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唾の行方⑥
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しゃわしゃわしゃわしゃわ。
じじ…。じりじりじり。
油蝉が能天気なほど騒がしく鳴いている。
風にそよぐプラタナスの影で私はいつものようにただ黙って耐えていた。
天子が学校に来なくなってから既に1か月は経とうとしていて、イジメは日に日に激しさを増していた。
「もう学校来るの辞めたら?頼れるオトモダチにも愛想尽かされたんだからさぁ」
「売女に捨てられるとかどんだけだよ 笑」
「私なら恥ずかしくて死んじゃうけどなー」
麗愛たちから次々に浴びせられる終わりのない暴言と暴力は、私だけでなく周囲の空間さえも蝕んでいく。
「もうさ、一辺死んでみよっか」
麗愛が突然私の首を掴んで壁に押し付けた。
「ぐげっ」
「え?どしたの麗愛」
「イライラすんだよこの顔が。あの女にくっつけば手出しされないと思って余裕かましてさぁ」
「ま、まあわかるけど、やりすぎはまずいよ」
「ぐぐうっ」
細く神経質な指が私の首に深く減り込んでいき、勝手に喉奥から声が漏れ出てくる。私の中から空気と生命の灯火が抜けていく。何かに取り憑かれたように麗愛はどんどん絞める力を強めていった。
「黙ってれば何とかなるって思ってんだろ?そうなんだろ?…舐めんなっ!」
「いぎっ」
引き剥がそうにも食い込んだ指はぴくりとも動かない。次第に視界の端で星が瞬き始め、頭に流れる洪水が私の体を攫っていく。これも私が何もかも見て見ぬ振りをしてきた報いなのだろうか。
「やめとけよー」
辺りが夜に包まれたその時、不意に頭上から誰かの声がした。
「う…」
涙と酸欠で霞む目ではぼんやりとした影しか捉えられない。
「ちっ…」
「げほげほっ!げぇっほ!…かっ」
たじろいだ麗愛が手を緩めたお陰で私はようやく酸欠の苦しみから解放される。身近に迫った死の恐怖は私の身体を強張らせ、声の主を見上げることすら叶わない。
「ふーっ。言っとくけど、その手にはのらないから」
「うっ」
落ち着きを取り戻した麗愛が勢いよく私を蹴り倒す。仰向けに転がった私はようやくこの目で天子を捉えることができた。
「おーい!あんたら、こっち見なくていいのー?」
「また唾でも吐いて助けるの?そんな奇跡二度と起こらないからっ」
「そーそー、やってみなよ」
多少の警戒はしつつも、麗愛の足はしっかりと私のお腹を踏みつけて離さない。
「あは、それはどうかな?」
天子が柵から目一杯身を乗り出して、おそらく口に含んだ唾液を麗愛目掛けて吐き出すような動作をした。私は再び奇跡が起きることを期待したけれど、唾は音もなくどこかに霧散したようだった。
「あはははははっ」
顔を醜く歪めた麗愛が私の方に向き直ると、思い切り私のお腹目掛けて足を振り上げて…。
「奈央っ!」
にわかに荘厳な声が頭の中に響いて、雲の切れ間から純白の天使が降臨した。大地に差し込む陽光を一身に浴び、光輪が眩い輝きを放っている。
あまりのことに一瞬私の時間が止まっていた。空と一体になった天子はこの世のものとは思えないほど美しく、私はただただ魅入られていた。
「あ…」
目と目が合うと天子が優しく微笑んだ。今までのことも、これからのことも、全てが赦された気がした。私は今、聖母と見つめ合っている。
永遠とも思える時間が終わると、目の前でりんごが砕けるような鈍い音がして、我に返った時にはもう目の前は夕焼けで赤く染まっていた。
私の側には全身に夕陽を浴びた麗愛が失禁し泡を吹いたまま倒れていて、取り巻きの2人も腰が抜けた状態で号泣している。
すぐに異変を察知した大人や生徒たちがかけつけて、しばらく辺りは騒然となった。
血と脳漿が飛び散り怒声が飛び交う混沌とした世界の中で、私の心は不思議と穏やかだった。
私は冷たくなっていく天子の側で空に向いた彼女の手を握ると、そのまま一緒に眠りについた。
次に目覚めた時には何もかもが終わっていて、まるで天使なんて最初から存在していないみたいに、誰も触れないまま彼女の存在は日常に埋もれていった。
じじ…。じりじりじり。
油蝉が能天気なほど騒がしく鳴いている。
風にそよぐプラタナスの影で私はいつものようにただ黙って耐えていた。
天子が学校に来なくなってから既に1か月は経とうとしていて、イジメは日に日に激しさを増していた。
「もう学校来るの辞めたら?頼れるオトモダチにも愛想尽かされたんだからさぁ」
「売女に捨てられるとかどんだけだよ 笑」
「私なら恥ずかしくて死んじゃうけどなー」
麗愛たちから次々に浴びせられる終わりのない暴言と暴力は、私だけでなく周囲の空間さえも蝕んでいく。
「もうさ、一辺死んでみよっか」
麗愛が突然私の首を掴んで壁に押し付けた。
「ぐげっ」
「え?どしたの麗愛」
「イライラすんだよこの顔が。あの女にくっつけば手出しされないと思って余裕かましてさぁ」
「ま、まあわかるけど、やりすぎはまずいよ」
「ぐぐうっ」
細く神経質な指が私の首に深く減り込んでいき、勝手に喉奥から声が漏れ出てくる。私の中から空気と生命の灯火が抜けていく。何かに取り憑かれたように麗愛はどんどん絞める力を強めていった。
「黙ってれば何とかなるって思ってんだろ?そうなんだろ?…舐めんなっ!」
「いぎっ」
引き剥がそうにも食い込んだ指はぴくりとも動かない。次第に視界の端で星が瞬き始め、頭に流れる洪水が私の体を攫っていく。これも私が何もかも見て見ぬ振りをしてきた報いなのだろうか。
「やめとけよー」
辺りが夜に包まれたその時、不意に頭上から誰かの声がした。
「う…」
涙と酸欠で霞む目ではぼんやりとした影しか捉えられない。
「ちっ…」
「げほげほっ!げぇっほ!…かっ」
たじろいだ麗愛が手を緩めたお陰で私はようやく酸欠の苦しみから解放される。身近に迫った死の恐怖は私の身体を強張らせ、声の主を見上げることすら叶わない。
「ふーっ。言っとくけど、その手にはのらないから」
「うっ」
落ち着きを取り戻した麗愛が勢いよく私を蹴り倒す。仰向けに転がった私はようやくこの目で天子を捉えることができた。
「おーい!あんたら、こっち見なくていいのー?」
「また唾でも吐いて助けるの?そんな奇跡二度と起こらないからっ」
「そーそー、やってみなよ」
多少の警戒はしつつも、麗愛の足はしっかりと私のお腹を踏みつけて離さない。
「あは、それはどうかな?」
天子が柵から目一杯身を乗り出して、おそらく口に含んだ唾液を麗愛目掛けて吐き出すような動作をした。私は再び奇跡が起きることを期待したけれど、唾は音もなくどこかに霧散したようだった。
「あはははははっ」
顔を醜く歪めた麗愛が私の方に向き直ると、思い切り私のお腹目掛けて足を振り上げて…。
「奈央っ!」
にわかに荘厳な声が頭の中に響いて、雲の切れ間から純白の天使が降臨した。大地に差し込む陽光を一身に浴び、光輪が眩い輝きを放っている。
あまりのことに一瞬私の時間が止まっていた。空と一体になった天子はこの世のものとは思えないほど美しく、私はただただ魅入られていた。
「あ…」
目と目が合うと天子が優しく微笑んだ。今までのことも、これからのことも、全てが赦された気がした。私は今、聖母と見つめ合っている。
永遠とも思える時間が終わると、目の前でりんごが砕けるような鈍い音がして、我に返った時にはもう目の前は夕焼けで赤く染まっていた。
私の側には全身に夕陽を浴びた麗愛が失禁し泡を吹いたまま倒れていて、取り巻きの2人も腰が抜けた状態で号泣している。
すぐに異変を察知した大人や生徒たちがかけつけて、しばらく辺りは騒然となった。
血と脳漿が飛び散り怒声が飛び交う混沌とした世界の中で、私の心は不思議と穏やかだった。
私は冷たくなっていく天子の側で空に向いた彼女の手を握ると、そのまま一緒に眠りについた。
次に目覚めた時には何もかもが終わっていて、まるで天使なんて最初から存在していないみたいに、誰も触れないまま彼女の存在は日常に埋もれていった。
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