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48 いざ、悪役令嬢
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慧のクラスに行ってみようと考えたのは、夏休みが明けて、3日目であった。毎日放課後は文化祭の準備をし、その後に図書室へ顔を出す。慧はその度にいなくて、私の抱える不安は、どんどん大きくなっていた。
あの海水浴以来、慧とは会えていない。夏休みはそういうものだけれど、普通の学園生活が始まってからも、会えていない。もう、図書室に来ることはなくなってしまったのだろうか。夏休みを経て変わった人の中に、慧も入っているのかもしれない。
そんなことばかり、考えてしまう。
昼休みに廊下を歩き、慧のクラスに向かう。以前1度だけ、彼の教室を覗いたことがある。あれは、私が早苗を初めてテストで抜き、2位になれたときだった。
廊下を歩く人が少ないのは、皆教室にいるからだ。文化祭もいよいよ間近になり、先輩たちは皆、自分のクラスの準備に励んでいるらしい。
御目当ての教室にたどり着いた。私は、外から呼びかける勇気なんてなくて、そっと中を覗き込む。
慧の姿は、すぐに見つかった。見知らぬ人ばかりの教室に、知っている顔があると、それだけで目を引く。慧は床に屈み、何か作業をしながら、隣の人に笑いかけていた。その頬に、まるいえくぼ。
声をかけてはいけない、と思った。
慧は自分のことを特待生だと、だから周囲からあまり良い顔をされないと、そんな風に話していた。でもあんな笑顔をするということは、教室でうまく行ったのだ。
当たり前だ。彼の中身を知れば、誰だって好きになる。
私は一歩後ずさり、そのまま壁際に移動する。窓の外の空は妙に明るくて、なんだか虚しい。
「藤乃さん? どうしたの」
声と同時に、肩をとん、と叩かれる。
「……慧先輩」
声を聞いた時から、誰だかわかっていた。振り向くと、見覚えのある眼鏡と、まるいえくぼ。慧は、私の顔を見つめると、ふっと眉尻を下げる。困ったような笑顔。
「どうしてそんな、悲しそうな顔をしているのかな」
「悲しそうでしたか、私」
「うん、かなり」
私は自分の頬に手を当て、軽く解してみる。そのあと慧の方を見ると、彼は、私の記憶通りの、柔らかな表情をしていた。
なんだ、全然変わらないじゃないか。慧の笑顔は、夏休み前と、何も変わらない。
「……夏休みが明けても、慧先輩と会えなくて。友人に『夏休みで人は変わる』って言われて、なんだか急に心配になったんです」
気が緩むと、言葉がするすると出てくる。
「そうなんだね。俺、何か変わって見える?」
「……いえ」
もう、私の目に映る慧は、いつもの慧だった。
「何も変わらないよ。俺だって別に、夏休みに何かしたわけじゃないから」
「ただ、クラスの方と、楽しそうに話してらしたので。なんだか……違うのかも、って」
「ああ、そっか」
教室の方をちらりと見ると、慧は軽く片手を動かした。追い払うような仕草だ。見れば、教室の入り口でにやにやしている男子生徒は、どこかで見たような。
「あの方……」
「覚えてる? 前に図書室で藤乃さんに絡んだ、失礼な奴だよ。……話してみたら、悪い奴でもなくてさ。夏休みは文化祭の準備に力を入れていたから、話すようになったんだ」
そうだ、あの人だ。
慧のことを「特待生のくせに」と見下していた、品性のない人。今も、にやつく顔にも品は感じられない。ただ、悪意に似た嫌らしさは、彼にはない。
男子生徒は入り口から離れず、むしろその隣にもうひとり増えた。こちらを伺う彼らを遮るように、慧が扉を閉める。
「ごめんね、藤乃さんに興味があるみたいで」
「私に、ですか?」
「まあ……いろいろ、噂されてるんだよ」
慧は後頭部に手をやり、気まずそうにする。
特待生であるという理由で、注目を浴びているから。私にはわからない、いろいろとやりにくいこともあるのだろう。
私は誤魔化した内容には敢えて触れずに、扉から視線を外した。
「やっぱり慧先輩も、文化祭の準備はされてたんですね」
「そうなんだよ。今年は、後夜祭に行かないといけないからね。本当はそういうの、そんなに興味ないんだけど」
「行かないといけない?」
聞き返すと、慧は瞬きを何度かする。
「そうだよ。言わなかったっけ? 藤乃さんのために、俺は今年は後夜祭を目指す、って」
そういえば、そうだった。
私が相槌を打とうとすると、ひゅう、と甲高い音が鳴る。
「言うねえ」
「ああもう、うるさいな、お前たち。放っといてくれよ」
慧が閉じたはずの扉がまた開き、先ほど顔を出していた品のない人たちが、口笛を吹いて冷やかしたのだ。慧はひと通り文句を言い、そのあと、ため息をついた。
「ここだと、落ち着いて話せないね。ごめん。今日は図書室に行くから、そこで話そう」
「……はい!」
私の胸に、温かな気持ちが、わーっと広がった。
後夜祭に出るために、文化祭の準備をしていただけだったんだわ。
教室に帰る足取りは軽く、心はふかふかしている。事情がわかってしまえば、自分の不安なんて、根拠のない妄想だった。
嬉しい気持ちで廊下を歩き、教室の扉に手をかける。がらり、と開ける。教室はいつものようにざわついていて、昼食を食べ終えた人から順に、準備に取り掛かっているところだった。
「ごめんなさい、遅くなって」
「いえ。それなら藤乃さん、これを頼んでもいい?」
私は、受付に置く案内札を受け取り、文字がおどろおどろしく垂れるように手を加える。
準備に没頭していると、時間はすぐに過ぎて行った。
放課後は、図書室へ。慧との約束があったので、私は準備を早めに切り上げ、図書室へ向かった。
同じ人気のない廊下なのに、こうも気分で、見え方が違うものか。慧の変貌を心配して歩いていた初日とは違い、ただ、待ち遠しさを感じている。
図書室には、電気がついていた。扉を開ける。重たい埃の匂い。この、閉塞感すら感じさせる空気が、私は好きなのだ。
「ああ、ちょうど良かった。俺も今来たところなんだよ」
いつもの場所に、慧の姿。
私は暫く立ち止まって、その姿を眺めた。こちらを見て、柔らかく微笑む表情。まるいえくぼ。図書室を背景にしたその姿を、ずっと見たかったのだ。
「……慧先輩、お久しぶりです」
私が言うと、慧はくすりと笑う。
「昼休み、会ったよね」
「はい。でも、そうではなくて……」
「うん、わかるよ。久しぶり、藤乃さん。夏休みはどうだった?」
日常は、少しくらい時間が空いたって、変わらない。久しぶりの慧との会話は、何事もなかったのように弾んだ。
「……そういえば慧先輩、夏休み中に、ゲームを進めましたよね?」
それぞれの夏休みを話していると、ふと思い出して、私は聞いた。
「そう。藤乃さんにも会えなかったから、進めておこうと思って」
「私も、進めたんです。見ましたか、文化祭のイベント」
「見た。難しいね。主人公が外に出たら樹先輩とのイベントが起こっちゃうから、強引に止めるしかないよ」
早苗が廊下に出て、樹と会い、散歩をすることで文化祭のイベントが起きる。それを阻止し、海斗とのイベントを起こさないといけない。
「でも、早苗さんをどう止めたらいいか、迷っていて。手を握っておくわけにもいかないし……」
「そうだね。それか、樹先輩の方を、手が離せない状態にしておくか」
「あの場面で散歩に行けるということは、後夜祭の最中は、生徒会長はもう仕事が終わっているということですよね」
そこで暫く、沈黙する。
もう仕事の終わった樹が、手を離せない事態とは。後夜祭で騒ぎが起きれば、樹は対応に追われるだろうけれど、そんなことになったら、海斗とのイベント自体がふいになりそうだ。
「……樹先輩が外に出ようとする前に、俺が足止めしておくよ。幸い、前に生徒会室を掃除したおかげで、話せる仲にもなっているし」
海水浴の時、樹の方から慧に話しかけた程度には、二人は既に打ち解けている。
「そうしたら、私が早苗さんを、海斗さんのところに誘導すれば良いんですね」
「そう。ひと芝居打って、会場に戻らざるを得ないようにしよう。ほら、物語の主人公みたいにさ」
慧が言っているのは、私たちが読んだ物語の主人公。「悪役令嬢」たちのことだ。自分の目的のために、敢えてヒロインに糾弾される状況を作って思い通りに事態を動かす、彼女たち。
私が何と彼女に言ったら、海斗のところへ行くしかなくなるのだろうか。慧と顔を突き合わせ、私たちは、台本を考えた。
言葉は、次々思い浮かぶ。私が今まで、何冊の「悪役令嬢」物語を読んできたと思っているのか。
「……で、こう返ってきたら……」
「藤乃さん、もっと声のトーンを抑えないと」
後夜祭で私は、1日限りの「悪役令嬢」になる。
あの海水浴以来、慧とは会えていない。夏休みはそういうものだけれど、普通の学園生活が始まってからも、会えていない。もう、図書室に来ることはなくなってしまったのだろうか。夏休みを経て変わった人の中に、慧も入っているのかもしれない。
そんなことばかり、考えてしまう。
昼休みに廊下を歩き、慧のクラスに向かう。以前1度だけ、彼の教室を覗いたことがある。あれは、私が早苗を初めてテストで抜き、2位になれたときだった。
廊下を歩く人が少ないのは、皆教室にいるからだ。文化祭もいよいよ間近になり、先輩たちは皆、自分のクラスの準備に励んでいるらしい。
御目当ての教室にたどり着いた。私は、外から呼びかける勇気なんてなくて、そっと中を覗き込む。
慧の姿は、すぐに見つかった。見知らぬ人ばかりの教室に、知っている顔があると、それだけで目を引く。慧は床に屈み、何か作業をしながら、隣の人に笑いかけていた。その頬に、まるいえくぼ。
声をかけてはいけない、と思った。
慧は自分のことを特待生だと、だから周囲からあまり良い顔をされないと、そんな風に話していた。でもあんな笑顔をするということは、教室でうまく行ったのだ。
当たり前だ。彼の中身を知れば、誰だって好きになる。
私は一歩後ずさり、そのまま壁際に移動する。窓の外の空は妙に明るくて、なんだか虚しい。
「藤乃さん? どうしたの」
声と同時に、肩をとん、と叩かれる。
「……慧先輩」
声を聞いた時から、誰だかわかっていた。振り向くと、見覚えのある眼鏡と、まるいえくぼ。慧は、私の顔を見つめると、ふっと眉尻を下げる。困ったような笑顔。
「どうしてそんな、悲しそうな顔をしているのかな」
「悲しそうでしたか、私」
「うん、かなり」
私は自分の頬に手を当て、軽く解してみる。そのあと慧の方を見ると、彼は、私の記憶通りの、柔らかな表情をしていた。
なんだ、全然変わらないじゃないか。慧の笑顔は、夏休み前と、何も変わらない。
「……夏休みが明けても、慧先輩と会えなくて。友人に『夏休みで人は変わる』って言われて、なんだか急に心配になったんです」
気が緩むと、言葉がするすると出てくる。
「そうなんだね。俺、何か変わって見える?」
「……いえ」
もう、私の目に映る慧は、いつもの慧だった。
「何も変わらないよ。俺だって別に、夏休みに何かしたわけじゃないから」
「ただ、クラスの方と、楽しそうに話してらしたので。なんだか……違うのかも、って」
「ああ、そっか」
教室の方をちらりと見ると、慧は軽く片手を動かした。追い払うような仕草だ。見れば、教室の入り口でにやにやしている男子生徒は、どこかで見たような。
「あの方……」
「覚えてる? 前に図書室で藤乃さんに絡んだ、失礼な奴だよ。……話してみたら、悪い奴でもなくてさ。夏休みは文化祭の準備に力を入れていたから、話すようになったんだ」
そうだ、あの人だ。
慧のことを「特待生のくせに」と見下していた、品性のない人。今も、にやつく顔にも品は感じられない。ただ、悪意に似た嫌らしさは、彼にはない。
男子生徒は入り口から離れず、むしろその隣にもうひとり増えた。こちらを伺う彼らを遮るように、慧が扉を閉める。
「ごめんね、藤乃さんに興味があるみたいで」
「私に、ですか?」
「まあ……いろいろ、噂されてるんだよ」
慧は後頭部に手をやり、気まずそうにする。
特待生であるという理由で、注目を浴びているから。私にはわからない、いろいろとやりにくいこともあるのだろう。
私は誤魔化した内容には敢えて触れずに、扉から視線を外した。
「やっぱり慧先輩も、文化祭の準備はされてたんですね」
「そうなんだよ。今年は、後夜祭に行かないといけないからね。本当はそういうの、そんなに興味ないんだけど」
「行かないといけない?」
聞き返すと、慧は瞬きを何度かする。
「そうだよ。言わなかったっけ? 藤乃さんのために、俺は今年は後夜祭を目指す、って」
そういえば、そうだった。
私が相槌を打とうとすると、ひゅう、と甲高い音が鳴る。
「言うねえ」
「ああもう、うるさいな、お前たち。放っといてくれよ」
慧が閉じたはずの扉がまた開き、先ほど顔を出していた品のない人たちが、口笛を吹いて冷やかしたのだ。慧はひと通り文句を言い、そのあと、ため息をついた。
「ここだと、落ち着いて話せないね。ごめん。今日は図書室に行くから、そこで話そう」
「……はい!」
私の胸に、温かな気持ちが、わーっと広がった。
後夜祭に出るために、文化祭の準備をしていただけだったんだわ。
教室に帰る足取りは軽く、心はふかふかしている。事情がわかってしまえば、自分の不安なんて、根拠のない妄想だった。
嬉しい気持ちで廊下を歩き、教室の扉に手をかける。がらり、と開ける。教室はいつものようにざわついていて、昼食を食べ終えた人から順に、準備に取り掛かっているところだった。
「ごめんなさい、遅くなって」
「いえ。それなら藤乃さん、これを頼んでもいい?」
私は、受付に置く案内札を受け取り、文字がおどろおどろしく垂れるように手を加える。
準備に没頭していると、時間はすぐに過ぎて行った。
放課後は、図書室へ。慧との約束があったので、私は準備を早めに切り上げ、図書室へ向かった。
同じ人気のない廊下なのに、こうも気分で、見え方が違うものか。慧の変貌を心配して歩いていた初日とは違い、ただ、待ち遠しさを感じている。
図書室には、電気がついていた。扉を開ける。重たい埃の匂い。この、閉塞感すら感じさせる空気が、私は好きなのだ。
「ああ、ちょうど良かった。俺も今来たところなんだよ」
いつもの場所に、慧の姿。
私は暫く立ち止まって、その姿を眺めた。こちらを見て、柔らかく微笑む表情。まるいえくぼ。図書室を背景にしたその姿を、ずっと見たかったのだ。
「……慧先輩、お久しぶりです」
私が言うと、慧はくすりと笑う。
「昼休み、会ったよね」
「はい。でも、そうではなくて……」
「うん、わかるよ。久しぶり、藤乃さん。夏休みはどうだった?」
日常は、少しくらい時間が空いたって、変わらない。久しぶりの慧との会話は、何事もなかったのように弾んだ。
「……そういえば慧先輩、夏休み中に、ゲームを進めましたよね?」
それぞれの夏休みを話していると、ふと思い出して、私は聞いた。
「そう。藤乃さんにも会えなかったから、進めておこうと思って」
「私も、進めたんです。見ましたか、文化祭のイベント」
「見た。難しいね。主人公が外に出たら樹先輩とのイベントが起こっちゃうから、強引に止めるしかないよ」
早苗が廊下に出て、樹と会い、散歩をすることで文化祭のイベントが起きる。それを阻止し、海斗とのイベントを起こさないといけない。
「でも、早苗さんをどう止めたらいいか、迷っていて。手を握っておくわけにもいかないし……」
「そうだね。それか、樹先輩の方を、手が離せない状態にしておくか」
「あの場面で散歩に行けるということは、後夜祭の最中は、生徒会長はもう仕事が終わっているということですよね」
そこで暫く、沈黙する。
もう仕事の終わった樹が、手を離せない事態とは。後夜祭で騒ぎが起きれば、樹は対応に追われるだろうけれど、そんなことになったら、海斗とのイベント自体がふいになりそうだ。
「……樹先輩が外に出ようとする前に、俺が足止めしておくよ。幸い、前に生徒会室を掃除したおかげで、話せる仲にもなっているし」
海水浴の時、樹の方から慧に話しかけた程度には、二人は既に打ち解けている。
「そうしたら、私が早苗さんを、海斗さんのところに誘導すれば良いんですね」
「そう。ひと芝居打って、会場に戻らざるを得ないようにしよう。ほら、物語の主人公みたいにさ」
慧が言っているのは、私たちが読んだ物語の主人公。「悪役令嬢」たちのことだ。自分の目的のために、敢えてヒロインに糾弾される状況を作って思い通りに事態を動かす、彼女たち。
私が何と彼女に言ったら、海斗のところへ行くしかなくなるのだろうか。慧と顔を突き合わせ、私たちは、台本を考えた。
言葉は、次々思い浮かぶ。私が今まで、何冊の「悪役令嬢」物語を読んできたと思っているのか。
「……で、こう返ってきたら……」
「藤乃さん、もっと声のトーンを抑えないと」
後夜祭で私は、1日限りの「悪役令嬢」になる。
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