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二つの顔のマドレーヌ
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苦手な先輩がいる。
何しろ彼女は表情が読めなくて、必然的に感情も読みにくいのだ。
わたしの指導役を務めてくれていて、しっかり物事を教えてくれるし、理不尽に怒ることはない。部長達みたいにセクハラやパワハラ一歩手前の冗談を飛ばしてくることもない。良い先輩であることに間違いはない。
でも飲み会では上手に一抜けたしているし、寡黙なのもあって、怒っているのか喜んでいるのかわかりにくいし……。
そう――つかみどころがないのだ。
桜庭先輩はつかみどころがない。わたしは彼女がちょっと苦手だった。
そんな彼女とわたし、今日は二人で得意先への出向だった。何となくそわついてしまうわたしに対して、先輩はどこ吹く風、落ち着き払って仕事ぶりもしっかりしている。
(桜庭先輩くらいに仕事ができるようになったら、私もこんな感じに飄々としてクールでいられるのかなあ)
そんなことを出向帰りに考えてしまうくらいだった。
「今日プレゼン上手くいって良かったですよね」
「そうですね」
「……なんか変な天気になってきましたねー」
「ええ」
先輩と世間話をしようにも、話が続かないので、自然と無口になってしまう。
直帰だしいいか。と本当に小さくため息をついて、沈黙に任せようとしていたところで、思わぬ出来事が起きた。
にわか雨である。
春とはいえ、降る雨はとんでもなく冷たい。氷のようだ。
しかも小降りなら良いものの、本降りの大粒の雨が次から次へと落ちてくるし、空模様と言ったら曇天でいつやむのかもわからない。おまけに雷まで鳴り始めている。
どうするか悩む間も、雨はスーツの生地をじわりじわりと侵食していく。
これは――。
「どこかで雨宿りしないと……」
と桜庭先輩が辺りを見回す。この辺の道には不案内のようだ。
「それなら、先輩!」
「えっ?ちょっと?」
そうだ、帰り道にと通り抜けているこの住宅街はわたしの庭! というのは言い過ぎか。ただ、ここにはあの店があるのだ。
わたしは驚く先輩の手を引いて走り出していた。
「ひゃー冷たい……先輩、大丈夫ですか」
「おかげさまでなんとかね」
雨をかいくぐるように走ってしばらく。
わたしたちはさほど濡れないうちに、まれぼし菓子店の屋根の下にうまく逃げ込めた。
弾む息を整えながら、先輩に尋ねると彼女はこっちを見て微笑した。そんな先輩の顔は初めてみるので、何となくドキッとしてしまった。
「……ここは? お菓子屋さん?」
「カフェも併設されてるんです。よかったら入っていきませんか? 雨宿りに」
「いいわね」
体も冷えてしまっているし、小腹も空いている。わたしたちはかくしてお店の扉を押したのだった。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ……お」
お店に入ると、いつもの通り星原さんが迎えてくれる。それとちょうど焼きあがったばかりの菓子のバスケットをもって、木森さんがバックヤードから出てくるところだった。
ふんわりとバターの良い香りが漂う。
「こんにちは、木森さん。あ、それは?」
「ちわッス…………今日のオススメ」
彼はバスケットの中を見せてくれた。
貝殻の形。こんがりぷっくり、よく焼きあがって。日本のお茶の間にもすっかり馴染みの焼き菓子、マドレーヌである。
「……美味しそう」
と言ったのはわたしではなかった。傍らの桜庭先輩の口からぽろりとこぼれ落ちた言葉だった。
「もちろん、イートインもできますよ」
星原さんがすかさず言う。桜庭先輩はハッとして口元を抑え……もしかして照れているんだろうか。やっぱり見たことのない表情をしていた。
焼きたてのマドレーヌは、なにしろ香ばしい。
ふかっ、さくっ。軽い歯ごたえが楽しくて香りも味も食感も、全部が全部、幸せになる。わたしはとりわけよく焼けた背中? の部分が好きな香ばし党なのだった。
マドレーヌのちょっと喉がつまるところも好きだ。そこを紅茶でぐいっと流してしまう爽快感が。……あんまりお行儀は良くない好みかもしれないけど。
わたしと桜庭先輩は隣合わせの窓の見えるカウンター席で、マドレーヌと紅茶のセットを堪能していた。
窓の外では、通り雨がごおごおと音を立てて降り注いでいる。
「あなたって美味しそうに食べるのね」
ふと、先輩が言う。わたしも、
「先輩のほうが、美味しそうに食べてますよ」
そう言うと先輩が笑う。
なんだ、と腑に落ちた。
わたしが勝手に苦手だと思い込んで見ていなかっただけで、先輩はその表情と同じくらい優しく可愛い人なんじゃないかって。
「先輩のことまたお茶に誘ってもいいですか?」
「何それ、ナンパみたいね。でもこんな美味しいところなら本当に歓迎よ」
そういえば先輩のデスクにはいつもお菓子が備えられていたことを思い出す。甘党だったのか。もっと早く誘えばよかったかも。
わたしたちは、二人で顔を見合わせて笑った。
やがて雨はあがり、窓外の軒先からはぽたぽたと雨だれが落ちている。
雨宿りもそろそろ終わりにして良さそうだ。
「そろそろ行こうか」
「はい!」
さてお会計というところで木森さんが珍しく声を掛けてきた。
「……あの」
「はい?なんですか木森さん」
「おみやげにもオススメ。……〝二つの顔〟のマドレーヌ」
木森さんの言葉の説明を星原さんに求めると、
「風味が変わるんです。焼きたてとその後だと。焼き菓子にはふたつの顔があるんですよ。木森は是非それも楽しんで欲しいって」
なるほど。
それならばと素直に頷いて、わたしと桜庭先輩はマドレーヌをおみやげにも買ったのだった。
その夜。
「あ」
お茶を用意してマドレーヌを一口食べた時、星原さんの言ったことがわかった。なるほど……ふたつの顔ってこういうことだったのか。
焼きたての香ばしさとあたたかさ、ふんわりとした食感に代わって、充分水分を残しながらもしっとりと落ち着いた美味しさに変わっている。ちょっと重厚感の増した、だけどそこが良いという味だ。
今頃桜庭先輩もこの美味しさに舌鼓を打っているのだろうか。
あの時の美味しそうな顔が思い出される。普段は鉄面皮の彼女と、お菓子好きの普通の彼女……。
それはマドレーヌに似ているかもしれない二つの顔だ。そう思った夜だった。
何しろ彼女は表情が読めなくて、必然的に感情も読みにくいのだ。
わたしの指導役を務めてくれていて、しっかり物事を教えてくれるし、理不尽に怒ることはない。部長達みたいにセクハラやパワハラ一歩手前の冗談を飛ばしてくることもない。良い先輩であることに間違いはない。
でも飲み会では上手に一抜けたしているし、寡黙なのもあって、怒っているのか喜んでいるのかわかりにくいし……。
そう――つかみどころがないのだ。
桜庭先輩はつかみどころがない。わたしは彼女がちょっと苦手だった。
そんな彼女とわたし、今日は二人で得意先への出向だった。何となくそわついてしまうわたしに対して、先輩はどこ吹く風、落ち着き払って仕事ぶりもしっかりしている。
(桜庭先輩くらいに仕事ができるようになったら、私もこんな感じに飄々としてクールでいられるのかなあ)
そんなことを出向帰りに考えてしまうくらいだった。
「今日プレゼン上手くいって良かったですよね」
「そうですね」
「……なんか変な天気になってきましたねー」
「ええ」
先輩と世間話をしようにも、話が続かないので、自然と無口になってしまう。
直帰だしいいか。と本当に小さくため息をついて、沈黙に任せようとしていたところで、思わぬ出来事が起きた。
にわか雨である。
春とはいえ、降る雨はとんでもなく冷たい。氷のようだ。
しかも小降りなら良いものの、本降りの大粒の雨が次から次へと落ちてくるし、空模様と言ったら曇天でいつやむのかもわからない。おまけに雷まで鳴り始めている。
どうするか悩む間も、雨はスーツの生地をじわりじわりと侵食していく。
これは――。
「どこかで雨宿りしないと……」
と桜庭先輩が辺りを見回す。この辺の道には不案内のようだ。
「それなら、先輩!」
「えっ?ちょっと?」
そうだ、帰り道にと通り抜けているこの住宅街はわたしの庭! というのは言い過ぎか。ただ、ここにはあの店があるのだ。
わたしは驚く先輩の手を引いて走り出していた。
「ひゃー冷たい……先輩、大丈夫ですか」
「おかげさまでなんとかね」
雨をかいくぐるように走ってしばらく。
わたしたちはさほど濡れないうちに、まれぼし菓子店の屋根の下にうまく逃げ込めた。
弾む息を整えながら、先輩に尋ねると彼女はこっちを見て微笑した。そんな先輩の顔は初めてみるので、何となくドキッとしてしまった。
「……ここは? お菓子屋さん?」
「カフェも併設されてるんです。よかったら入っていきませんか? 雨宿りに」
「いいわね」
体も冷えてしまっているし、小腹も空いている。わたしたちはかくしてお店の扉を押したのだった。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ……お」
お店に入ると、いつもの通り星原さんが迎えてくれる。それとちょうど焼きあがったばかりの菓子のバスケットをもって、木森さんがバックヤードから出てくるところだった。
ふんわりとバターの良い香りが漂う。
「こんにちは、木森さん。あ、それは?」
「ちわッス…………今日のオススメ」
彼はバスケットの中を見せてくれた。
貝殻の形。こんがりぷっくり、よく焼きあがって。日本のお茶の間にもすっかり馴染みの焼き菓子、マドレーヌである。
「……美味しそう」
と言ったのはわたしではなかった。傍らの桜庭先輩の口からぽろりとこぼれ落ちた言葉だった。
「もちろん、イートインもできますよ」
星原さんがすかさず言う。桜庭先輩はハッとして口元を抑え……もしかして照れているんだろうか。やっぱり見たことのない表情をしていた。
焼きたてのマドレーヌは、なにしろ香ばしい。
ふかっ、さくっ。軽い歯ごたえが楽しくて香りも味も食感も、全部が全部、幸せになる。わたしはとりわけよく焼けた背中? の部分が好きな香ばし党なのだった。
マドレーヌのちょっと喉がつまるところも好きだ。そこを紅茶でぐいっと流してしまう爽快感が。……あんまりお行儀は良くない好みかもしれないけど。
わたしと桜庭先輩は隣合わせの窓の見えるカウンター席で、マドレーヌと紅茶のセットを堪能していた。
窓の外では、通り雨がごおごおと音を立てて降り注いでいる。
「あなたって美味しそうに食べるのね」
ふと、先輩が言う。わたしも、
「先輩のほうが、美味しそうに食べてますよ」
そう言うと先輩が笑う。
なんだ、と腑に落ちた。
わたしが勝手に苦手だと思い込んで見ていなかっただけで、先輩はその表情と同じくらい優しく可愛い人なんじゃないかって。
「先輩のことまたお茶に誘ってもいいですか?」
「何それ、ナンパみたいね。でもこんな美味しいところなら本当に歓迎よ」
そういえば先輩のデスクにはいつもお菓子が備えられていたことを思い出す。甘党だったのか。もっと早く誘えばよかったかも。
わたしたちは、二人で顔を見合わせて笑った。
やがて雨はあがり、窓外の軒先からはぽたぽたと雨だれが落ちている。
雨宿りもそろそろ終わりにして良さそうだ。
「そろそろ行こうか」
「はい!」
さてお会計というところで木森さんが珍しく声を掛けてきた。
「……あの」
「はい?なんですか木森さん」
「おみやげにもオススメ。……〝二つの顔〟のマドレーヌ」
木森さんの言葉の説明を星原さんに求めると、
「風味が変わるんです。焼きたてとその後だと。焼き菓子にはふたつの顔があるんですよ。木森は是非それも楽しんで欲しいって」
なるほど。
それならばと素直に頷いて、わたしと桜庭先輩はマドレーヌをおみやげにも買ったのだった。
その夜。
「あ」
お茶を用意してマドレーヌを一口食べた時、星原さんの言ったことがわかった。なるほど……ふたつの顔ってこういうことだったのか。
焼きたての香ばしさとあたたかさ、ふんわりとした食感に代わって、充分水分を残しながらもしっとりと落ち着いた美味しさに変わっている。ちょっと重厚感の増した、だけどそこが良いという味だ。
今頃桜庭先輩もこの美味しさに舌鼓を打っているのだろうか。
あの時の美味しそうな顔が思い出される。普段は鉄面皮の彼女と、お菓子好きの普通の彼女……。
それはマドレーヌに似ているかもしれない二つの顔だ。そう思った夜だった。
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