1 / 1
ユリーシアは死に戻る
しおりを挟む
「許せないわ。私を虚仮にしたあいつらに目にもの見せてやらないと、死んでも死にきれないの!」
目の奥に暗い炎を燃やしたユリーシア・ヴェルダン公爵令嬢は、恨みのこもった低い声を絞り出した。窓から射し込む月明かりしかない部屋は、骨の髄まで沁みるほどに寒い。
庶民が使うのと大差ない文机の上に、乱雑に散らかった細かい品々。その中でなにやら文字を書き込んでいた彼女は、ペンを勢い良く叩きつけた。
「おーっほっほ! これで復讐が叶うわ! 見なさいルーカス、これが『死に戻りの秘術』よ!」
「ついに完成させたのですね、ユリーシア様」
「ええ。長かったわ。歴史書の片隅で見かけた『死に戻りの秘術』という言葉から資料を探して……ついに、できたのよ! これで十年前に戻って、私は、あのいけすかない奴らをこてんぱんに叩きのめしてやるの!」
ルーカスは、背後からユリーシアの手元を覗き込む。
すっかり痩せこけた震える手が握りしめるのは、とある植物の葉を薄く伸ばした紙に、古代語で魔法陣を描き込んだもの。
「蛙の生き血と共にこの紙を飲んで、自分の血で描いた魔法陣の中で死ぬのよ。そうすれば、思いのままの時間へ戻って、生き直すことができるんだわ!」
爛々と輝く目は、常軌を逸しているとしか思えないものだ。復讐心で化け物のようになってしまった主人を、ルーカスは目を細めて見つめる。
「いいわねルーカス、前にも言った通り、あんたには最期まで私の体を守ってもらうから。死んで確実に命を落とすまで、決して魔法陣から動かさないでちょうだい」
「勿論です」
ルーカスは、ユリーシアには決して逆らわない。従順に頷くと、敬愛する主人の手のひらが、ルーカスの頬に添えられた。
「今の私には何にもないけれど、追放されても私に付き従ってくれたあんたには、戻った後は一番の信を置くと約束するわ。それを、褒美と思ってちょうだい」
「……ええ。ありがたきお言葉です」
ルーカスが頷くと、ユリーシアは微笑む。
「それじゃ、始めるわよ」
ユリーシアは、長い幽閉生活で、貴族としての嗜みもまるで忘れてしまったらしい。スカートの裾をたくし上げ、病的なまでに白い脚を晒して木の床に蹲る。握っていた紙をごくんと飲み込み、懐から取り出した小刀で、躊躇なく指先を切り付けていく。
滴る血液で、秘術のための魔法陣を寸分違わず塗り込める。その指先がぼろぼろになっていくのを、ルーカスは静かに見つめた。
美しい人だ。きらびやかな装いを失い、正気を失い、復讐しか見えなくなっても尚、ルーカスの主人は美しかった。
魔法陣が完成し、ユリーシアは顔を上げる。くすんだ銀の髪の隙間から、ぎらりと光る橙の瞳が覗く。
「できたわ、ルーカス。……あんたとは、これでさよならよ」
「はい。……俺が最期まで、お守りいたします」
「成功した喜びをあんたと共有できないのは、少し寂しいわねーー」
ユリーシアは、そう言って表情をくもらせる。
自分のために、そんなことを言ってくれるのだ。彼女の物憂げな表情を、ルーカスは目に焼き付けた。
ユリーシアの憂いは、一瞬であった。きりりと眉を吊り上げ、小刀を首元に当てる。
「……行ってくるわ」
「いってらっしゃいませ、ユリーシア様」
最も忠実な従者に見送られ、ユリーシアの体は力を失い、魔法陣の上に横たわった。
***
瞬きをする。眩しい。目を開く。天井には、瀟洒な天蓋の布。
「懐かしい……」
思わず呟いた声は、若々しく、いつになく潤っていて、ユリーシアは飛び起きた。体が軽い。見下ろす手のひらは、程よくふっくらとして、健康的だ。
「上手く行ったわ」
新台横の鏡に映る自分は、美しく整った銀糸の髪に、つややかな色白の肌、透き通った橙の瞳をしている。苦労を知らない、健やかな顔だ。その瞳の奥に、ユリーシアは、暗い炎を灯らせた。
記憶は、鮮明である。憎い名前は、ヘイゼル。公爵令嬢であるユリーシアの、婚約者であった侯爵家令息。幼い頃から決められた婚約で、それなりに上手く関係を作っていたはずだったのに、直前になって奴は裏切った。「本当の愛を知った」のなんだのと言って、妹のエリスと手を組み、ユリーシアはひどい淫売だという根も葉もない噂を流したのだ。
公爵令嬢の醜聞を、面白がる者も多かった。噂の広がりようがあまりにも酷かったので、婚約は破棄され、ユリーシアは辺境の別荘に幽閉された。
ユリーシアは、別荘で陰鬱な暮らしを送りながら、ずっとヘイゼルとエリスを恨んでいた。奴らがいたから、ユリーシアは惨めな思いをすることになったのだ。
死に戻ったのは、復讐のため。自分の命だって惜しくはない。ヘイゼルとエリスが絶望する顔を見られれば、それで満足だ。
「ルーカス! ルーカスはいる?」
目覚めたユリーシアは、最も忠実な従者を呼びつけた。幽閉生活では、彼に身の回りの世話を全て任せていたから、起床してすぐ彼を呼ぶのは当然の行いだった。
淡いノックの音がする。入室を許す。入ってきたルーカスは、記憶にある姿よりも若々しかった。張りのある肌、整った髪。何よりも皺一つない制服は、幽閉当時とは見違えるようだった。
「おや……お嬢様。はしたないお姿で私を呼びつけて、どうなされたのですか」
「ん……? ああ、そうよね」
妙にかしこまった物言いに、困ったように垂れた眉尻。それでユリーシアは、自分の粗相に気がついた。ユリーシアはまだ寝巻きである。薄いネグリジェ姿で異性の従者を呼びつけるのは、公爵令嬢のすることではない。「公爵令嬢らしい振る舞い」なんて、久しく忘れていた。さっさと感覚を取り戻さないと、またヘイゼル達に足元をすくわれてしまう。
「ルーカス。着替えるから、侍女を呼んでちょうだい」
そうそう、身の回りの世話は侍女に頼むのだった。思い出しながら指示を出すユリーシアの顔に、影がかかる。視線を上げると、背の高いルーカスが、寝台脇からこちらを見下ろしていた。
「なにかしら」
「……成功なされたのですね、お嬢様」
「ルーカス?」
彼の灰色の瞳は、妙にぎらりと輝く。若い頃の彼は、こんな不穏な目をする人だっただろうか。
「この頃のお嬢様は、俺のことを『ルーカス』とはお呼びにならなかった。そうでしょう? ユリーシア様……おかえりなさいませ」
まさか。
びりり、と胸が震えた。
「あんた、もしかして」
「『死に戻りの秘術』で、ユリーシア様の後を追わせていただきました。成功した喜びを共有したいとおっしゃったのでーー」
「そんなこと……言ったわね」
死ぬ間際の自身の言動を思い返し、ユリーシアは頷く。
「そのために、自ら命を絶ったというの?」
「ええ。ユリーシア様の一番の信が、たとえ俺だとしても、『俺ではない俺』に注がれるのは我慢なりません」
「相変わらずの忠誠心ね」
ふ、と口元を緩めるユリーシア。ルーカスはどんな状況でも、自分の忠実な従者であった。そんな彼が共にいると思うと。
「あんたがいると安心だわ」
復讐は、きっとうまく行く。そう思えるのだった。
「ルーカスがいるなら、話が早いわ。ヘイゼルとエリスに復讐してやるのよ。まずは今度のお茶会の時に、ヘイゼルをーー」
練りに練った復讐案を話し出すと、ルーカスが「そのことですが」と遮った。
「なあに?」
「ヘイゼルは、既に侯爵家を追放され、路頭に迷っているようですよ」
「え? どうして?」
ユリーシアの疑問には答えず、ルーカスは薄く笑う。
「エリスは、幼いながらに男性に媚を売る淫売との噂が流れ、別荘に幽閉されております」
「……嘘でしょう、ルーカス。そんなはずないわ。鏡を見なさい、ほら。この顔は、どう見ても十五の時の私よ。エリスとヘイゼルが、隠れて付き合い出したばかりの頃よ。それがどうして、エリスが幽閉されて……あっ。まさか、あんた、何かしたわね?」
過去が変わる理由など、ひとつしか思いつかない。ユリーシアが睨んでも、ルーカスは微笑むだけ。否定しないその態度が、全てを物語っていた。
「どうして?」
行き場を無くした復讐の炎が、一気に燃え上がる。
「どうして、そんなことするの? どうして? 私は、あいつらの惨めな姿を、この目で見て嘲笑ってやりたかったのに!」
「エリスが幽閉された別荘はもちろん、ヘイゼルが寝泊まりしている馬小屋も、俺は確認しております。ユリーシア様が望むのなら、いつでもご案内致しますよ」
「それじゃ駄目! あんただってわかってるでしょ、私は、復讐のために死に戻ったのよ。この手で奴らを壊してやるのが、何よりの楽しみだったのに、どうして奪うの?」
「五体満足で残してありますから、壊してやりたいのならお好きにどうぞ。ユリーシア様は公爵家当主ですから、存在ごと抹消することもできますよ」
「は? 公爵家当主?」
聞き捨てならない言葉を吐いたルーカスは、にこやかに頷く。
「ヘイゼルとエリスを許したご両親にも、ユリーシア様は腹を立ててらっしゃいましたよね?」
「ええ、それは確かにそうよ。ヘイゼルとエリスが終わったら、次は両親を陥れてやろうと……」
「前当主夫妻は、先月、視察先で強盗によって尊厳を蹂躙され、その命を散らされました。慣例に従い、ユリーシア様が当主となられたのです」
「ねえ、どうして! どうしてルーカスは、私の復讐を奪ってしまうの? 私がしたかったのに、私が両親を嵌めて、酷い目に遭わせたかったのに……」
握り込んだ拳が、真っ白になるほど力が入る。
ユリーシアにとって、それはひどい裏切りだった。
復讐のために死に、復讐のために生きるはずだったのに。復讐心だけを頼りに生きてきたのに。それを勝手に奪い取って、どうせよと言うのか。
「……俺は、ユリーシア様にひどいことをしましたね」
「ええ、そうだわ。わかっているのに、どうして、そんなことをしたの。私は、あんただけは味方だと……あんただけは信じられると、そう思ってたのに!」
「俺を、恨みますか?」
「ええ、恨むわ。だって、復讐する相手が居なくなってしまったんだもの。あいつらにやるつもりだった復讐を、全部、あんたにぶつけてやるわ!」
それは、癇癪だった。
前の人生で最期まで忠誠を尽くしてくれたルーカスを、いたぶっても心は晴れない。嫌な目に合わせた奴らに復讐するから意味があるのだ。
怒りに任せて吐き捨てた発言であるのに、ルーカスが「光栄です」と微笑むものだから、ユリーシアはさらに面食らった。
「光栄って……あんた……」
「ユリーシア様の復讐心は、何より強いお気持ち。その気持ちをこの身にぶつけていただけるなんて、死に戻った甲斐がありました」
「そんなの……おかしいわよ。私に復讐されたいの?」
「されたいですね、それはもう。ユリーシア様が俺に復讐することだけを考えてくださるのなら、本望です」
「……?」
何を言っているのだ、この従者は。
理解の追いつかない展開に呆気に取られたユリーシアは、毒気をすっかり抜かれてしまう。
「復讐の参考に、俺が恐れることを教えて差し上げましょうか」
「……聞くわ」
ルーカスのペースに巻き込まれて、話に乗るしかなかった。
「ユリーシア様に抱きしめられるのが怖いです。髪を撫でられ、キスされることも怖いですね。甘い声で、耳元で『ルーカス』と呼ばれてしまうのも恐ろしいですね」
「……ふざけてるの? ルーカス」
「俺が単なるおふざけで、ここまでするとお思いですか。公爵夫妻の死も、ヘイゼルとエリスの悲惨な生も、本当のことですよ。復讐を奪った俺のことを恨みますよね?」
「……恨むわ」
そう答えるしかない。ユリーシアが苦々しい表情で頷くと、ルーカスはこの上なく優美に微笑んだ。
「ならば、俺に復讐してください。ちなみに今俺は、ユリーシア様に平手打ちされることが何より怖いです」
「……ああっもう、何なの!」
べしん。
かなり強く頬を叩いたが、左頬を赤く染めたルーカスは、嬉しそうに笑顔を浮かべるだけである。
「自分で叩いたくせに、『ごめんね』と謝って抱きしめられるのも悪くないです」
「……本音が出てるわよ。悪くないなら、やるわけないでしょ!」
「おっと、失礼しました。……ああ、左頬が痛い。痛いところにキスでもされたら、辛いだろうなあ」
「しないわよ!」
「おや、復讐はいいんですか? ……ははっ、痛い」
キスの代わりに平手打ちを飛ばしても、ルーカスはまた嬉しそうに笑う。怒りに任せてドンドンと机を殴れば、「怪我しますよ」と拳を包まれる。彼を殴っても喜ばれるだけだから、そこまでされると、ユリーシアには手も足も出ない。
「なんなのよ……なんなのよ……なんなのよ、馬鹿あ!」
「ええ、私は馬鹿です。馬鹿だから、ユリーシア様の復讐を奪ってしまったのです。恨みますよね? 復讐したいですよね?」
「したいけど……あんたが喜ぶんじゃ、復讐にならないじゃない!」
「ユリーシア様になら、俺は殺されても喜びますよ」
「馬鹿なの?」
「ええ、馬鹿です」
ああ言えばこう言う。ユリーシアは、髪をぐしゃぐしゃと乱してから、がっくりと肩を落とした。
「こんなつもりじゃなかったのに……」
「俺はずっと、こんなつもりでしたよ」
「あんたのことは知らないわ」
最も忠実な従者は、最も身近な裏切り者だった。
復讐対象を勝手にすり替えられたユリーシアは、彼の思惑に飲まれ、意味のない「復讐」をするしかなくなる。
「今の俺は、ユリーシア様に手を握られるのが怖いですよ」
「……うるさい。しないわよ」
この生活も悪くない、とユリーシアが諦めて迎合し、従者の病んだ愛を受け入れるまでには、まだまだ時間がかかるのだった。
目の奥に暗い炎を燃やしたユリーシア・ヴェルダン公爵令嬢は、恨みのこもった低い声を絞り出した。窓から射し込む月明かりしかない部屋は、骨の髄まで沁みるほどに寒い。
庶民が使うのと大差ない文机の上に、乱雑に散らかった細かい品々。その中でなにやら文字を書き込んでいた彼女は、ペンを勢い良く叩きつけた。
「おーっほっほ! これで復讐が叶うわ! 見なさいルーカス、これが『死に戻りの秘術』よ!」
「ついに完成させたのですね、ユリーシア様」
「ええ。長かったわ。歴史書の片隅で見かけた『死に戻りの秘術』という言葉から資料を探して……ついに、できたのよ! これで十年前に戻って、私は、あのいけすかない奴らをこてんぱんに叩きのめしてやるの!」
ルーカスは、背後からユリーシアの手元を覗き込む。
すっかり痩せこけた震える手が握りしめるのは、とある植物の葉を薄く伸ばした紙に、古代語で魔法陣を描き込んだもの。
「蛙の生き血と共にこの紙を飲んで、自分の血で描いた魔法陣の中で死ぬのよ。そうすれば、思いのままの時間へ戻って、生き直すことができるんだわ!」
爛々と輝く目は、常軌を逸しているとしか思えないものだ。復讐心で化け物のようになってしまった主人を、ルーカスは目を細めて見つめる。
「いいわねルーカス、前にも言った通り、あんたには最期まで私の体を守ってもらうから。死んで確実に命を落とすまで、決して魔法陣から動かさないでちょうだい」
「勿論です」
ルーカスは、ユリーシアには決して逆らわない。従順に頷くと、敬愛する主人の手のひらが、ルーカスの頬に添えられた。
「今の私には何にもないけれど、追放されても私に付き従ってくれたあんたには、戻った後は一番の信を置くと約束するわ。それを、褒美と思ってちょうだい」
「……ええ。ありがたきお言葉です」
ルーカスが頷くと、ユリーシアは微笑む。
「それじゃ、始めるわよ」
ユリーシアは、長い幽閉生活で、貴族としての嗜みもまるで忘れてしまったらしい。スカートの裾をたくし上げ、病的なまでに白い脚を晒して木の床に蹲る。握っていた紙をごくんと飲み込み、懐から取り出した小刀で、躊躇なく指先を切り付けていく。
滴る血液で、秘術のための魔法陣を寸分違わず塗り込める。その指先がぼろぼろになっていくのを、ルーカスは静かに見つめた。
美しい人だ。きらびやかな装いを失い、正気を失い、復讐しか見えなくなっても尚、ルーカスの主人は美しかった。
魔法陣が完成し、ユリーシアは顔を上げる。くすんだ銀の髪の隙間から、ぎらりと光る橙の瞳が覗く。
「できたわ、ルーカス。……あんたとは、これでさよならよ」
「はい。……俺が最期まで、お守りいたします」
「成功した喜びをあんたと共有できないのは、少し寂しいわねーー」
ユリーシアは、そう言って表情をくもらせる。
自分のために、そんなことを言ってくれるのだ。彼女の物憂げな表情を、ルーカスは目に焼き付けた。
ユリーシアの憂いは、一瞬であった。きりりと眉を吊り上げ、小刀を首元に当てる。
「……行ってくるわ」
「いってらっしゃいませ、ユリーシア様」
最も忠実な従者に見送られ、ユリーシアの体は力を失い、魔法陣の上に横たわった。
***
瞬きをする。眩しい。目を開く。天井には、瀟洒な天蓋の布。
「懐かしい……」
思わず呟いた声は、若々しく、いつになく潤っていて、ユリーシアは飛び起きた。体が軽い。見下ろす手のひらは、程よくふっくらとして、健康的だ。
「上手く行ったわ」
新台横の鏡に映る自分は、美しく整った銀糸の髪に、つややかな色白の肌、透き通った橙の瞳をしている。苦労を知らない、健やかな顔だ。その瞳の奥に、ユリーシアは、暗い炎を灯らせた。
記憶は、鮮明である。憎い名前は、ヘイゼル。公爵令嬢であるユリーシアの、婚約者であった侯爵家令息。幼い頃から決められた婚約で、それなりに上手く関係を作っていたはずだったのに、直前になって奴は裏切った。「本当の愛を知った」のなんだのと言って、妹のエリスと手を組み、ユリーシアはひどい淫売だという根も葉もない噂を流したのだ。
公爵令嬢の醜聞を、面白がる者も多かった。噂の広がりようがあまりにも酷かったので、婚約は破棄され、ユリーシアは辺境の別荘に幽閉された。
ユリーシアは、別荘で陰鬱な暮らしを送りながら、ずっとヘイゼルとエリスを恨んでいた。奴らがいたから、ユリーシアは惨めな思いをすることになったのだ。
死に戻ったのは、復讐のため。自分の命だって惜しくはない。ヘイゼルとエリスが絶望する顔を見られれば、それで満足だ。
「ルーカス! ルーカスはいる?」
目覚めたユリーシアは、最も忠実な従者を呼びつけた。幽閉生活では、彼に身の回りの世話を全て任せていたから、起床してすぐ彼を呼ぶのは当然の行いだった。
淡いノックの音がする。入室を許す。入ってきたルーカスは、記憶にある姿よりも若々しかった。張りのある肌、整った髪。何よりも皺一つない制服は、幽閉当時とは見違えるようだった。
「おや……お嬢様。はしたないお姿で私を呼びつけて、どうなされたのですか」
「ん……? ああ、そうよね」
妙にかしこまった物言いに、困ったように垂れた眉尻。それでユリーシアは、自分の粗相に気がついた。ユリーシアはまだ寝巻きである。薄いネグリジェ姿で異性の従者を呼びつけるのは、公爵令嬢のすることではない。「公爵令嬢らしい振る舞い」なんて、久しく忘れていた。さっさと感覚を取り戻さないと、またヘイゼル達に足元をすくわれてしまう。
「ルーカス。着替えるから、侍女を呼んでちょうだい」
そうそう、身の回りの世話は侍女に頼むのだった。思い出しながら指示を出すユリーシアの顔に、影がかかる。視線を上げると、背の高いルーカスが、寝台脇からこちらを見下ろしていた。
「なにかしら」
「……成功なされたのですね、お嬢様」
「ルーカス?」
彼の灰色の瞳は、妙にぎらりと輝く。若い頃の彼は、こんな不穏な目をする人だっただろうか。
「この頃のお嬢様は、俺のことを『ルーカス』とはお呼びにならなかった。そうでしょう? ユリーシア様……おかえりなさいませ」
まさか。
びりり、と胸が震えた。
「あんた、もしかして」
「『死に戻りの秘術』で、ユリーシア様の後を追わせていただきました。成功した喜びを共有したいとおっしゃったのでーー」
「そんなこと……言ったわね」
死ぬ間際の自身の言動を思い返し、ユリーシアは頷く。
「そのために、自ら命を絶ったというの?」
「ええ。ユリーシア様の一番の信が、たとえ俺だとしても、『俺ではない俺』に注がれるのは我慢なりません」
「相変わらずの忠誠心ね」
ふ、と口元を緩めるユリーシア。ルーカスはどんな状況でも、自分の忠実な従者であった。そんな彼が共にいると思うと。
「あんたがいると安心だわ」
復讐は、きっとうまく行く。そう思えるのだった。
「ルーカスがいるなら、話が早いわ。ヘイゼルとエリスに復讐してやるのよ。まずは今度のお茶会の時に、ヘイゼルをーー」
練りに練った復讐案を話し出すと、ルーカスが「そのことですが」と遮った。
「なあに?」
「ヘイゼルは、既に侯爵家を追放され、路頭に迷っているようですよ」
「え? どうして?」
ユリーシアの疑問には答えず、ルーカスは薄く笑う。
「エリスは、幼いながらに男性に媚を売る淫売との噂が流れ、別荘に幽閉されております」
「……嘘でしょう、ルーカス。そんなはずないわ。鏡を見なさい、ほら。この顔は、どう見ても十五の時の私よ。エリスとヘイゼルが、隠れて付き合い出したばかりの頃よ。それがどうして、エリスが幽閉されて……あっ。まさか、あんた、何かしたわね?」
過去が変わる理由など、ひとつしか思いつかない。ユリーシアが睨んでも、ルーカスは微笑むだけ。否定しないその態度が、全てを物語っていた。
「どうして?」
行き場を無くした復讐の炎が、一気に燃え上がる。
「どうして、そんなことするの? どうして? 私は、あいつらの惨めな姿を、この目で見て嘲笑ってやりたかったのに!」
「エリスが幽閉された別荘はもちろん、ヘイゼルが寝泊まりしている馬小屋も、俺は確認しております。ユリーシア様が望むのなら、いつでもご案内致しますよ」
「それじゃ駄目! あんただってわかってるでしょ、私は、復讐のために死に戻ったのよ。この手で奴らを壊してやるのが、何よりの楽しみだったのに、どうして奪うの?」
「五体満足で残してありますから、壊してやりたいのならお好きにどうぞ。ユリーシア様は公爵家当主ですから、存在ごと抹消することもできますよ」
「は? 公爵家当主?」
聞き捨てならない言葉を吐いたルーカスは、にこやかに頷く。
「ヘイゼルとエリスを許したご両親にも、ユリーシア様は腹を立ててらっしゃいましたよね?」
「ええ、それは確かにそうよ。ヘイゼルとエリスが終わったら、次は両親を陥れてやろうと……」
「前当主夫妻は、先月、視察先で強盗によって尊厳を蹂躙され、その命を散らされました。慣例に従い、ユリーシア様が当主となられたのです」
「ねえ、どうして! どうしてルーカスは、私の復讐を奪ってしまうの? 私がしたかったのに、私が両親を嵌めて、酷い目に遭わせたかったのに……」
握り込んだ拳が、真っ白になるほど力が入る。
ユリーシアにとって、それはひどい裏切りだった。
復讐のために死に、復讐のために生きるはずだったのに。復讐心だけを頼りに生きてきたのに。それを勝手に奪い取って、どうせよと言うのか。
「……俺は、ユリーシア様にひどいことをしましたね」
「ええ、そうだわ。わかっているのに、どうして、そんなことをしたの。私は、あんただけは味方だと……あんただけは信じられると、そう思ってたのに!」
「俺を、恨みますか?」
「ええ、恨むわ。だって、復讐する相手が居なくなってしまったんだもの。あいつらにやるつもりだった復讐を、全部、あんたにぶつけてやるわ!」
それは、癇癪だった。
前の人生で最期まで忠誠を尽くしてくれたルーカスを、いたぶっても心は晴れない。嫌な目に合わせた奴らに復讐するから意味があるのだ。
怒りに任せて吐き捨てた発言であるのに、ルーカスが「光栄です」と微笑むものだから、ユリーシアはさらに面食らった。
「光栄って……あんた……」
「ユリーシア様の復讐心は、何より強いお気持ち。その気持ちをこの身にぶつけていただけるなんて、死に戻った甲斐がありました」
「そんなの……おかしいわよ。私に復讐されたいの?」
「されたいですね、それはもう。ユリーシア様が俺に復讐することだけを考えてくださるのなら、本望です」
「……?」
何を言っているのだ、この従者は。
理解の追いつかない展開に呆気に取られたユリーシアは、毒気をすっかり抜かれてしまう。
「復讐の参考に、俺が恐れることを教えて差し上げましょうか」
「……聞くわ」
ルーカスのペースに巻き込まれて、話に乗るしかなかった。
「ユリーシア様に抱きしめられるのが怖いです。髪を撫でられ、キスされることも怖いですね。甘い声で、耳元で『ルーカス』と呼ばれてしまうのも恐ろしいですね」
「……ふざけてるの? ルーカス」
「俺が単なるおふざけで、ここまでするとお思いですか。公爵夫妻の死も、ヘイゼルとエリスの悲惨な生も、本当のことですよ。復讐を奪った俺のことを恨みますよね?」
「……恨むわ」
そう答えるしかない。ユリーシアが苦々しい表情で頷くと、ルーカスはこの上なく優美に微笑んだ。
「ならば、俺に復讐してください。ちなみに今俺は、ユリーシア様に平手打ちされることが何より怖いです」
「……ああっもう、何なの!」
べしん。
かなり強く頬を叩いたが、左頬を赤く染めたルーカスは、嬉しそうに笑顔を浮かべるだけである。
「自分で叩いたくせに、『ごめんね』と謝って抱きしめられるのも悪くないです」
「……本音が出てるわよ。悪くないなら、やるわけないでしょ!」
「おっと、失礼しました。……ああ、左頬が痛い。痛いところにキスでもされたら、辛いだろうなあ」
「しないわよ!」
「おや、復讐はいいんですか? ……ははっ、痛い」
キスの代わりに平手打ちを飛ばしても、ルーカスはまた嬉しそうに笑う。怒りに任せてドンドンと机を殴れば、「怪我しますよ」と拳を包まれる。彼を殴っても喜ばれるだけだから、そこまでされると、ユリーシアには手も足も出ない。
「なんなのよ……なんなのよ……なんなのよ、馬鹿あ!」
「ええ、私は馬鹿です。馬鹿だから、ユリーシア様の復讐を奪ってしまったのです。恨みますよね? 復讐したいですよね?」
「したいけど……あんたが喜ぶんじゃ、復讐にならないじゃない!」
「ユリーシア様になら、俺は殺されても喜びますよ」
「馬鹿なの?」
「ええ、馬鹿です」
ああ言えばこう言う。ユリーシアは、髪をぐしゃぐしゃと乱してから、がっくりと肩を落とした。
「こんなつもりじゃなかったのに……」
「俺はずっと、こんなつもりでしたよ」
「あんたのことは知らないわ」
最も忠実な従者は、最も身近な裏切り者だった。
復讐対象を勝手にすり替えられたユリーシアは、彼の思惑に飲まれ、意味のない「復讐」をするしかなくなる。
「今の俺は、ユリーシア様に手を握られるのが怖いですよ」
「……うるさい。しないわよ」
この生活も悪くない、とユリーシアが諦めて迎合し、従者の病んだ愛を受け入れるまでには、まだまだ時間がかかるのだった。
10
お気に入りに追加
23
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
執着王子の唯一最愛~私を蹴落とそうとするヒロインは王子の異常性を知らない~
犬の下僕
恋愛
公爵令嬢であり第1王子の婚約者でもあるヒロインのジャンヌは学園主催の夜会で突如、婚約者の弟である第二王子に糾弾される。「兄上との婚約を破棄してもらおう」と言われたジャンヌはどうするのか…
おデブな悪役令嬢の侍女に転生しましたが、前世の技術で絶世の美女に変身させます
ちゃんゆ
恋愛
男爵家の三女に産まれた私。衝撃的な出来事などもなく、頭を打ったわけでもなく、池で溺れて死にかけたわけでもない。ごくごく自然に前世の記憶があった。
そして前世の私は…
ゴットハンドと呼ばれるほどのエステティシャンだった。
サロン勤めで拘束時間は長く、休みもなかなか取れずに働きに働いた結果。
貯金残高はビックリするほど貯まってたけど、使う時間もないまま転生してた。
そして通勤の電車の中で暇つぶしに、ちょろーっとだけ遊んでいた乙女ゲームの世界に転生したっぽい?
あんまり内容覚えてないけど…
悪役令嬢がムチムチしてたのだけは許せなかった!
さぁ、お嬢様。
私のゴットハンドを堪能してくださいませ?
********************
初投稿です。
転生侍女シリーズ第一弾。
短編全4話で、投稿予約済みです。
断罪されて婚約破棄される予定のラスボス公爵令嬢ですけど、先手必勝で目にもの見せて差し上げましょう!
ありあんと
恋愛
ベアトリクスは突然自分が前世は日本人で、もうすぐ婚約破棄されて断罪される予定の悪役令嬢に生まれ変わっていることに気がついた。
気がついてしまったからには、自分の敵になる奴全部酷い目に合わせてやるしか無いでしょう。
婚約破棄された悪役令嬢は聖女の力を解放して自由に生きます!
白雪みなと
恋愛
王子に婚約破棄され、没落してしまった元公爵令嬢のリタ・ホーリィ。
その瞬間、自分が乙女ゲームの世界にいて、なおかつ悪役令嬢であることを思い出すリタ。
でも、リタにはゲームにはないはずの聖女の能力を宿しており――?
私はざまぁされた悪役令嬢。……ってなんだか違う!
杵島 灯
恋愛
王子様から「お前と婚約破棄する!」と言われちゃいました。
彼の隣には幼馴染がちゃっかりおさまっています。
さあ、私どうしよう?
とにかく処刑を避けるためにとっさの行動に出たら、なんか変なことになっちゃった……。
小説家になろう、カクヨムにも投稿中。
私、悪役令嬢ですが聖女に婚約者を取られそうなので自らを殺すことにしました
蓮恭
恋愛
私カトリーヌは、周囲が言うには所謂悪役令嬢というものらしいです。
私の実家は新興貴族で、元はただの商家でした。
私が発案し開発した独創的な商品が当たりに当たった結果、国王陛下から子爵の位を賜ったと同時に王子殿下との婚約を打診されました。
この国の第二王子であり、名誉ある王国騎士団を率いる騎士団長ダミアン様が私の婚約者です。
それなのに、先般異世界から召喚してきた聖女麻里《まり》はその立場を利用して、ダミアン様を籠絡しようとしています。
ダミアン様は私の最も愛する方。
麻里を討ち果たし、婚約者の心を自分のものにすることにします。
*初めての読み切り短編です❀.(*´◡`*)❀.
『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
昔話饅頭怖いを思い出した😱❕ルーカス君にはユリ~シアちゃんに忘れられる事が怖いかも(ノдヽ)。