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魔女、騎士に出会う

馬上のふたり

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 店を出て、エルートが取り替えてくれた鍵を掛ける。今まで使っていたものより、鍵をかけた時の手応えがある。確かにこれなら、簡単には破れなさそうだ。

「すぐに帰ってこられますか?」
「それは……俺からは何とも言えない」

 私は振り返り、蔦に覆われた家を見上げる。
 この町へ来て1年、この家で暮らしてきた。不気味だと人は言うが、私はこの家を気に入っている。蔦の放つ緑の香りは、周囲から流れてくる種々の香りを和らげてくれる。落ち着く空間だった。

 ここにずっと居つくつもりだったのにな。
 ずっと戻れない訳でもなさそうだが、先が見えないというだけで不安になる。

 せめてルカルデに挨拶してから行きたいという希望も、エルートに却下された。騎士である彼が「お忍び」で私のところへ来ていたという事実が、住民に知れるのはまずいらしい。騎士とはやはり、難儀な立場だ。

 家を出て暫く歩く。通り慣れたを抜けると、エルートと初めて会った、あの白い花の群生する広場へ出る。花はそろそろ萎み始め、代わりに緑の葉が広がっている。
 森に漂うのは、生き生きとした草木の香り。照りつける光の強さに、花咲く季節から緑盛る季節へと、季節の移り変わりを感じる。

 エルートの放つ花の匂いは、今も森の奥へ流れ続けている。魔獣を求める彼の強い気持ちは、最初からずっと変わらない。今日はその匂いに逆らうように広場から出て、枯れ葉の降り積もった上を歩く。
 濡れた落ち葉の香り、土の香り。それに加え、獣臭さが感じられる。
 ネックレスは震えていない。いるのは、魔獣ではなさそうだ。

「馬に乗ったことは?」

 フードを深くかぶったエルートが、いきなり問う。

「ありません」

 ぶるるっ、と鼻を鳴らすような音。
 エルートを追って、木の間をくぐり抜ける。その先には、エルートの着衣と同じ漆黒。大きな黒い馬がいた。
 私の目の前に馬の腹部がある。整えられた、つややかな黒い毛並み。見上げる先に、優しげな瞳。大きくて潤んでいる。黒い宝石のように澄んだ瞳だ。

「良い子だ、スオシー」

 エルートが手を差し伸べると、馬がその下に頭を差し込む。こんなに大きいのに、大人しく耳の間を撫でられる様子は可愛らしい。

 暫く撫でたエルートは、馬に口輪をはめ、手綱をつける。確かめるような足踏みに合わせて、洗練された脚の筋肉がもりもりと躍動する。
 なんて美しいんだろう。
 私は馬体に目を奪われた。無駄のない筋肉、しなやかに靡く長い尾、全てが完成されている。

「今日はこの人も乗せるから、頼むぞ」

 エルートに口輪を引かれてこちらを向いたスオシーと、目が合った。丸くて大きくて、澄んだ綺麗な瞳。

「挨拶してやってくれ。スオシーは、額を撫でられるのが好きなんだ」

 エルートの言葉に促され、私は右手を差し出す。先程のエルートのように。私の手のひらの下に、スオシーの頭が滑らかに滑り込んだ。そっと手を触れる。
 手のひらと毛並みが、一体化したようだった。あまりにも滑らか。何の突っかかりもなく、手のひらがスオシーの後頭部に向かって流れる。一旦手を離し、また額からたてがみに向かって手のひらを動かした。見れば、スオシーは目を細めている。ぶるん、と鼻を鳴らす音は、どこか嬉しそうだ。

「ありがとう。乗ってくれ」

 いつまでも撫でていたかった。そのくらい、スオシーの毛並みは素晴らしかった。エルートに遮られ、私は名残惜しく手を離す。もう一度スオシーを見つめると、宝石みたいな瞳が見つめ返してきた。
 スオシーの隣に控えていたエルートに下から押し上げられ、私は馬上に移る。高い。そもそも、スオシーの鞍の位置は私の頭より高かった。その上に座っているのだ。経験したことのない視点の高さに、身がすくむ。
 音もなく、身軽に、エルートが私の背後に飛び乗ってきた。怖くて振り向けなかったが、花の匂いが一気に強くなったからそうとわかる。

 私の体を支えるように、エルートの手がお腹に回った。
 不安定だった体が、お陰でしっかりと安定する。ありがたい。一方で私は、その手を振り払いたい気分になった。

「ち、近くないですか」

 片手で手綱を握るエルートの体の前面と、私の背中が密着している。息遣いまで伝わってきそうだ。彼の体温は高い。
 男性とこんな距離で密着したことなんて、ほとんどない。つい上擦る声。ふっと笑ったエルートの息が、耳にかかるほどの距離。

「そういう反応もするんだな」
「は」

 聞き返そうとしたとき、ぐん、と体ごと前に進む。スオシーが歩き始めたのだ。森の密な木々の間を、器用にすり抜けて進む。

 スオシーが脚を踏み出すたびに、私の体は軽く跳ねた。お尻が痛くなりそうだと思ったけれど、やがて体の置き方に慣れてくる。エルートが左に重心を傾けたとき、左へ。体を戻したら、戻す。背中でエルートの動きを感じ、息を合わせてバランスを変えることができると、かなり楽になった。
 暫く進み、森を抜けた。開けた場所に出たとき、町の入り口は遥か後方にあった。見渡すばかりの草原。爽やかな風が、前からさっと吹き付ける。風に乗って弾ける、さっぱりとした自然の香り。
 スオシーが軽やかに走り始めた。私の前髪が、ふわりと後ろに流れる。緑盛る季節になったばかりの風は、温かすぎず冷たすぎず、頬を優しく撫でていく。スオシーの規則正しい足音が、耳に心地良い。
 草の上を。畑の間を。スオシーが足を踏み込むたび、草木の香りがぱっと弾ける。

 真上に上がっていた日が、僅かに傾き始めた頃。

 畑のそばをいくつか抜けると、人の放つ匂いが感じられる。遠くに壁が連なるのが見えた。スオシーが速度を緩め、ずっと靡いていた私の髪が元に戻る。

 迫ってくる灰色の石造りの壁は、目で追えないほどの長さだ。私の故郷はもちろん、カプンの町とも比べ物にならないほどの規模である。
 畑の中を進む私たちの進行方向斜め右に、壁の切れ目らしき部分が見える。あそこが入り口なのだろう。

「王都に着いたぞ」
「ここが、王都……」

 私は初めて見る王都の外壁を、しみじみとした気持ちで見つめた。
 騎士団に行くと聞いた時点で、行き先は王都なのだろうと予想はしていた。騎士団の本拠地は、王都。王都にほど近いカプンは、王都の騎士団の管轄範囲である。

 それにしても、気の遠くなりそうな幅だ。首を左から右にぐるっと回しても、常に視界に壁がある。
 王宮を中心に四方に市街地が広がっているという、王都。人の多いところが苦手な私には、一生縁のない場所だと思っていた。
 鼻を僅かに上向け、匂いに意識を向ける。壁の向こうから雑多な匂いが漂い出ている。賑やかな王都は、さぞ多彩な匂いがすることだろう。今からあの中へ入ると思うと、鼻の奥がもう痛い。

「ここでニーナに頼みがあるんだけど」
「はい」

 急に声色が変わった。エルートの、わざとらしい甘いささやき。私は嫌な予感がした。彼はこういう甘い態度で、自分の要求を通そうとするのだ。

「俺は騎士だから、王都に入ると注目を浴びる。だが、君を人目に晒したくはないんだ」

 肩に顎が乗っている。あざとい。彼だって私に触れたくはないだろうに、ここまでして通したい要求とはいったい何なのか。
 求められたら、応えなさい。
 母の教えに従って、そんなに来たくなかった王都へも来た。大したことない私の鼻が何かの役に立つなら、それも良いと思っている。
 エルートが変な頼み方をしなくても、私は求めに応じる。その覚悟があるから、回りくどく感じる。

「それで、私にどうして欲しいんですか?」

 肩に乗っていた重みが離れた。ついでに、花の匂いも遠ざかる。スオシーの重心が僅かに移動し、エルートが地面に降りたとわかった。
 今度はどんな頼みなのだろう。「人目に晒したくない」という先程の発言を踏まえると、何かマントを被れとか、そういう類の頼みだろうか。
 真意を図りかねる私の下方で、エルートは何かごそごそと準備している。彼が立ち上がると、スオシーに乗っている私の二の腕辺りに頭が来る。ずいぶん背が高い。エルートは、茶色の何かごわごわしたものを片手に掴んで差し出した。

「この袋に入ってくれ」
「……聞き間違いでしょうか」
「袋に入ってくれ」

 聞き間違いではなかった。
 ご機嫌取りをやめたエルートは、真顔で要求する。訳がわからない。

 求められたら、応えなさい。
 お母さん、それって、こんな意味不明な要求も含まれますか?

 数分後、私は胎児のように体を曲げ、袋に入っていた。ゆっさ、ゆっさと体が上下する。何も見えないから、スオシーに乗っていたときのように動きを合わせることもできない。ただ、揺られるがままに揺られていた。
 目の前には自分の膝がある。それと、袋の内面の黄土色。スオシーの日を浴びた獣の臭いと、エルートの花の匂い。畑の土と、草木の香りが混ざり合う。

 エルートに袋に入るよう言われ、私は少し抵抗した。いくら「求められたら応える」と覚悟したとは言え、訳の分からない要求を受け容れる前に理由を聞きたかった。結果は同じでも、流されたくはないのだ。
 そして今、袋の中にいる。エルートの説明は、次のような内容であった。

 黒衣の騎士は、知っての通り人目を集める。隠れようにも、外出の際は常に黒い衣服を着なければならないから、誰が見ても騎士とわかる。王宮のお膝元である王都も例にもれず、騎士の一挙手一投足が民の注目の的らしい。
「俺と2人でスオシーに乗って現れたら、一瞬で噂話のネタになるぞ」とエルートは私を脅かした。私はカプンの町での騎士の扱いを思い出し、それはそうだろうと納得した。
 用が済んだら王都から去るつもりだから、噂になっても私は困らない。ただ、これからも王都で活動するエルートにとっては死活問題なのだ。

 彼が私に訳の分からない要求を突きつけた理由を理解した上で、私は彼の求めに、快く応じた。それはもう、快く。そして今、こうして荷物のように袋の中にいる。荷物のよう、ではない。こうなると、荷物そのものだ。

 そろそろ王都の中に入りそうだ。
 大勢の人の匂いがして、私は気付いた。スオシーの足音が徐々にゆっくりになり、立ち止まる。目の前に自分の膝しか見えず、視界が変化しない分、耳の感覚が鋭くなっているようだ。スオシーの足音だけでなく、エルートと門番の会話もはっきりと聞こえる。

「エルート・ザトリアだ」
「お疲れ様です、ザトリア様」

 金属の香りが強くする。門番も、武具を身につけた騎士なのだろう。顔見知り同士の会話といった雰囲気がある。

「その荷物は?」
「これを取ってくるよう、団長からの直々の御命令でな。……中を改めるか?」

 中を改める、というエルートの言葉に背筋が震える。うっかり動いたところを見られたら、間違いなく怪しまれる。動いてはいけない。息を止めた。冷たい汗が首筋を流れる。

「いえ。それならば、私が改める必要もありません。どうぞお入りください」

 改められることなく、スオシーがまた進み始める。草原を進んでいたときとは違い、ゆったりしたリズムで、1歩1歩。

 王都が栄えた都市であることは、見なくてもわかった。私の鼻に届く、何人いるか判別できないほど大勢の匂い。匂いは人それぞれ違うから、これだけ多いと鼻の奥が痛くなる。それぞれが求めるものに向かって、あちらこちらへ流れる匂いの渦。
 それだけならまだしも、種々の食べ物の香り、繊維の香り、石や金属の香り。こちらも、数え上げられないほどの種類の香りが鼻に刺さってくる。
 こうなると、顔の下半分を覆っているベールなど気休めでしかなかった。ベールを染めるのに使った藍の葉の、大地に似た香りに意識を向ける。それでも、他の匂いがどんどん押し寄せてくる。

 吐きそう。

 私は万が一のことがないよう、ベールの上から右手で鼻を摘み、左手で口元を押さえた。
 早く着いてほしいのに、スオシーは時折立ち止まる。その度、エルートと誰かの会話が聞こえた。冴え渡る耳から入ってくる音も、もう邪魔でしかなかった。手があと2本あったら、耳を塞いだだろう。

 永遠にも思える時間が過ぎたあと、丸まった私の背中が、やっと硬いものに当たった。黄土色の袋が取り払われ、目の前に青が広がる。空だ。鼻を摘んでいた指を離し、深く息を吸う。乾いた土の香りが頭の奥まで入ってきて、吐き気が和らぐ。

「ああー……」

 吐く息と共に、気の抜けた音が喉を震わせる。私は、ずっと抱え込んでいた膝を解放した。脚を伸ばすと、膝のあたりに違和感がある。窮屈な姿勢を取り続けていたせいだ。
 ぷに、と首の辺りに柔らかな感触がする。熱くて、生臭い風。スオシーが、私の首に鼻を押し当てている。上に伸ばしていた手を引き寄せ、スオシーの鼻を撫でる。ぷにぷにとして柔らかい。優しく押し込んだり軽く掴んだりしていると、心が落ち着いてきた。
 こちらを覗き込むスオシーの顔に、焦点が合う。黒い宝石のような瞳が、心配そうな光をたたえていた。

「大丈夫か?」

 スオシーが顔を離すと、代わりにエルートの顔が視界に入った。青い空を背負って、金色の髪がきらりと輝く。眼福である。整った顔を見て、さらに気持ちが和らいだ。焦げ茶色の瞳には、スオシーと同じ心配の光をたたえている。

「大丈夫じゃないです」
「だろうな。顔が真っ青だ」

 見てわかるなら聞かないでほしい。
 今の一問一答で、回復しかけた体力が削がれた。はあ、とため息をつく。膝が持ち上がる。上半身が傾く。視点が高くなる。

「えっ、エルートさん!」

 私の喉から出たのは、悲鳴じみた声だった。片頬が黒衣の胸元にくっついている。まるで荷物のように、エルートによって横に抱き上げられていた。驚くほど、軽々と。
 先ほどより近づいたエルートの顔が、ふっと緩む。唇が笑みの形を作る。

「お、血色が良くなった」
「それは……! あんまりです!」

 そんな言い方をするなんて、信じられない。恥ずかしさで頭に血が上り、私は身をよじった。こんな風に小馬鹿にされて、子供みたいに抱かれていたくない。
 次の瞬間、腰に強い衝撃が走った。

「…………っ!」

 声にならないうめき声。息ができなくて、私は地面にうずくまる。額にざらりとした土の感触。

「すまない!」

 さすがのエルートの声にも、焦りが滲み出ている。暫くうずくまって、息を大きく吸った。耳の辺りに、湿った柔らかな感触。

「スオシー……」

 今となっては、スオシーの無垢な優しさだけが、私の心のオアシスだった。

「自分で歩けるか?」
「もう、痛みがかなり引いたので」
「腰が伸びていないぞ」

 私たちがいたのは、馬の放牧場のそばであった。木柵で区切られた先は、若緑が一面に広がる広大な空間。騎士団の馬は、用のないときにはここで自由に過ごしているという。
 スオシーは、私とエルートに鼻先を押し当てたあと、軽やかに草の上を駆けていった。放牧場の中には色合い豊かな馬たちが何頭かいたが、スオシーのように漆黒の馬は他には見えなかった。
 日差しを受け、黒い毛並みの表面を美しく照り光らせたスオシー。長い尾を優雅に靡かせて走り去るスオシーを見送ってから、私とエルートは並んで歩き始めた。

 打ち所が悪かったらしく、私の腰は、変に伸ばすとずきんと痛む。腰を軽く曲げながら歩く私を、エルートはやたらと心配した。
 いや、心配してもらわないと困るのだけれど。羞恥心で暴れた私も悪かったが、勝手に持ち上げたのもからかったのも、落としたのもエルートだ。
 腰の痛みのために吐き気がすっかり消え失せたことは、怪我の功名だったかもしれない。

 エルートに案内され、放牧場から騎士団の本部を目指すことになった。彼は私を二度抱き上げるようなことはせず、この遅々とした歩みに合わせてくれている。
 こちら側は裏手なので全貌はわからないが、石造りの巨大な建造物が既に見えている。あれが、騎士団の本部らしい。窓の数から察するに、3階建て。遠くを見られそうな高い塔も付属している。

 建物の正面に回ってさらに驚いたのは、コの字型になっていたことだった。後ろから見えたのはほんの一面で、左右にも石造りの壁が続いている。
 中央の空間は、硬く踏み固められた土の広場であった。汗と血の匂いが染み込んでいる。恐らくここで、騎士が鍛錬などをしているのだろう。
 コの字の端に、建物内への入り口があるという。近づくにつれ、私の心臓は変な風に鼓動し始めた。

「私、普段着のまま着てしまいました」

 服装よりも気にすべきことがあるだろうに、妙なことばかりが気にかかる。身だしなみは大丈夫か。きちんとした作法で会話できるだろうか。エルートと並んで本部へ入って、本当に怪しまれないのか。
 何しろ、ここは騎士団だ。騎士は、王家に連なる貴い方々。私なんかが、うっかり入っていい場所ではない。

「服装は大丈夫。その紺のワンピース、魔女みたいで、ニーナに似合ってるよ」

 自然に繰り出される、エルートの甘い言葉。こうやっておだてられたところで、不安なままだ。魔女みたいで似合っているは、褒め言葉にもならない。
 私は汗で濡れた手のひらをスカートで強めに拭い、ひと呼吸置く。汗と土の匂いが、鼻の奥に刺さった。

 求められたから、ここへ来たのだ。
 もう、行くしかない。
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