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32 百聞は一見
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「また明日、藤乃さん」
「はい、また明日、慧先輩」
この挨拶ができなくなるなんて、やっぱり、嫌だ。
いつもの挨拶を交わし、私は図書室を出る。
婚約破棄を選ぼうと決めた心は、妙にすっきりとしていた。もっと辛かったり、重かったり、迷ったりすると思っていた。
こんなに心が楽なのだから、やっぱりこれが、正解なんだ。
軽い心が、自分の選択が正しいことを、裏付けてくれる。
人気のない廊下を進む足音は、今日も柔らかく、温かい。
「……お兄様?」
「藤乃? いいよ、入って」
ひと足先に夏休みに入った兄は、最近は、よく家にいる。帰宅してすぐ、兄の部屋をノックすると、内側から扉が開く。
「どうぞ、お入りください」
「ありがとう」
扉を開けてくれたのは、兄の従者である。私とシノのように、懇意にしている従者は、兄にもいる。
兄は勉強していたようで、机に開かれた参考書の表紙を、ぱたりと閉じた。
兄に向かい合うようにして腰掛けると、目の前に、紅茶が用意される。
「突然押しかけてごめんなさい」
「何、言ってるの。いつ来てもいいんだよ。……それで、どうしたの?」
兄は、紅茶のカップを皿から持ち上げる。
カチ、という淡い音。陶器と陶器の擦れる音は、密やかで、涼やかだ。
「お兄様に言われた、2択のことなの」
兄はそのまま、カップを皿に戻す。
紅茶は、柑橘の香りがする甘いものだった。ひと口含んで唇を湿らせ、それから、兄を見る。
「……私、海斗さんとの婚約は、このまま、破棄したいと思って」
「……ふうん。どうして?」
兄は、頬杖をつき、薄く微笑む。
「気付いたの。私は、海斗さんのことを好きなのではなくて、お父様に見限られるのが怖いだけだ、って。そのために、好きでもない人と婚約して、慧先輩にも会えなくなるくらいなら……」
この機会に、破棄してもらった方が良い。
それが、私の選択だった。
「良いきっかけだ、ってことかな」
「ええ。ただ、やっぱり、お父様は怖いけど……」
海斗に、婚約破棄を申し渡された。
そう真実を告げた時、父はどんな顔をして、どんなことを言うのか。
それを想像すると、このまま何も言わずにおきたい気持ちも芽生えてくる。
「お父様は、藤乃には厳しいからね」
「……お兄様には、違うの?」
兄は、首を縦に振る。父似の癖毛が、くるんと揺れる。
「僕は、自由にやらせてもらっているから……藤乃は、小さい頃から婚約者をあてがわれて、習い事も交友関係も決められて、窮屈そうだなって思っていたよ」
「……そうだったの?」
「そうだよ。藤乃も幸せそうだったから、特に疑問を抱いてこなかったんだよ」
兄に、そんな風に思われていたなんて。
驚いて、すぐには言葉が出なくて。間を持たせるため、私は、紅茶を飲んだ。
なんだか、変に喉が渇いてきた。動揺すると、喉が渇くのだろうか。
「……いいと思う。藤乃がそう決めたなら、僕は応援するよ」
「ありがとう」
「それに、海斗のあの様子と、慧くんといるときの楽しそうな藤乃を見ていたら、その方がいいと思っていたんだよね。正直」
兄は言いながら、ふっ、と軽く笑う。
「そう思っていたなら、教えてくれたら良かったのに」
「どうするのが自分のためになるか、考えて、自分で選ぶことが大切なんだよ。僕が言って、そうしたところで、藤乃のためにはならないから」
「……たしかに」
自分で考えて、選ぶまで、これだけの時間がかかった。私にとっては、難しい選択肢であり、兄のアドバイスがあったら、きっとそれに従っていた。
今回私は、自分で考えて、婚約破棄を選んだ。だから心がこんなにすっきりして、納得している。
もし兄に言われて決めていたら、自分の気持ちは整理できず、本当に良いのか迷っていたかもしれない。
「お父様は、今夜も少し早いみたいだよ」
「……!」
兄を見ると、彼は薄く微笑んだまま、頷く。
父は帰りが遅い。会って話せる機会など、早々ない。
善は急げ。
決めたのなら、早く言えと、そういうことなのだ。
「海斗さんに言われたことを、そのまま伝えれば良いのよね」
「そうだよ。事実を伝えれば、お父様でも、きっとわかってくれるから」
夕食に呼ばれ、私と兄は、父への報告の仕方を相談しながら廊下を歩いた。
「本当に、わかってくれるのかしら……」
海斗のことを、父は気に入っている。不安になる私を、兄は「大丈夫だよ」と励ましてくれた。
もっと廊下が長ければいいのに、こういうときばかりは、すぐに目的地に着いてしまう。
兄が扉に手をかけ、先に中に入った。
「おかえり、お父様」
「ああ、桂一。ただいま」
私も、その後に続く。
「お父様、おかえりなさい」
「何だ、ふたりで来たのか」
「やっぱり、4人揃った食卓って、幸せね」
喜んでいるのは、母である。
目の前には、トマトの冷製スープが運ばれてくる。鮮やかな赤と、オリーブの香りに、夏を感じる。
「さあ、いただきましょう」
笑顔の母の号令で、夕食が始まった。
「夏休みは何か予定はあるのか、桂一は」
「大学の友人と会う予定はあるよ。あとは勉強かな」
「そうか、熱心なことだ」
父が目を細めると、目尻に優しげな皺が浮かぶ。
「僕が学生の頃は、いろいろなアルバイトをしたものだ」
「そうなの? 僕もしてみたいと思ってるんだよね」
「大いにやりなさい。桂一はこの家を継ぐのだから、様々な経験を積んで、多面的に物を見られるようにならないとな」
ステーキに、ワイン。父の好きな組み合わせだ。厚い肉は美味しいけれど、なかなか、食べ切るのには苦労する。
もちろん、私はワインは飲まない。代わりに、冷たい水を、ひと口飲んだ。
「学生時代は、いろいろなアルバイトをしていた、と言っていたものね」
母の言葉に、父は頷く。
「ああ。懐かしいな。家庭教師はもちろん、寿司職人の手伝いをしたり、新聞記者の真似事をしたり、ね」
「へえ。面白そうだね」
「だろう? 時代が変わったから、また面白いアルバイトもあるだろう。いろいろな経験を積みなさい、桂一は」
父はまた、ワインを飲んだ。頬が薄らと赤くなる、上機嫌の父。父はいつも、昔話を楽しそうにする。
「ああ、懐かしい。千堂と一緒にアルバイトをしたこともあったよ。試験監督だったかな。あいつ、歩き回っているのに、半分眠っててさ……」
母が口元を押さえ、ふふ、と控えめな笑いを漏らした。
千堂とは、海斗の父のことだ。私の父は、海斗の父と、昔から仲が良い。
兄の方に目をやると、視線が合った。兄は頷いて、父の方に視線を向ける。
言うなら、このタイミングなのかも。
兄の合図をそう捉え、私は口を開いた。
「お父様、その」
「ああ、藤乃のアルバイトについては、僕たちだけじゃなくて、千堂とも相談しないといけないね」
言おうとした言葉は、父に遮られる。
父は腕を組み、うんうん、と嬉しそうに頷く。
「千堂家が許すなら、僕は藤乃も、いろいろな世界を知るといいと思うよ」
私は、下唇を軽く噛んだ。
こんな風に言われると、私は、それ以上言いにくくなる。
兄を見た。
眉尻を下げた兄は、私と目を合わせ、頷く。
言わなきゃ。
私は、水をもうひと口飲む。飲み込んで、口を開いた。
「その、海斗さんのことで、報告があるの」
「報告……? なんだい、嬉しい報告かな。いやあ、プロポーズにはまだ早いよ。気が早いなあ、海斗くんは」
気が早いのは、父のほうだ。
父は残りのワインをひと口で飲み干し、「めでたいからもう一杯」と頼む。
「そうなの? 藤乃ちゃん」
「違うわ」
母が聞いてくれたおかげで、続きを話すきっかけを得る。
「この間、海斗さんに言われたの。私との婚約は、破棄したい、って」
「ん?」
新しくワインを注がれたグラスを、くるくる回していた父の手が、止まる。
嬉しそうに細めていた目を、軽く見開く。
「海斗さんには、他に思いを寄せる方がいるみたい」
「藤乃ちゃん、それって、どういう……」
「私は海斗さんに、そう言われたの」
言った。
言ってしまった。
気づけば椅子から軽く腰が浮いていて、私は椅子に座り直す。
喉が渇くのは、気持ちが揺れているからだろうか。また、水を口に含んだ。
「なんだって? 海斗くんが……」
「他に好きな人がいるから、私との婚約は破棄したいって」
父は、グラスをテーブルに置く。
はあ、と深いため息。
私は、腹部がすっと冷たくなるのを感じた。
怖い。
なんと言われるのか。
兄を見ると、また目を合わせてくれる。真剣な眼差し。私は、テーブルの下で両手を握りしめた。
「……やめてくれよ、藤乃、訳のわからない冗談は」
暫しの沈黙の後、低く掠れた声で、父はそう言った。
「冗談じゃないわ」
「うーん……もし婚約を破棄するなら、千堂が僕に言うはずだよ。そうだ、何も言われていないし……海斗くんほどの優秀な子が、そんなこと、突然言い出す訳ないだろう。はは、肝が冷えたよ。本当、冗談にならない冗談だね」
父は、だんだんと饒舌になる。最後には、私の言ったことが、笑い飛ばされた。
「だから、冗談じゃ……」
「しつこいよ、藤乃。海斗くんのどこが、気に入らないんだい?」
その鋭い目が、私を射抜く。
どこが気に入らないって、私を気にもかけてくれないところだ。相手にされたことなんて、ほとんどなかった。なのに今は、早苗を気にかけ、愛情を注いでいる。
それが、気に入らないと言えば、気に入らない。
しかしそんなことを言っても、信じてもらえないだろう。父の目つきは、そう思わせるには充分だった。
「お父様、藤乃の言っていることは本当だよ。……僕も見た。海斗が、他の女の子と睦まじくしているのを」
言葉が出なくなった私に、兄がそう助け舟を出してくれた。
父の視線が、兄に向く。重苦しくなった肩が、少し楽になる。
「桂一まで……ああ、ふたりで僕を騙そうとしているんだね。だから、さっきふたりで来たんだろう。全く、仲が良くて困った兄妹だよ」
兄が言っても、信じてもらえないなんて。
私と兄は、目配せをする。
「僕たちは、お父様に嘘なんてつかないよ」
「桂一は、藤乃の言う、婚約破棄の話は海斗くんから聞いたのか?」
「……彼からは、聞いていないけど」
兄の声のトーンが、やや落ちる。父は、「ほらな」と言ってワインを半分ほど飲んだ。
「海斗くんぐらいの年頃の青年なら、女友達のひとりやふたりいるだろう。そのくらいのことに目くじらを立てて、どうするんだ」
「あなたも、そうだったの?」
「ん? 学生の頃はね。君と出会ってからは、君一筋だよ」
口を挟んだ母にそう甘い言葉を囁く父。ずいぶん、お酒が回っているようだ。
こんなに酔った父に、何を言っても無駄かもしれない。
「……それに。もし万が一、婚約破棄をしたいなんて海斗くんが言うとしたら、そう言わせる理由が藤乃にあるんだろう」
「あなた、飲みすぎじゃない? 言い過ぎよ」
「うん? そうかな」
母が嗜めてくれたものの、父は首を傾げ、またワインを口にする。
こうなる気がしていた。
私は、肩を落とす。
だから父に言うのが嫌だったのだ。
婚約破棄を言い出したのは海斗なのに、私が悪いことになる。
非があるのは、早苗にうつつを抜かしている、海斗なのに。
あるいは、彼を好きでもないのに海斗のルートに入り続けている、早苗なのに。
「……ごめん。思った以上に、手強かったね、お父様は」
「ううん、お兄様、ありがとう。ひとりじゃ絶対、言えなかったわ」
「だけど、信じてももらえなかったよ」
食事を終え、兄とふたりで廊下を歩きながら、反省を交わす。
「わかってくれると思ったんだけどな……」
「……」
「……藤乃は、そう思ってなかった?」
私は、頷く。
父のこの反応は、さほど意外ではなかった。
藤の花言葉は、歓迎。
私が歓迎されたのは、女の子だから、海斗との婚約ができるから。
海斗との婚約がなくなった私は、父に歓迎もされないのだ。
「そっか……」
兄はそう言ったきり、口を閉じる。
絨毯の上を歩く、微かな足音。
父が事実を認めてくれなくても、海斗に婚約破棄を申し渡されていることには、変わりがない。
私が、そのまま婚約を破棄してしまいたいことにも、変わりはない。
「このままだと、どうなるのかしら」
「そうだね、向こうの家から何も言って来ていないのが不思議だけど……何も知らないか、海斗くんの申し出を、拒否しているか。このまま放っておいたら、そのままになるかもね」
放置していたら、婚約はそのままになる。
少し前の私なら、それを喜んでいた。
「……嫌だわ、そんなの」
今の私は、もう、婚約は破棄すると決めたのだ。それこそが、自分のためになると、確信している。
「だよね。……それにしても、厄介だな。あんなに海斗のことを、信頼しているなんて……」
「私のことは信じてくれないのに」
「信じていないわけでもないと思うけど……人間、目で見ていないものは、信じられないのかなあ」
兄が呟く。
「僕も、あの水族館の日、海斗たちに会っていなかったら、ここまで言わなかったかもしれない」
「……そっか」
私たちの足取りは、扉の前で止まる。私の部屋だ。
私は、兄を見上げる。兄の、悲痛な面持ち。彼は、こんな表情も様になる。
「お兄様、協力してくれてありがとう」
「藤乃はどうするの? これから……」
「進む方向は、変わらないわ」
好きでもない海斗との婚約は、このまま破棄する。それが、私の決めた方向。
「お父様も、自分の目で見たら、信じてくれるかしら」
「……きっと」
兄は、自信なさげに応える。
うまくいくかわからない。けれど、言っても駄目なら、他に方法は思いつかない。
「私、ちょっと考えてみる」
まだその具体的なイメージは湧かないけれど、目指すべきゴールはわかった。
「また相談して」
「もちろん。ありがとう、お兄様」
「こちらこそ……ごめんね、藤乃」
「謝らないで」
就寝の挨拶を交わし、私は兄と別れて自室に入る。
海斗と早苗の親しい様子を、父が目の当たりにしたら。
そうしたら、私の話を信じてくれて、婚約破棄が実現する、かもしれない。
問題は、どこで見せるか、だ。
そう都合よく、父の目の前で、ふたりが睦まじく振る舞うなんてことが。
「……! イベント、だわ」
ひらめいて、思わず口に出る。
「お嬢様? 今、何か……」
「いえ、何でもないわ、シノ。ごめんなさい」
早苗は、どう行動しても、海斗とのイベントが起きてしまうと言っていた。
海斗と早苗のイベントを、起こせばいいのだ。
父の、目の前で。
私が上手く立ち回れば、それはきっと、実現できる。
「お嬢様、何だか今日は、……エネルギーに溢れていますね」
「そうかしら」
「ええ。リラックスできるハーブティーを、お淹れしました」
「ありがとう、シノ」
シノが淹れてくれた紅茶を、口に運ぶ。夏の草のような、爽やかで落ち着く香り。
早苗は海斗のルートから樹のルートに入りたがっているけれど、申し訳ないが、それは叶えてあげられない。
むしろ、彼女の思惑を崩し、海斗とのイベントを発生させ続けるのだ。きっとどこかで、父に見せられるタイミングが、来るはずである。
落ち着くはずのハーブティーを飲んでも、私の思考は、めまぐるしく回転し続けていた。
「はい、また明日、慧先輩」
この挨拶ができなくなるなんて、やっぱり、嫌だ。
いつもの挨拶を交わし、私は図書室を出る。
婚約破棄を選ぼうと決めた心は、妙にすっきりとしていた。もっと辛かったり、重かったり、迷ったりすると思っていた。
こんなに心が楽なのだから、やっぱりこれが、正解なんだ。
軽い心が、自分の選択が正しいことを、裏付けてくれる。
人気のない廊下を進む足音は、今日も柔らかく、温かい。
「……お兄様?」
「藤乃? いいよ、入って」
ひと足先に夏休みに入った兄は、最近は、よく家にいる。帰宅してすぐ、兄の部屋をノックすると、内側から扉が開く。
「どうぞ、お入りください」
「ありがとう」
扉を開けてくれたのは、兄の従者である。私とシノのように、懇意にしている従者は、兄にもいる。
兄は勉強していたようで、机に開かれた参考書の表紙を、ぱたりと閉じた。
兄に向かい合うようにして腰掛けると、目の前に、紅茶が用意される。
「突然押しかけてごめんなさい」
「何、言ってるの。いつ来てもいいんだよ。……それで、どうしたの?」
兄は、紅茶のカップを皿から持ち上げる。
カチ、という淡い音。陶器と陶器の擦れる音は、密やかで、涼やかだ。
「お兄様に言われた、2択のことなの」
兄はそのまま、カップを皿に戻す。
紅茶は、柑橘の香りがする甘いものだった。ひと口含んで唇を湿らせ、それから、兄を見る。
「……私、海斗さんとの婚約は、このまま、破棄したいと思って」
「……ふうん。どうして?」
兄は、頬杖をつき、薄く微笑む。
「気付いたの。私は、海斗さんのことを好きなのではなくて、お父様に見限られるのが怖いだけだ、って。そのために、好きでもない人と婚約して、慧先輩にも会えなくなるくらいなら……」
この機会に、破棄してもらった方が良い。
それが、私の選択だった。
「良いきっかけだ、ってことかな」
「ええ。ただ、やっぱり、お父様は怖いけど……」
海斗に、婚約破棄を申し渡された。
そう真実を告げた時、父はどんな顔をして、どんなことを言うのか。
それを想像すると、このまま何も言わずにおきたい気持ちも芽生えてくる。
「お父様は、藤乃には厳しいからね」
「……お兄様には、違うの?」
兄は、首を縦に振る。父似の癖毛が、くるんと揺れる。
「僕は、自由にやらせてもらっているから……藤乃は、小さい頃から婚約者をあてがわれて、習い事も交友関係も決められて、窮屈そうだなって思っていたよ」
「……そうだったの?」
「そうだよ。藤乃も幸せそうだったから、特に疑問を抱いてこなかったんだよ」
兄に、そんな風に思われていたなんて。
驚いて、すぐには言葉が出なくて。間を持たせるため、私は、紅茶を飲んだ。
なんだか、変に喉が渇いてきた。動揺すると、喉が渇くのだろうか。
「……いいと思う。藤乃がそう決めたなら、僕は応援するよ」
「ありがとう」
「それに、海斗のあの様子と、慧くんといるときの楽しそうな藤乃を見ていたら、その方がいいと思っていたんだよね。正直」
兄は言いながら、ふっ、と軽く笑う。
「そう思っていたなら、教えてくれたら良かったのに」
「どうするのが自分のためになるか、考えて、自分で選ぶことが大切なんだよ。僕が言って、そうしたところで、藤乃のためにはならないから」
「……たしかに」
自分で考えて、選ぶまで、これだけの時間がかかった。私にとっては、難しい選択肢であり、兄のアドバイスがあったら、きっとそれに従っていた。
今回私は、自分で考えて、婚約破棄を選んだ。だから心がこんなにすっきりして、納得している。
もし兄に言われて決めていたら、自分の気持ちは整理できず、本当に良いのか迷っていたかもしれない。
「お父様は、今夜も少し早いみたいだよ」
「……!」
兄を見ると、彼は薄く微笑んだまま、頷く。
父は帰りが遅い。会って話せる機会など、早々ない。
善は急げ。
決めたのなら、早く言えと、そういうことなのだ。
「海斗さんに言われたことを、そのまま伝えれば良いのよね」
「そうだよ。事実を伝えれば、お父様でも、きっとわかってくれるから」
夕食に呼ばれ、私と兄は、父への報告の仕方を相談しながら廊下を歩いた。
「本当に、わかってくれるのかしら……」
海斗のことを、父は気に入っている。不安になる私を、兄は「大丈夫だよ」と励ましてくれた。
もっと廊下が長ければいいのに、こういうときばかりは、すぐに目的地に着いてしまう。
兄が扉に手をかけ、先に中に入った。
「おかえり、お父様」
「ああ、桂一。ただいま」
私も、その後に続く。
「お父様、おかえりなさい」
「何だ、ふたりで来たのか」
「やっぱり、4人揃った食卓って、幸せね」
喜んでいるのは、母である。
目の前には、トマトの冷製スープが運ばれてくる。鮮やかな赤と、オリーブの香りに、夏を感じる。
「さあ、いただきましょう」
笑顔の母の号令で、夕食が始まった。
「夏休みは何か予定はあるのか、桂一は」
「大学の友人と会う予定はあるよ。あとは勉強かな」
「そうか、熱心なことだ」
父が目を細めると、目尻に優しげな皺が浮かぶ。
「僕が学生の頃は、いろいろなアルバイトをしたものだ」
「そうなの? 僕もしてみたいと思ってるんだよね」
「大いにやりなさい。桂一はこの家を継ぐのだから、様々な経験を積んで、多面的に物を見られるようにならないとな」
ステーキに、ワイン。父の好きな組み合わせだ。厚い肉は美味しいけれど、なかなか、食べ切るのには苦労する。
もちろん、私はワインは飲まない。代わりに、冷たい水を、ひと口飲んだ。
「学生時代は、いろいろなアルバイトをしていた、と言っていたものね」
母の言葉に、父は頷く。
「ああ。懐かしいな。家庭教師はもちろん、寿司職人の手伝いをしたり、新聞記者の真似事をしたり、ね」
「へえ。面白そうだね」
「だろう? 時代が変わったから、また面白いアルバイトもあるだろう。いろいろな経験を積みなさい、桂一は」
父はまた、ワインを飲んだ。頬が薄らと赤くなる、上機嫌の父。父はいつも、昔話を楽しそうにする。
「ああ、懐かしい。千堂と一緒にアルバイトをしたこともあったよ。試験監督だったかな。あいつ、歩き回っているのに、半分眠っててさ……」
母が口元を押さえ、ふふ、と控えめな笑いを漏らした。
千堂とは、海斗の父のことだ。私の父は、海斗の父と、昔から仲が良い。
兄の方に目をやると、視線が合った。兄は頷いて、父の方に視線を向ける。
言うなら、このタイミングなのかも。
兄の合図をそう捉え、私は口を開いた。
「お父様、その」
「ああ、藤乃のアルバイトについては、僕たちだけじゃなくて、千堂とも相談しないといけないね」
言おうとした言葉は、父に遮られる。
父は腕を組み、うんうん、と嬉しそうに頷く。
「千堂家が許すなら、僕は藤乃も、いろいろな世界を知るといいと思うよ」
私は、下唇を軽く噛んだ。
こんな風に言われると、私は、それ以上言いにくくなる。
兄を見た。
眉尻を下げた兄は、私と目を合わせ、頷く。
言わなきゃ。
私は、水をもうひと口飲む。飲み込んで、口を開いた。
「その、海斗さんのことで、報告があるの」
「報告……? なんだい、嬉しい報告かな。いやあ、プロポーズにはまだ早いよ。気が早いなあ、海斗くんは」
気が早いのは、父のほうだ。
父は残りのワインをひと口で飲み干し、「めでたいからもう一杯」と頼む。
「そうなの? 藤乃ちゃん」
「違うわ」
母が聞いてくれたおかげで、続きを話すきっかけを得る。
「この間、海斗さんに言われたの。私との婚約は、破棄したい、って」
「ん?」
新しくワインを注がれたグラスを、くるくる回していた父の手が、止まる。
嬉しそうに細めていた目を、軽く見開く。
「海斗さんには、他に思いを寄せる方がいるみたい」
「藤乃ちゃん、それって、どういう……」
「私は海斗さんに、そう言われたの」
言った。
言ってしまった。
気づけば椅子から軽く腰が浮いていて、私は椅子に座り直す。
喉が渇くのは、気持ちが揺れているからだろうか。また、水を口に含んだ。
「なんだって? 海斗くんが……」
「他に好きな人がいるから、私との婚約は破棄したいって」
父は、グラスをテーブルに置く。
はあ、と深いため息。
私は、腹部がすっと冷たくなるのを感じた。
怖い。
なんと言われるのか。
兄を見ると、また目を合わせてくれる。真剣な眼差し。私は、テーブルの下で両手を握りしめた。
「……やめてくれよ、藤乃、訳のわからない冗談は」
暫しの沈黙の後、低く掠れた声で、父はそう言った。
「冗談じゃないわ」
「うーん……もし婚約を破棄するなら、千堂が僕に言うはずだよ。そうだ、何も言われていないし……海斗くんほどの優秀な子が、そんなこと、突然言い出す訳ないだろう。はは、肝が冷えたよ。本当、冗談にならない冗談だね」
父は、だんだんと饒舌になる。最後には、私の言ったことが、笑い飛ばされた。
「だから、冗談じゃ……」
「しつこいよ、藤乃。海斗くんのどこが、気に入らないんだい?」
その鋭い目が、私を射抜く。
どこが気に入らないって、私を気にもかけてくれないところだ。相手にされたことなんて、ほとんどなかった。なのに今は、早苗を気にかけ、愛情を注いでいる。
それが、気に入らないと言えば、気に入らない。
しかしそんなことを言っても、信じてもらえないだろう。父の目つきは、そう思わせるには充分だった。
「お父様、藤乃の言っていることは本当だよ。……僕も見た。海斗が、他の女の子と睦まじくしているのを」
言葉が出なくなった私に、兄がそう助け舟を出してくれた。
父の視線が、兄に向く。重苦しくなった肩が、少し楽になる。
「桂一まで……ああ、ふたりで僕を騙そうとしているんだね。だから、さっきふたりで来たんだろう。全く、仲が良くて困った兄妹だよ」
兄が言っても、信じてもらえないなんて。
私と兄は、目配せをする。
「僕たちは、お父様に嘘なんてつかないよ」
「桂一は、藤乃の言う、婚約破棄の話は海斗くんから聞いたのか?」
「……彼からは、聞いていないけど」
兄の声のトーンが、やや落ちる。父は、「ほらな」と言ってワインを半分ほど飲んだ。
「海斗くんぐらいの年頃の青年なら、女友達のひとりやふたりいるだろう。そのくらいのことに目くじらを立てて、どうするんだ」
「あなたも、そうだったの?」
「ん? 学生の頃はね。君と出会ってからは、君一筋だよ」
口を挟んだ母にそう甘い言葉を囁く父。ずいぶん、お酒が回っているようだ。
こんなに酔った父に、何を言っても無駄かもしれない。
「……それに。もし万が一、婚約破棄をしたいなんて海斗くんが言うとしたら、そう言わせる理由が藤乃にあるんだろう」
「あなた、飲みすぎじゃない? 言い過ぎよ」
「うん? そうかな」
母が嗜めてくれたものの、父は首を傾げ、またワインを口にする。
こうなる気がしていた。
私は、肩を落とす。
だから父に言うのが嫌だったのだ。
婚約破棄を言い出したのは海斗なのに、私が悪いことになる。
非があるのは、早苗にうつつを抜かしている、海斗なのに。
あるいは、彼を好きでもないのに海斗のルートに入り続けている、早苗なのに。
「……ごめん。思った以上に、手強かったね、お父様は」
「ううん、お兄様、ありがとう。ひとりじゃ絶対、言えなかったわ」
「だけど、信じてももらえなかったよ」
食事を終え、兄とふたりで廊下を歩きながら、反省を交わす。
「わかってくれると思ったんだけどな……」
「……」
「……藤乃は、そう思ってなかった?」
私は、頷く。
父のこの反応は、さほど意外ではなかった。
藤の花言葉は、歓迎。
私が歓迎されたのは、女の子だから、海斗との婚約ができるから。
海斗との婚約がなくなった私は、父に歓迎もされないのだ。
「そっか……」
兄はそう言ったきり、口を閉じる。
絨毯の上を歩く、微かな足音。
父が事実を認めてくれなくても、海斗に婚約破棄を申し渡されていることには、変わりがない。
私が、そのまま婚約を破棄してしまいたいことにも、変わりはない。
「このままだと、どうなるのかしら」
「そうだね、向こうの家から何も言って来ていないのが不思議だけど……何も知らないか、海斗くんの申し出を、拒否しているか。このまま放っておいたら、そのままになるかもね」
放置していたら、婚約はそのままになる。
少し前の私なら、それを喜んでいた。
「……嫌だわ、そんなの」
今の私は、もう、婚約は破棄すると決めたのだ。それこそが、自分のためになると、確信している。
「だよね。……それにしても、厄介だな。あんなに海斗のことを、信頼しているなんて……」
「私のことは信じてくれないのに」
「信じていないわけでもないと思うけど……人間、目で見ていないものは、信じられないのかなあ」
兄が呟く。
「僕も、あの水族館の日、海斗たちに会っていなかったら、ここまで言わなかったかもしれない」
「……そっか」
私たちの足取りは、扉の前で止まる。私の部屋だ。
私は、兄を見上げる。兄の、悲痛な面持ち。彼は、こんな表情も様になる。
「お兄様、協力してくれてありがとう」
「藤乃はどうするの? これから……」
「進む方向は、変わらないわ」
好きでもない海斗との婚約は、このまま破棄する。それが、私の決めた方向。
「お父様も、自分の目で見たら、信じてくれるかしら」
「……きっと」
兄は、自信なさげに応える。
うまくいくかわからない。けれど、言っても駄目なら、他に方法は思いつかない。
「私、ちょっと考えてみる」
まだその具体的なイメージは湧かないけれど、目指すべきゴールはわかった。
「また相談して」
「もちろん。ありがとう、お兄様」
「こちらこそ……ごめんね、藤乃」
「謝らないで」
就寝の挨拶を交わし、私は兄と別れて自室に入る。
海斗と早苗の親しい様子を、父が目の当たりにしたら。
そうしたら、私の話を信じてくれて、婚約破棄が実現する、かもしれない。
問題は、どこで見せるか、だ。
そう都合よく、父の目の前で、ふたりが睦まじく振る舞うなんてことが。
「……! イベント、だわ」
ひらめいて、思わず口に出る。
「お嬢様? 今、何か……」
「いえ、何でもないわ、シノ。ごめんなさい」
早苗は、どう行動しても、海斗とのイベントが起きてしまうと言っていた。
海斗と早苗のイベントを、起こせばいいのだ。
父の、目の前で。
私が上手く立ち回れば、それはきっと、実現できる。
「お嬢様、何だか今日は、……エネルギーに溢れていますね」
「そうかしら」
「ええ。リラックスできるハーブティーを、お淹れしました」
「ありがとう、シノ」
シノが淹れてくれた紅茶を、口に運ぶ。夏の草のような、爽やかで落ち着く香り。
早苗は海斗のルートから樹のルートに入りたがっているけれど、申し訳ないが、それは叶えてあげられない。
むしろ、彼女の思惑を崩し、海斗とのイベントを発生させ続けるのだ。きっとどこかで、父に見せられるタイミングが、来るはずである。
落ち着くはずのハーブティーを飲んでも、私の思考は、めまぐるしく回転し続けていた。
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