まれぼし菓子店

夕雪えい

文字の大きさ
上 下
56 / 96

コーヒーはブラックで

しおりを挟む
「……」
「……」
「……」
 長い沈黙が支配する。おもーい空気。
 テーブルにちょこんと飾られた小さな薔薇も、わたしと一緒でさぞ居心地が悪いのではないかと思う。
 窓からの日差しもすっかり陰ってしまって、室内は初夏なのに少しひんやりしている。
 いつもならリラックスできる空気に満ちているまれぼし菓子店だけど、今日ばっかりは仕方ない。

 何しろ……。
 今日のわたしはスーツ姿。
 そして目の前にいるのは、中年のスーツの男性。上司……課長と一緒なのだから。

 お得意先の担当の引き継ぎが何とか終わったところだった。課長はわたしに新たな得意先を任せてくれて、その紹介ということで今日は一緒に社外へ出ていたのだ。
 こういうことって、そんなにない。一緒に外に出るとしても、たいていは先輩たち止まり。だから課長の前だとさすがに緊張してしまうのだった。

 もしなにかヘマをやらかしたら、いつものように細々したお説教がとんでくるだろう。ハラハラしながら、なんとか仕事を終えた……。
 ハラハラしながらも怒られずに仕事を終えられるようになったり、こうして新しい顧客を任されるようになったりということは、わたしもやはり成長しているのだろうか。本当にそうだったら、嬉しいことである。
 そしてさらに嬉しいことに、この後は直帰だと喜んでいると……、課長が声をかけてきたのだ。

「ご苦労だったね。どうだ、コーヒーの1杯でもおごろうじゃないか」
 と。

「私がコーヒーをおごるのがそんなに珍しいかね」
「え、いや……」
「全部顔に出ているぞ、君。ふむ……あそこにしよう」
 わたしが驚いて、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている間に、課長はズンズン進んでいく。
 その先にあったのが、まれぼし菓子店だったというわけだ。
 そして今わたしたちは、コーヒーを待っているというわけである。

「なんだか色々と珍しいですね、課長」
「別に私もケチというわけではないよ。ただなかなか部下と喫茶したり、飲みに行ったりの機会はないがね」
 今日は本当にお小言もない。そう思っていると課長は、
「まあ君も随分勉強して成長したようだからね。無理は禁物といえども、ま、ご褒美と言うやつかね……」
 とそっぽを向きながら言うのだった。
 課長……。正直細かいと思うし、得意な人ではない。でも悪い人ではないのかもしれない。初めてそう思ったかも。

「お待たせしましたー! 〝夜のビロード〟ブレンドコーヒーのブラックです」
 星原さんが元気に二人分のコーヒーカップを運んできた。
 可愛いミルクポットとシュガーポット。今回のカップは、課長と一緒だからかさっぱりとしたブルーの古典的な柄。それと一緒においてくれたスプーンの上には、チョコレートが乗っている。

「ケーキなんか頼まなくて良かったのかね」
「ここのはチョコがついてますからね! ……ご馳走になります!」
「飲みたまえ」
 はからずして二人で同時に口をつけることになって、少し笑った。見ると課長も少し笑っていて、わたしは更ににこにこしてしまった。

 苦いもの……コーヒーって、小さい頃はあんまり好きじゃなかった。苦い泥水みたいで良さが分からなかったのだ。
 ただ挽かれる豆の匂いは子供心に好きだった記憶がある。その香ばしさ……香り高さ。
 大人になって、こうして美味しい店で美味しいコーヒーを飲むとわかる。
 本当に美味しいコーヒーって、美味しいんだと。

 天鵞絨……ビロードという名づけ通りに、なめらかに舌の上を滑っていくコーヒー。まれぼしブレンドは酸味はあまり強くない。苦味もほどほどで、すっきりとした後味、香ばしさが残る。 
 最初の一口は、仕事で疲れた体の隅々まで染み渡るようだ。大人の贅沢だなあと思う。
 口直し用のチョコレートを放り込むと、その甘さが嬉しい。口の中で溶けていくのを見送ったあと、すかさずコーヒー。このふたつは相性抜群のコンビだ。
 そうやってコーヒーを少しずつ楽しみ、飲み終わる頃にはすっかり元気を取り戻しているのだ。

「うむ、やはり仕事のあとはこれに限る」
 気づけば課長も最後の一口を飲み終えるところで、しきりにそう頷いているのだった。
 うんうん、わたしもそう思いますよ、課長。

「君も疲れが少しは取れたようだな。幸いだよ」
「……はい! ありがとうございます」
「では、気をつけて帰りたまえ」
 張り詰めていたのも、お見通しだったか。課長にそう言われて、コーヒーの香りに包まれて、やっとわたしは気持ちを緩められた気がしたのだった。

 お店から出る時、星原さんが課長に頭を下げながら、
「いつもありがとうございます」
 そう声をかけていた。
 ……ということは、課長はもしかしてまれぼし菓子店の常連さんだったのか。
 それでお気に入りの店に部下を連れてきてくれたのだろうか。
 課長って気難しい人だと思うけど、なんだか親しみが湧いてきてしまった。そんなわたしは、単純すぎるのかもしれないけど。

 柔らかなコーヒーの香りに包まれながら。なんとなく、また一歩大人になれた気がして。
 少し肌寒い梅雨の夜、わたしはくつろいだ気持ちで家路へと着く。梅雨には珍しく、夜空には星が出ているのだった。
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! リクエストの更新が終わったら、舞踏会編をはじめる予定ですー!

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

男子高校生だった俺は異世界で幼児になり 訳あり筋肉ムキムキ集団に保護されました。

カヨワイさつき
ファンタジー
高校3年生の神野千明(かみの ちあき)。 今年のメインイベントは受験、 あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。 だがそんな彼は飛行機が苦手だった。 電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?! あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな? 急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。 さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?! 変なレアスキルや神具、 八百万(やおよろず)の神の加護。 レアチート盛りだくさん?! 半ばあたりシリアス 後半ざまぁ。 訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前 お腹がすいた時に食べたい食べ物など 思いついた名前とかをもじり、 なんとか、名前決めてます。     *** お名前使用してもいいよ💕っていう 心優しい方、教えて下さい🥺 悪役には使わないようにします、たぶん。 ちょっとオネェだったり、 アレ…だったりする程度です😁 すでに、使用オッケーしてくださった心優しい 皆様ありがとうございます😘 読んでくださる方や応援してくださる全てに めっちゃ感謝を込めて💕 ありがとうございます💞

ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?

音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。 役に立たないから出ていけ? わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます! さようなら! 5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!

処理中です...