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2章 フィリスは何も知らない
幕間2 意図せぬ感情
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「クッキーを食べた時のシルヴァン様の反応、ぼんやりして見られなかったんです。だからリベンジしたくって。また教えてもらえませんか?」
「もちろんですよ。クッキーばかりでは何ですから、プリンを作りましょうか」
厨房の扉から声が聞こえてくる。シルヴァンは、食堂で静かに茶を啜った。
(外に会話が丸聞こえだぞ)
道理で最近周囲の者がにやにやした顔でこちらを見てくる訳だ。ここ最近、フィリスは連日クッキーを焼き、城の者に振る舞っていた。甘い香りに誘われて暇な者が食堂に集い、焼き上がりを待っていた日もあったと聞いている。その間この調子で自分の名前が出ていたのだとしたら、にやつくはずである。
執務室からわざわざ持ってきた茶は、程よくぬるい。手元の資料に目を通しつつ、耳は厨房の方へと傾ける。
(今のところ、怪しい様子はないが)
シルヴァンは、傍で姿勢良く立っているグレアムをちらりと見る。頼れる部下の厳しい視線は、今厨房の扉へ一心に注がれていた。
(……本当に気に入らんのだなあ)
その生真面目な様子に、ほんの少しだけ口端が緩む。
こんなところで盗み聞きをすることになった発端は、昨日食べたクッキーを「美味いぞ」と褒めたことだ。味を気に入ったので夜の執務の間にも食べていたところ、グレアムが「簡単に騙されすぎです!」と怒り出したのだ。
「魔王様も、城の者達も! 胃袋で簡単に懐柔されるとは、聖女様の思う壺ですよ!」
「城の者達に振る舞ったのは、失敗作を無駄にしないためだと聞いたが」
「そんなものは方便ですよ、魔王様。胃袋を掴んで油断させ、魔王様の命を狙う隙を生み出そうとしているに違いありません」
「……かもしれぬなあ」
いきなり「愛している」だのと宣ったのには何か理由があるのだろうと、シルヴァンは考えていた。だからこそフィリスを城に迎え入れて数日間、怪しい言動を掴もうと薄ら警戒をしていたのだが、驚くほどに何もなかった。
シルヴァンの命を狙うのならば行動パターンや予定を把握したがるだろうに、そういった素振りは全くない。ただ厨房と自室を行き来するだけ。甘い匂いだけがやたらとするのに全然出て来ないと思ったら、城の者達の夕飯にフィリス作のクッキーが連日出ていると知った。尻尾を掴んだとばかりにグレアムが「懐柔する気だ!」と主張するので水を向けてみたが、変な焦り方をしているだけで怪しさは感じなかった。
外に出ると聞いた時はついに何か仕掛けてきたかと思ったが、ただ買い物をしてすぐ帰ってきた。そうして出てきたのがあのクッキーである。
(……もしかしたら、本当に一目惚れされたのかも、と)
思ってしまわないでもない。
頭では、初対面の相手に「愛している」などと言う人間など居ないことは理解している。しかし腹の底を探ろうとするほど、フィリスには探るべき腹が無いのだ。澄んだ色の金の瞳に、騙そうという暗い欲望は感じないのである。
そんな風に絆されかけていることに、グレアムは気づいたのだろう。「裏で何と言っているか聞けばわかるはずです」と連れて来られたのがこの食堂であった。今日もフィリスが厨房を訪ねたという情報をどこかから仕入れたらしい。
盗み聞きという形になるが、シルヴァンにとっても不本意ではなかった。陰で良からぬことを画策しているのだとしたら、そしてシルヴァンに対する愛がないことを堂々と表明するのなら、人間に寄せるべき愛などこちらにもない。ここで聞いたことが、判断材料になるという訳である。
「ディルさん……焦げてしまった気がします」
「やや焦げ気味ですが、許容範囲でしょう。香ばしい良い匂いですよ」
「そうですか? ……なんだか、ブラウンキャンディみたいな匂いです」
「ブラウンキャンディとは?」
「こんな風に茶色くて透明な飴で、棒に付いていて、出店なんかで売っているんです。紅茶を飲みながら舐めると美味しいんですよ。中に色々な具が混ざっている飴もあって、それはそれで楽しくて好きでした」
「ふむ……煮詰めたこれに合う具ですか。ドライフルーツなど良いかもしれませんね。紅茶にも合いますから」
「あっ、確かにそんな飴もあった気がします。リモーネとかオランジの皮が入ったようなやつ」
「ああ、それは爽やかで甘くて美味しいかもしれませんね」
「そうなんですよ。……あれっ、固まっちゃった」
「火から下ろして時間が経ちすぎましたね。溶けているうちに型に流さないと」
「そうだったんですね。どうしよう……カチカチです」
呑気な会話だな。
シルヴァンは、つい欠伸をする。書類をめくる手付きは遅々として進まない。厨房から流れてくる甘い香りとくだらないやり取りに、どうも注意力を削がれてしまう。
「もう良いだろう。戻らぬか」
厨房へは聞こえない程度の小さな声で、グレアムに話しかける。
「いえ、もう少しだけ。きっと尻尾を出すはずです」
「任せるが……それにしても、腹が減る匂いと会話だ」
甘いものの匂いを嗅ぎながら、外の街のうまいものの話を聞く。朝食を食べてそう経っていないのに、シルヴァンの腹は空き始めた。
昨晩のクッキーを取っておけば良かった。少し後悔しながら、紅茶を口に含んで空腹を癒す。
その時だった。
ジュワアァ、と何か大きな音が鳴る。
「きゃああぁ!」
フィリスの悲鳴が聞こえ、シルヴァンは反射的に立ち上がった。
「おい、大丈夫か」
厨房の扉を開けると、もわもわと白い水蒸気が溢れ中の様子が見えない。何か事故が起きたのだろうか。
「え? ……シルヴァン様?」
「怪我をしたのか? 何やら叫んでいたが」
そう言葉を交わすうちに、吹き上がった水蒸気が薄れる。小鍋を持ったフィリスが、きょとんとした目でこちらを見ていた。怪我はなさそうだ。シルヴァンは、知らず知らずのうちに強張っていた肩から力を抜く。
「あの……カラメルが固まってしまったので、水を足して溶かそうとしたんです。手元を誤って、熱い金網に水を掛けてしまって。一気に煙が出たから驚いて声が出たんですが……シルヴァン様、どうしてここに?」
フィリスからの問いに、シルヴァンは一瞬視線を揺らした。そういえばこっそりと盗み聞きをしていたのに、つい体が動いてしまったのだ。
「……廊下を歩いていたら、悲鳴が聞こえたから見に来たのだ」
我ながら苦しい言い訳である。廊下を歩いていて、あんな速さで厨房を覗けるはずがない。フィリスの後ろに居るディルなどはにやにやと何か言いたげな笑みを浮かべている。
「そうだったんですか。偶然でしたね」
これほどわかりやすい嘘なのに、フィリスはあっさりと信じる。素直な奴なのだな、とシルヴァンは思った。なるほど、だから「魔獣をけしかけるのを止めれば戦争は終わる」などという与太話を信じられる訳である。
素直すぎるというのも憐れなものだ。子供みたいに澄んだ瞳をするフィリスの頭に、手をぽんと乗せる。
「えっ? わ、わあ……」
「……っ!」
無意識の行動だった。手のひらに触れた髪のあまりにも滑らかな感触に胸がどきりとし、シルヴァンはぱっと手を離す。
「……悪い。……妹の幼い頃を思い出した」
「え、え、あ、そうですか」
フィリスの白い頬が桃色に染まっている。一丁前に照れやがって。苛立ちのような感情を抱き、シルヴァンはフィリスに背を向ける。
「邪魔したな。……プリン、楽しみにしてるぞ」
そう言い残し、厨房の扉を閉める。
「……何で知ってるんだろう」
余計な発言でフィリスが首を傾げたことも、シルヴァンの頬も赤かったことでディルがにやついていたことも、シルヴァンは気づかないのだった。
「どうされたんですか魔王様、あんなことをしたら、厨房でも警戒して思惑を見せなくなるに違いありません」
「悪かった。危険そうだからつい、体が動いてしまったのだ」
「魔王様はお優しすぎます。相手は人間、聖女ですよ?」
「わかっている」
グレアムの叱責はやや煩わしく、シルヴァンは素っ気なく返した。
自分だって、あんなつもりはなかった。あそこに居たのは、あくまでも探りを入れるため。助けるためではない。
だが、事故かと思ったらつい体が動いてしまったのである。
(これは……参ったな)
手の内に残る髪の感触を意識すると、僅かに鼓動が速まる。シルヴァンは手のひらを見つめ、ため息を吐いた。
(参ったな。本当に)
意図せぬ感情の芽生えを自覚したシルヴァンは、心の内で繰り返しながら外を見る。上方に見える空がやたらと綺麗で、また(参ったな)と思うのであった。
「もちろんですよ。クッキーばかりでは何ですから、プリンを作りましょうか」
厨房の扉から声が聞こえてくる。シルヴァンは、食堂で静かに茶を啜った。
(外に会話が丸聞こえだぞ)
道理で最近周囲の者がにやにやした顔でこちらを見てくる訳だ。ここ最近、フィリスは連日クッキーを焼き、城の者に振る舞っていた。甘い香りに誘われて暇な者が食堂に集い、焼き上がりを待っていた日もあったと聞いている。その間この調子で自分の名前が出ていたのだとしたら、にやつくはずである。
執務室からわざわざ持ってきた茶は、程よくぬるい。手元の資料に目を通しつつ、耳は厨房の方へと傾ける。
(今のところ、怪しい様子はないが)
シルヴァンは、傍で姿勢良く立っているグレアムをちらりと見る。頼れる部下の厳しい視線は、今厨房の扉へ一心に注がれていた。
(……本当に気に入らんのだなあ)
その生真面目な様子に、ほんの少しだけ口端が緩む。
こんなところで盗み聞きをすることになった発端は、昨日食べたクッキーを「美味いぞ」と褒めたことだ。味を気に入ったので夜の執務の間にも食べていたところ、グレアムが「簡単に騙されすぎです!」と怒り出したのだ。
「魔王様も、城の者達も! 胃袋で簡単に懐柔されるとは、聖女様の思う壺ですよ!」
「城の者達に振る舞ったのは、失敗作を無駄にしないためだと聞いたが」
「そんなものは方便ですよ、魔王様。胃袋を掴んで油断させ、魔王様の命を狙う隙を生み出そうとしているに違いありません」
「……かもしれぬなあ」
いきなり「愛している」だのと宣ったのには何か理由があるのだろうと、シルヴァンは考えていた。だからこそフィリスを城に迎え入れて数日間、怪しい言動を掴もうと薄ら警戒をしていたのだが、驚くほどに何もなかった。
シルヴァンの命を狙うのならば行動パターンや予定を把握したがるだろうに、そういった素振りは全くない。ただ厨房と自室を行き来するだけ。甘い匂いだけがやたらとするのに全然出て来ないと思ったら、城の者達の夕飯にフィリス作のクッキーが連日出ていると知った。尻尾を掴んだとばかりにグレアムが「懐柔する気だ!」と主張するので水を向けてみたが、変な焦り方をしているだけで怪しさは感じなかった。
外に出ると聞いた時はついに何か仕掛けてきたかと思ったが、ただ買い物をしてすぐ帰ってきた。そうして出てきたのがあのクッキーである。
(……もしかしたら、本当に一目惚れされたのかも、と)
思ってしまわないでもない。
頭では、初対面の相手に「愛している」などと言う人間など居ないことは理解している。しかし腹の底を探ろうとするほど、フィリスには探るべき腹が無いのだ。澄んだ色の金の瞳に、騙そうという暗い欲望は感じないのである。
そんな風に絆されかけていることに、グレアムは気づいたのだろう。「裏で何と言っているか聞けばわかるはずです」と連れて来られたのがこの食堂であった。今日もフィリスが厨房を訪ねたという情報をどこかから仕入れたらしい。
盗み聞きという形になるが、シルヴァンにとっても不本意ではなかった。陰で良からぬことを画策しているのだとしたら、そしてシルヴァンに対する愛がないことを堂々と表明するのなら、人間に寄せるべき愛などこちらにもない。ここで聞いたことが、判断材料になるという訳である。
「ディルさん……焦げてしまった気がします」
「やや焦げ気味ですが、許容範囲でしょう。香ばしい良い匂いですよ」
「そうですか? ……なんだか、ブラウンキャンディみたいな匂いです」
「ブラウンキャンディとは?」
「こんな風に茶色くて透明な飴で、棒に付いていて、出店なんかで売っているんです。紅茶を飲みながら舐めると美味しいんですよ。中に色々な具が混ざっている飴もあって、それはそれで楽しくて好きでした」
「ふむ……煮詰めたこれに合う具ですか。ドライフルーツなど良いかもしれませんね。紅茶にも合いますから」
「あっ、確かにそんな飴もあった気がします。リモーネとかオランジの皮が入ったようなやつ」
「ああ、それは爽やかで甘くて美味しいかもしれませんね」
「そうなんですよ。……あれっ、固まっちゃった」
「火から下ろして時間が経ちすぎましたね。溶けているうちに型に流さないと」
「そうだったんですね。どうしよう……カチカチです」
呑気な会話だな。
シルヴァンは、つい欠伸をする。書類をめくる手付きは遅々として進まない。厨房から流れてくる甘い香りとくだらないやり取りに、どうも注意力を削がれてしまう。
「もう良いだろう。戻らぬか」
厨房へは聞こえない程度の小さな声で、グレアムに話しかける。
「いえ、もう少しだけ。きっと尻尾を出すはずです」
「任せるが……それにしても、腹が減る匂いと会話だ」
甘いものの匂いを嗅ぎながら、外の街のうまいものの話を聞く。朝食を食べてそう経っていないのに、シルヴァンの腹は空き始めた。
昨晩のクッキーを取っておけば良かった。少し後悔しながら、紅茶を口に含んで空腹を癒す。
その時だった。
ジュワアァ、と何か大きな音が鳴る。
「きゃああぁ!」
フィリスの悲鳴が聞こえ、シルヴァンは反射的に立ち上がった。
「おい、大丈夫か」
厨房の扉を開けると、もわもわと白い水蒸気が溢れ中の様子が見えない。何か事故が起きたのだろうか。
「え? ……シルヴァン様?」
「怪我をしたのか? 何やら叫んでいたが」
そう言葉を交わすうちに、吹き上がった水蒸気が薄れる。小鍋を持ったフィリスが、きょとんとした目でこちらを見ていた。怪我はなさそうだ。シルヴァンは、知らず知らずのうちに強張っていた肩から力を抜く。
「あの……カラメルが固まってしまったので、水を足して溶かそうとしたんです。手元を誤って、熱い金網に水を掛けてしまって。一気に煙が出たから驚いて声が出たんですが……シルヴァン様、どうしてここに?」
フィリスからの問いに、シルヴァンは一瞬視線を揺らした。そういえばこっそりと盗み聞きをしていたのに、つい体が動いてしまったのだ。
「……廊下を歩いていたら、悲鳴が聞こえたから見に来たのだ」
我ながら苦しい言い訳である。廊下を歩いていて、あんな速さで厨房を覗けるはずがない。フィリスの後ろに居るディルなどはにやにやと何か言いたげな笑みを浮かべている。
「そうだったんですか。偶然でしたね」
これほどわかりやすい嘘なのに、フィリスはあっさりと信じる。素直な奴なのだな、とシルヴァンは思った。なるほど、だから「魔獣をけしかけるのを止めれば戦争は終わる」などという与太話を信じられる訳である。
素直すぎるというのも憐れなものだ。子供みたいに澄んだ瞳をするフィリスの頭に、手をぽんと乗せる。
「えっ? わ、わあ……」
「……っ!」
無意識の行動だった。手のひらに触れた髪のあまりにも滑らかな感触に胸がどきりとし、シルヴァンはぱっと手を離す。
「……悪い。……妹の幼い頃を思い出した」
「え、え、あ、そうですか」
フィリスの白い頬が桃色に染まっている。一丁前に照れやがって。苛立ちのような感情を抱き、シルヴァンはフィリスに背を向ける。
「邪魔したな。……プリン、楽しみにしてるぞ」
そう言い残し、厨房の扉を閉める。
「……何で知ってるんだろう」
余計な発言でフィリスが首を傾げたことも、シルヴァンの頬も赤かったことでディルがにやついていたことも、シルヴァンは気づかないのだった。
「どうされたんですか魔王様、あんなことをしたら、厨房でも警戒して思惑を見せなくなるに違いありません」
「悪かった。危険そうだからつい、体が動いてしまったのだ」
「魔王様はお優しすぎます。相手は人間、聖女ですよ?」
「わかっている」
グレアムの叱責はやや煩わしく、シルヴァンは素っ気なく返した。
自分だって、あんなつもりはなかった。あそこに居たのは、あくまでも探りを入れるため。助けるためではない。
だが、事故かと思ったらつい体が動いてしまったのである。
(これは……参ったな)
手の内に残る髪の感触を意識すると、僅かに鼓動が速まる。シルヴァンは手のひらを見つめ、ため息を吐いた。
(参ったな。本当に)
意図せぬ感情の芽生えを自覚したシルヴァンは、心の内で繰り返しながら外を見る。上方に見える空がやたらと綺麗で、また(参ったな)と思うのであった。
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