75 / 96
番外 長い一日とクロワッサン
しおりを挟む
木森希の一日は、長くて短い。
一日の始まりはとびきり早い起床だ。薄暗いうちから起き出して、菓子作りを始めるからだ。
昔は朝は弱かったが、菓子職人になってからというもの、すっかりこの生活に慣れてしまった。
手早く身支度を整えると、早速店におりていくのが決まりである。
木森は今、まれぼし菓子店の店舗の二階に住み込んでいる。
仕事柄、朝早いし、夜も遅くまで試作をしていることが多いからだ。
通勤時間ゼロ、というのは、体力には自信がある彼にしてもかなり嬉しいことなのである。
トントントン、と階段をおりていくと、もうすでに明かりのついている一階から声がかかる。
「おはようございます、木森さん」
「……おはよ、手嶌」
朝からニコニコと上機嫌そうなのは同僚の手嶌。
手嶌もこのまれぼし菓子店に住んでいる、和菓子づくりの職人なのだが……。
手嶌は謎の多い男だ、と木森は思っている。
というのも、木森は手嶌が自分より遅く起きてくるところを見たことがないのだ。同じように、自分より早く寝ている様子もない。
それだけでなく、手嶌の仕事は早い上に質が高い。和菓子職人といったが、それだけでなく洋菓子すら難なく作り上げてしまうところがあるのだ。
……まるで魔法でも使っているよう、というとありきたりの表現になってしまうが、店のオープンからの付き合いにも関わらず、この男に関しての謎は日々深まるばかりなのである。
「どうしました?」
「……いや」
「?変な木森さんですね」
「変なのはお前の方だと思うけどな……」
「唐突ですね。それは良いことにしましょう。今日のその感じだと、特別メニューを作るんでしょう?何にするんですか」
だから、なぜそのつもりということが分かるんだ。という言葉を飲み込んで、腕組みをしてエプロンを身につける。
特別メニュー。
たまに数を限って店に出すメニューのことだ。
この店では採算が取りにくかったり、定番化はしにくい、季節のものでもない……ただ作りたい、というものを特別メニューにして出すことがある。
「……クロワッサン」
「昨日は確かに見事な三日月でしたね。“まれぼしの三日月”クロワッサン。素敵じゃありませんか」
「……まあな」
夕べの三日月の美しさで、パンを思い出すのは、ロマンチストなのか食いしん坊なのか微妙なところだなと木森は苦笑する。手嶌の手にかかれば、一気に風情のある枕詞がついてしまうが。
朝、これも同僚の星原がやってくる頃には、こんがりとしたクロワッサンが焼きあがっている。
バターをたっぷり使った生地のクロワッサンは、皮はさっくりパリッと、中身はふわっと仕上がって、我ながら良い出来だ。
バターの香りの良さというのも際立っている。この香りが食欲をそそってくれるだけに、やはり良いものを使わなくてはならない、と職人としては思うのだ。
毎朝の日課の、三人での朝食にも、今日はクロワッサンだ。星原のいれてくれたコーヒーで食べる。
「んん、おいしい!これで原価さえなんとかクリアできれば定番にしたいのよね」
「そこが一番の問題ですね、クロワッサンは」
「バターがどうしてもな……」
バターを極めつけに大量に使うクロワッサンは、なかなか店に優しいとは言いにくいパンなのだ。
だからこそ贅沢な食べ物とも言えるし、特別メニューになっているとも言える。
キビキビと仕事をこなしつつ、昼。
手嶌に呼ばれて店の方に顔を出すと、なんと姉が来ていた。木森には姉がいる。それも、彼とはだいぶ、性格が違う……あまりにもタイプが違いすぎて、大人になってからは避けがちなのだ。
きゃあきゃあと騒がしい姉に、クロワッサンを供すると更にかしましくなって、でも喜んでくれているようだった。喜んでもらって悪い気はしない。
その後、急に忙しくなって、三人全員でホールに出ることになった。客あたりの良い他のふたりと違い、木森はできれば厨房から出てきたくないのだが、小さな店ではそうもいかない。
忙しく接客をしているうちに、ケーキはもちろんクロワッサンもどんどん姿を消していく。なんだかんだ売れ行き上々なようで嬉しい。
忙しい昼間をすぎて、夕方。
常連のあいつがやってくる。
とびきり美味しそうになんでも食べる、なんともわかりやすい客。人見知りの木森だが、彼女とはずいぶん馴染んできた。
「木森さん!珍しいですね、お店に出ていて。今日のおすすめは……もしかしてクロワッサンですか?」
「……まあな」
「じゃあ、わたし今日はクロワッサンとカフェオレをお願いします!」
彼女には、不思議と今日のおすすめをわかってくれるとか、悩んでいる時に寄り添ってくれるとか、そういう面がある。優しいいぬみたいなやつだな、と木森は最近思うようになった。
クロワッサンを大喜びで(表情がまたわかりやすいのだ)食べた後に、カフェオレを飲んで、ご満悦というふうだった。
「ごちそうさまでした!また木森さんのクロワッサン食べたいですね」
「タイミングがあえばな」
「ますますまれぼしに通わなきゃいけませんね!」
何ともくすぐったい気持ちにさせられながら。
小さく告げたありがとう、は聞こえたかどうかわからない。
夜。閉店準備をして窓の外を見たら、細い三日月が光っていた。
まれぼしの三日月。
クロワッサンはきれいに売り切れていた。
長いようで短い一日の終わりが近づいている。
あの笑顔がふと、思い出された。
「……よし」
「仕込みですか?」
気づくとまた、手嶌が立っている。
無言で頷くと、では、と手嶌も隣の作業台に立つ。
「華がなくて申し訳ないですけど、今日は私もおともしましょうかね」
「……誰のことを言ってるんだ」
「そろそろ残暑も落ち着いてきましたね。秋の新作はどうしましょうか」
「まったく……」
心の中を読まれたようでドキリとしながら、次の瞬間にはもう作業に集中している。
木森の長い一日は、もう少し続くのだった。
一日の始まりはとびきり早い起床だ。薄暗いうちから起き出して、菓子作りを始めるからだ。
昔は朝は弱かったが、菓子職人になってからというもの、すっかりこの生活に慣れてしまった。
手早く身支度を整えると、早速店におりていくのが決まりである。
木森は今、まれぼし菓子店の店舗の二階に住み込んでいる。
仕事柄、朝早いし、夜も遅くまで試作をしていることが多いからだ。
通勤時間ゼロ、というのは、体力には自信がある彼にしてもかなり嬉しいことなのである。
トントントン、と階段をおりていくと、もうすでに明かりのついている一階から声がかかる。
「おはようございます、木森さん」
「……おはよ、手嶌」
朝からニコニコと上機嫌そうなのは同僚の手嶌。
手嶌もこのまれぼし菓子店に住んでいる、和菓子づくりの職人なのだが……。
手嶌は謎の多い男だ、と木森は思っている。
というのも、木森は手嶌が自分より遅く起きてくるところを見たことがないのだ。同じように、自分より早く寝ている様子もない。
それだけでなく、手嶌の仕事は早い上に質が高い。和菓子職人といったが、それだけでなく洋菓子すら難なく作り上げてしまうところがあるのだ。
……まるで魔法でも使っているよう、というとありきたりの表現になってしまうが、店のオープンからの付き合いにも関わらず、この男に関しての謎は日々深まるばかりなのである。
「どうしました?」
「……いや」
「?変な木森さんですね」
「変なのはお前の方だと思うけどな……」
「唐突ですね。それは良いことにしましょう。今日のその感じだと、特別メニューを作るんでしょう?何にするんですか」
だから、なぜそのつもりということが分かるんだ。という言葉を飲み込んで、腕組みをしてエプロンを身につける。
特別メニュー。
たまに数を限って店に出すメニューのことだ。
この店では採算が取りにくかったり、定番化はしにくい、季節のものでもない……ただ作りたい、というものを特別メニューにして出すことがある。
「……クロワッサン」
「昨日は確かに見事な三日月でしたね。“まれぼしの三日月”クロワッサン。素敵じゃありませんか」
「……まあな」
夕べの三日月の美しさで、パンを思い出すのは、ロマンチストなのか食いしん坊なのか微妙なところだなと木森は苦笑する。手嶌の手にかかれば、一気に風情のある枕詞がついてしまうが。
朝、これも同僚の星原がやってくる頃には、こんがりとしたクロワッサンが焼きあがっている。
バターをたっぷり使った生地のクロワッサンは、皮はさっくりパリッと、中身はふわっと仕上がって、我ながら良い出来だ。
バターの香りの良さというのも際立っている。この香りが食欲をそそってくれるだけに、やはり良いものを使わなくてはならない、と職人としては思うのだ。
毎朝の日課の、三人での朝食にも、今日はクロワッサンだ。星原のいれてくれたコーヒーで食べる。
「んん、おいしい!これで原価さえなんとかクリアできれば定番にしたいのよね」
「そこが一番の問題ですね、クロワッサンは」
「バターがどうしてもな……」
バターを極めつけに大量に使うクロワッサンは、なかなか店に優しいとは言いにくいパンなのだ。
だからこそ贅沢な食べ物とも言えるし、特別メニューになっているとも言える。
キビキビと仕事をこなしつつ、昼。
手嶌に呼ばれて店の方に顔を出すと、なんと姉が来ていた。木森には姉がいる。それも、彼とはだいぶ、性格が違う……あまりにもタイプが違いすぎて、大人になってからは避けがちなのだ。
きゃあきゃあと騒がしい姉に、クロワッサンを供すると更にかしましくなって、でも喜んでくれているようだった。喜んでもらって悪い気はしない。
その後、急に忙しくなって、三人全員でホールに出ることになった。客あたりの良い他のふたりと違い、木森はできれば厨房から出てきたくないのだが、小さな店ではそうもいかない。
忙しく接客をしているうちに、ケーキはもちろんクロワッサンもどんどん姿を消していく。なんだかんだ売れ行き上々なようで嬉しい。
忙しい昼間をすぎて、夕方。
常連のあいつがやってくる。
とびきり美味しそうになんでも食べる、なんともわかりやすい客。人見知りの木森だが、彼女とはずいぶん馴染んできた。
「木森さん!珍しいですね、お店に出ていて。今日のおすすめは……もしかしてクロワッサンですか?」
「……まあな」
「じゃあ、わたし今日はクロワッサンとカフェオレをお願いします!」
彼女には、不思議と今日のおすすめをわかってくれるとか、悩んでいる時に寄り添ってくれるとか、そういう面がある。優しいいぬみたいなやつだな、と木森は最近思うようになった。
クロワッサンを大喜びで(表情がまたわかりやすいのだ)食べた後に、カフェオレを飲んで、ご満悦というふうだった。
「ごちそうさまでした!また木森さんのクロワッサン食べたいですね」
「タイミングがあえばな」
「ますますまれぼしに通わなきゃいけませんね!」
何ともくすぐったい気持ちにさせられながら。
小さく告げたありがとう、は聞こえたかどうかわからない。
夜。閉店準備をして窓の外を見たら、細い三日月が光っていた。
まれぼしの三日月。
クロワッサンはきれいに売り切れていた。
長いようで短い一日の終わりが近づいている。
あの笑顔がふと、思い出された。
「……よし」
「仕込みですか?」
気づくとまた、手嶌が立っている。
無言で頷くと、では、と手嶌も隣の作業台に立つ。
「華がなくて申し訳ないですけど、今日は私もおともしましょうかね」
「……誰のことを言ってるんだ」
「そろそろ残暑も落ち着いてきましたね。秋の新作はどうしましょうか」
「まったく……」
心の中を読まれたようでドキリとしながら、次の瞬間にはもう作業に集中している。
木森の長い一日は、もう少し続くのだった。
31
お気に入りに追加
109
あなたにおすすめの小説
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
夫を愛することはやめました。
杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました
まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました
第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます!
結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。
不妊を理由に離縁されて、うっかり妊娠して幸せになる話
七辻ゆゆ
恋愛
「妊娠できない」ではなく「妊娠しづらい」と診断されたのですが、王太子である夫にとってその違いは意味がなかったようです。
離縁されてのんびりしたり、お菓子づくりに協力したりしていたのですが、年下の彼とどうしてこんなことに!?
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる