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第2章 永遠の夏
24.ふたたび紫陽花屋敷へ
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目が覚めたら海がいなくなっていた。
まさかと思って飛び起きて、ダッシュで階段をかけおりたら、パンを焼くいい匂いがした。食卓にはすでに、二人分の目玉焼きをベーコンが用意されている。
「おはよう」と言いながら、海がナイフとフォークを並べる。
「おはよう……これ、作ったの?」
「まあな。冷蔵庫に入ってたものを適当に」
「たしか、朝食はあたしがつくることになっていなかったっけ?」
「ああ、線香花火の件な。あれは実質、俺の負けだった」
「やっぱりズルしてたんだ。サイテー」
「髪の毛、ヤマンバみたいになってるぞ」
「あっ、これは……」
頭に手をやる。が、手ぐしが通らない。
心配して飛んできたんだもの、と言うのも悔しい。
「逃げないから。ゆっくり顔洗ってくれば?」
「ヤマンバはあんまりでしょ」
全部見透かされているようで、ちょっと悔しい。
パッとしない天気の中、バスは紫陽花屋敷に向かっている。こっちに来るときなんとなく選んだ場所だったが、海にとっても、あそこはあたしを送り迎えするのに都合のいいところなのだそうだ。どうしてかはまだ教えてくれないけど。
海とあたしは、いちばん後ろの長い座席に、少し離れて座っている。
ひざの上に乗せたリュックは、こっちに来た時に比べると少し軽くなった。
「あたしね、やっぱり海は生きてると思う」
海は窓の外の曇り空を眺めたまま「どうだろうな」と言った。
「海が今どんな状況に陥っているのかはよくわかんないけど、どんな手を使ってでも、必ず向こうに戻れるよう、協力するから」
「どんな手を使ってでも、か」
海は寂しそうに笑った。
「心強いね」
……こやつ、信じておらぬな?
「だけど、やっぱり海自身の気持ちもはっきり聞いておきたい。あたしだけが頑張っても限界があるから」
あたしはリュックの肩ひもをぎゅっと握った。
「海は、どうしたい?」
海が窓枠にかけていた肘をおろして、ゆっくりと振り返る。
「本当のこと言っていい?」
あたしは緊張した。でもそれは隠して「もちろん」とうなずく。
「正直、ずっとこんなところに閉じこもってたのに、ある日突然奇跡が起こって生きて戻ってこられるなんて、虫が良すぎると思う」
「うん……」
「だけどもし、そんなわがままが許されるんだったら……千夏がいる世界に戻りたい。うまくなじめるかどうかはわかんないけど……見たことない景色を見て、食べたことなものたくさん食べて、いろんなことを経験したいと思う」
「うん……そうだね」
リュックを握りしめていた手をほどいて、そっと右に差し出したら、ためらいがちな左手が出てきた。あたしはその手の感触をしっかりと記憶に刻んだ。不安になったらいつでも思い出せるように。
しとしとと優しい雨が降りはじめた。
ゆっくりゆっくり、バスは斜面をくだってゆく。
大丈夫だ。ちゃんと生きてる。だってこんなにあったかいもん。
紫陽花の道を自転車を押して歩く。雨が止んで日差しがまた強くなってきたけど、ここは木陰だから涼しい。さっきからあたしも海も口数が少なく、砂利を踏む音と木の葉のざわめきがやけに大きく聞こえる。
あたしは幼いころ、初めて紫陽花屋敷を訪れたときのことを思い返していた。
ほこりっぽい部屋。暖炉とレースのカーテン。複雑な模様のじゅうたん。みしみしと音を立てる階段。書斎や寝室。バルコニーから入ろうとして失敗した、鍵のかかった部屋。
『あのさ、俺黙ってたことがあるんだ』
海が硬い表情で言う。
『紫陽花屋敷に来るのは、これが初めてじゃない』
あの鍵は、海がかけたものだった。でも、何のために?
ほかの人が入ってこられないような秘密基地みたいな場所にしたかったらしいけど、本当は何か隠しておきたいものがあったんじゃないか? 正体不明の物音、誰かがいるような気配……最後に現実世界で会ったどしゃ降りの日、海は紫陽花屋敷で何をしていたのか?
「ここの紫陽花は、全部が俺のってわけじゃないんだ」
唐突に海が口を開いた。
「……えっ、それどういう意味?」
「俺の記憶で再現してる部分もあるけど、大部分はある人が描いた紫陽花の絵を借りてる」
「絵じゃなくて、本物に見えるけど……」
「精巧な絵なんだ」と言って海は立ち止まり、斜め前方の脇道を指さした。
「そっちの道は現実には存在しないものだ。ある人の協力を得て、千夏があっちとこっちを行き来できるようにさせてもらってる」
「ある人って誰なの? 海の友だちってあたしのほかにもいたの? ていうか、どうしていつもみたいに送ってくれないの? そんな脇道使わなくても、海の力で送ってくれればいいじゃない」
「質問が多いな」
海は笑った。
「協力者の名前は千代子さんだ。友だち、と言えなくもないか。いい人だから怖がることはない。千夏も気に入ると思うよ」
「ちよこ? えっ、女の人なの!?」
「俺のこの変な能力、弱ってきてるみたいなんだ。脇道は万が一のためだよ。もしも千夏の上半身だけがあっちに帰って、下半身だけこっち残ったりしたらいやだろ?」
「なにそれ、怖すぎるんですけど」
「実際にそこまで面白いことにはならないと思うけど、そのぐらいリスクがあると思ってほしいってこと」
「なんかさ、あたしのこと心配してるようで、バカにしてない?」
「バカにしてるようで、心配してるんだよ」
海はバカにしたようにふふっと鼻で笑った。
「それじゃ、気を付けて。俺はこれからやることがあるから」
「やることって何?」
「忘れていた記憶を取り戻す」
海は紫陽花屋敷のほうを見上げた。
「……は? 記憶?」
「最後に向こうからこっちに来たとき……来たっていうか、気がついたら海岸に打ち上げられていたんだけど……何か重大なことを忘れていたんだ。どんなことかわからないけど、思い出すくらいなら死んだほうがマシと思えるくらい嫌なことだったのは確かだ。それがなんだったのか、これから確かめに行く」
「どうしてそれが紫陽花屋敷なの?」
「千夏もここに来たとき見たんだろ? あの部屋に誰かがいるのを」
海は2階の、昔あたしがベランダから侵入しようとして失敗した部屋を指さした。
「あそこには紫陽花の絵がおいてあったんだ。誰にも見つからないように俺が隠して中から鍵をかけた」
なんだか新しい情報が多すぎて、頭が混乱してくる。
「紫陽花の絵っていうのは、さっきの?」
「そう、千代子さんの紫陽花だ。今はあの部屋に、外から鍵がかかってる。たぶん俺が、俺自身から隠したかった何かがあるんだと思う」
「何かっていうか、誰かだよね」
「そうかもな」
「幽霊じゃないってわかってたくせに、教えてくれなかったんだ」
「ずっと見て見ぬふりをしてきたからな。なかったことにしたかった。でももうやめる。千夏のおかげで、踏ん切りがついた」
覚悟を決めたときの、穏やかな顔。
あたしはこの顔、きらい。海が遠くに行ってしまうような気がするから。
「じゃあ、行ってくる。うまくいったら、今度はこんなところじゃなくて、現実の世界で会おう。脇道に入ったらチョウが一匹飛んでくるから、ついていけばいい」
待って、とあたしは海の腕をつかむ。
「あたしも一緒に行く」
「え?」
「あたしも、海がその誰かと会うのを見届ける」
「いや、でも」
海の顔がくもる。
「何が起きるかわからないぞ。きっと不愉快な思いをするし、突然……この空間ごと消滅するかもしれない」
「それはちょっと、怖いけど……」
でも、今の海をひとりにしたくない。
「大丈夫だよ。何かあったら、そこの小道から逃げればいいんでしょ?」
「だめだって。巻きこまれたらどうすんだよ。そんなの俺も気分悪いし」
「大丈夫だってば! それともなに、扉の向こうにあるものを知られるのがいやなの?」
海はため息をついて、あたしの肩をつかんだ。
「もしも俺に何かあったとき、千夏に助けてほしいんだ。共倒れしちゃ元も子もないだろ。信用してないわけじゃなくて、信じているから、千夏にしかできないことだから頼んでるんだ」
まっすぐに、かつてないほど真剣な眼差しで、海があたしを見ている。
あたしはこれ以上は無理っていうくらい、思い切り海をにらみつける。
「そんな怖い顔して泣くなよ」
「泣いてない。怒ってる」
ほっぺたを痛いくらい強く手でこする。
こぶしをつくって、ドンッと海の胸を強めにたたく。
「次に会ったら、この10倍にして殴るから、覚悟しといて」
「そんなこと言われたら、再会しづらいんだけど」
海は苦笑し、あたしの肩から手を離した。
「よろしく頼むよ」
「……わかった」
海が離れていく。こんなことは二度とごめんだと思っていたのに。
コーラをかぶった。学校で部活のまねごとをした。ショッピングモールで買い物をした。写真部に入ってみたいと海は言った。いっしょに花火をした。旅館に泊まって、成り行きで恋バナと怪談話もした。バスの中で、海の本音を聞いた。全部、これが最後かもしれないって思いながら、付き合ってくれたの?
『俺も怖かったから。たったひとりで消えていくのが』
そんなこと言うなら、あたしをここに縛りつけておけばいいじゃん。
『だけどもし、そんなわがままが許されるんだったら……』
紫陽花屋敷の玄関扉に、海が手をかける。
『千夏がいる世界に戻りたい。』
「うーみーーー!!」
大声で叫ぶと、海が振り返った。
引きとめたものの、こういうときにかけるべき気の利いた言葉が見つからない。
「が、がんばって!!」
結局、それしか言えなかった。
海がうなずき、軽く手を挙げた。「ありがとう」と口が動いた。ギィィィとすごい音がして扉が開いて、紫陽花屋敷が海をのみこみ、バタンと閉じた。
首のうしろがざわりとした。
どうか、無事でありますように。
もう少しだけその場で見守っていようと思ったら、ひらひらと一匹のチョウが飛んできて、あたしのまわりを舞い踊りはじめた。きっとこれが海の言ってた、案内役のチョウだろう。
「……もう行けってこと?」
話しかけてみたら、チョウはひらひらと脇道のほうへ飛んでいく。ついていかないと見失ってしまいそうだ。
「絶対に戻ってくるから。絶対に……」
あたしは自転車を引いて、チョウのあとを追いかけた。
まさかと思って飛び起きて、ダッシュで階段をかけおりたら、パンを焼くいい匂いがした。食卓にはすでに、二人分の目玉焼きをベーコンが用意されている。
「おはよう」と言いながら、海がナイフとフォークを並べる。
「おはよう……これ、作ったの?」
「まあな。冷蔵庫に入ってたものを適当に」
「たしか、朝食はあたしがつくることになっていなかったっけ?」
「ああ、線香花火の件な。あれは実質、俺の負けだった」
「やっぱりズルしてたんだ。サイテー」
「髪の毛、ヤマンバみたいになってるぞ」
「あっ、これは……」
頭に手をやる。が、手ぐしが通らない。
心配して飛んできたんだもの、と言うのも悔しい。
「逃げないから。ゆっくり顔洗ってくれば?」
「ヤマンバはあんまりでしょ」
全部見透かされているようで、ちょっと悔しい。
パッとしない天気の中、バスは紫陽花屋敷に向かっている。こっちに来るときなんとなく選んだ場所だったが、海にとっても、あそこはあたしを送り迎えするのに都合のいいところなのだそうだ。どうしてかはまだ教えてくれないけど。
海とあたしは、いちばん後ろの長い座席に、少し離れて座っている。
ひざの上に乗せたリュックは、こっちに来た時に比べると少し軽くなった。
「あたしね、やっぱり海は生きてると思う」
海は窓の外の曇り空を眺めたまま「どうだろうな」と言った。
「海が今どんな状況に陥っているのかはよくわかんないけど、どんな手を使ってでも、必ず向こうに戻れるよう、協力するから」
「どんな手を使ってでも、か」
海は寂しそうに笑った。
「心強いね」
……こやつ、信じておらぬな?
「だけど、やっぱり海自身の気持ちもはっきり聞いておきたい。あたしだけが頑張っても限界があるから」
あたしはリュックの肩ひもをぎゅっと握った。
「海は、どうしたい?」
海が窓枠にかけていた肘をおろして、ゆっくりと振り返る。
「本当のこと言っていい?」
あたしは緊張した。でもそれは隠して「もちろん」とうなずく。
「正直、ずっとこんなところに閉じこもってたのに、ある日突然奇跡が起こって生きて戻ってこられるなんて、虫が良すぎると思う」
「うん……」
「だけどもし、そんなわがままが許されるんだったら……千夏がいる世界に戻りたい。うまくなじめるかどうかはわかんないけど……見たことない景色を見て、食べたことなものたくさん食べて、いろんなことを経験したいと思う」
「うん……そうだね」
リュックを握りしめていた手をほどいて、そっと右に差し出したら、ためらいがちな左手が出てきた。あたしはその手の感触をしっかりと記憶に刻んだ。不安になったらいつでも思い出せるように。
しとしとと優しい雨が降りはじめた。
ゆっくりゆっくり、バスは斜面をくだってゆく。
大丈夫だ。ちゃんと生きてる。だってこんなにあったかいもん。
紫陽花の道を自転車を押して歩く。雨が止んで日差しがまた強くなってきたけど、ここは木陰だから涼しい。さっきからあたしも海も口数が少なく、砂利を踏む音と木の葉のざわめきがやけに大きく聞こえる。
あたしは幼いころ、初めて紫陽花屋敷を訪れたときのことを思い返していた。
ほこりっぽい部屋。暖炉とレースのカーテン。複雑な模様のじゅうたん。みしみしと音を立てる階段。書斎や寝室。バルコニーから入ろうとして失敗した、鍵のかかった部屋。
『あのさ、俺黙ってたことがあるんだ』
海が硬い表情で言う。
『紫陽花屋敷に来るのは、これが初めてじゃない』
あの鍵は、海がかけたものだった。でも、何のために?
ほかの人が入ってこられないような秘密基地みたいな場所にしたかったらしいけど、本当は何か隠しておきたいものがあったんじゃないか? 正体不明の物音、誰かがいるような気配……最後に現実世界で会ったどしゃ降りの日、海は紫陽花屋敷で何をしていたのか?
「ここの紫陽花は、全部が俺のってわけじゃないんだ」
唐突に海が口を開いた。
「……えっ、それどういう意味?」
「俺の記憶で再現してる部分もあるけど、大部分はある人が描いた紫陽花の絵を借りてる」
「絵じゃなくて、本物に見えるけど……」
「精巧な絵なんだ」と言って海は立ち止まり、斜め前方の脇道を指さした。
「そっちの道は現実には存在しないものだ。ある人の協力を得て、千夏があっちとこっちを行き来できるようにさせてもらってる」
「ある人って誰なの? 海の友だちってあたしのほかにもいたの? ていうか、どうしていつもみたいに送ってくれないの? そんな脇道使わなくても、海の力で送ってくれればいいじゃない」
「質問が多いな」
海は笑った。
「協力者の名前は千代子さんだ。友だち、と言えなくもないか。いい人だから怖がることはない。千夏も気に入ると思うよ」
「ちよこ? えっ、女の人なの!?」
「俺のこの変な能力、弱ってきてるみたいなんだ。脇道は万が一のためだよ。もしも千夏の上半身だけがあっちに帰って、下半身だけこっち残ったりしたらいやだろ?」
「なにそれ、怖すぎるんですけど」
「実際にそこまで面白いことにはならないと思うけど、そのぐらいリスクがあると思ってほしいってこと」
「なんかさ、あたしのこと心配してるようで、バカにしてない?」
「バカにしてるようで、心配してるんだよ」
海はバカにしたようにふふっと鼻で笑った。
「それじゃ、気を付けて。俺はこれからやることがあるから」
「やることって何?」
「忘れていた記憶を取り戻す」
海は紫陽花屋敷のほうを見上げた。
「……は? 記憶?」
「最後に向こうからこっちに来たとき……来たっていうか、気がついたら海岸に打ち上げられていたんだけど……何か重大なことを忘れていたんだ。どんなことかわからないけど、思い出すくらいなら死んだほうがマシと思えるくらい嫌なことだったのは確かだ。それがなんだったのか、これから確かめに行く」
「どうしてそれが紫陽花屋敷なの?」
「千夏もここに来たとき見たんだろ? あの部屋に誰かがいるのを」
海は2階の、昔あたしがベランダから侵入しようとして失敗した部屋を指さした。
「あそこには紫陽花の絵がおいてあったんだ。誰にも見つからないように俺が隠して中から鍵をかけた」
なんだか新しい情報が多すぎて、頭が混乱してくる。
「紫陽花の絵っていうのは、さっきの?」
「そう、千代子さんの紫陽花だ。今はあの部屋に、外から鍵がかかってる。たぶん俺が、俺自身から隠したかった何かがあるんだと思う」
「何かっていうか、誰かだよね」
「そうかもな」
「幽霊じゃないってわかってたくせに、教えてくれなかったんだ」
「ずっと見て見ぬふりをしてきたからな。なかったことにしたかった。でももうやめる。千夏のおかげで、踏ん切りがついた」
覚悟を決めたときの、穏やかな顔。
あたしはこの顔、きらい。海が遠くに行ってしまうような気がするから。
「じゃあ、行ってくる。うまくいったら、今度はこんなところじゃなくて、現実の世界で会おう。脇道に入ったらチョウが一匹飛んでくるから、ついていけばいい」
待って、とあたしは海の腕をつかむ。
「あたしも一緒に行く」
「え?」
「あたしも、海がその誰かと会うのを見届ける」
「いや、でも」
海の顔がくもる。
「何が起きるかわからないぞ。きっと不愉快な思いをするし、突然……この空間ごと消滅するかもしれない」
「それはちょっと、怖いけど……」
でも、今の海をひとりにしたくない。
「大丈夫だよ。何かあったら、そこの小道から逃げればいいんでしょ?」
「だめだって。巻きこまれたらどうすんだよ。そんなの俺も気分悪いし」
「大丈夫だってば! それともなに、扉の向こうにあるものを知られるのがいやなの?」
海はため息をついて、あたしの肩をつかんだ。
「もしも俺に何かあったとき、千夏に助けてほしいんだ。共倒れしちゃ元も子もないだろ。信用してないわけじゃなくて、信じているから、千夏にしかできないことだから頼んでるんだ」
まっすぐに、かつてないほど真剣な眼差しで、海があたしを見ている。
あたしはこれ以上は無理っていうくらい、思い切り海をにらみつける。
「そんな怖い顔して泣くなよ」
「泣いてない。怒ってる」
ほっぺたを痛いくらい強く手でこする。
こぶしをつくって、ドンッと海の胸を強めにたたく。
「次に会ったら、この10倍にして殴るから、覚悟しといて」
「そんなこと言われたら、再会しづらいんだけど」
海は苦笑し、あたしの肩から手を離した。
「よろしく頼むよ」
「……わかった」
海が離れていく。こんなことは二度とごめんだと思っていたのに。
コーラをかぶった。学校で部活のまねごとをした。ショッピングモールで買い物をした。写真部に入ってみたいと海は言った。いっしょに花火をした。旅館に泊まって、成り行きで恋バナと怪談話もした。バスの中で、海の本音を聞いた。全部、これが最後かもしれないって思いながら、付き合ってくれたの?
『俺も怖かったから。たったひとりで消えていくのが』
そんなこと言うなら、あたしをここに縛りつけておけばいいじゃん。
『だけどもし、そんなわがままが許されるんだったら……』
紫陽花屋敷の玄関扉に、海が手をかける。
『千夏がいる世界に戻りたい。』
「うーみーーー!!」
大声で叫ぶと、海が振り返った。
引きとめたものの、こういうときにかけるべき気の利いた言葉が見つからない。
「が、がんばって!!」
結局、それしか言えなかった。
海がうなずき、軽く手を挙げた。「ありがとう」と口が動いた。ギィィィとすごい音がして扉が開いて、紫陽花屋敷が海をのみこみ、バタンと閉じた。
首のうしろがざわりとした。
どうか、無事でありますように。
もう少しだけその場で見守っていようと思ったら、ひらひらと一匹のチョウが飛んできて、あたしのまわりを舞い踊りはじめた。きっとこれが海の言ってた、案内役のチョウだろう。
「……もう行けってこと?」
話しかけてみたら、チョウはひらひらと脇道のほうへ飛んでいく。ついていかないと見失ってしまいそうだ。
「絶対に戻ってくるから。絶対に……」
あたしは自転車を引いて、チョウのあとを追いかけた。
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