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生前葬③
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ここまで来るともう行き交う車も人の往来もなく、辺りは静寂に包まれていた。
林の奥からは、時々澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてくる。
俺は未だに溢れてくる涙を強引に拭い去る。どれだけ気にしていないつもりでも、体の方は正直だった。
ぼんやりと歩いていると、不意にバスの中で見た夢を思い出す。
それは随分昔の忘れ去りたい光景。
『てめえ、誰に口聞いてんだ!つべこべ言わず酒買ってこいよオラァ!』
『ああ!?何であたしが買ってこないといけねーんだよ、てめえが行けよアル中野郎!』
記憶に残る父は酒癖が悪く、毎日飲んでは母に暴力を振るっていた。母は母で父に負けず劣らず気の強い性格で、夫婦喧嘩ではいつも言葉と物が飛び交っていたのを今でも覚えている。
父が建築会社を解雇されてからは酒の量が倍以上に増え、諍いも激しさを増した。
遂には殴り合いの大喧嘩をして母が包丁を持ち出すに至り、警察沙汰になった挙句離婚した。
『あんたってさ、あいつにそっくりで吐き気がするわ』
母がいつだったか俺に何気なく言った言葉だ。嫌な記憶は何年経っても色褪せないで、ふとした時に奥底から這い上がってくる。
母は暴力こそなかったけれど、育児というものを全く放棄していた。水商売をしていて客の男をとっかえひっかえ家に連れ込んで、金だけ持たせては入れ替わりに俺を家から追い出すのだった。
『今日は遅くなるから、家で待ってて』
しまいにはそれを最後に二度と帰って来なかった。
一週間後に近隣住民からの通報で警察が俺を発見した時には、家の中で衰弱して立つ事さえできない状態だったらしい。
別に鍵がかかっていた訳でもないのに、俺は律儀に、それこそ死ぬ直前まで母の言葉に従った。
あんな親でも、子どもはそれに縋ることしかできないのだ。
濃霧と雑木林に日光が遮られ、初夏でもひんやりとして心地よい。汗で濡れたTシャツが少し寒いくらいだ。
順調にT字路まで辿り着いた俺は、申し訳程度に置かれたベンチで少し休憩を取ることにした。
ほとんど座るものがいないからか、ベンチはあちこち腐って所々木の板が剥がれ落ちていた。
数十年ぶりだというのに、案外道を覚えているものだ。
『孝浩ぉ、よう頑張ったな。今日からあの村がおめぇの故郷だ』
不意に祖母の嗄れた声が脳内に響く。
俺は水筒の蓋を開けると、冷えた水を一気に飲み干した。すぐに身体中に水分が沁み渡り、ついでに余計なものも押し流してくれた。
反響する声を頭から追いやると、村を目指して再び歩き始める。後はもう、この道を真っ直ぐ進むだけだ。
雑木林の中に分け入ると、霧と相まって益々周りが見えなくなった。
進むたびにガサガサと腕やら顔やらに名も知らぬ葉や蔓が擦れる感触がある。
整備されていた印象があったこの小道も、長い年月をかけて荒れ放題になってしまったようだ。
小さな村だ。今の時代、どうやったって過疎化の波は止められない。時間は止まることなくどんな人間にも平等に流れている。
ありがたい。
先を行く時間を追いかけていれば、余計なことを考えずに済むのだから。
祖母は不思議な人だった。手をかざせば小さな怪我や病気が忽ちに良くなった。無くしたものも、祖母に聞けばピタリと場所を言い当ててくれた。
『孝浩ぉ、おめぇも手え合わせぇ』
祖母だけじゃない。村の大人たちは多かれ少なかれ同じような事が出来た。そして彼らは笑顔でききゅうさまのお陰だと口を揃えるのだ。
落ち葉や木の枝を踏み締める軽快な音とは裏腹に、体に纏わり付いた水滴と記憶の残滓が俺の歩みを遅らせる。
もう少し。あともう少しで着くはずだ。
祖母の教育もまた、ききゅうさまと共にあった。いや、祖母どころか村中がそうだったかもしれない。
『そんな悪さしとるとききゅうさまが』
『ちゃんと宿題やらんとききゅうさまが』
『好き嫌いしとるとぉききゅうさまがぁ』
ー願いを叶えてくれなくなるけぇ。
悪いことだけでなく良いことも同じで、理由や過程は無視された。
妙な説得力があると同時に、余所者である俺には子どもながらに居心地が悪かったのを覚えている。
村の子達はみんなサンタクロースと同じかそれ以上に、何の疑問もなく正体不明の土地神様を信じていた。
不意に視界が大きく開けると、雑木林の真ん中をくり抜いたように、だだっ広い土地が現れた。
「…隠れ里みたいだな」
これまでの道のりを振り返り、改めてそう思った。
村の名前は保憶村と言う。
村を離れて20年以上経つというのに、景色が当時の記憶と全く変わっていない。
「これも、ききゅうさまのお陰…か?」
この村だけ時が止まっているようだった。
林の奥からは、時々澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてくる。
俺は未だに溢れてくる涙を強引に拭い去る。どれだけ気にしていないつもりでも、体の方は正直だった。
ぼんやりと歩いていると、不意にバスの中で見た夢を思い出す。
それは随分昔の忘れ去りたい光景。
『てめえ、誰に口聞いてんだ!つべこべ言わず酒買ってこいよオラァ!』
『ああ!?何であたしが買ってこないといけねーんだよ、てめえが行けよアル中野郎!』
記憶に残る父は酒癖が悪く、毎日飲んでは母に暴力を振るっていた。母は母で父に負けず劣らず気の強い性格で、夫婦喧嘩ではいつも言葉と物が飛び交っていたのを今でも覚えている。
父が建築会社を解雇されてからは酒の量が倍以上に増え、諍いも激しさを増した。
遂には殴り合いの大喧嘩をして母が包丁を持ち出すに至り、警察沙汰になった挙句離婚した。
『あんたってさ、あいつにそっくりで吐き気がするわ』
母がいつだったか俺に何気なく言った言葉だ。嫌な記憶は何年経っても色褪せないで、ふとした時に奥底から這い上がってくる。
母は暴力こそなかったけれど、育児というものを全く放棄していた。水商売をしていて客の男をとっかえひっかえ家に連れ込んで、金だけ持たせては入れ替わりに俺を家から追い出すのだった。
『今日は遅くなるから、家で待ってて』
しまいにはそれを最後に二度と帰って来なかった。
一週間後に近隣住民からの通報で警察が俺を発見した時には、家の中で衰弱して立つ事さえできない状態だったらしい。
別に鍵がかかっていた訳でもないのに、俺は律儀に、それこそ死ぬ直前まで母の言葉に従った。
あんな親でも、子どもはそれに縋ることしかできないのだ。
濃霧と雑木林に日光が遮られ、初夏でもひんやりとして心地よい。汗で濡れたTシャツが少し寒いくらいだ。
順調にT字路まで辿り着いた俺は、申し訳程度に置かれたベンチで少し休憩を取ることにした。
ほとんど座るものがいないからか、ベンチはあちこち腐って所々木の板が剥がれ落ちていた。
数十年ぶりだというのに、案外道を覚えているものだ。
『孝浩ぉ、よう頑張ったな。今日からあの村がおめぇの故郷だ』
不意に祖母の嗄れた声が脳内に響く。
俺は水筒の蓋を開けると、冷えた水を一気に飲み干した。すぐに身体中に水分が沁み渡り、ついでに余計なものも押し流してくれた。
反響する声を頭から追いやると、村を目指して再び歩き始める。後はもう、この道を真っ直ぐ進むだけだ。
雑木林の中に分け入ると、霧と相まって益々周りが見えなくなった。
進むたびにガサガサと腕やら顔やらに名も知らぬ葉や蔓が擦れる感触がある。
整備されていた印象があったこの小道も、長い年月をかけて荒れ放題になってしまったようだ。
小さな村だ。今の時代、どうやったって過疎化の波は止められない。時間は止まることなくどんな人間にも平等に流れている。
ありがたい。
先を行く時間を追いかけていれば、余計なことを考えずに済むのだから。
祖母は不思議な人だった。手をかざせば小さな怪我や病気が忽ちに良くなった。無くしたものも、祖母に聞けばピタリと場所を言い当ててくれた。
『孝浩ぉ、おめぇも手え合わせぇ』
祖母だけじゃない。村の大人たちは多かれ少なかれ同じような事が出来た。そして彼らは笑顔でききゅうさまのお陰だと口を揃えるのだ。
落ち葉や木の枝を踏み締める軽快な音とは裏腹に、体に纏わり付いた水滴と記憶の残滓が俺の歩みを遅らせる。
もう少し。あともう少しで着くはずだ。
祖母の教育もまた、ききゅうさまと共にあった。いや、祖母どころか村中がそうだったかもしれない。
『そんな悪さしとるとききゅうさまが』
『ちゃんと宿題やらんとききゅうさまが』
『好き嫌いしとるとぉききゅうさまがぁ』
ー願いを叶えてくれなくなるけぇ。
悪いことだけでなく良いことも同じで、理由や過程は無視された。
妙な説得力があると同時に、余所者である俺には子どもながらに居心地が悪かったのを覚えている。
村の子達はみんなサンタクロースと同じかそれ以上に、何の疑問もなく正体不明の土地神様を信じていた。
不意に視界が大きく開けると、雑木林の真ん中をくり抜いたように、だだっ広い土地が現れた。
「…隠れ里みたいだな」
これまでの道のりを振り返り、改めてそう思った。
村の名前は保憶村と言う。
村を離れて20年以上経つというのに、景色が当時の記憶と全く変わっていない。
「これも、ききゅうさまのお陰…か?」
この村だけ時が止まっているようだった。
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