暗夜の灯火

波と海を見たな

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はこのなかのこ

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 春。夜染村にも少し遅れて春がやってきた。まだまだ山肌に雪は残っているけれど、そこかしこで土が顔を出し始めている。遠くから見るとそれが坊主頭みたいで何だか可愛らしく感じるのは私だけだろうか。
 立ち止まって景色をしみじみと眺めていると、急に吹いてきた春風に私は身震いした。春の匂いがするのになんと寒いことか。都内では十分すぎる程の薄いダウンジャケットも、北海道ではまだ早いことを身をもって体感した。

「先生!先生っ…!目を…。目を、覚ましました!」
「うっ…」

 殺風景な病室のベッドで目を覚ました時、私は何者でもなかった。目を開けてしばらく、私は自身の置かれている状況が理解できずに只々ぼんやりと天井を見つめていた。あちこちに付着した染がいつしかぐにゃりと歪み、周囲が慌ただしくなってきて初めて寝ている事に気がついた。全身に巻かれた包帯と、ぴくりとも動かない体。ひび割れた唇からは乾いてうめき声しか出せず、身体中に取り付けられた何だかよくわからない沢山の機器や点滴、栄養チューブが私を辛うじて生かしてくれていた。以前の私と同じところなんて、そこには何一つ無いように感じられた。
 
 夜染村は、何だか不思議な感じがする。春を感じる柔らかい風と土の匂い。まだ雪が残る地面を踏み鳴らして出るざくざくと小気味良い足音。あちこちで聞こえてくる子供たちの走り回る声…。その何気ない一つ一つが新鮮でありながら酷く懐かしくもあり、私の感情を必死に揺さぶってくる。

 意識が回復してからの病院での日々は、文字どおりあっという間だった。何本ものボルトが差し込まれた体は、少し動かすだけで激痛が走って幾度となく私を絶望させた。襲いくる全身の痛みやフラッシュバックする事故の記憶と闘いながら、投薬治療と並行して行う過酷なリハビリやカウンセリングを通して私は少しずつ、本当に少しずつ自分の体と心を許容していった。
 交通事故によって全身を強打し、1年以上も意識のない状態が遷延していたのだ。衰えた筋肉では体を動かすどころかご飯すらまともに食べられない。それでも長く厳しいリハビリの末、私は今度こそ本当に退院することができた。1年以上の昏睡状態から意識が回復しただけでも奇跡的なのに、そこから脳に大した障害も残らずに日常生活を送れるまでになるなんて、本当に神の御業としか言いようがないらしい。私のリハビリや治療を担当した医師や看護師、作業療法士達がまるで自分のことのように退院を喜んでくれて、ありがたすぎて今でも病院に足を向けて寝られないでいる。

 実際に目にした夜染村は、多少雰囲気は違えど夢で見たとおりの場所だった。夢。あの不思議な体験を私はそう名づけている。新千歳空港から地下鉄とバスを乗り継いでようやく村の入り口に辿りついた時、不意に何とも言えない感情が湧き上がってきて、その場からしばらく動くことが出来なかった。毎日生きるのに必死で遠い過去のように感じていた夜染村での日々が、沸々と泡のように浮かび上がっては消えていった。
 トンネルに入るとき、私は自分の足が竦んでいる事に気づいて苦笑した。頭の中に知らず知らずに暗闇に沈む自分を想起したからだろう。その場で深呼吸をして一歩踏み出すと、トンネルは拍子抜けするほど短かった。

 私が入院している間は会社側も休職扱いにしてくれていたが、退院後に正式に退職願を提出して受理された。上司に引き止められたのは意外だったし、今までの努力は間違っていなかったと嬉しくもなった。でも、あんな事を経験した今じゃしばらく何もする気になれなかった。33歳になってまさか自分が本当に無職になるとは思わなかったけど、貯金もある事だし、少しゆっくりして自分と向き合おうと思う。その有効性は既に夢で実証済みだった。

 トンネルを抜けた先には長閑な風景が広がっていた。都会と違って人も建物もまばらで、耳を澄ますと風の音に紛れて鳥たちの囀りが聞こえてくる。退院してからはどうにも自分の感覚が今まで以上に過敏になってしまって、人混みや騒音が辛く外出するのも一苦労だった。 その点ここはいい。息を吸って吐くだけで、私も体の中が丸ごと濾過されて入れ替えられているような気がしてくる。
 雪解けの少しぬかるんだ田んぼ道を、私は一歩一歩踏み締めながら歩く。春の陽気が私を柔らかく包み込み、自然と体を前へ前へと運んでくれた。
 道の途中、ちょっとした住宅街に差し掛かった。住宅街といっても、隣家同士の距離は相当なものだ。あちこちから軒先の雪を割るカーンカーンとツルハシやスコップと砂利の擦れ合う音が聞こえてくる。
「こんにちはあ」
「おんやあ、こんな村に珍しいねえ、ゆっくりしてきな!」
「見てみて!ダンゴムシこんなに捕まえたんだっ!」
 村の住人達は誰も彼も私に気さくに声をかけてくれた。もちろん、一体今の私には、どれだけ中身が詰まっているのだろう。
 道の途中に小さな祠があって、かじかむ手を伸ばすと私はお地蔵さんに手を合わせた。何を願った訳でもないけれど、自然と体がそうしていた。祠を後にすると、後ろでくすっと女の子の笑い声が聞こえた気がした。

 負の感情は、生きている証だと思う。夢を見ている間、私はその殆どを感じていなかった。怖さも、恐れも、疲れさえも。唯一後遺症による頭痛だけが私の悩みの種だった。それが揺り戻しだと知ったのは最近になってからだ。精神科医によるカウンセリングや、自分を見つめ直す中で、私は少しずつ歪な自意識を受け入れていった。
 終わりの見えない中での苦痛を伴うリハビリや、忘れたくても繰り返し鮮明に思い出される事故の記憶。それに今私が感じている寒さでさえも。私は今、その全てを噛み締めながら生きている。
 
 見上げた青空のキャンバスに、いつの間にか鮮やかなオレンジの絵の具が染み出した。何度も立ち止まって夢に思いを馳せながら歩いていたら、瞬く間に陽が傾き始めていた。でも、それでいい。私の時間はたっぷりとある。最終バスが無くなったら、行けるところまで歩けばいい。
 祠を越えてなおも道なりに歩くと、枯れ木たちが行手に立ちはだかった。森の散歩道だ。頭上に折り重なった細い枝の隙間から、夕陽が私の体を疎に赤く染める。血みたいだな。傷だらけの私の体は常に血で染まっている。すると、一匹のリスが私の前を横切った。私に驚いたのか一瞬動きを止めてこちらを振り向いたけれど、すぐにそのまま茂みの奥に消えてしまった。もう、あの時の鳴き声は聞こえてこなかった。
 途中、朽ちた木の入り口の向こう側に巨大なアスレチックの残骸が目に入った。使われなくなって久しいのか、周りの景観にそぐわない黄色のテープが遊具のあちこちに貼られていた。
 ーやっほー!
 ーおや、久しぶりですね!いつ以来でしょうか。
 後ろから懐かしい声が聞こえた気がして振り向いたけれど、もちろんそこには誰もいない。それとも、私には見えていないだけで今もササキ親子がそこで楽しく遊んでいるんだろうか。
 森を抜けた先にこぢんまりとした茶色屋根の東屋があった。燃えるように美しい夕焼けが、その影を長く伸ばしている。私は休憩ついでに東屋に腰を下ろす。
 ーあらあら。来てくれて嬉しいわ。
 ーああ…やはり夕陽は美しい…。
 わかっている。ここに安樂夫妻はいないし、例え居たとしても私にはもう声なんて聞こえない。それでも、今日も2人は寄り添いながら夕陽を眺めている。そんな気がしている。

 主治医の先生は、長い時間眠ったままだった私が突然目を覚まして、しかも目立った後遺症も無いほど劇的に回復した事は、現代の医学では説明できない奇跡だと言った。じゃあなんで私は目覚める事ができて、どうして後遺症もなく回復する事ができたのだろう。あの日の事故で永遠に暗闇を彷徨うはずだった私の魂は、何で夜染村に導かれたのだろう。ともすれば目を逸らしたくなるような自分自身への問いかけに、ようやく向き合う事ができたのはついこの間の事だった。

 東屋を越えると、黒い箱型の建物が私の目の前に現れた。夜染村役場だ。緑豊かな風景と調和するように白を基調とした建物が多い中、唯一夜染村役場だけが黒いのだ。その意図はわからないけれど、私はそれを美しいと感じている。
「こんにちはー!」
「ようこそ夜染へ!」
 役場内は気持ちのいい挨拶が飛び交っている。一瞬記憶の中とのギャップに驚いたけれど、それもそのはず、あの時の私は肉体がなかったんだから仕方ない。本当の夜染村はこんなにも明るくて暖かい。

「あの、蒔苗まかなえと申しますが、上寺さんはいらっしゃいますか。本日お会いする約束だったんですが…」
「はい、上寺ですね、おかけになってお待ちください」

 感じのいい受付の女性が笑顔で対応してくれた。目があった際、カウンターに乗って大声を上げていた在りし日の自分の姿を思いだして、恥ずかしくなって思わず目を逸らした。
 長椅子に座って待っている間、私はもう一度あの日の事を考える。

「先生!蒔苗さん…蒔苗慈実さんが目を覚ましましたっ!」
 …目を覚ますと、私は宿木吐夢ではなかった。

 あの事故の日、私は夜中まで残業して心身ともに疲れ切っていたトムを強引に呼び出して、ただ当てもなく峠をドライブさせた。その結果、疲れと眠気でハンドル操作を誤ったトムの車は、ガードレールを突き破って崖の下へ転がり落ちていった。
 トムは全身を強打して即死だったらしい。シートベルトをしていなかった私は、落下の途中で車外に放り出されたけれど、周りの木々がクッションになって、奇跡的に一命を取り留めて今に至っている。何もかもが奇跡の連続だ。自分勝手でトムを散々振り回した私はそんなにも生きる価値のある人間なんだろうか?
 早くに両親を亡くし、これといった人付き合いもなかったトムの遺体は、私が眠っている間に行政の手によって荼毘に付されたらしい。
 後悔してもしきれない。最も許しを請わねばいけない相手も、その家族や友人すらもう居ない。そして、私すらも。

「お元気でしたか?いえ、初めましてでしょうか、蒔苗さん」
 馴染みのある声がして私は顔を上げる。
「あ…えっと…」
 いざ上寺さんを目の前にすると、言葉にできない感情が溢れて私はしばらく声を出すことが出来なかった。村を訪れて少しずつ色を帯び初めていたかつての記憶が、登場人物の1人と再開した事で鮮やかに染まっていった。
「ふふ、戸惑うのも無理ないですよね。さ、ひとまずこちらへどうぞ」
 初めてみる上寺さんの笑顔は凄く素敵だった。
「あ、ありがとうございます」
 別室に通された後、上寺さん、ひいては夜染村の日々に徐々に実感が湧いてきて、上寺さんと時間も忘れて話込んだ。

「じゃあやっぱり、上寺さんは私たちが見えていたんですね」
「もちろん見えていましたよ。だから私はこんな部署にいるんです」
「夜染村役場…鎮魂課?」
 上寺さんが首から下げた職員証には、見慣れない文字が踊っていた。
「そう。といっても、課の職員は私しかいないんですけどね。神職みたいなもので、代々世襲でやっています。だから私も、実のところ霊が見えるだけでそういうのは得意ではないんですよ」
 上寺さんがそう言って苦笑する。ボランティアで会う度に口をへの字にしていたのも、私の顔を見るなり盛大に嘔吐していたのも、そうした理由だったのか。てっきり余所者に対して相当な拒絶反応を持っているのか、単純に体調不良で閑職になっているのかと思っていた。
「そっか、良かったあ。私、当時は唯一話してくれる上寺さんにすら嫌われているのかと」
 実は、今日会う約束を取り付けた際も、またあんな対応をされたらどうしようかと少し不安だったが、そんな心配は杞憂に終わったようだ。
「ふふふ、そんな事全然なかったですよ。実は皆さんのように霊的な存在は、死の直前の凄惨な格好をされている事が多くて…。そういうの、どうしても慣れないんです。我慢はしてるんですが、やっぱり耐えられなくて…。いつも吐いたりして不快な思いをさせてごめんなさい」
 上寺さんは心底申し訳なさそうに私に頭を下げた。私を見るたびに吐いていたということは、事故後のトムは相当酷い状態だったんだろう。想像を絶する痛みに苛まれたトムの事を思うと、胸の奥が締め付けられて苦しくなる。こんな私を、トムは今も恨んでいるだろうか。
「…いえ、いえ、そんな謝らないでください。私も上寺さんの存在に救われたんですから。こちらこそ、そんな事も知らずに気軽に会いにいってしまってごめんなさい」
「ありがとうございます。あなたたちの助けに慣れていたなら職業冥利に尽きます」
 私たちはお互いに謝罪と感謝を口にし合い、少しの間沈黙した。何とはなしに窓に目をやると、遠くの山々に混じってかつて生活していたホテルが目に入った。あそこに私は居たんだなあ。視線を戻すと、上寺さんも同じ方を見ていた。上寺さんの瞳の奥には、今も彼れらが映っている気がした。

「…でも、何で夜染にはそんな部署があるんですか?」
 私は先ほどから疑問に思っていた事を口にする。日本全国に市町村は相当数あると思うけど、そんな不思議な課があるのは夜染くらいなんじゃないか。どんな市町村にも少なからず伝統はあるものだけど、それこそ上寺さんが日々身を削ってまで対応しなければいけない程のものなのだろうか。
「蒔苗さんが疑問に思うのもよく分かります。では、鎮魂課の成り立ちに着いて少しだけ説明させてください。ええと…。あった。この村のある土地は、小さいけれど歴史が長く少し特殊な場所なんです」
「特殊?」
 上寺さんは面談室の後ろにある棚から、一冊の古ぼけた紙の台帳を取り出して、私に見せてくれた。そこにはみみずのようにうねった文字で何やらぎっしりと書かれていた。
「この台帳には、村の歴史が事細かに記されています。…ええと、ここです。…安政3年。1856年ですね。当時江戸幕府の直轄化に置かれていた東蝦夷地において、正式ではないですが、和人達が集まって夜染村は起こりました。彼らの夜染村に対する思いは強く、明治に入って開拓使が置かれ、名称が北海道に変わった後も夜染村はひっそりとその子孫達へと受け継がれていきました」
「そんなに昔から…」
「そうです。そしてこの土地はいわゆる霊場で、元々霊たちを呼び寄せやすいのです。彼らは代々祖先の霊と交信し、豊作への祈りや収穫への感謝、果ては未来を占う為に神にも等しい存在として奉ってきました」
「なるほど、その巫女さんみたいな役割が今の上寺さんという訳ですね」 
「はい、その通りです。でも、私の役割はそれだけではありません。今ではリゾート開発のために埋め立てられてしまいましたが、かつてこの村には安寧川という大きな川がありました。その川は氾濫も多く、石で堤防を築いても大雨の度に壊されて、作物や村民を呑み込んで甚大な被害を出していました。そうしたことから、人柱としていちを捧げる、とあります」
「人柱って、じゃあその人は…」
 工事の無事や自然の脅威を鎮める為に、昔の人は人間を神に供物として捧げていたと聞いたことがある。でもまさか、本当にそんなことがあったなんて。
「そう、いちは生きたまま川に沈められました。まだ年端も行かない女の子だったようです。蒔苗さんも目にした事がありませんか?」
「え?人柱をですか?」
 私が素っ頓狂な声を上げたので、上寺さんは声を上げて笑った。素の上寺さんは、よく笑いよく喋る人だった。
「いえいえ、いちをです。大抵、目の前に現れる際は巫女装束を着たおかっぱ頭で、提灯を持った姿をしている事が多いようですよ」
 ーちりん。
 そういえば、村に居る際に何度かそんな女の子を見かけた気がする。いや、というべきかもしれない。ふとした時にかかる生暖かい息遣い、部屋に響きわたる鈴の音。村全体に根付く、目に見えずとも確かに存在する、何か。
 ーぼごおっ。
「あの女の子…」
 記憶の奥底からぬるりと這い出てきた、濡れた巫女装束の女の子。
「やっぱり蒔苗さんも見たことがあるんですね」
「え、じゃあ上寺さんも?」
「もちろん。あの子は今、この村の守り神なんです。家族と村民を思い、村のために自ら進んで犠牲になったいちは、今も村と村を彷徨う魂を救い続けています。そんないちに感謝し、慰霊するために鎮魂課は代々存在しています」
「凄い…」
 右も左もわからない女の子が、大人の都合で犠牲になってなお、健気に村を守り続けてるなんて。
 ー寝不足?関係ないでしょ。今すぐきてよ。
 時々、昔の私が記憶の端に現れる。傲慢で、自分勝手な私。そんな私がいちの守るこの村で博愛に満ちたトムに成り代わっていたなんて、何て皮肉な事なんだろう。私は自分のためにトムの人生を犠牲にした。それなのに、トムはいちと同じように私をどこからか守ってくれていた。
「だから、リゾート開発が起きた時はそれはそれは大変でした」
 視界の端に、蓑虫が揺れる。
「じゃあ、あの時私が見た映像は」
 会話中も絶えず記憶が混ざり合い、ふと何かの映像が浮かんではすぐに泡となって消えていく。
「蒔苗さんにもお手伝いして頂いた、ダンボールと黒いゴミ袋には、何が入っていたと思いますか?」
 怪しく笑う上寺さんが、一瞬女の子の顔と重なった。
「えっ…」
 言葉を失った私を見兼ねてか、上寺さんがすかさず話題を変えた。
「あの子がトンネルに迷い込んだ迷える魂をホテルへと引き上げてくれるんですよ。沢山の魂が縛られたホテルは、霊たちにとっては灯火です」
「じゃあ、死にかけていた私もあの子に導かれたんですね」
 でも、2つの魂が混ざり合ってしまった。
「そうなりますね。そして、そこから私が案内をする」
 スピーカーから流れる5時を知らせる時報の音が、私を再び現実に呼び戻した。
「あ、もうこんな時間。色々とありがとうございました。お話できて良かったです」
「こちらこそ。良ければいつでも遊びに来てくださいね。もちろん、死んでからもまたお待ちしています」

 薄暗くなった山道を、私はゆっくりと登っていた。都会と違い、夜染村は自然の摂理に従って静かにしかし確実に時間が過ぎていく。

 夜染村に来た私は、間違いなくトムだった。落下の衝撃で私たちの何かが混ざり合ったのかもしれない。その時は、トムとしての過去もある程度覚えていたように思う。だが、病室のベッドで目覚めた私は、トムでも慈実でもなかった。私自身は慈実の記憶を失って、それはカウンセリングでもついぞ戻ることはなかった。私を担当した精神科医は、一つの器に2人の魂が同居していた影響ではないかと言っていた。

 山道にはまだ雪がそこかしこに残っていて、ぬかるんだ地面は私の靴の形に沈んでいく。
 私が持つトムの記憶は夜染村のものだけだ。私達の記憶は、全て事故の後からしか残っていない。トムも私も身寄りがなく、これといった人付き合いもほとんどなかった。ただの職場の同僚に聞いたところで、私もトムも余計に輪郭がぼやけていくだけだった。だから私は巡る。トムの軌跡を。そして、新しい私の足跡をつけていくのだ。

「…着いた」
 久々に見るヘブンズロード夜染は、思ったよりも小さかった。薄暗くて見上げても全容が把握できないせいかも知れない。入り口に近づいてみたが、上寺さんから聞いていたとおり中に入ることは出来なかった。
 建物の老朽化が進む中、数年前の大きな地震でいよいよ崩落の危険が出てきたらしい。ホテルにはトムわたしの大切な日常が詰まっていて、ロビーや部屋なんかを目にすれば、色々と感慨深いものがあったのかもしれない。
 だが、現実は物語のようにはいかないものだ。私の旅の終着点は、こうして壁を隔てて立っているこの場所だった。
「ただいま」
 私は扉越しに中にいるだろうみんなに呼びかけた。もちろん、返事は返ってこない。期待していた訳ではないが、やっぱり少し寂しさが残った。
 役場の後にホテルに行くことを告げると、上寺は親切にも一緒に着いて来てくれようとしたが、丁重にお断りをさせてもらった。一緒に行けば、もしかしたら上寺さんを通じてみんなと話せたかもしれない。その中にトムもいるのかもしれない。
 申し出はありがたかったし少し心が動いたのも事実だけど、今の私にはその資格も覚悟もなかった。
 この場所がなくなれば、みんなはどうなるんだろう。ホテルと一緒に朽ちていくのか、はたまた村の別な場所に留まるのか。
 生ぬるい風が私を追い抜いて、無数の塵芥を空高く巻き上げた。それを追うように空を見上げると、いつの間にか頭上にはぼんやりとした月が雲の切れ間から覗いていて、巻き上がった無数の粒がきらきらと天まで続く光の柱となっていた。

 ここが、ヘブンズロード夜染。天国まで続く道。かつてトムわたしが暮らしていた場所。確かにトムが居た場所。そして、昔の私が居る場所。
 私の性格は変わった。変わったはずだ。確かめる術はもうない。元来わがままで、人を殺めるほどに自己中心的で。頭をうちつけたのか、混じり合ったのか。それとも心の奥の奥で罪を悔いているのか。
 さっきの風で舞い上がったのは遺灰だ。人柱となった無数の命達の残り香が、散骨されて夜空へ消えていく。
 あれから今まで涙が出ないのは、私が夢の中のように冷たい人間だからだろうか。
 ホテルのすぐ脇に草が繁茂した道とも呼べぬ茂みがあって、私は汚れるのも厭わずに勢いよく分け入った。帰るには、この道が一番速いのを私はよく知っている。
 すぐに背丈ほどの草に隠れて、私は誰からも見えなくなった。そのまま足を止める事なく緩やかに傾斜した山道をがさがさと手探りで下っていく。
 私を惑わす声はどこからも聞こえない。暗闇の中で目を瞑ると浮かぶのは、事故の瞬間の映像だけだ。いつまでも、何度でも、何かの折に脳内に現れて繰り返される。フラッシュバック。トラウマ。私の罪の証。又は自己嫌悪。
 夢の中で見るトムは笑っていた。事故の瞬間も笑っていた。私がフロントガラスから放り出された時、必死に手を伸ばしていた。口が何かを呟いていた。記憶は、本人の都合の良いように改変されていく。死人に口なし。私は、許されてはいけない。

 ざあああああああ。

 風が周囲の葉を揺らし、葉擦れは誰かの声に良く似ていた。それは詠人や源さんや鈴さんかもしれないし、もしかしたらトムかもしれない。
「いるの?」
 私が進めばそれ即ち道となる。ここは、トムが通った道。その跡を辿り、新たな跡を刻んでいく。もしかしたら、今も誰かが折り重なって歩いているのかもしれない。

 がさがさがささささ。

 私が歩いている限り、夜の藪は静寂とは無縁だった。今、どの辺りまで来ただろう。この道は一本道だから、迷う事はないはずだ。それなのに、体感ではもう何時間も彷徨っている気がしていた。流石に少し不安になってきた所で不意に視界が開け、直ぐに青白い月光が差し込んだ。私のいる場所だけ何故かぽっかりと草が刈り取られている。こういうの、なんて言うんだっけ。キャタピラ…。キャピタル…。昔、そんな話を誰かとした気がする。気づけば暗闇の先に誰かが立っている。
 ーキャトルミューティレーション。
 誰かが言った。そう、それそれ!宇宙人が来た証。私と誰かは円の中で相対した。じゃあ彼は宇宙人?顔は影になってよく見えないけれど、口元が笑っていた。
 こちらを見ておいでおいでと手招いている。宇宙に行けるなら悪いことでもない。元々今の世に未練なんてない。死者の国だってみんながいるのなら悪くはないはずだ。
 でも。それは楽な道だ。誰かに着いていくだけの、誰かの付けた跡を辿るだけの
 毎日毎日夢に出てくるトムに、私は怯えていた。憤るのでも罵るのでもなく。ただ笑顔でいる意味がわからなかった。トムはきっと私を恨んでいるし、私を道連れにしたいだろうと思っていた。そうやって向き合うことを避けていた。
 ー忘れないでくださいね。蒔苗さんを夜染村まで導いてくれた存在のことを。
 上寺さんはあの時確かにそう言った。これは幻聴ではない。慰めでもない。私の記憶だ。そうして私は死なずにこの村に辿り着いた。
「ごめん。まだそっちには行けないよ。トム、ごめんね。私、私は…」
 目の前の誰かは相変わらず笑っいた。
 ー俺はこの先、どんな事でも受け入れよう。いい事も悪い事も、慈実がいない頃に比べたら、どんな事が起きたって最高なんだから。私の中に残っていた、トムの記憶の残滓が溢れて消えていった。
 私は涙した。ようやく。今更。やっと。許されてはいけない。でも、ようやく向き合えた気がする。永遠に暗闇を彷徨うはずだった私を、トムは確かにここまで導いてくれた。
「ありがとう」
 ーどういたしまして。ねえ…。
 その先は聞かなかった。この道は惑いの道だ。今の私に、必要以上に幸せになる資格なんてない。私の都合の良い解釈をしてはいけないのだ。確かにトムはいた。死んでからも私を導いてくれた。その事実だけで十分だった。
 現実の帰り道は、やっぱり酷く疲れた。その疲労が心地よくて、私はしばらく道端に大の字で寝転んだ。見上げると、ホテルが月に照らされて輝いていた。



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