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11 学外活動・会議は惑う
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「おはよう、藤乃さん!」
「あ……おはよう」
教室に入り、いつものように黙って自席に向かう。すると、横から突然声をかけられた。
怯みながら目を向けると、泉の明るい笑顔。肩の力が抜け、表情を緩めて返事を返す。
「この間はありがとう」
「いえ、こちらこそ」
私たちの親しげな会話を、周囲の生徒は訝しげに見ているのがわかる。
泉はともかく、私がこんな風に、打ち解けた会話を学級内でしたことなんて……本当に、入学以来ないだろう。
「……どうしたの、泉さん」
「先日、藤乃さんのお宅で、お化粧を教えていただいたのよ」
「まあ」
泉は友人の輪に戻り、私の話をし始める。私はその輪の横を通り、席について荷物を整理する。
毎朝のルーティンは、変わらない。
それでも、漏れ聞こえる泉の声に、なんとなく心が落ち着く。
「おはよう」
「おはよう、早苗さん」
早苗と海斗が入ってくれば、泉たちの集団は、ふたりに合流する。私はそこに視線を向けないよう努め、外を見た。
青い空に、もくもくと、白い雲が漂っている。初夏の訪れを告げる、綿飴のような雲。
「おふたりの勉強会は、いかがでしたの?」
「え……? ふふ」
それでも会話は、耳に入ってくる。照れたような早苗の声に、嫌でも想像が掻き立てられる。
泉ですら私と海斗の関係を知らなかったのだから、当然、早苗が知る由もないだろう。知らずにしていることとはいえ、その親密そうな雰囲気に、やはり胸がちくりと痛む。
「余計な質問しないでくれる? 早苗も、答えなくていいから」
海斗が、早苗を守るような発言をする。
「でも、海斗」
言い返す早苗の呼び方に、ざわ、と波紋のように動揺が広がる。
あの海斗を、早苗が呼び捨てにしたのだ。
それは明らかに、彼らが今までより親密になったことを表している。
「早苗さん、それは……」
泉の声が耳に飛び込む。
彼女はこの間、私という婚約者がいる海斗と、親しくしている早苗に憤っていた。
もしかして、何か言ってくれるのかな。
つい期待して、そちらに目をやる。
泉と、一瞬、目があった。
「素敵ね!」
視線を逸らし、泉は早苗に言う。
咎めたように、思われちゃったのかも。
私は、彼女が私のことを、「怖い顔をして見ている」と言っていたことを思い出した。
期待は外れてしまったものの、自分でも言えないことを、人に言ってもらおうなんて甘えた話だ。
だいたいこんなところで、海斗と私がどんな関係であったかを暴露されても困る。変に注目を浴びたくないから、できるだけ隠していたのに。
知らないのだから、早苗が海斗と親しくしていても、仕方がない。
海斗は私との婚約は破棄するのだから、早苗と親しくしても、仕方がない。
泉が何も言ってくれなくても、自分だって言えないのだから、仕方ない。
私より早苗の方が魅力的なのだから、海斗や泉が彼女を選んでも、仕方ない。
仕方ない、仕方ない。
私はそう自分に言い聞かせ、彼らの会話から、できるだけ意識を遠ざけた。
「……夏の匂いがする」
吹く風に季節の匂いを感じるのは、私だけだろうか。
なんとなく湿度を含んだ、青臭く、爽やかな風。これは、夏の香りだ。
それに、紅茶の香りが混ざる。
屋上でゆっくり食べる昼食は、心落ち着く、至福のひととき。
毎日違うメニューに舌鼓を打ちながら、時折箸を置き、空を眺める。
ゆっくり流れる雲。
淡く青い、抜けるような空。
心が吸い込まれそう。悩みも、嫌な感情も。
地面からじんわりと伝わる温もりを、目を閉じて感じる。燦々と降る日光は、春のそれより、僅かに厳しい。
「藤乃さん、いつもここでお昼食べてるの?」
「えっ?」
びく、と肩が跳ねる。
「あ! ごめん、箸が」
「……いえ、大丈夫」
弁当の縁から落ちた箸が、スカートの上に載っている。私はお手拭きを取り、箸をそっと拭った。
顔を上げると、眩しい陽射しが目に差し込む。逆光で見えないその人は、泉だった。
「探したんだよ。謝りたくって」
「謝る……?」
目が慣れると、泉が眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をしているのがわかった。
「どうして?」
「早苗さんに、注意できなかったから」
朝のことを言っているのだ。私は、「いいのよ、そんなの」と応える。
「よくないよ!」
「だって、早苗さんは、知らないんだもの。仕方がないわ」
朝、自分に言い聞かせた言葉を繰り返す。
「仕方なくなんて、ないよ! だめなことはだめなんだから」
なのに泉は、そう言葉を重ねる。
私の代わりに、怒ってくれているみたい。
彼女の思いやりに、ちょっと、嬉しくなる。
「……藤乃さんが注意してくれるなら、わたしも言えるのに」
ぼそり、と付け足されたひとこと。
「私が?」
「そう。藤乃さんに言われたら、早苗さんだって、反省すると思うのに」
「そうかしら……」
私は、早苗には敵わない。
本を読んで色々と考えているうちに、それを痛感した。
今の私が何か言ったところで、状況が変わるとは思えないけれど。
泉の気持ちは嬉しいものの、早苗に何か言うほどの自信はない。
目に見える変化を積み重ね、彼女を超えたという自信をもてるまでは。何かしても、無駄なように思う。
「……でも私、海斗さんとの婚約を、言いふらす気はないのよ。泉さんが、知らなかったように」
これは、事実だ。
今までもそうして来たし、現状では、尚更だ。
「なら、呼び出してもいいと思う。だめなものは、だめだもの。婚約者がいる人と、知らなくても、親密になるなんて。隠すのは早苗さんにも失礼だわ」
「まあ、そうね……」
泉の言うことは、一理ある。
どうしたらいいのだろう。
たしかに、早苗のしていることにも、間違いはあるだろう。ただ、私は今、彼女に何か物申すだけの自信がない。
泉に嫌な思いをさせず、しかし、断るうまい言い方はないだろうか。
「……えっと」
「わたしは、友達として協力するからね、藤乃さん。何か言うときは、応援するから」
「ありがとう」
言葉を選んでいるうちに、泉の言いたいことは終わったらしい。花の咲くような笑顔を見せ、屋上を去っていく。
その向日葵のような笑顔は、明るく照らされた屋外の雰囲気にぴったりだ。
やや急かされている感はあるが、泉がああして気にかけてくれるのは、私にとって嬉しいことだ。
彼女の期待に応えたいと思ったら、早苗に何か言えるくらい、自信をつけなければならない。
目に見える変化は、自信につながる。
私は、鞄から本を取り出し、ページをめくる。白い背景と黒い字のコントラストは、痛いほど鮮明に目に飛び込んでくる。
どの作品でも、主人公の「悪役令嬢」は努力して自分を高め、自信をつけている。たとえば、容姿。
私もお化粧を学んで、容姿についての努力の仕方が、多少はわかった。
次は、勉強だろうか。
シノに教わってお化粧を学んだように、誰かに教われば、勉強ももう少しできるようになるかもしれない。
私は頭の中に慧の顔を思い浮かべながら、荷物を片付け、屋上を後にした。
「学外活動の、話し合いの続きをしたいと思います」
黒板には、浜辺でスポーツ大会、霞ヶ湾をクルーズ、オリジナル花火大会の企画、の3つの案が書かれている。
「やっぱりクルーズがいいなあ」
早苗の呟き。彼女が言うのなら、海斗もそれに賛同する。ふたりが言うことは、クラスの総意と相違ないだろう。
私は、暇を持て余して、以前配られた資料に目を通す。
学外活動のクラスとしての予算と、スポーツ大会、クルーザー、花火大会にかかる費用がそれぞれ書かれている。やはり、スポーツ大会以外は、かなりの持ち出しがある。
慧の話を、思い出した。
持ち出し分が負担できないから、彼は学外活動に参加できない。
私自身は、昔から親戚等に頂いたお小遣いを貯めているから、そこから持ち出し分を支払うことができる。
しかし、家庭の環境は、それぞれだ。
行事のためにこれだけの持ち出しをするのは、難しい生徒もいるのではないだろうか。
「少し周囲の人と話してみてください」
会長の指示で、辺りが会話にざわめく。
私は、そっと周りを見回した。
皆は、どんなふうに受け止めているのか確認したかったのだ。
「……あれ」
目に止まったのは、隣の席の女子生徒。妙に難しい顔をして、書類を食い入るように見つめている。
他の人は皆、紙なんて机の上に置きっぱなしで、おしゃべりに興じているというのに。
誰だったかな……。
中等部から持ち上がりのはずだけれど、人の名前は、なかなか出てこない。
「……持ち出しが、けっこう多いわよね」
真剣に書類を見ている人になら、そんな話を振ってみてもいいかもしれない。
話しかけると、彼女はぐるっとこちらを振り向いた。
「そうなの……」
その顔は、悲しげというか、苦しげというか。少なくとも、良い感情は読み取れなかった。
「私の貯金じゃ足りないわ」
「お家の方は?」
「難しいの……我が家は、男子にお金をかける方針だから」
視線を落とし、ため息。
「なるほど」
さほど珍しくない話に、私は肯いた。
男尊女卑というまでではないものの、男子は後継ぎ、家を支える者。そう考えて男子を重んじ、女子はいずれ家を出るからと、手をかけない家も中にはある。
我が家は母が庶民の出であることもあって、兄と私の間に差はない。ありがたいことだ。
「両親に借りるしかないかしら」
「……そうね」
暗いトーンで呟く彼女に、同意することしかできなかった。
進学や就職など、将来に関わることで、両親からの援助を頼むならまだわかる。
しかし、学外活動は、言ってしまえば遊びだ。その遊びのために、両親から金銭的な援助を得るのは、心苦しいのだろう。
その葛藤が、下唇を薄く噛んでいる、彼女の横顔から読み取れた。
もしかしたら、そんな生徒は、他にもいるのかもしれない。
あの温厚な慧が、同級生に対しての劣等感を暴露したときの、あの剣幕を思い出す。
今彼女が置かれている状況は、慧によく似ている。
……なんとかしてあげられないかしら。
そう思った。
彼女に助力することは、慧に力を貸すことであるような気がした。
だから、私は考えた。
こういう場で発言するのは、柄ではない。
説得力をもって語り、皆の心を掴むのは、兄の得意分野だ。
兄ならこんなとき、どう話すだろうか。
「……ご意見があれば、伺いますね」
会長の合図で、皆が目配せを交わす。
その視線が自然に、海斗と早苗に集まる。
彼らは、クルーズがいいと主張している。
今ここでどちらかが発言したら、意見はそれでまとまるだろう。
海斗の右腕が、上がろうとした。
それを見て、咄嗟に手を挙げる。
「小松原さん、お願いします」
「はい」
会長に指名されたのは、私である。
返事をして起立した私に、視線が集まる。
本当に、柄じゃないわ。
掌に妙な汗をかきながら、私は周りの生徒をゆっくり眺めた。不思議そうな表情で、こちらを見ている。
大丈夫。兄になりきったつもりで、話せばいい。
「書類の一番上を確認すると、学外活動の目的は、自由度の高い状況下で、意見を擦り合わせてひとつの行事を運営することで、自主性と思いやる能力を高めること……とあります」
震える声を抑えるため、ぐっと腹部に力を込める。
「つまりこの行事の目的は、楽しむことではなく……さまざまな考えや状況の生徒のことを互いに思い合い、時には我慢したり、配慮したりしながら、企画を運営することだと思うのです」
集まる視線に、棘はない。泉が、肯いている。それを見て、緊張がふっと抜けた。
「会長さんがわかりやすく作ってくださった書類のおかげで、かかる費用も、よくわかります。クルーズと花火大会は、持ち出す金額が、予算を大幅に超えています。もちろん、持ち出しにより、自由度が高まる面もありますが……」
反論を防ぐために、予防線を張りながら。
「ただ、目的を考えると、予算を超える金額を予定して自由度を高めるよりも、学級内にいる様々な生徒……中には、持ち出しは厳しい方もいると思うのです……に配慮した金額設定をしたほうが、学びになるのではないでしょうか?」
全体に向かって、こんなに長く話したのは、初めてだ。掠れてきた声を、咳払いしてごまかす。
「つまり私は、予算内に収まるスポーツ大会の中で、工夫するのがよいと思います」
最後にまとめ、言い切って席に座った。
頭に上っていた血が、すっと下がる。
ずいぶんと緊張していたらしい。
「小松原さん、ありがとうございます。他に意見のある方は……」
「ありがとう、藤乃さん」
会長の司会の声に紛れて、隣から囁かれる。先ほどの女生徒が、両手を合わせていた。その目は、どことなく潤んで見える。
「あんなこと、自分から言い出せないから……私のためよね? ありがとう」
彼女のためでもあるが、慧を助けるような気持ちになっていたのだ。
曖昧に肯いて返すと、また彼女は「ありがとう」と言った。
感謝されるのなら、良かった。
「あの」
会長の投げかけに、すっと手を挙げたのは、早苗だった。
早苗?
彼女がこういうところで、全体に向かって自己主張をするイメージは、あまりない。
先ほどから「クルーズがいい」と呟いてはいたものの、意思表示をしているだけで、押し付ける雰囲気でもなかった。
そんな彼女は、今、両手を机に叩きつけ、身を乗り出した。
「あたしはどうしても、クルーズがいいんです!」
そして、はっきりと、言い放つ。
その口ぶりは、場にそぐわないほど、切羽詰まっている。
どうして、そんなに?
疑問に思ったのは、私だけではなかろう。
「理由を、伺ってもよろしいですか?」
皆の疑問を代表するように、会長が聞く。早苗は、声を震わせながら、続けた。
「クルーズを選ばないと、いけないからよ!」
だから、なんで?
理由にならない理由だけれど、彼女の悲痛な言い方に、それ以上突っ込んだらかわいそうだと思ってしまった。
机についた早苗の腕が、震えている。周りの生徒は顔を見合わせ、会長は眉尻を下げる。
こんなに取り乱す早苗の姿は、初めて見た。
「早苗」
海斗の声が、教室の沈黙を破る。
私は、思わず期待の視線を向けた。この状況に口を挟めるのは、海斗しかいない。
「クルーザーは、僕が今度、乗せてあげるよ」
海斗の父は、クルーザーを保有している。私も家族と共に乗ったことがある。素敵な船だ。
「だめなの、学外活動じゃないと……!」
「どうしてそんなに、こだわるんだ?」
そうそう、それが聞きたい。
早苗は、きっと海斗をにらむ。あんな表情、初めて見た。
海斗がたじろぐのが、こちらから見ていて、わかった。早苗は海斗を見たまま、顎を軽く上げて、言った。
「……どうしても」
それは、呟くように。説得力のない彼女の言葉が、ふわっと宙にほどけた。
「どうしても乗りたいなら、僕が乗せてあげるよ。理由を言ってもらえないと……皆、困っているよ」
「……それだけなの。もう、いい」
投げやりに言い、早苗は、すとんと椅子に座る。海斗は肩をすくめ、会長を目で促した。
「……では、決を採りたいと思います」
三択で、挙手を募る。結果は圧倒的に、スポーツ大会が多数であった。
私が思うより、金銭的な厳しさを感じていた生徒は、多かったのかもしれない。
クルーズに手を挙げたのは、早苗と海斗。それに、数人の女生徒。
「特に異論がなければ、スポーツ大会の方で進めたいと思うのですが」
会長が言うと、視線は早苗、そして海斗に集中する。
「……ありません」
不服そうな声で、早苗が言う。海斗が、ゆっくりと頷いた。ほっとした雰囲気が、教室に広まった。
ふたりが了承するのなら、そのように進めてよいだろう。会長たちは表情を緩め、「では、そうします」と宣言した。
「あ……おはよう」
教室に入り、いつものように黙って自席に向かう。すると、横から突然声をかけられた。
怯みながら目を向けると、泉の明るい笑顔。肩の力が抜け、表情を緩めて返事を返す。
「この間はありがとう」
「いえ、こちらこそ」
私たちの親しげな会話を、周囲の生徒は訝しげに見ているのがわかる。
泉はともかく、私がこんな風に、打ち解けた会話を学級内でしたことなんて……本当に、入学以来ないだろう。
「……どうしたの、泉さん」
「先日、藤乃さんのお宅で、お化粧を教えていただいたのよ」
「まあ」
泉は友人の輪に戻り、私の話をし始める。私はその輪の横を通り、席について荷物を整理する。
毎朝のルーティンは、変わらない。
それでも、漏れ聞こえる泉の声に、なんとなく心が落ち着く。
「おはよう」
「おはよう、早苗さん」
早苗と海斗が入ってくれば、泉たちの集団は、ふたりに合流する。私はそこに視線を向けないよう努め、外を見た。
青い空に、もくもくと、白い雲が漂っている。初夏の訪れを告げる、綿飴のような雲。
「おふたりの勉強会は、いかがでしたの?」
「え……? ふふ」
それでも会話は、耳に入ってくる。照れたような早苗の声に、嫌でも想像が掻き立てられる。
泉ですら私と海斗の関係を知らなかったのだから、当然、早苗が知る由もないだろう。知らずにしていることとはいえ、その親密そうな雰囲気に、やはり胸がちくりと痛む。
「余計な質問しないでくれる? 早苗も、答えなくていいから」
海斗が、早苗を守るような発言をする。
「でも、海斗」
言い返す早苗の呼び方に、ざわ、と波紋のように動揺が広がる。
あの海斗を、早苗が呼び捨てにしたのだ。
それは明らかに、彼らが今までより親密になったことを表している。
「早苗さん、それは……」
泉の声が耳に飛び込む。
彼女はこの間、私という婚約者がいる海斗と、親しくしている早苗に憤っていた。
もしかして、何か言ってくれるのかな。
つい期待して、そちらに目をやる。
泉と、一瞬、目があった。
「素敵ね!」
視線を逸らし、泉は早苗に言う。
咎めたように、思われちゃったのかも。
私は、彼女が私のことを、「怖い顔をして見ている」と言っていたことを思い出した。
期待は外れてしまったものの、自分でも言えないことを、人に言ってもらおうなんて甘えた話だ。
だいたいこんなところで、海斗と私がどんな関係であったかを暴露されても困る。変に注目を浴びたくないから、できるだけ隠していたのに。
知らないのだから、早苗が海斗と親しくしていても、仕方がない。
海斗は私との婚約は破棄するのだから、早苗と親しくしても、仕方がない。
泉が何も言ってくれなくても、自分だって言えないのだから、仕方ない。
私より早苗の方が魅力的なのだから、海斗や泉が彼女を選んでも、仕方ない。
仕方ない、仕方ない。
私はそう自分に言い聞かせ、彼らの会話から、できるだけ意識を遠ざけた。
「……夏の匂いがする」
吹く風に季節の匂いを感じるのは、私だけだろうか。
なんとなく湿度を含んだ、青臭く、爽やかな風。これは、夏の香りだ。
それに、紅茶の香りが混ざる。
屋上でゆっくり食べる昼食は、心落ち着く、至福のひととき。
毎日違うメニューに舌鼓を打ちながら、時折箸を置き、空を眺める。
ゆっくり流れる雲。
淡く青い、抜けるような空。
心が吸い込まれそう。悩みも、嫌な感情も。
地面からじんわりと伝わる温もりを、目を閉じて感じる。燦々と降る日光は、春のそれより、僅かに厳しい。
「藤乃さん、いつもここでお昼食べてるの?」
「えっ?」
びく、と肩が跳ねる。
「あ! ごめん、箸が」
「……いえ、大丈夫」
弁当の縁から落ちた箸が、スカートの上に載っている。私はお手拭きを取り、箸をそっと拭った。
顔を上げると、眩しい陽射しが目に差し込む。逆光で見えないその人は、泉だった。
「探したんだよ。謝りたくって」
「謝る……?」
目が慣れると、泉が眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をしているのがわかった。
「どうして?」
「早苗さんに、注意できなかったから」
朝のことを言っているのだ。私は、「いいのよ、そんなの」と応える。
「よくないよ!」
「だって、早苗さんは、知らないんだもの。仕方がないわ」
朝、自分に言い聞かせた言葉を繰り返す。
「仕方なくなんて、ないよ! だめなことはだめなんだから」
なのに泉は、そう言葉を重ねる。
私の代わりに、怒ってくれているみたい。
彼女の思いやりに、ちょっと、嬉しくなる。
「……藤乃さんが注意してくれるなら、わたしも言えるのに」
ぼそり、と付け足されたひとこと。
「私が?」
「そう。藤乃さんに言われたら、早苗さんだって、反省すると思うのに」
「そうかしら……」
私は、早苗には敵わない。
本を読んで色々と考えているうちに、それを痛感した。
今の私が何か言ったところで、状況が変わるとは思えないけれど。
泉の気持ちは嬉しいものの、早苗に何か言うほどの自信はない。
目に見える変化を積み重ね、彼女を超えたという自信をもてるまでは。何かしても、無駄なように思う。
「……でも私、海斗さんとの婚約を、言いふらす気はないのよ。泉さんが、知らなかったように」
これは、事実だ。
今までもそうして来たし、現状では、尚更だ。
「なら、呼び出してもいいと思う。だめなものは、だめだもの。婚約者がいる人と、知らなくても、親密になるなんて。隠すのは早苗さんにも失礼だわ」
「まあ、そうね……」
泉の言うことは、一理ある。
どうしたらいいのだろう。
たしかに、早苗のしていることにも、間違いはあるだろう。ただ、私は今、彼女に何か物申すだけの自信がない。
泉に嫌な思いをさせず、しかし、断るうまい言い方はないだろうか。
「……えっと」
「わたしは、友達として協力するからね、藤乃さん。何か言うときは、応援するから」
「ありがとう」
言葉を選んでいるうちに、泉の言いたいことは終わったらしい。花の咲くような笑顔を見せ、屋上を去っていく。
その向日葵のような笑顔は、明るく照らされた屋外の雰囲気にぴったりだ。
やや急かされている感はあるが、泉がああして気にかけてくれるのは、私にとって嬉しいことだ。
彼女の期待に応えたいと思ったら、早苗に何か言えるくらい、自信をつけなければならない。
目に見える変化は、自信につながる。
私は、鞄から本を取り出し、ページをめくる。白い背景と黒い字のコントラストは、痛いほど鮮明に目に飛び込んでくる。
どの作品でも、主人公の「悪役令嬢」は努力して自分を高め、自信をつけている。たとえば、容姿。
私もお化粧を学んで、容姿についての努力の仕方が、多少はわかった。
次は、勉強だろうか。
シノに教わってお化粧を学んだように、誰かに教われば、勉強ももう少しできるようになるかもしれない。
私は頭の中に慧の顔を思い浮かべながら、荷物を片付け、屋上を後にした。
「学外活動の、話し合いの続きをしたいと思います」
黒板には、浜辺でスポーツ大会、霞ヶ湾をクルーズ、オリジナル花火大会の企画、の3つの案が書かれている。
「やっぱりクルーズがいいなあ」
早苗の呟き。彼女が言うのなら、海斗もそれに賛同する。ふたりが言うことは、クラスの総意と相違ないだろう。
私は、暇を持て余して、以前配られた資料に目を通す。
学外活動のクラスとしての予算と、スポーツ大会、クルーザー、花火大会にかかる費用がそれぞれ書かれている。やはり、スポーツ大会以外は、かなりの持ち出しがある。
慧の話を、思い出した。
持ち出し分が負担できないから、彼は学外活動に参加できない。
私自身は、昔から親戚等に頂いたお小遣いを貯めているから、そこから持ち出し分を支払うことができる。
しかし、家庭の環境は、それぞれだ。
行事のためにこれだけの持ち出しをするのは、難しい生徒もいるのではないだろうか。
「少し周囲の人と話してみてください」
会長の指示で、辺りが会話にざわめく。
私は、そっと周りを見回した。
皆は、どんなふうに受け止めているのか確認したかったのだ。
「……あれ」
目に止まったのは、隣の席の女子生徒。妙に難しい顔をして、書類を食い入るように見つめている。
他の人は皆、紙なんて机の上に置きっぱなしで、おしゃべりに興じているというのに。
誰だったかな……。
中等部から持ち上がりのはずだけれど、人の名前は、なかなか出てこない。
「……持ち出しが、けっこう多いわよね」
真剣に書類を見ている人になら、そんな話を振ってみてもいいかもしれない。
話しかけると、彼女はぐるっとこちらを振り向いた。
「そうなの……」
その顔は、悲しげというか、苦しげというか。少なくとも、良い感情は読み取れなかった。
「私の貯金じゃ足りないわ」
「お家の方は?」
「難しいの……我が家は、男子にお金をかける方針だから」
視線を落とし、ため息。
「なるほど」
さほど珍しくない話に、私は肯いた。
男尊女卑というまでではないものの、男子は後継ぎ、家を支える者。そう考えて男子を重んじ、女子はいずれ家を出るからと、手をかけない家も中にはある。
我が家は母が庶民の出であることもあって、兄と私の間に差はない。ありがたいことだ。
「両親に借りるしかないかしら」
「……そうね」
暗いトーンで呟く彼女に、同意することしかできなかった。
進学や就職など、将来に関わることで、両親からの援助を頼むならまだわかる。
しかし、学外活動は、言ってしまえば遊びだ。その遊びのために、両親から金銭的な援助を得るのは、心苦しいのだろう。
その葛藤が、下唇を薄く噛んでいる、彼女の横顔から読み取れた。
もしかしたら、そんな生徒は、他にもいるのかもしれない。
あの温厚な慧が、同級生に対しての劣等感を暴露したときの、あの剣幕を思い出す。
今彼女が置かれている状況は、慧によく似ている。
……なんとかしてあげられないかしら。
そう思った。
彼女に助力することは、慧に力を貸すことであるような気がした。
だから、私は考えた。
こういう場で発言するのは、柄ではない。
説得力をもって語り、皆の心を掴むのは、兄の得意分野だ。
兄ならこんなとき、どう話すだろうか。
「……ご意見があれば、伺いますね」
会長の合図で、皆が目配せを交わす。
その視線が自然に、海斗と早苗に集まる。
彼らは、クルーズがいいと主張している。
今ここでどちらかが発言したら、意見はそれでまとまるだろう。
海斗の右腕が、上がろうとした。
それを見て、咄嗟に手を挙げる。
「小松原さん、お願いします」
「はい」
会長に指名されたのは、私である。
返事をして起立した私に、視線が集まる。
本当に、柄じゃないわ。
掌に妙な汗をかきながら、私は周りの生徒をゆっくり眺めた。不思議そうな表情で、こちらを見ている。
大丈夫。兄になりきったつもりで、話せばいい。
「書類の一番上を確認すると、学外活動の目的は、自由度の高い状況下で、意見を擦り合わせてひとつの行事を運営することで、自主性と思いやる能力を高めること……とあります」
震える声を抑えるため、ぐっと腹部に力を込める。
「つまりこの行事の目的は、楽しむことではなく……さまざまな考えや状況の生徒のことを互いに思い合い、時には我慢したり、配慮したりしながら、企画を運営することだと思うのです」
集まる視線に、棘はない。泉が、肯いている。それを見て、緊張がふっと抜けた。
「会長さんがわかりやすく作ってくださった書類のおかげで、かかる費用も、よくわかります。クルーズと花火大会は、持ち出す金額が、予算を大幅に超えています。もちろん、持ち出しにより、自由度が高まる面もありますが……」
反論を防ぐために、予防線を張りながら。
「ただ、目的を考えると、予算を超える金額を予定して自由度を高めるよりも、学級内にいる様々な生徒……中には、持ち出しは厳しい方もいると思うのです……に配慮した金額設定をしたほうが、学びになるのではないでしょうか?」
全体に向かって、こんなに長く話したのは、初めてだ。掠れてきた声を、咳払いしてごまかす。
「つまり私は、予算内に収まるスポーツ大会の中で、工夫するのがよいと思います」
最後にまとめ、言い切って席に座った。
頭に上っていた血が、すっと下がる。
ずいぶんと緊張していたらしい。
「小松原さん、ありがとうございます。他に意見のある方は……」
「ありがとう、藤乃さん」
会長の司会の声に紛れて、隣から囁かれる。先ほどの女生徒が、両手を合わせていた。その目は、どことなく潤んで見える。
「あんなこと、自分から言い出せないから……私のためよね? ありがとう」
彼女のためでもあるが、慧を助けるような気持ちになっていたのだ。
曖昧に肯いて返すと、また彼女は「ありがとう」と言った。
感謝されるのなら、良かった。
「あの」
会長の投げかけに、すっと手を挙げたのは、早苗だった。
早苗?
彼女がこういうところで、全体に向かって自己主張をするイメージは、あまりない。
先ほどから「クルーズがいい」と呟いてはいたものの、意思表示をしているだけで、押し付ける雰囲気でもなかった。
そんな彼女は、今、両手を机に叩きつけ、身を乗り出した。
「あたしはどうしても、クルーズがいいんです!」
そして、はっきりと、言い放つ。
その口ぶりは、場にそぐわないほど、切羽詰まっている。
どうして、そんなに?
疑問に思ったのは、私だけではなかろう。
「理由を、伺ってもよろしいですか?」
皆の疑問を代表するように、会長が聞く。早苗は、声を震わせながら、続けた。
「クルーズを選ばないと、いけないからよ!」
だから、なんで?
理由にならない理由だけれど、彼女の悲痛な言い方に、それ以上突っ込んだらかわいそうだと思ってしまった。
机についた早苗の腕が、震えている。周りの生徒は顔を見合わせ、会長は眉尻を下げる。
こんなに取り乱す早苗の姿は、初めて見た。
「早苗」
海斗の声が、教室の沈黙を破る。
私は、思わず期待の視線を向けた。この状況に口を挟めるのは、海斗しかいない。
「クルーザーは、僕が今度、乗せてあげるよ」
海斗の父は、クルーザーを保有している。私も家族と共に乗ったことがある。素敵な船だ。
「だめなの、学外活動じゃないと……!」
「どうしてそんなに、こだわるんだ?」
そうそう、それが聞きたい。
早苗は、きっと海斗をにらむ。あんな表情、初めて見た。
海斗がたじろぐのが、こちらから見ていて、わかった。早苗は海斗を見たまま、顎を軽く上げて、言った。
「……どうしても」
それは、呟くように。説得力のない彼女の言葉が、ふわっと宙にほどけた。
「どうしても乗りたいなら、僕が乗せてあげるよ。理由を言ってもらえないと……皆、困っているよ」
「……それだけなの。もう、いい」
投げやりに言い、早苗は、すとんと椅子に座る。海斗は肩をすくめ、会長を目で促した。
「……では、決を採りたいと思います」
三択で、挙手を募る。結果は圧倒的に、スポーツ大会が多数であった。
私が思うより、金銭的な厳しさを感じていた生徒は、多かったのかもしれない。
クルーズに手を挙げたのは、早苗と海斗。それに、数人の女生徒。
「特に異論がなければ、スポーツ大会の方で進めたいと思うのですが」
会長が言うと、視線は早苗、そして海斗に集中する。
「……ありません」
不服そうな声で、早苗が言う。海斗が、ゆっくりと頷いた。ほっとした雰囲気が、教室に広まった。
ふたりが了承するのなら、そのように進めてよいだろう。会長たちは表情を緩め、「では、そうします」と宣言した。
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