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第十九話・リリィディアの霊柩(中編)

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「宿、ですか?」
「はい。ヤキャーマの町を調査しようと事前に決めていたわけじゃないので、なんの準備もしていないんです」
「……」
 馬車の窓から、遠くに小さな家が点在する風景が見えてくる。あれから乗り合い馬車は何度か停車場に停まるものの、乗り込んでくる乗客は皆無であった。
(よっぽど寂れた町なんじゃね)
 つまり、ずっとマリンとジルコンそしてアイオライト少年だけしか乗客はいなかったのである。
「アクアマリンさん、地元民としては言いにくいのですが」
「はい?」
「あの町で宿屋なんて経営しようと思ったら、三日で潰れます。なんの産業も観光資源もありませんので、町外から足を踏み入れる人なんてほぼ離れて暮らす町民の親族くらいで」
「……あ、はい」
「いずれもその際は親族の家に泊まりますし、旅人が立ち寄るような町でもないんです」
 褐色肌のダークエルフながら、それでもわかってしまうくらいドヨーンと青い顔でジルコンがうなだれる。
(地雷踏んでしもうた?)
 とっさにかける言葉が思い浮かばないマリンだったが、引退もとい休業するまでは魔獣ひしめく中を野営するのは当たり前の生活をしていたマリンである。
「んー、仕方ないですね。テントを張っていい場所とかあれば、教えていただけると」
 さすがにいくら寂れてようが、居住区にテントを張るにはどこでもいいというわけにはいかない。マリンには、気づかず他人様の庭先にテントを張って大騒ぎになった苦い過去があった。
「ねぇ、ご主人様」
「なぁに、アイオライト?」
「その、うちに泊めてあげることはできないでしょうか」
「私は構わないけども……」
 ジルコンとアイオライト少年がそんな会話を交わし、チラとマリンを見る。そしてマリンは思う。
(アイオライト君は奴隷なのに、そういうことを勝手に提案していい間柄なんじゃね)
 そう思ってほっこりし、いつもなら遠慮して断るところだが好意に甘えることにした。なにより、さきほどアイオライト少年から聴取した事情以上のものを大人であるジルコンが持っていると判断したためだ。
「もちろん、宿代はお支払いいたします。泊めていただけるでしょうか?」
「お金は結構です。アクアマリンさんさえ構わないのならば」
「私は全然構いませんよ?」
 ジルコンの家なのだし、泊めるか泊めないかなんて家主であるジルコン次第だ。それにも関わらず、及び腰というか遠慮がちなのがマリンには気になった。
「ジルコンさんたちさえ迷惑でなければ、お願いします」
 そう言って、ペコリと頭を下げる。それでもちょっと困惑したままのジルコンのそでを、アイオライト少年がクイクイッと引っ張った。
「ご主人様、このお姉ちゃんはダークエルフだからって変な目で見ない人だと思います」
 その発言を受けて、ようやくマリンも合点がいく。この世界で女神・ロードの眷属とされるハイエルフは精霊のカテゴリに入る、いわば亜人ならぬ『亜神』だ。
 マリンの知る限り、それは隣国メグレズは天権の塔に住まう腐女子友達のアルテしか知らない。一般の帝国民からすれば神話の登場人物にも等しい存在で。
 それに対し、『亜人』のカテゴリに入るのがエルフである。
 白い肌で長いブロンドの髪色、こよなく自然を愛し自然と共に生きて死ぬ。ほぼ菜食に近い食生活で、『無謀』を意味する『エルフの森で肉屋を営む』ということわざが存在する。
 おしなべて穏やかな性格とされ、人間族を始めエルフ以外の亜人も含めて好感度の高い種族なのだ。ただドワーフとだけは、仲が悪い。
 逆に褐色肌のダークエルフは肉食を好み、良く言えば豪胆、悪く言うと粗暴な種族として知られていた。ゆえに、一部の心ない人たちからは種族差別の対象になってもいたのだ。
 ちなみにエルフとは真逆で、ドワーフとは仲がいい。ドワーフとの交流も盛んで、上質な武器を入手することが容易である。
(じゃから好戦的なのも手伝って、戦いを好むなんて偏見も持たれちょるんよね)
 ダークエルフとしては、もちろんそんなのは心外であった。
 すでに数千年に及ぶ根強い偏見は、現皇帝であるディオーレ・カリストの勅令により表立ってのそれはもはや違法ではあるのだが、それでもひとたび都会を離れるとそれは熾火のごとく燻っているのが現状である。
「こう見えて私も、亜人オーガのクォーターですよ。まぁついこの間まで、純血の人間族だと思ってたんですけどね」
 マリンの父方の祖父は、妖鬼族だ。半鬼人デミ・オーガと違いこちらも、ハイエルフと同じく古代種の精霊である。
 とはいえ『同じ亜人の血を引くから』というのが安心させる理由になってしまうのも、マリンにはモヤる。本来なら、純血の人間族であってもそういう偏見を持つべきではないからだ。
「それに私の伴侶も、獣人だったりしますね」
 もしこの場にシトリンがいたら、きっと顔を真っ赤にしてうつむいてしまうだろうと想像して、マリンの頬に笑みが浮かぶ。そんなマリンを見てジルコンも安心したのか、
「では、うちへご招待します。と言っても、宿屋のように至れり尽くせりとまではいかないのが心苦しいのですが」
 遠慮がちにそう言いながらも、相好を崩して安心したように微笑んでみせた。
「お構いなく。宿代もちゃんとお支払いいたしますね?」
「いえ、それは結構。その代わりと言ってはなんですが……」
「なんでしょう?」
 訝しげに訊き返すマリンに対し、ジルコンとアイオライト少年がチラと互いを見やった。
「町にはバケモノに立ち向かえるほどの腕前を持つハンターが不在でして、討伐を引き受けてくれるところがあればと町外に足を伸ばしたのですが」
「はい」
「ただ依頼料といいますか、小さな町ですし高ランクハンターを雇えるだけのお金もないので、片っ端から断られてとんぼ帰りするところなんです」
 暗い顔でジルコンがそう告げて、アイオライト少年もしょんぼりとうつむく。
「ですので、ハンターギルドから来てもらえるのはありがたいのですが……その?」
(なるほど、私がハンターとして来たと思ったわけじゃね)
 マリンは安心させるように、ジルコンの両肩に腕を置く。
「ご安心ください。私はハンターではなく、ハンターギルドの職員です。いわば国に雇われている身ですので、お給料以外の収入を得るのは法律で禁じられているんですよ」
 それを聞いて、安堵の表情をジルコンが見せる。
「よかったね、ご主人様!」
「えぇ!」
 そんな二人を微笑ましく見つめながら、マリンがなおも続ける。
「それでハンターが出張る必要が生じたとしても、それはギルドからの指名依頼になりますから、ご予算のほうは心配無用です」
 なにより、マリンたち『闇より昏き深海の藍ディープ・ブルー』はその指名依頼で来訪しているのだ。ただ、今はシトリンとリビアンの調査結果待ちなのもあってそれを明かすタイミングではないとマリンは判断する。
「それでは改めてアクアマリンさん。私はジルコン・スペルビア。病で床に伏せている町長である父に代わり、ヤキャーマの町長代理を務めている者です、よろしくお願いします」
「ご丁寧にどうも。首都ガンマのハンターギルドの職員でアクアマリン・ルベライト、マリンとお呼びください」
 そして二人は、ガッチリと握手を交わす。
(……ん? ルベライト?)
 かつてここフェクダにその勇名を馳せた、錬金術師でありながらハンターでもあったカーネリアン。そのカーネリアンのファミリーネームがルベライトだったなと思い当たったが、特にそれを確認するのは避けたジルコンである。
 ただの同名だったら逆に失礼と考えたわけだが、まさかマリンがその愛娘であるとは思い至らずにいた。もちろん、アクアマリン・ルベライトとしても父・カーネリアンに勝るとも劣らない著名なハンターである。
(もし私の知っているアクアマリン・ルベライトだったら、手付金だけで町の年間予算が数年分は軽く吹っ飛ぶわね)
 知らぬが仏とはよく言ったものである。


 隣国メラクの国境沿い、クマノの街。主に通商での要衝ともいっていいこの国境沿いの街は、人の流れが二十四時間絶えることなく賑わっている。
 日没後から夜明け前までは多くの人が商売を控えるのに対し、逆にその時間帯を稼ぎ時と考える商人が多く、それに付随して乗合馬車などの交通機関も二十四時間営業だ。
「忙しない街だ……」
 そしてこの街に、ハンターギルドから指名依頼を受けたマリン率いるクランの一員としてやってきたのはリビアンことリビアングラス・ラスペルパ。狼獣人の女性で、ここフェクダ王国の数少ないSランクハンターである。
 そしてそのリビアン、なぜか清掃の作業着に身を包んでどこにいるかというと。
「この臭いは、獣人にはたまらんなぁ」
 と鼻をつまみながら顔をしかめる。
 右手には熊手と呼ばれる汚泥をかき出す道具を、左手には空桶バケツを携えて。汚泥の水位は、ひざまでの高さだ。
「下水道の清掃なんて、新人だったころ以来だな」
 少し懐かしそうに、そう独り言ちる。
 下水道の清掃なんて仕事は、本来ならジョブギルドの管轄だ。そして発注は主に行政や地主だが、受注は貧民層が日銭稼ぎにやるというのが定型テンプレである。
 だがまれに、ハンターギルドにも下水道の清掃依頼がくることがあった。そしてそれは、ジョブギルドに持ち込まれるそれとは業務内容が一線を画す。
(来たな……)
 リビアンはダッと歩道まで駆け上がると、両手のそれを離し壁に立てかけてあった愛用のナギナタに持ち替えた。そして次の瞬間――。
「ふん、他愛もない……と言いたいところだが」
 汚泥の中からトビウオのように飛び出してきたそれらは、リビアンに弾丸のような速さで襲いかかる。だがそれよりも早くリビアンが持つナギナタの刀身が、一閃すると同時にそれらは真っ二つにされて息絶えた。
鬼矢魚サジッタ・フィッシュは本来、淡水魚のはず」
 真っ二つにされて汚泥に浮かんだまま流れていくそれらを見ながら、リビアンが首をかしげる。
(それに、通常の倍以上の体長だ。どうなってやがる⁉)
 通常の下水道清掃ならジョブギルドなのだが、魔獣モンスターが出現する場合はハンターギルドに依頼が来るのだ。そしてリビアンはもちろん、ここクマノの街のハンターギルドの依頼を受けてやってきている。
 遡ること数時間前――リビアンは情報収取のため、クマノの街のハンターギルドにやってきた。
 ハンターいるところ酒場あり。ご多分に漏れずそこも酒場とフロアを共有していて、もちろんリビアンも職務中だからなんて固いことは言わず昼間っから酒をかっくらう。
 そして酒瓶片手に依頼票が貼ってある伝言板まで歩み寄ったのは、ただの単純な好奇心ゆえだった。だから、
(下水道の清掃がCランク必須だと?)
 本来ならば、下水道ごときには新人のハンターでも手が足りるレベルの魔獣しか出ないからEランク推奨が妥当だ。なお『必須』とはそのランクもしくは以上でないと受けられないのに対し、『推奨』は文字どおりで。
 ただ推奨ランクであっても仕事をあっせんしてもらえるかどうかは、受付嬢の裁量次第である。
 ちなみにハンターギルドの受付嬢であるマリンの場合、Eランク推奨の仕事はできるだけFランクのハンターに回るように差配していた。それはひとえに、Fランクハンターの収入源確保の目的があったからだ。
 だからリビアンは怪訝に思った。なぜ駆け出しの新人が請け負うような仕事が、ハンターとしては中堅クラスとされるCランクの、しかも必須であるのか。
「なぁ、私はSランクなんだがこの仕事を受けることは可能か?」
 ハンターギルドの受付に、掲示板から剥がしてきた発注票を置きながらリビアンが訊ねる。空調の影響だろうか、それがヒラヒラはためていたので自らのギルドカードを上から重ねてそれを防いだ。
 置かれたギルドカードには、黄金ゴールドの『S』という刻印が燦然と輝いていた。そしてそれを見た受付嬢は少し驚きの表情を見せながらも、すぐにそれを引き締めて。
「もちろん、可能です。本来なら、高ランクすぎるハンターさんには遠慮してもらうところなんですが……」
「ですが?」
「Cランクともなると、ドブ掃除なんてやってくれないんですよぅ~」
 やや半泣きで、受付嬢がすがるような瞳でリビアンを見上げる。
「……まぁそうだろうな」
 リビアンもまた、新人だったFランクのころは『いつか上に上がってやる』という反骨精神でドブ掃除をしたこともあるし、Dランクにあがったごろにはもうドブ掃除をしなくていいと安堵したものだった。
「で、なんでCランク必須なんだ? おっかない魔獣でも出るのか?」
 ややほろ酔い気味にそう言って、片手に持った酒瓶をぐいぐい煽る様は完全に呑んだくれだ。リビアンとて、ただ単純に酒の肴がわりに受付嬢との世間話に興じようと思っただけなので、本気で今さらドブ掃除の依頼を受けるつもりもない。
 だから受付嬢の口から出たそれに、一瞬にして酔いが引いてしまった。
「未知の魔獣が出るんですよ。上半身と下半身が別の魔獣といいますか」
 思わず口に含んだ酒を、ブーッと吹き出してしまう。赤い酒だったものだから、それをまともに浴びた受付嬢はパッと見で血まみれみたいな有様になってしまった。
「お客様ぁ~!」
 ハンカチで顔を拭きながら、受付嬢がジロリと睨む。だがリビアンはおかまいなしに、受付嬢の胸ぐらをつかんで引き寄せた。
「今、なんと言った⁉」
「えぇっ?」
 酒を吹きかけられたあげく、胸ぐらをつかまれる。見上げるほどの高身長の狼獣人で、しかもSランクハンターだ。
「私、死んだかも……」
 その受付嬢が、冗談抜きで死を覚悟したのも無理からぬことだった。突如として自分に向いた殺気に対し、失神せずに堪えたのは受付嬢としての矜持だろう。
 だが真っ青な顔でガクガクと震えだす受付嬢の様子に気づき、リビアンは慌てて手を離した。
「あ、すまない。今しがた言ったこと、詳しく教えてもらえないだろうか?」
「はっ、はひぃ~!」
 まだ上手く呂律が回らないでいる受付嬢から聞き出せたのは、リビアンにとってまさに符号の一致ともいえる情報だった。
「帰ってこない?」
「はい。この仕事を引き受けたFランクハンターのみなさん、誰一人帰ってこないんです。最初は逃げたのかと思ったのですが、本当に誰ひとり」
「ふむ。まぁあの臭いがイヤで仕事をばっくれるいい加減なやつもいるが」
 新人時代のリビアンもまた、そういうことをやらかした経験があったのでそれは理解できた。だが――。
「でも誰一人、戻ってきて受注拒否リタイアを宣言するわけでもないんです。だからDランクに引き上げると同時に、下水道の内部調査も行ってもらおうと考えたんですね」
「ふむ。で?」
 だが受付嬢はプルプルと首を振り、
「Dランクも同じく、です。ただ、一人だけ生きて帰ってきたハンターがいらっしゃいまして」
「『生きて帰ってきた』?」
 ドブ掃除には似つかわしくない言葉のチョイスに、リビアンの眉間のシワが寄る。その強面こわもてに、思わず『ひっ!』とたじろいだ受付嬢だ。
「そ、それでそのハンターさんが言うにはですね? 『バケモノが出た』と」
「バケモノ、ね」
 ハンターならば、その強弱に関わらず魔獣と表現するだろう。不死者のそれならば、幽霊ゴーストと。
 そしてバケモノと表する対象は主に、『未知の魔獣アンノウン』に対してなのだ。
「瀕死の状態でしたので、『上半身と下半身が違うバケモノだ』とだけ残して息を引き取られました。もう本当に必死で逃げ帰ってきたという感じだったそうです」
「なるほど、それでCランク必須なのだな」
「はい……。ただ、下水道も普通に滞りなく機能していますのでハンターさんたちの腰は重くて」
「いいだろう、私がその依頼を引き受けよう」
 リビアンとしては、願ったり叶ったりだ。まさに自分らはその合成獣キメラについての調査に来たのだから。
「本当ですか!」
 とたんにパアァッ!と瞳孔から希望に満ちたハートの視線を、リビアンに浴びせる受付嬢。取り消しキャンセルされたらたまらないとばかりに、ペンを高速でセカセカと動かして受付処理を迅速に片づけた。
「落ち着け、ちゃんと引き受けるから」
 リビアンは苦笑いしきりで、半ば呆れた表情である。
(さて、鬼が出るか蛇が出るか……)
 というのが、ハンターギルドでの一幕だ。
 そしていま、下水道にいるリビアンの目の前に広がる汚泥の遠くから、ゆっくりと『それ』が姿を見せることなく泳ぎ寄ってくる。ときおり、汚泥の中で息を吐いているのかブクブクと泡が浮上する。
(二メートルぐらいか?)
 まるで巨大な魚が近づいてきているような、汚泥の中で蠢くそのシルエットが濁った波上に浮かぶ。そして発せられる禍々しい瘴気に、リビアンのこめかみに冷や汗が流れた。
 そして次の瞬間――。
「来るっ!」
 ナギナタを振り上げたリビアンに、汚泥の中から飛び出してきたそれは脇目もふらず襲いかかってきた。とっさに『それ』を袈裟懸けに斬るも、その刃は強靭な鱗に跳ね返されてしまう。
 いや、その強靭さに力負けしたというよりは……まるでスライムでも斬ったかのように、ヌメッとした粘液で刃先がツルッと滑ったというのが正しいだろうか。
「なんじゃこりゃぁあ‼」
 そして思わずそれを見上げたリビアンが、真っ青になるのも無理はなかった。そのバケモノは上半身が羽はあるが足のない鶏で、下半身がワームだったのである。


 シトリンは戦慄した。
 遡ること一時間前、シトリンを乗せた馬車は終点であるウッディーナ西部の町・サイジョーへと到着。ただ町とは名ばかりで、そこにあるのは貧民窟スラムのみ。
 なお馬車と言ってもシトリンは見た目、その首に装着した奴隷環があることから奴隷であることは一目瞭然だ。奴隷でない者が、己の意思で奴隷環をすることなぞ考えられないからである。
 よってシトリンは馬車の上、落ちないように紐で固定された荷物群の中に所在なさげに座っていた。奴隷が乗員する場合、それは荷物扱いであるためだ。
(もしマリンさんがいたら、ガチギレしてただろうなぁ)
 そう思って、思わず苦笑いがこぼれるシトリンである。
 やがて馬車が到着し、乗客たちが御者に金を払って降りていく。最後にシトリンが馬車の上から飛び降りて駄賃を払う。
「乗車賃、結構するなぁ……荷物扱いなんだから半額にしてくれたっていいのに」
 とは思うものの、余計なことを言って足止めされるのも建設的じゃない。ここは大人しく払っておく。
(帰りの馬車賃、ギリギリかも)
 だとすると、無駄遣いはできないので食費は我慢せざるをえない。マリンの元へ帰るまで食事抜きだと思うと、陰鬱な気分に沈む。
 そして改めてサイジョーの町並みを見渡すシトリン。とてもじゃないが不衛生で、なんともいえない異臭が鼻腔の奥を刺激する。
(あちこちから殺気を感じるな)
 司法は機能しておらず、シトリンのような少女獣人が一人で歩いていればたちまちのうちに暴行・レイプ・強盗の標的ターゲットになるのは自明の理だった。
 そしてシトリンが歩み出して三歩目、後ろから厭らしい男だちの声がかかった。
「おいおいおい、そこの猫奴隷!」
「早いな⁉」
「え?」
 遅かれ早かれそうなる、絡まれるとは思っていたがまさかたったの三歩でとシトリンは一驚を禁じ得ない。
「なに?」
 かの武器、猫球槌キャットハンマーはコンテナーギルドにシトリンが借りている倉庫に預けており、腰のベルトに下げてあるコンテナーバッグと亜空間で接続できる。
 なので今のシトリン、見た目は手ぶらなのだ。しかも年端のいかない少女で猫獣人、奴隷環……まさに獅子の群れの中に兎が飛び込んだに等しかった。
「財布を出して殴られて死ぬ、殴られて死んで財布を取られる、どっちがいい?」
「……センスのない脅し文句ですね」
「へっ、ほざけ!」
「レイプとかしないんですか?」
 自分は女性としての魅力がないのかなと、シトリンはちょっとだけ落ち込む。
「獣姦は趣味じゃないんでな」
「そう」
 次の瞬間、風を切り裂きながら轟音を立ててシトリンの槌が一閃された。まさに電光石火ともいえる早業で、バッグから槌を取り出しざまに薙ぎ払ったのだ。
 グシャッと鈍い音がして、男たちがまとめて壁に吹っ飛ばされる。
「コンテナーバッグって便利……」
 男たちがどうなったのかなんて気にもせずに、シトリンは槌をしまいながらその場をあとにした。そしてそれから一時間ほど、絡まれては倒し絡まれては倒し……。
「まともに話ができる人っていないの⁉」
 さすがにシトリンもイラ立ち始める。そして自分に絡んできたチンピラの胸ぐらを掴み、
(マリンさんならこういうとき、吊るし上げるんだろうなぁ)
 だが身長が一八〇センチを優に超すマリンと違い、シトリンは一五〇センチほどしかない。腕を高く上げたところで、チンピラどもは無駄に身体が大きいから吊るなんてことができないのだ。
 だからシトリンは逆に、胸ぐらを掴んで自分の視点より下に押し込むという手段にでる。つまりそのチンピラは立ちたくても立てない、シトリンの怪力によってひざを折った中腰の姿勢を強要されてしまう。
「ねぇ、ちょっと訊きたいことあるんだけど」
「ひえっ、お、お許しを……」
 そのチンピラは、シトリンの『ありがたーい手抜き』のおかげで、顔が倍ほどに腫れあがるだけで済んでいた。だが歯はボロボロで、片目も潰されている。
 繰り返すが、シトリンが手抜きをしたからこれだけで済んでいるのだ。
「ここらへんで、バケモノ見なかった?」
(お前だよ!)
 と心の中でチンピラがツッコむも、シトリンが怖いのと胸ぐらを掴まれて押し込まれている姿勢のせいで声が出しにくくなっていた。
「あの、どなたかお探しで?」
 チンピラは必死で命乞いをするかのように、ようやくそれだけを絞り出した。すでに周囲には、シトリンに叩きのめされた仲間たちの躯が死屍累々である。
 と言って、殺したわけではない。ただこのままほうっておけば、間違いなく死に至るだろう。
 もっとも、仲間の命なぞそのチンピラにはどうでもよかった。早くこの場から逃げ出したかったのだ。
「バケモノって言ってるじゃん?」
 イラッとしながら、シトリンが凄む。その琥珀色の瞳が、その視線だけで射殺すかのように禍々しく光る。
「だからー、人間じゃなくて魔獣……でもないみたいなね、そういうの見なかったかな」
 シトリンはニッコリと笑って、凄む。ここは飴と鞭の飴でいこうと方針を転換したのである。だが逆に、それはそれで畏怖を感じてチンピラの全身の震えは止まらない。
「えっと、南のほうで……」
「南?」
「はっ、はい!」
 そしてチンピラから情報を得たシトリン、サイジョーの町の南部を目指す。どこまで歩いても似通った景色が続き、そして男の言う登山道の入口近くの薄暗い脇道に足を踏み入れて……そして『戦慄』したのである。
「なっ、なにアレ⁉」
 目の前に、ゴキブリがいた。シトリンもそこらへんの女の子らしく、ゴキブリは苦手だ。
 ちなみにマリンも苦手で、家にゴキブリが出て捕まえ損ねた夜、二人で家を出て街の宿に避難したぐらい苦手である。
 だがそれをゴキブリというには、ちょっと――いや、かなり無理があった。その全長は約一メートル半、シトリンの身長ほどもあったからだ。
 そしてそのゴキブリはシトリンの近くまで、カサカサカサッと音を立てて這い寄ってきた。
「くぁwせdrf⁉」
 もはや声にならないシトリンが、思わず奇声をあげる。そしてそのゴキブリはシトリンの足元まで来ると、やおらスックと立ち上がった。
 立ち上がったのである、後ろの二本足で。
「ひいぅっ⁉」
 思わず腰を抜かしてしまったシトリン、立ち上がることも逃げ出すことも叶わず、必死でお尻を擦りながら後ずさりをする。もはや涙目である。
「グギギ……カネ、ダセ……」
 そしてそのゴキブリの口だと思われる穴から、なんとも形容しがたい声が漏れる。それは人間の言葉のようで、そうでもないようで。
「キェェェェェェアァァァァァァ⁉ シャ、シャァベッタァァァァァァァ‼」
 まぁ誰だってそうなる。なんとか死力を尽くして立ち上がると、シトリンは一目散に逃げ出した。
「こないで、こないでーっ‼」
 もはや号泣である。まるで追いつかれたら死にそうな表情で、必死の形相だ。
 だがシトリンとて猫獣人、足の速さには自信がある。
「いやああああっ⁉」
 しかしそのゴキブリは、シトリンとほぼ同じ速さで『二足歩行』で追いかけてくるのだ。何度も振り返りながらそれを確認するが、なかなか距離が開かない。
「やだやだやだやだ‼ 誰かっ、誰か……マリンさん助けてぇ!」
 当然ながらマリンはここにはいない。二足歩行の巨大なゴキブリに追い駆けまわされるという悪夢の中、シトリンは生きた心地がしなかった。
 言っておくが、もし戦った場合はシトリンが勝つ。一秒もかからないだろう。
 普通サイズのゴキブリにスリッパでそうやるように、プチッと槌で潰せばいいだけである。だがわかってても、イヤなものはイヤなのだ。
 スリッパが汚れるのがイヤであるように、槌を汚したくない。なにより、そんなことをすれば返り血ならぬ返り体液を浴びてしまう。
 それは毒でもないでもないが、精神的には毒だ。一億回お風呂に入ったとて、落ちた気がしない心的障害トラウマを抱えてしまうほどに。
 もう大パニックに陥ったシトリンは、コンテナーバッグからありとあらゆる物を取り出してゴキブリに投げぶつけながら逃げる。当然ながらシトリンが預けている私物なので、お気に入りの本だったりマリンを模したお手製のぬいぐるみだったりと実にバリエーションは様々だ。
 ついには三度のおやつよりも好きで、マリンの次に大事な魚介スイーツ『ユールチ』のチューブが三十六本入った特大パックすらも投げつける。袋がゴキブリの固い触覚に触れて破れ、パラパラとユールチのチューブが錯乱した。
 だがシトリンのその作戦は全然功を奏せず、もはや投げるものもなくなってしまう。そしてシトリンが意識してそうしたわけじゃないだろうが、思わずポケットの中に入れておいた財布も投げてしまったのだが。
 ところがここで、シトリンの思わぬ方向に事態が展開した。これまでどんなものを投げられても興味を示さなかったゴキブリが、コントロールが逸れて自分に当たらず後方に飛んでいった財布をおいかけるべくUターンしたのである。
「ふぇ、ふえぇっ⁉」
 わけがわからず、これ幸いとばかりにシトリンは距離を広げもう追いつかれないであろう安全圏まで逃げおおせることができた。
 そして建物の影、死角となっている部分まできてようやく歩を止める。両ひざから崩れ落ち、思わず女の子座りで脱力してしまった。
「に……逃げ、逃げきれ……」
 シトリンの足元に、ジョロジョロと音を立てておしっこがたまっていく。
「うぅ~っ、最悪だよぅ」
 財布を投げたときの反応により、バケモノの目的は当初の予想どおり『お金』であったことにシトリンが気づくのはこの数分後だ。
 そして帰りの馬車賃がないことに気づくのは、そこからさらに三時間後のことである。


「……どしたんじゃろ?」
 ヤキャーマの町、町長代理であるジルコン宅に急遽滞在することになったマリンは、夕刻からずっとリビアンとシトリンに魔電スマホをかけているのだが、呼び出し音がするだけでつながらない。
 すっかり日も落ちて宵の口、ウッディーナの街の宿に帰れないことをなんとか二人に伝えたかったのだが、同時に二人とも音信不通になっていたのだ。
「宿のおばちゃんに伝言頼んじょくか……」
 すぐさま宿の女将に電話をして本日自分は外泊すること、シトリンとリビアンが帰ってきたらそれを伝えておいてほしいと依頼しておく。そして魔電を切ると、やおら振り返って。
「詳しいことを訊きたかったんじゃけど」
 今、その家にはマリンしかいない。アイオライト少年を伴い、ジルコンが夕食の買い出しにでかけたのだ。いくら好意で招かれた身とはいえど、他人様のお宅に一人ぼっちはなんとも居心地が悪いものだ。
「それにしてもジルコンさんも遅いんよね」
 手持無沙汰に窓の外をチラチラ見やりながら、周囲の家具インテリアとかに目をやったり触ったり。
(町長宅といえど、あまり収入はよくないようじゃね)
 通常、一介の町長ともなれば豪華な内装の大きな邸宅に住めたりする。だけどなんの産業も観光資源もないこの町では、町長とて豪奢な生活ができるわけじゃないことは見て取れた。
(ん……?)
 遠くから、誰かが駆けてくる足音が聴こえた。マリンの超越した聴力あってのものだが、獣人であるシトリンやリビアンならもう少し早いタイミングで気づいたかもしれない。
 やがて闇の中から暗い街灯の下に姿を現したのは、ダークエルフ――ジルコンであった。
「マリンさんっ!」
 そう言いながら、乱暴に扉を開けて駆け込んでくるジルコン。褐色肌であってもわかるぐらい、血の気の引いた表情だ。
「ジルコンさん、お帰りなさい。どうしました?」
「アイッ、アイオライトッ……帰ってないですか⁉」
「いいえ? 見てないです」
 マリンがそう言うが早いが、すぐさまジルコンは扉外に振り返る。
「アイオライト、どこに行ったの!」
「どうしたんです⁉」
「それが……」
 商品に毛がつくからとか正当な理由もあれば、ただ単に忌避しているだけなど理由はさまざまだが、この小さな町にも奴隷や獣人の立ち入りが禁じられているお店があるらしい。
 そしてその食料品店ではアイオライト少年が入れないので、外に待たせてジルコンだけで買い物をしていたのだが、そこでぷっつりと消息を絶ってしまったのだ。
「それ、何時ごろです?」
「もう二時間前です。ずっと探してたんですが、この町は日が落ちてからがまずいんです!」
「それってどういう……」
 遠くで、魔獣とも似つかぬ小さな咆哮が聴こえる。逢魔が時とはいうが、夜のとばりが降りた外の世界は、まさにいつどこに魔が潜んでいるかもわからない不気味さを醸し出していた。
「私も探すのを手伝います。とりあえず、アイオライト君が消えた店を起点にもう一度探してみましょう!」
「すいません、お願いします!」
 そして二人で飛び出す。ジルコンを先頭に闇の中をしばし走る途中、聴いたこともない咆哮があちこちから響く。
「これ、なんの鳴き声です?」
「……バケモノの発する声です」
「魔獣ではなく?」
「はい」
 苦渋の表情を、ジルコンが浮かべる。
「私はBランクハンターなので、ある程度の実績も経験もあります。ですが、ここのところ見たこともないバケモノがこの町に出没するようになったんです」
「いつごろからですか?」
「半年ぐらい前でしょうか……どんなバケモノ、というと統一された特徴がないんです」
(……やっぱり合成獣キメラ?)
 マリンはチラと魔電を取り出して画面を確認、シトリンたちからはまだ連絡がなかった。
(あの二人、調査が立て込んじょるだけならいいんじゃけど)
 やがて二人は、一軒の見すぼらしいお店の前にたどりつく。すでに営業は終了しているみたいでお店は閉まっていたものの、店の裏側――店主の居室だろう、窓からの灯りが漏れていた。
「もう一度、店主に確認してみます」
 ジルコンがそう言って店の裏側に駆けていく。マリンは店頭にあたる場所で、注意深く周囲を見回した。
(なんかおるね……)
 不気味な気配が、マリンの背筋をなでる。だが一寸先は闇とでもいおうか、気配はすれども姿は見えず。そして微かに女性の呻き声がしたのを、マリンは聞き逃さなかった。
「これはジルコンさんの声⁉」
 マリンも慌てて店の裏側に駆けだす。店主宅の玄関にあたるのだろう、そこが開きっぱなしになっていた。
 そして聴こえる、ジルコンの苦しそうな呻き声と……なにやら不気味な気配。音はすれども、それは少なくとも人間や動物が立てる音ではなかった。
 マリンは後頭部のバレッタを外すと、折りたたんである刀身を剥きだす。マリンの藍色の髪がその縛りを失って、フワッと左右に広がった。
 普段は髪を後ろでまとめているそれは、実のところ折り畳み式のカランビットをバレッタに偽装したものなのだ。
「ジルコンさんっ!」
 とるものもとりあえず、周囲に気を配りつつもマリンは開いた扉に飛び込んだ。そしてそこで目にしたのは、凄惨な……あまりにも凄惨な光景。
 鼻腔を容赦なく蹂躙する、死肉の臭い。むせるほどに立ち込める、血の臭い。
「いったいなにが⁉」
 もとは人間であったであろう死肉が、部屋中に散乱している。そしてそれは――。
「この人の?」
 飛びこんだマリンの足もとに転がっていたのは、中年女性の首だ。おそらくここの店主だろう。
 そしてさらに奥に続く扉が開きっぱなしになっているのを見て、マリンは慎重に足を運ぶ。そして扉の寸前で身を隠して中をうかがうが、暗くてよく見えない。
 だが確かに、『なにか』がいる。そしてジルコンの気配もするのだけど、それは動いていないというか弱々しいというか。
「ジルコンさん、大丈夫ですか⁉」
 返事はない。だが、このままにしておくわけにもいかないのでマリンは思い切って飛び込んだ。
「なっ‼」
 そこにいたのは、高さが二メートルは完全に越しているであろう巨大なマンティス――いわゆるカマキリがいたのだ。部屋の天井がギリギリだから、非常に動きづらそうにしている。
 だがマリンが目を見張ったのは、そのマンティスの両鎌に身体を挟まれて夥しい出血で意識が朦朧としているジルコン……もそうなのだけど。
「え……アイオライト君?」
 確かにそれはマンティスなのだ。長い羽に不気味な手足、凶悪な鎌……だが、首から先がアイオライト少年だった。
「あ……マリ……」
 虚ろな瞳で、ジルコンがこちらを振り返る。だがその焦点は定まっておらず、口からは血液がまじった赤い泡が漏れるばかりで。
「アイオライト君なん⁉」
 チャッとカランビットを構えつつも、念のために意思の疎通を試みてみる。だが頭部だけアイオライト少年のマンティスは、小さな咆哮にも似た不気味な音を口から発するのみであった。
「……」
 どうするべきか、マリンは逡巡する。おそらくだが、アイオライト少年は『合成獣』の依り代の一部にされた可能性が高い。
(もとに戻せるんじゃろうか)
 それが不可能なことは、錬金術師であるマリンが一番よくわかっていた。自身は合成獣を創り出すスキルはないが、もし可能だとてそれは『不可逆』となる作業であることは理解している。
 だが、ひょっとしたら? そんな思いを、次の瞬間にマンティス自身が打ち砕いた。両の鎌でホールドしたジルコンの肉体を、捕食し始めたのだ。
 骨ごといっているのだろう、バリバリと砕ける音がする。肉を食いちぎった箇所からは、鮮血が吹き出す。
「ジルコンさん、聴こえる⁉ そのアイオライト君は、もうバケモノにされてしまっています! 彼を、人として救う方法は……一つしかないです」
 せめて、せめて自分の手でひと思いに。アイオライト少年が愛したご主人様のジルコンを、少年が己の手にかける前に。
 瀕死のジルコンであったが、静かにうなずくのがマリンにはわかった。そしてマリンも、覚悟を決める。
「ごめんね」
 片足一本で、まるで弾丸のように飛び出したマリン。それに合わせてマンティスが応戦しようと試みるも、その両の鎌にはジルコンの躯が刺さって張り付いたままだ。
 そして次の瞬間、コロリとマンティスの……アイオライト少年の首が落ちた。だが恐るべき生命力とでもいおうか、身体は必死にジルコンの肉を喰らおうと試みる。
 しかし首が落ちているので、それはもう叶わない。マリンは返す刀で、マンティスの両鎌を切り落とす。
 ゴトッとジルコンを挟んだままそれは地に落ちて、ようやくマンティスも動かなくなった。マリンはポーチからポーションを取り出しながらジルコンのもとに急いで歩み寄る。
 だがすでにジルコンは、こと切れていた。
「……マジで絶対許さんけぇ」
 アイオライト少年の首を、物言わぬ躯となったジルコンの腹部に乗せる。そしてそれを抱きしめるかのようにジルコンの両手を合わせてあげて、マリンは外に出た。
(生きている人間を使って、合成獣を作るなんて……)
 ギルマスであるパールからの報告で、その可能性が高いことは知っていた。死者の躯を弄ぶ、血も涙もない黒幕がいるかもしれない。
 だが心のどこかで、そんなひどいことをする人間はいないとマリンは信じたかったのだ。
「ジルコンさん、アイオライト君。弔ってあげる時間ないけん、堪忍してね」
 そしてキッと夜空を見上げる。山脈を見上げるようにして、その月影に照らされているのは同じく数匹のマンティス。
「山頂から……?」
 それらが恐ろしく早い速度で、この町の方向へ飛んできているのだ。
「クソがっ‼」
 そう吐き捨ててマリンは、闇夜の中を駆けだしていった。


「あぅー、魔電失くしたー‼」
 ポケットを探ってもなにも入っていないし、コンテナーバッグも空だ。あの二足歩行のゴキの目を逸らすためにありとあらゆる物を投げつけて逃走する際、魔電も放り投げてしまったポンコツ猫・シトリン。
「うぅ、取りに戻ろう……」
 ビクビクしながら、もと来た道を戻る。すでにゴキの気配はなかったが、それでも怖さが勝る。
 そして探せど探せど、魔電は見当たらなかった。
「魔電も持っていかれたんかなぁ?」
 確かに、中古ショップへ持っていけばそれなりに金にはなる。だから財布と一緒に持ち去られた可能性は大だった。
 仮にあのバケモノじゃなくても、治安の悪い貧民窟である。拾われたら戻ってくる可能性はゼロに近い。
 だがシトリンにとって、マリンやリビアンとの連絡手段というほかにもう一つ重大で深刻な事態が……。
「魔電の中には、隠し撮りしたマリンさんのイヤらしい写真がいっぱいあったのに」
 とんでもない奴隷である。入浴中のマリン、胸をはだけて寝ているマリン、そしてエッチ中のマリン。
「あれが見つかったら私は終わる……」
 この場合、どちらかというと終わるのはシトリンじゃなくてマリンである。
 虚ろな表情でブツブツつぶやきながら、あちこちを念入りに探してみるものの、投げつけた小物群はそれなりに回収できたが魔電だけがどこにも見当たらなかった。
「……よし、なかったことにしよう!」
 無理である。だが現実逃避モードに入ったシトリンは、考えることをやめた。
 そして差し当たっては、
「パンツ……は、まぁ乾くでしょ」
 思わず失禁してしまったものの、それは現状では些末な事案だ。差し当たっては、無一文の状態でどうやってマリンに連絡を取るか。
「宿に帰るしかないかぁ」
 だが財布もないので、馬車賃も払えない。両膝から崩れ落ちてがっくりとうなだれているところに、シトリンの後ろから声がかかった。
「おいおい、可愛い猫ちゃんがいるぜぇ?」
「しかも奴隷みたいだぜ、兄貴。俺らがもらっちゃおうぜ!」
「へへっ、ここんとこ女にはご無沙汰だったからなぁ‼」
 チンピラが三人、いつのまにかシトリンの背後に回っていた。それを受けて振り向いたシトリンの瞳は……ランランと輝いている。
(いいとこに来た!)
 そしてシトリンはダッと立ち上がると、チンピラのリーダーらしき男の胸ぐらを掴んで叫ぶ。
「有り金全部出せ、オルアァ‼」
 朱に交われば赤くなるではないが、そこにいたのは完全に強盗と化したシトリンである。
 かくしてシトリンは無事、馬車賃を手に入れることができたのだった。


「気持ち悪いバケモノだぜ」
 なんとか鶏頭のワームを一刀両断にしたリビアンは、それを見下ろす。どう考えても、これは人為的に作られたバケモノなのは明白だった。
「悪趣味な……」
 そして悪臭ただよう下水道の中、我慢して嗅覚を頼りに歩を進める。
(こっちか?)
 さきほどのバケモノの臭い、そして僅かに感じる『なにかの気配』をたどっていくうちに、下水道の水がクリアになっていく。
 この下水道は近の川から水を引いていて、そこに一定区間ごとに生活排水が捨てられているので、流れを逆にたどっていくと水が少しずつ綺麗になっていくのだ。
 そして完全に水がクリアになったころ、水流の傍らにある歩道が途絶える。
「行き止まりか……」
 だが、歩道だけが行き止まりなだけで流れてくる方向の水流は遥か先まで続く。
「息ができる場所まで、どのくらいあるかな」
 いったん頭まで潜り、水中の先を凝視する。ところどころ光が差し込んでいるのが見えたので、リビアンは決意を固めた。
(行くか)
 一度顔を出し大きく息を吸って、水中を魚のように華麗に逆流しながら泳ぐ。リビアンの並外れた筋力ならば、それはたやすいことだった。
 そしてところどころなんとか顔を上げられる場所で息継ぎをしながら、どんどん遡っていく。そしてやがて水中から、眩しいくらいの光源を発見してリビアンは力を振り絞る。
「プハッ!」
 リビアンが顔を出したのは、川の支流のほとり。下水道の管の出口だった。
(壊されてる?)
 本来ならそこには鉄格子がされているはずなのだ。だがとんでもない力で引きちぎられたであろう鉄格子の残骸が、下水道管の入口にひっかかっていた。
「あのバケモノが、ここから力づくで入ったようだな」
 そして川の支流の、流れてくる先に目をやる。その川は山の湧き水を源流としているので、あのバケモノも山から来た可能性が大きかった。
(間違いないな)
 川底に、ワームが這ってきたであろう形に地面がえぐれている。
「マリン殿の推理が大当たりかな?」
 リビアンは、山頂を見上げながらそう推察する。
(とりあえずは、マリン殿に連絡だ)
 そして魔電を取り出すのだが、びしょ濡れになっているそれは魔源が落ちていて、何度試してもスイッチが入らない。
「え? なんで?」
 こちらもこちらで、ポンコツ犬・リビアンであった。
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