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序章 姉の話
前編
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二十歳の誕生日。大学の友人が開こうと言ってくれた誕生日パーティーを明日にずらしてもらい、私はひとりアパートにいた。姉が来るのを待っていたのである。私の誕生日は、姉なしには語れない。
姉は私よりも5歳年上で、幼いころの私にとって常に先を行く存在だった。私がおぎゃあと生まれたころにはすでに初めてのお使いを済ませていたし、私がようやくつかまり立ちを覚えたころには補助輪なしの赤い小さな自転車を乗り回し、近所ではちびっこ暴走族の名をほしいままにしていた。それからやっとよちよち歩けるようになった私は、忠実なわんこのように姉を追いかけはじめた。
姉についていくのは大変だった。なにしろ、姉はよく動いた。庭でボール投げをしていたと思ったら木登りを始め、光るどろ団子を作っていたと思えば汚れたままの手でトンボを追いかけ、気が済むと今度は例の赤い小さな自転車でご近所じゅうを走り回った。おかげで体力面はかなり鍛えられた。姉についていくのがやっとだった私も、同学年の中ではかなりタフなほうだったと思う。中学、高校では陸上部に入りそれなりの成績を残した。これもひとえに、姉のおかげである。
息を切らせて必死に後を追いかける私に気がつくと、姉は自転車を止め、私を荷台に乗せてくれた。重くてふらつく自転車を姉は力いっぱいこぎ、チリンチリンとベルを鳴らした。汗をかいた肌にぬるい風があたって気持ちよかったのを憶えている。
小学校に上がって同年代の友だちが増えると、自然と姉と過ごす時間は減った。姉は姉で小さな赤い自転車を私に譲り、真っ赤なマウンテンバイクに乗り換えて行動範囲を大きく広げた。毎日のように愛車にまたがり飛び出していく姉の背中は、いつもまぶしく輝いていた。
とにかく、そんな姉だったので、家を出ていくのは時間の問題だというのが家族の共通認識だった。
案の定、姉は家を出た。私が中学1年の夏休みのことだったので、当時姉は18歳。8月の猛暑真っ只中、紺色のキャップを目深にかぶり、いつもより大きく膨れたリュックサックを背負って玄関に向かう姉は、いつもよりいっそう勇ましく、私は一抹の不安を感じて呼び止めた。
「お姉ちゃん、どこに行くの?」
「さあね。行ってみないとわからない」
姉は振り向きもせずにスニーカーを履く。
「ちゃんと帰ってくるよね?」
「まあ、気が向いたらね」
「忘れてるかもしれないけど、明日は……」
ようやく姉は私のほうを見て、ポンと頭に手をおいた。
「ごめんね、誕生日当日に祝えなくて」
私は姉と目を合わせられなかった。
「13歳おめでとう。晴夏はこれからきっともっと大きくなるよ」
姉は玄関のドアを開く。とたんに、むわりとした熱気が入ってくる。
「待ってお姉ちゃん!」
行ってしまう。私の大好きな、鉄砲玉みたいな姉が。
それなのに、私の足はこういうときに限ってなぜか鉛のように重たく、思い通りに動かない。
ようやく外に出たとき、姉は見たことのない真っ赤なクロスバイクにまたがっていた。
「お姉ちゃん!」
「あ、忘れてた。通学用のギア付き自転車は晴夏にあげるよ。中学生だし、あれじゃもうちっちゃいでしょ」
姉の真っ赤なマウンテンバイクはこのときすでに私のものになっていた。私もさんざん、乗り回した。思い入れがあるからそんな簡単には乗り換えられない。
「いや、そうじゃなくてさ……」
「父さんと母さんによろしく!」
姉は力強くクロスバイクをこぎだした。すぐに加速して背中がみるみる遠ざかる。挨拶がわりのベルの音がリリーンと鳴った。
あれではいくら足に自信のある私でも追いつけない。
私はなすすべもなく、熱波の中に立ち尽くした。
それから、姉は本当に姿を消した。といっても普段から外で走り回っていることが多かったので、悲しいかな、家庭環境にそれほど大きな変化はなかった。父も母も最初のうちは落胆したけれど、ああいう性分だから仕方ないと割り切ることにしたようだ。なかなか腹がすわっている。
私はとても寂しかったけれど、いつまでも感傷に浸っていられるほど暇ではなかった。中学に入って勉強が難しくなったし、陸上でハードル走の練習に一生懸命だったから。
ときどき、陸上が休みの日には、真っ赤なマウンテンバイクに乗ってサイクリングをした。そうすると、いつも耳の奥でリリーンというベルの音が聞こえるような気がした。
きっと姉も、どこかで走っている。衝動に駆られて。何かを追い求めて。
1年後、姉は私の誕生日にぶらりと帰ってきた。あまりに突然のことだったので家族全員度肝を抜かれ、騒然となった。黙って出ていったこと、何の連絡もよこさないことへの両親の非難の嵐をものともせず、日に焼けてこんがり小麦色になった姉は、立ち尽くす私に向かってひょいっと白い小袋を投げた。すんでのところでキャッチして開けてみると、小鹿のキーホルダーだった。
「誕生日プレゼント。いつだったか露店で見つけて、晴夏にぴったりだと思ってさ」
それから、まるで部活帰りの高校生みたいによく食べて、お風呂に入り、何事もなかったかのように1年ぶりに自分の部屋で眠りこんだ。父と母と私はこっそり姉の部屋をのぞいて、呆然とした。
「あいつの中では時間が止まっているようだな」
父がぼそりとつぶやいた。
翌朝、姉はまた当然のようにいなくなった。
今度は止める間もなかった。みんなが寝ているうちに出発したらしい。
かすかに憶えているのは「行ってきます」というささやき声と、遠ざかっていくリリーンという音だけ。
翌年も、その次の年も、姉は私の誕生日にだけぶらりとやってきて、幻のように姿を消した。けれど、そのたびに何かしらプレゼントをおいていくので、やっぱり幻じゃないんだとかろうじて実感できた。
扇子、貝殻のピアス、サングラス、星の砂、チョコミントアイスクリーム……プレゼントは毎年ばらばらで、意図がよくわからないものもあったけれど、それはあまり気にならなかった。大事なのは、毎年私の誕生日にだけは姉が帰ってきてくれること。その日は私のお祝いの日というより、年に一度姉に会うことが出来る特別な日になっていった。
姉は私よりも5歳年上で、幼いころの私にとって常に先を行く存在だった。私がおぎゃあと生まれたころにはすでに初めてのお使いを済ませていたし、私がようやくつかまり立ちを覚えたころには補助輪なしの赤い小さな自転車を乗り回し、近所ではちびっこ暴走族の名をほしいままにしていた。それからやっとよちよち歩けるようになった私は、忠実なわんこのように姉を追いかけはじめた。
姉についていくのは大変だった。なにしろ、姉はよく動いた。庭でボール投げをしていたと思ったら木登りを始め、光るどろ団子を作っていたと思えば汚れたままの手でトンボを追いかけ、気が済むと今度は例の赤い小さな自転車でご近所じゅうを走り回った。おかげで体力面はかなり鍛えられた。姉についていくのがやっとだった私も、同学年の中ではかなりタフなほうだったと思う。中学、高校では陸上部に入りそれなりの成績を残した。これもひとえに、姉のおかげである。
息を切らせて必死に後を追いかける私に気がつくと、姉は自転車を止め、私を荷台に乗せてくれた。重くてふらつく自転車を姉は力いっぱいこぎ、チリンチリンとベルを鳴らした。汗をかいた肌にぬるい風があたって気持ちよかったのを憶えている。
小学校に上がって同年代の友だちが増えると、自然と姉と過ごす時間は減った。姉は姉で小さな赤い自転車を私に譲り、真っ赤なマウンテンバイクに乗り換えて行動範囲を大きく広げた。毎日のように愛車にまたがり飛び出していく姉の背中は、いつもまぶしく輝いていた。
とにかく、そんな姉だったので、家を出ていくのは時間の問題だというのが家族の共通認識だった。
案の定、姉は家を出た。私が中学1年の夏休みのことだったので、当時姉は18歳。8月の猛暑真っ只中、紺色のキャップを目深にかぶり、いつもより大きく膨れたリュックサックを背負って玄関に向かう姉は、いつもよりいっそう勇ましく、私は一抹の不安を感じて呼び止めた。
「お姉ちゃん、どこに行くの?」
「さあね。行ってみないとわからない」
姉は振り向きもせずにスニーカーを履く。
「ちゃんと帰ってくるよね?」
「まあ、気が向いたらね」
「忘れてるかもしれないけど、明日は……」
ようやく姉は私のほうを見て、ポンと頭に手をおいた。
「ごめんね、誕生日当日に祝えなくて」
私は姉と目を合わせられなかった。
「13歳おめでとう。晴夏はこれからきっともっと大きくなるよ」
姉は玄関のドアを開く。とたんに、むわりとした熱気が入ってくる。
「待ってお姉ちゃん!」
行ってしまう。私の大好きな、鉄砲玉みたいな姉が。
それなのに、私の足はこういうときに限ってなぜか鉛のように重たく、思い通りに動かない。
ようやく外に出たとき、姉は見たことのない真っ赤なクロスバイクにまたがっていた。
「お姉ちゃん!」
「あ、忘れてた。通学用のギア付き自転車は晴夏にあげるよ。中学生だし、あれじゃもうちっちゃいでしょ」
姉の真っ赤なマウンテンバイクはこのときすでに私のものになっていた。私もさんざん、乗り回した。思い入れがあるからそんな簡単には乗り換えられない。
「いや、そうじゃなくてさ……」
「父さんと母さんによろしく!」
姉は力強くクロスバイクをこぎだした。すぐに加速して背中がみるみる遠ざかる。挨拶がわりのベルの音がリリーンと鳴った。
あれではいくら足に自信のある私でも追いつけない。
私はなすすべもなく、熱波の中に立ち尽くした。
それから、姉は本当に姿を消した。といっても普段から外で走り回っていることが多かったので、悲しいかな、家庭環境にそれほど大きな変化はなかった。父も母も最初のうちは落胆したけれど、ああいう性分だから仕方ないと割り切ることにしたようだ。なかなか腹がすわっている。
私はとても寂しかったけれど、いつまでも感傷に浸っていられるほど暇ではなかった。中学に入って勉強が難しくなったし、陸上でハードル走の練習に一生懸命だったから。
ときどき、陸上が休みの日には、真っ赤なマウンテンバイクに乗ってサイクリングをした。そうすると、いつも耳の奥でリリーンというベルの音が聞こえるような気がした。
きっと姉も、どこかで走っている。衝動に駆られて。何かを追い求めて。
1年後、姉は私の誕生日にぶらりと帰ってきた。あまりに突然のことだったので家族全員度肝を抜かれ、騒然となった。黙って出ていったこと、何の連絡もよこさないことへの両親の非難の嵐をものともせず、日に焼けてこんがり小麦色になった姉は、立ち尽くす私に向かってひょいっと白い小袋を投げた。すんでのところでキャッチして開けてみると、小鹿のキーホルダーだった。
「誕生日プレゼント。いつだったか露店で見つけて、晴夏にぴったりだと思ってさ」
それから、まるで部活帰りの高校生みたいによく食べて、お風呂に入り、何事もなかったかのように1年ぶりに自分の部屋で眠りこんだ。父と母と私はこっそり姉の部屋をのぞいて、呆然とした。
「あいつの中では時間が止まっているようだな」
父がぼそりとつぶやいた。
翌朝、姉はまた当然のようにいなくなった。
今度は止める間もなかった。みんなが寝ているうちに出発したらしい。
かすかに憶えているのは「行ってきます」というささやき声と、遠ざかっていくリリーンという音だけ。
翌年も、その次の年も、姉は私の誕生日にだけぶらりとやってきて、幻のように姿を消した。けれど、そのたびに何かしらプレゼントをおいていくので、やっぱり幻じゃないんだとかろうじて実感できた。
扇子、貝殻のピアス、サングラス、星の砂、チョコミントアイスクリーム……プレゼントは毎年ばらばらで、意図がよくわからないものもあったけれど、それはあまり気にならなかった。大事なのは、毎年私の誕生日にだけは姉が帰ってきてくれること。その日は私のお祝いの日というより、年に一度姉に会うことが出来る特別な日になっていった。
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