていないように振る舞っているが、薬草茶の減りの早さが、彼の感情の揺れを表していた。

「……だから、エルートさんは自分の命を何より大事にするんですね」
「ああ。命があるからこそ、より多くの誰かを救うことができる。死なないこと、その一線を確実に見極めることが、何より大切なんだ」

 エルートはそう言うと、両手を伸ばしてうーんと伸びをした。彼の手から離れた鞘が、椅子に擦れて乾いた音を立てる。
 彼が魔獣を強く求める理由も、なんとなくわかった。「その一線を確実に見極める」ために、魔獣相手の力試しを辞められないのだろう。そこに至るまでの彼の経験を想像すると、思いの強さにも納得がいく。
 エルートは、残った薬草茶をがぶりと飲み干す。

「悪い。つい話しすぎた」
「……いえ、話してくださってありがとうございます」

 私は言葉に迷った末、そう答えた。
 これはきっと、重い過去。彼が私に話そうと思ってくれたことは、純粋に嬉しかった。

「さあ、行こうか。日が暮れる」

 エルートは、窓から溢れてくる光に視線を向けた。立ち上がる彼に続き、私も外へ出る。
 傾き始めた陽射しが、彼の金の髪を美しく照らしている。日の下では、その白い肌は殊更に柔らかく見えた。端正で、非の打ち所のない容姿。恵まれた見た目と、身分と才を持ち合わせた彼にも、想像できないほどの悲しい過去があった。

 初めて出会った広場を通り抜けながら、私は不思議な気持ちでいた。初対面の時には、エルートは掴み所がない騎士様で、自分とはひとつも接点がないと思っていた。それが、どうだろう。共に行動し、言葉を交わすうちに、彼のことを理解してきている。雲の上の存在から、目の前にいる、生身の人間になってきている。
 私は一般人であり、彼は貴い騎士。近しさなんて、決して感じてはいけないのに。私は心の中で繰り返し、自らを戒めた。

 エルートと共に、草を踏み分け、小枝を踏みしめて歩く。やがて木々の間に、黒い毛皮が現れる。

「待たせたな、スオシー」

 エルートが呼びかけると、つぶらな瞳の黒馬は、ぶるると鼻を鳴らして返事をした。私はスオシーに手を伸ばし、滑らかな手触りの額を撫でて挨拶する。

 エルートに押し上げられるようにしてスオシーに乗る。自分の背の丈より高い馬の背の上でバランスを取るのにも、だいぶ慣れてきた。後ろにエルートが飛び乗ってきて、片手で体を抱き寄せられる。
 いや、抱き寄せられている訳ではないのだけれど。支えてもらわないと馬上から落ちてしまうから、エルートは私を押さえてくれているだけなのだ。要するに、荷物扱い。荷物のくせに、背中に伝わる感触と、腹部を支える屈強な腕に、妙に守られた感覚を得てしまっている私が悪い。

「体が強張っているな。今更、何を緊張しているんだ」
「そ、そうですよね」

 こうしてエルートと馬に乗るのも、もう三度目だ。いい加減に慣れればいいものを、私の体は、未だにどぎまぎとしてしまう。
 エルートがふっと笑うと、耳に吐息がかかる。近い。穏やかでない心のざわめきを振り払うため、顔を横に向けた。
 私の左には、深い森が連なっている。樹々の向こうから漂う、土の香りに意識を向ける。

 自惚れるな、と自らを戒める。彼が求めているのは、魔獣だけ。その証拠は、今も森の奥に向かって流れているエルートの匂いだ。彼はいつでも、魔獣だけを追い求めている。
 せいぜい私は、魔獣へと案内する便利な道具程度だ。そう思うくらいがちょうど良い。決して、思い上がってはいけない。自分に言い聞かせていると、私たちを乗せたスオシーが、ゆったりと。やがて高らかに走り始める。

「……気持ち良いです」

 爽やかな風が、顔の前から横を通り、髪をふわりと持ち上げて抜けて行く。

「乗馬が気に入ったんだな」
「はい。新鮮な空気が前から吹いてきて、気分が良いです」
「珍しい。馬は怖いと、近寄らない女も多いのに。……それなら、君用の馬を用意するよう、言ってもいいかもしれないな」

 驚いて振り向くと、上体がぐわんと揺れた。エルートの腕が腹部に痛いほど食い込み、何とか落ちずに済む。

「危ないよ」
「ごめんなさい、驚いてしまって」
「驚く話ではない。君が定期的に魔獣討伐に出るのなら、毎度誰かに乗せて貰うより、その方が外聞も良い。わかるだろう? 騎士ではない誰かがいつも同乗しているとなると、君が困る」

 私は頷いた。これから私が求められるのは、騎士達と共に、魔獣を探すこと。現場に行くのに馬を使うだろうし、その度に誰かにこうして抱えられていたら、妙な噂がすぐ立ちそうだ。
 何しろ、騎士は注目の的。誰もが憧れる彼らと関わる以上、私も振る舞いを気にしなくてはならない。

「乗馬くらい、教えてやるよ。俺は昼番だから、夜は暇なんだ」
「それはさすがに申し訳ないです。どなたかに頼んで……」
「誰に? 他の騎士と関わるのはやめた方が良い。そもそもあそこは、君みたいな人がずっといていい場所ではない」

 エルートの言葉は、まさにその通りだ。騎士団は、私のような一般人が深入りして良い場所ではない。わかりきった忠告に、ただ、頷いた。
 私を支えるエルートの腕に、僅かに力が加わる。

「君を巻き込んだのは俺だ。だから俺が、君を守ると誓う」

 声が思いの外近くで聞こえ、心臓が高鳴った。「守ると誓う」だなんて、それだけ聞いたら甘いことこの上ない台詞だ。
 胸の上に手を当てて押さえると、どきどきと早鐘のように鼓動していた。エルートの台詞は、魔獣のためにある。私にこう告げるのには、何らかの意図がある。でないと彼が、わざわざ私にそんな甘い台詞を吐くはずがないのだ。
 わかっているのに高鳴る胸が不甲斐なくて、強く手を押し付けた。思い上がってはいけない、流されてはいけない。ただ、淡々と、求めに応じれば良い。

 複雑で微妙な気分を、スオシーの駆け足が全て後ろに流してくれる。西陽に照らされた草木の香りは、少し焦げたような落ち着くものだ。ゆっくりと吸い込めば、心穏やかになる。
 エルートがどんな台詞を吐こうと、私が彼の、あるいは騎士団の求めに応じることに変わりはない。求められたら、応える。それが母の教えで、私が守るべきことだ。
 胸元の青い石が、その通りだとでも言うように、透き通った光をきらりと反射した。

 ちなみに王都に近付くと、また袋の中にぶち込まれた。エルートが平気でスオシーを小走りにさせたり仲間との会話に興じたりしたせいで、気分が悪くて暫く放牧場の脇で寝転がっているのも、最早お決まりである。優しいスオシーとエルートは、今回も私が復活するまで近くで見守ってくれていた。

「……立てるか? ほら、手を取って」

 エルートは、こちらに手を差し伸べてくれる。その手を取り、私は体を起こした。
 騎士団本部の大きな建物が、橙色の夕陽に照らされている。今日からここが、私の仕事場になる。
 求められる限りは、全力を尽くそう。そう決意し、私は歩き始めた。
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