「脇役」令嬢は、「悪役令嬢」として、ヒロインざまぁからのハッピーエンドを目指します。

三歩ミチ

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9 その婚約は望まれている

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「ただいま」
「お帰りなさいませ、お嬢様」

 出迎えてくれたシノに、荷物を渡す。
 日が伸びてきたこともあり、図書室にいられる時間は、だんだんと長くなっている。それに伴って帰宅も遅くなり、もうすぐ夕食の時刻だ。

 私は手を洗い、食堂へ向かう。戸を開けてもらって室内に入り、引いてもらった席に座る。何でも自分でやる学校とは違って、家にいると、身の回りのことは何でも人がやってくれてしまう。

 慧は、家に帰っても、自分で全部やるのかしら。

 夕食前のルーティンの中で、慧のことが思い浮かぶ。
 経済的な格差があって、学外活動には参加できない、と話していた彼。家でどんな風に過ごしているのだろう。考えてみたけれど、彼の生活は、想像もできなかった。
 これこそが、慧の言っていた格差なのかもしれない。望んで入学したとはいえ、生活があまりにも違う面々に囲まれ、肩身の狭い思いをしている彼を思うと、切ない気持ちになる。

「お母様、ただいま」
「お帰りなさい、藤乃ちゃん」

 食卓には、母が既に待ち受けている。

 優雅に微笑む母は、上品なワンピースを着ている。結婚前は働いていた母は、家でもきちんとした服装をしている。「今は家庭が職場だから」と、以前話していた。
 席に座ると、肩にかかった黒髪がさらりと背中に落ちる。母のさらさらのストレートを、私の髪も受け継いでいる。父は癖毛だから、この髪は、母の遺伝だ。

「桂一くんは今日も遅いみたいだから、先にいただきましょう」
「お兄様も、忙しいわね」

 桂一とは、私の兄のことだ。
 4つ上で、今年大学1年になった兄は、外部の大学に進学した。朝早くから夜遅くまで、学業にサークルに、精を出しているらしい。

 私は母にはわからないよう、そっとため息をついた。
 海斗に婚約破棄を言い渡された件について、相談するなら、まず兄にしたいと思っている。
 兄が時間に余裕ができるのは、いつになるのだろう。

「大学生だもの。たくさんお勉強しているのよ」

 ふわっと微笑む母の頬は、淡い桃色で綺麗だ。

 母の笑顔は、花が似合う。実際、母は花が好きで、家のあちこちに手ずから活けた花が飾られている。
 藤乃は、藤。兄の桂一の名は、月桂樹から。私と兄の名が植物から来ているのも、母の趣味が影響している。

「今日も美味しそうだわ」

 侍女が運んできた料理を見て、母が嬉しそうに言う。お客様に料理をお出しすることもあるから、我が家の料理人は、一流だ。
 湯気の立つスープは、明るいグリーン。エンドウ豆の甘い香りが、ふわっと立ち上る。

「いただきます」

 順繰りに運ばれてくる料理を、ゆっくり食べ始める。美味しいものでお腹が満たされていく。幸せを感じる。

「今日、学外活動の話をしたのよ」
「もうそんな時期なのね」

 夕食は、近況報告の場になっている。
 クラスでの出来事を話す私に、母はにこやかに相槌を打つ。

「藤乃ちゃんたちは、何をするの?」
「まだ決まってないんだけど……」

 兄の時に一通りの行事を経験している母は、「なるほどねえ」と納得しながら、私の話を聞いている。

「いいわね。千堂さんちのお子さんも、一緒なんでしょう?」
「それは、まあ。同じクラスだから」

 千堂さんちのお子さんとは、海斗のことだ。
 私が歯切れ悪く答えると、母は花開くような笑顔を見せる。
 こんな顔をされると、私はもう、たまらない気持ちになる。

「青春ね」
「……そうね」

 本当は海斗に婚約破棄を言い出されている、だなんて。
 こんな笑顔をする母に、言えるはずがない。

「どれも捨てがたいわね、花火は綺麗だし……」

 母は楽しげに、それぞれの案について華やかな想像を繰り広げている。
 彼女は、見た目通り、華やかな人柄なのだ。私とは、全然違う。
 視線を逸らし、熱いコーヒーをゆっくりと飲んで、心を落ち着けた。

「ごちそうさまでした」

 部屋に戻り、ベッドに寝転んで、本を開く。

 今回は、悪役令嬢とヒロインが、結果的に仲良くなるお話だった。
 冒頭、婚約破棄を宣言される場面で、ヒロインが二股をかけられていたことを知る。純粋なヒロインは、悪役令嬢と揃って、愚かな元婚約者を糾弾する。

「なるほどね……」

 私は思わず、唸った。攻略対象にヒロインも騙されていたというのは、新しいパターンだ。

 れっきとした婚約者がありながら、ヒロインに惚れ込んだ男。互いの家には、真実を誤魔化して、良い顔をしていた。嘘がばれ、それぞれの家族と、真実を知ったヒロインが、皆揃って手のひらを返すのだ。
 とにかく、愚かな元婚約者は排除された。そこからは、美しい女の友情と、共同生活が始まる。

「……こうは、ならないわね。きっと」

 手を取り合い、楽しく生活している二人の女性を、自分と早苗に重ねてみようとした。無理だった。私と早苗に、共通点などない。

 彼女は、全てを持っている。
 人柄も、人望も、能力も。

 早苗と一緒にいたら、おそらく私は彼女と自分を重ね、劣等感に苛まれるであろう。

 いつの間にかお話の中では、女同士の、甘酸っぱいやりとりが繰り広げられている。
 赤面したくなるような、絡み合う女性同士のイラスト。
 ちょっと対象年齢が高いものを、借りてしまったのかもしれない。

「……お嬢様」
「っ、なに?」

 控え目に扉がノックされ、私はさっと体を起こした。布団の中に、本を突っ込んで隠す。

「旦那様がお帰りになりました」
「ああ、わかったわ。ありがとう」

 侍女の言う旦那様とは、つまり、私の父のこと。
 ここ数日出張で家にいなかった父が、帰ってきたのだ。

 あまり待たせてはいけない。私は起き上がると、スカートの皺を整えた。鏡を見て、乱れた髪を直す。少し乾燥した唇に透明なリップクリームを塗り、それから部屋を出た。

「おかえりなさい、お父様。あ、お兄様も」
「ただいま、藤乃」
「ただいま」

 居間に向かうと、ソファに腰掛けた父が、振り向いた。
 黒い癖毛を丁寧に撫で付けた、上品な髪。上質なスーツがよく似合う、長身の「いけてるおじさん」が父だ。
 いけてるおじさん、とは、父の自称である。「いけてるおじさんを目指してるんだよね」とのことだが、その思惑は、概ね達成されていると思う。

 その斜め向かいのソファには、まだ外出着姿の兄が座っている。軽く手を上げて微笑む姿は、高等部時代とは違って、いやに大人に見える。

 兄の素晴らしさについて語り始めたらきりがないので割愛するが、容姿・性格・能力など、全てを備えた兄は、学園時代から、周囲からの人望を集めていた。
 海斗同様、「ファンクラブ」なるものまで作られていた兄。
 私自身は何の取り柄もないものの、「あの小松原桂一の妹」として、先生や先輩方にはそれなりの認知を得ていたものだ。

「藤乃ちゃん、もう寝てた? 起こしてごめんなさいね」
「ううん、まだ起きてたよ」
「よかった。お土産があるから、皆でいただこうと思ったの」

 侍女が、テーブルに盛られた果物を置く。赤くてまあるい、小粒の果実。

「さくらんぼだわ」
「頂き物なんだけどね。皆で食べよう」

 父が身を乗り出し、さくらんぼをひとつ摘んで食べる。私は空いているソファに座った。母も腰掛け、皆でさくらんぼを手に取る。
 母と父、兄がソファに腰掛け、宝石のような果実を手に取る様は、さながら絵のようだ。

 甘酸っぱい、爽やかな味が口の中で弾ける。小さい粒から、驚くほどたくさんの甘い果汁が出てくる。ごくんと飲み込んでから、私は暫く、その余韻を堪能した。

「美味しいね、これ」
「だろう? ……桂一は、どうだ、大学生活は」
「楽しいよ」

 兄と父は、この4月から通っている大学について言葉を交わす。兄が通うのは、父の母校。高等部から外部を受験し、合格したのだ。
 勉強のこと、サークルのこと。兄の話を聞くのはいつも、未来を垣間見ているようで、心踊る。

 中等部時代の私は、兄の話を聞いて、高等部の自由で充実した日々に思いを馳せていた。
 現実は、想像よりも、ずっと難しかったけれど。

「藤乃ちゃんは、そろそろ学外活動の時期なのよね」
「ああ、そうか。藤乃はどうだ? 最近は」
「私? 私は……」

 父に問われても、兄の話すようなきらきらした学園生活を、私は語れない。

「今日の夕食で、いろいろ聞かせてもらったの」

 うまく言えなかった私の代わりに、母が話し始める。
 私は母の説明に頷きながら、さくらんぼをもうひとつ摘む。

「いいわよねえ、千堂さんのお子さんも一緒なんですって。青春だわ」
「そうか、海斗くんとは、同じ組になったんだったな。懐かしいな、僕も学園時代は、千堂と同じ組でさ」

 コーヒーをソーサーに置き、父の昔話が始まる。

 父は、高等部まで霞ヶ崎学園に所属していた。海斗の父とはそこで出会い、意気投合し、それはそれは楽しい学園時代を過ごしたらしい。
 父は「悪友」と呼ぶその縁が、私と海斗の婚約を取り持ったそうで。

「それにしても、海斗くんは、素晴らしい青年だそうだね。千堂が随分、自慢しているよ」
「そうね」

 海斗の両親が、彼を誇りに思っていることは、私もよく知っている。
 そしてそれは、誇るだけのものがある。
 私の両親が兄を誇りに思うように、出来の良い子供がいれば、親は自慢したくなるのだろう。

「ああいう好青年は、年頃になれば、見合いの申し込みが、いやってほど来るからね。良かったな、藤乃。あんな素敵な青年が、婚約者で」
「うん」

 私は力なく、同意した。

「桂一くんも、早く素敵な女性が見つかるといいわね」
「うん? 僕はまだいいよ」

 母と兄の会話が、うつろにこだまする。

 生まれたばかりの私が女だとわかって、「藤乃」という名前がつけられた。藤の花言葉は「歓迎」である。私の出生が歓迎されたのは、海斗と同い年で生まれ、婚約することができるからだ。
 年を重ねるごとに、海斗はその才能を発揮し、ますます私と彼の婚約は、喜ばしいものとして取り扱われるようになった。

 婚約破棄なんてされたら、父にとって、私のいる意味がなくなってしまう。

 ああ。

 美味しいさくらんぼを食べたのに、口の中が苦くなった。

「私、先に寝るね」

 重たく感じる胃の辺りを摩りながら、私は席を立った。皿に盛られていたさくらんぼは、もう空になっている。そろそろ部屋に戻っても、角は立たない。

「おやすみ」

 父に母、兄に見送られ、私は今から出た。

「そういえばね……」

 母が何やら、話し始める。その声が遠くなっていくのを聞きながら、私は部屋に戻り、ベッドに倒れこんだ。ぼふ、と行儀悪く、枕に顔を埋める。

「うー……」

 呻く声が、枕に吸われてくぐもる。

 海斗の話をしながら、花開くように笑う母。海斗のことを、まるで自分の息子のように、自慢げに語る父。そんなふたりに、どうやって、海斗との婚約破棄の件を伝えようというのか。
 相談するなら兄だけれど、彼はまだまだ、新生活に忙しい。私の個人的な問題を押し付けるのは、気が引ける。

 どうにもならないよ。

 目元を枕に押し付け、私は呼吸を整えた。
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