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第一章・塔の賢者たち

第四話『天権の塔・アルテ』

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 ここはメグレズ王国は首都・デルタの街……から少し離れた郊外の地、天権の塔。この塔には、ハイエルフの賢者・アルテが住まう。
 彼女は大陸の六賢者の長老格というか長女ポジションで、齢は一万と五千を超える。ひざ裏までまっすぐに伸びた雪の結晶のような白銀の髪プラチナブロンド、エンジェルフェザーフローライトのような透き通った水色の瞳。
 身長は一八〇センチを超えるというか一九〇センチ近くあり、その身長よりも長い七尺五寸(約二・二五メートル)の大弓使いだ。だが彼女の所持する大弓は、先端一尺五寸(約四五センチ)が剣となっている。
 云わばそれ一つが弓であり剣でもあるのだ。事実、彼女は剣聖ソードマスタ―にして弓使いアーチャーである。
 六賢者の中では最強を誇り、六賢者そのものが人知を超越した存在であることから『生けとし生ける者』の最強ということでもあった。
 その天権の塔の最上階にある居住エリアの中央に描かれた魔法陣に浮かぶは、隣国フェクダは天璣の塔に住まう大賢者・ソラ。まるで3Dホログラムのように投影されているそれは、遠隔地の仲間と通信ができる現代でいうテレビ電話のようなものだ。
「デュラが?」
『うん。私の試練はクリアしたからね、クラリスがそっちに向かってるけどデュラもついていってるの』
「そうか……いや、それはそれで構わないがデュラの試練はクリアしたのか?」
『保留してるみたい。理由は知らないんだけど』
「ふむ」
 クラリスの母親、ディオーレが皇帝になるための試練と称して天権の塔を訪れたのは何十年前だったか。かの者が成した子がもうそのような年齢になっているのかと、一日千秋の思いのアルテだ。
 だがアルテは、クラリスと会ったことがないわけじゃない。といってもこちらから見たことがあるというだけの一方的なものだったが、それも何年前だったか。
「今、十七歳か」
『そうね。そういうわけだから、ちゃんと伝えたわよアルテ姉』
「あぁ、ありがとう」
 そしてソラの姿がスーッと消えて通信は切れた。
(クラリスは、私のことなぞ覚えてはいないだろうな)
 正確には、アルテのことではなく――アルテの前世のこと。そしてアルテの前世を知るのは、クラリスではなくクラリスの……前世。
 今から約十年前、アルテは不意に前世を思い出した。その日、小腹が空いていたアルテは街にある立ち食いそば屋の暖簾をくぐった。
 大陸全土にチェーン店がある『羽猫はねこそば』という名前のチェーン店で、アルテが立ち寄ったのは初めてだったのだが……そこで、一人の少女と出会う。
 いや、出会うというよりは『見かけた』というべきか。
(すごい恰好だな……)
 ベネトナシュは揺光の塔を守護する『始まりの妖精イニティウム・フェアリー』のティアが、ミニ妖精モード(約十二センチ)に変身したときの恰好と似ている。ティアは通常の大きさ時(約一五〇センチ)も羽はあるものの洋服を着ているが、ミニ妖精モードのときはプリマドンナのような衣装に変わる。
 それを思い出したのだが、目を引いたのはその色彩だった。髪の色、瞳の色、衣装の色……すべてが水色でコーディネイトされていて、それはこの世界ではあまり一般的じゃない言葉でいうならば『魔法少女』――。
 その水色の少女が、丼を片手に蕎麦をすすっていたのだから大変シュールな光景であった。
(どっかで会ったことがあるだろうか)
 思い出しそうで思い出せない、そんなじれったい既視感をアルテはその水色の少女に感じていた。そして思わず凝視してしまったアルテと、その水色の少女と目が合う。
 そして次の瞬間……その水色の少女はホロホロと涙をこぼし始めたのだ。
(どうしたのだろう?)
 店員の配膳エリアをはさんで左右のカウンターから向かいあっているので、少し距離があった。なので直接対話しようと思ったら、店内を半周しなければいけない。
 そしてその水色の少女が思わずつぶやいた言葉が、アルテの脳内から眠った記憶のトリガーを引いた。
「リリィ……」
「え⁉」
 その瞬間、膨大な自分の物ではない記憶がまるで滝のように脳裏に流入してくる。いや自分の物ではないというか、『かつて自分だったとき』の記憶が。
 惑っている間に、いつのまにかその水色の少女は姿を消していた。
「そうだ、私の前世は……」
 今から約一万五千年ほど前、アルテはアルテミスという名前で……創造の女神・ロードによって創生された。云わば神の眷属なわけだが、その肉体は人間であった。


「アルテミス、また今日も野原に行ってきたのかい?」
 小さな愛娘に、父親が困ったように笑いかける。
「だってだって、お花が綺麗だったんだもん!」
 父娘二人だけの貧乏暮らしではあったが、アルテミスと呼ばれた少女は毎日がとても幸せだった。
 だがお花屋さんになるのを夢見ていた十歳のとき、その平穏な生活は突如として終わりを告げる。ある星降る夜のことだった。
『アルテミス……アルテミス……』
 とうにベッドに入って、ウトウトとしていたアルテミスを呼ぶ声。
「だあれ?」
 半分寝ぼけ眼で窓際へ歩み寄り、窓の外から天空を見上げる。
『アルテミス……アルテミス……「勇者」よ、目覚めるのです』
「あ、私お花屋さんになるんでそういうの結構です」
『え⁉』
 お花屋になるというめでたい夢を持ちつつもすれた性格の子どもだったアルテミスは、再びベッドに戻ったのだけど……やはり自身を呼ぶ声が止まらない。
「うるさいなぁっ、もう‼ 眠れないじゃない!」
 アルテミスは腹立ちまぎれに、窓の外へ枕を放り投げた。するとその瞬間、空が……月の見えない闇夜を、眩しい明かりが一面に覆いつくす。
「眩しっ、これじゃ眠れな……」
 思わず腕で目を覆い……気づいたら。
「ここ、どこ?」
 一面の、白。前も後ろも、左も右も上も下も。その中を、浮いているのか立っているかすらもわからない状態で、アルテミスは確かにそこにいた。
『アルテミス……』
 そう言って額に青スジ立てて現れたのは。
「誰?」
『私は女神、ロード。あなたがた人間が、創造神と呼ぶ存在です』
(何か、めんどくさいことになってきた)
 とは内心思いながらも、怪訝そうな表情でアルテミスが問い返す。
「で、おばちゃん。何の用?」
『お、おば⁉』
 近所に、アルテミスが姉と慕う友人がいる。その友人の母はまだ若く『おばちゃん』と呼んで慕っていたから、アルテミスとしては別に悪意も他意もなかった。
『アルテミス。あなたは、「勇者」となる運命さだめを持ってこの世に生を受けたのです』
「それは、あなたの個人的な願望ですよね?」
『(チッ、可愛げのない)』
 いきなり勇者と言われて、アルテミスは困惑を隠せないでいた。
 大きくなったら花屋をオープンして、ゆくゆくは販路を国外にまで広げて大陸中にチェーン店を出店して……そんな壮大な夢があったから。
『残念ですが……あなたのその夢は、叶わないでしょう』
「まだわかんないもんっ!」
『わかってるっつーの‼』
 幼い少女相手に、大人げない女神様である。
『聴きなさい、アルテミス。これより七年の後、魔皇リリィディアが降臨します。そしてリリィディアの手により、この世界は……大陸は終焉を迎えるのです』
 ロードは真剣シリアスな表情でそう告げるが、アルテミスにとっては藪から棒に説明されたとてさっぱりわけがわからない。だがロードはそれに構わず続ける。
『ですが、創造神である私は天界から直接干渉はできず……だからといって、ただただ黙ってそれを見届けるつもりはありません』
(創造神だというのに、えらく無能ポンコツだな?)
『……あなたの心の声、聴こえていますからね?』
「あ、それはごめん」
『ほんとにこのクソガキ……ん、んんっ。それでですね。間接的には干渉できるので、私はリリィディアが降臨するあなたがたが住むこの世界に「勇者」を派遣すべく――あなたを「創り」ました』
「……」
 母は早くに亡くしたが自分は父と母の子だという矜持がアルテミスにはあったので、魔皇を倒すために創りあげたというロードのその言葉にアルテミスは嫌悪の表情を隠せなかった。
『不満ですか?』
「当たり前でしょ! で、私がお花屋さんができなくなるというのは、どうして?」
『アルテミス、よく聴きなさい。かつて魔皇リリィディアは、この世界に生きとし生けるものを……そのほとんどを灰燼に帰した前科があります』
 貧乏暮らしのアルテミスは、学校に通えていない。だが近所の教会で、牧師が教師代わりとなって字の読み書きや計算もろもろを教えていた。
 もちろん歴史も学んだつもりだったが、すべてが初耳の魔皇だの世界が滅びかけただのは突拍子もなさすぎてアルテミスは思考が停止してしまう。
『えぇ、もう悠久の昔のことですからね。生き残った人間たちが連綿と語り継ぐには、途中で「めんどくさい」ってのもあったんでしょう。知らんけど』
 アルテミスの小生意気な態度に、ロードは不機嫌さを隠そうとはしなくて。
「つまり、そのリリィディアとかいうのを倒さないと……同じ悲劇が起こるってこと? 私は、お花屋さんになれないの?」
 そこまではなんとか理解できたアルテミスだったが、
(人がたくさん死ぬなら、葬儀需要で逆に商機じゃ?)
 これが十歳の思考だろうか。
『お前バカだろ』
 思わず悪態をつくロードである。
『……失礼しました。つまり、魔皇リリィディアが復活したらチンタラとお花屋さんやってる余裕はないですし、下手すりゃお前が死ぬ。いや、下手すりゃどころか上手くやらないと死ぬ』
 この女神様、もう完全に投げやりになっていた。さすがに大人を怒らせたとあっては、アルテミスもちょっと申し訳ない気持ちになってしまい……。
「事情はわかったよ。だけどおばちゃん、私はただの女の子よ? 突然『勇者』だなんて言われても、困る……」
 やっとまともに対話をしてくれそうだと安堵したロードだ。だがアルテミスは、心の中を読まれるというのを失念していて。
(本当にめんどくさいおばちゃんだな)
『だから心の声が……まぁ、いいでしょう。アルテミス、あなたは私が「勇者」として覚醒するように創り上げた、云わば「戦闘マシーン」なのです』
 そう言われて喜ぶ女の子はいないだろう。
『具体的に言いますと……たとえば三日間剣の修行をしたとします。ですがそれによって得る経験は常人の三千倍、三千日分の修行に匹敵するのです。本当はもうとっくに勇者としてその片鱗を見せつけていると思っていたのですが、よりによってなんで花なんかに……』
 ロードの不機嫌モードはまだ収まっていないらしく、言い方が少し刺々しい。
「女神の台詞かなぁ、それ。それに三日の三千倍って九千日なんじゃ?」
『あれ?』
 女神のくせに、こんな簡単な計算もできないのかとアルテミスは少々呆れ顔だ。
「じゃあ私が剣とか魔法とかいっぱいお勉強して強くなって、リリィディアというのを倒すと世界が平和になって、お花屋さんもできるっていうこと?」
『さっきからそう言ってます』
 そうだっけと思いつつ、アルテミスは心にひっかかっていた疑問をぶつけた。
「リリィディアを倒せなかったら、パパも……死ぬの?」
 かつて魔法少女だったリリィが魔皇として覚醒した際に、地上のほとんどの生命は息絶えた。
『むしろ、生き残る者のほうが少ないでしょう。今この世界にいるあらゆる生くる者は、あなたも含めてそのわずかに生き残った者たちの子孫なのです』
(いや、私のことは創ったって言ってたような?)
『承知していただけましたか?』
 少々納得できない部分もあったが、納得しなきゃ話が長くなりそうだとアルテミスは嘆息しつつも観念する。
「事情はわかったよ。でも私に選択の自由はあるの?」
『そうですね……もし、勇者となることを拒否するというのならば。あなたの住まうその地を統べる王に、私が天啓を与えるでしょう。
“アルテミスって名前の女の子は、ロードが創った勇者だよー。魔王リリィディアを倒すには絶対必要‼ もしリリィディアが降臨したら、人間みな死ぬよー‼”
 ……みたいな? 当然、国を挙げての大捜索が始まるでしょうね?』
「おばちゃん、ほんと酷いね?」
 かくしてアルテミスは根負けし、その幼い女児の身で『勇者』を目指すことになったのだった。


「あれ?」
「どうしました、デュラ?」
「いや……」
 メグレズ王国に到着して、とりもなおさずハイエルフのアルテが住まう天権の塔へ。デュラ曰く、
『ティア姉の次に会ってもらうのが難しい堅物』
 とのことでクラリスは覚悟していた。母なる皇帝・ディオーレ曰く、
『いずれも人外の神力を持つ賢者たちが住まう塔ぞ。簡単に行けない場所に塔があることもあれば、行くは易しくても入るのが困難な塔、容易に入れるが賢者に逢うまでが困難な塔、すぐに逢えるが帰るのが命がけの塔……』
 フェクダでは、天璣の塔のソラに会うためだけに結構な時間を費やした。なのでアルテに会うにはさらなる長丁場になることを覚悟していたのだ。
 ちなみにティアとは、この旅の恐らく最終目的地になるであろう揺光の塔の賢者だ。大陸の最東端にあるベネトナシュ王国にあり、大の人間嫌いだとはデュラもソラも口を揃えた。
(そのティア師の次に、会うのが難しかったはずでは⁉)
 だが今クラリスの前にそびえる天権の塔。その塔の下、玄関口の前にはハイエルフの見目麗しい麗人が立っていた。
「よぉ、アルテ姉。久しぶり!」
「久しいな、デュラ」
 そう言ってそのハイエルフ……アルテは、クラリスを一瞥する。
「で、お前は?」
 もちろん、アルテはそれが誰だか知っている。だが会いに来たほうが名乗るのが筋というもの、それがたとえ帝国の皇女だろうが。
 そしてそれはもちろんクラリスもわかっていて、
「お初にお目にかかります。カリスト帝国の皇太子、クラリス・カリストと申します。アルテ師マスター・アルテにはお願いがあって本日まかりこしました」
 そしてペコリと頭を下げようとするクラリスに、
「仮にも次期皇帝となろうという身だ。容易に頭なぞ下げなくてもよい」
 そう言って上半身を倒そうとするのを制するアルテ。
「それより、アルテ師というのも不要だ。アルテでいい」
「わかりました、アルテさん。そして本日うかがったのはですね」
「待て待て、中でゆっくり話そう」
 アルテは扉を開けて、無言で二人を招き入れる。
「なんだか変だな、アルテ姉」
「なにがですか、デュラ?」
「いや、やけにあっさり入れてくれたなと思って」
 デュラ曰く、母・ディオーレが皇女のとき一番会うのに苦労したのがアルテだったのだ。だから今日、わざわざ出迎えてまでというのはデュラも意外だったのである。
 そして天権の塔は最上階。デュラの天璇の塔、ソラの天璣の塔とほぼ同じ間取りで部屋の中央に魔法陣があるのも共通していた。
 クラリスとデュラの二人はテーブルをはさんで、アルテと向かい合う。
「茶だ」
 ぶっきらぼうに、アルテは二人の前にティーカップを置いて。
「で?」
「え?」
「私になにか用なんだろ?」
 少し不機嫌そうに、アルテがティーカップに口をつけた。
「おいおいアルテ姉、クラリスがなにしに来たか知ってんだろ?」
「お前は黙ってろ」
「へいへい……」
 とりつくしまもないと、デュラは諦めてティーカップに砂糖を入れてかき混ぜ始めた。
「私、母・ディオーレより『皇帝となることを塔の六賢者に認められてこい』と送り出されまして。そしてここメグレズは天権の塔に、アルテ師……アルテさんに会いにきたわけです」
「ふーん」
 アルテは興味なさそう……といった風を演じる。だがその手は、小刻みに震えていた。
「あの?」
 自分でも気づかないうちに、アルテはティーカップを持つ手が止まっている。そして目には、うっすらと涙が浮かぶ。
「アルテ姉……どうした?」
「いや……」
 アルテはティーカップをテーブルに戻すと、クラリスをジッと見つめて。
「私を、覚えているか?」
「え?」
 突然そんなことを言われても、クラリスにはわけがわからない。アルテとは今日、今しがた初めて出会ったばかりなのだから。
「あの、以前にも一度お会いしたことが……?」
 もしそうなら、忘れてたのは失礼だ。恐る恐る訊いてみるクラリス。
「そうだな、『現世』では初めてになるか」
 ボソッとつぶやくアルテに、
「なにティア姉みたいなこと言ってんだ?」
 とデュラがツッコむ。このデュラの言葉の意味をクラリスが理解するのは、かなり先の話である。
「クラリス、君は『アセラ』という名前に覚えはあるか?」
「アセラ?」
 クラリスはどこで会ったか会ったことあるのか、必死で記憶をたどってみるが全然思い出せない。
「もうしわけありません、初めて耳にする名前です……」
 恐縮するクラリスに、初めてアルテは笑顔を見せる。
「いや、気にしなくていい。『覚えていないのが普通』なのだからな」
 その発言の意味を問おうとクラリスが口を開くより前に、アルテが続ける。
「このカリスト帝国、実に一万五千年近くも続いた伝統のある皇族だ。それは知っているな?」
「はい」
 この帝国に住まう人間亜人なら誰もが知っていることをどうして確認するのだろう、ましてや自分はその直系なのだと思い……そして『一万五千年』というワードにクラリスはふと思い当たる。
(たしかアルテさんが、一万五千年生きているとか)
 これは偶然だろうかと逡巡したそれが表情に出たのだろう、アルテがニヤリと笑った。
「もちろん、偶然じゃないさ。前世の私が死んだのも一万五千年前。そしてときの皇帝・カリストが国を興したのも一万五千年前だ」
「前世の……アルテさん?」
「あぁ。今はハイエルフだけどな、前世は人間だったよ。もっとも」
 そこでアルテはティーカップを手にして一拍入れて。
「もっとも、かのババアの眷属ってのは前世も今世も変わらんがな」
「はぁ、ババアですか……」
 クラリスは、なんのことやらさっぱりわからない。だがデュラは苦笑しつつ、
「クラリス。アルテ姉が言ってるババアてのは、創造の女神・ロード様のことだぜ?」
 そう言って、悪戯っぽい笑みをアルテに向ける。
「それよりアルテ姉、前世とやらの話は私も初耳なんだが……私も聞いていい話か?」
「ん? 構わんよ。お前には一回話してるんだが、すっかり忘れてるみたいだからな」
「……」
 気まずそうに、デュラが顔をそむける。まぁデュラもデュラで二千年以上生きているのだ、興味ない話は取捨選択しないと脳に記憶できる容量にも限界があるというもの。
「わりぃ、忘れてるわ」
「だろうな」
 だがアルテは怒った様子も見せず、飄々としている。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいデュラ、アルテさん⁉ その言い方だとまるで、ロード様とお付き合いがあるみたいな???」
(そういえばフェクダで、ロード様とお茶をしたなんて言っていたような……)
 正直クラリスは、半信半疑どころかほぼジョークとして捉えていたのだけど。
 クラリスにとって創造の女神・ロード、そして冥府の番人・クロスは『神話に登場する神々』である。その存在を疑っているわけじゃないが、簡単に地上界に降臨する存在じゃないと思っているし、そうしたという話も聞いたことがなかった。
「私の後ろに、扉が見えるだろう?」
 そう言ってアルテは、振り返ることなく後ろを親指で示す。
「はい」
「あの扉を開けると、階段がある。小一時間ほど登ると、そこにはババアが住まう天界に到着するよ」
 アルテはそうあっけらかんと言って、テーブルの上の茶菓子を一つつまんでポンと口に放り込んだ。
「なんの話を……」
 さっぱりわけがわからないクラリス、無言のまま視線でデュラに説明を求める。
「いや、言葉どおりなんだわ。つかアルテ姉、ロード様にクラリスを会わせるのか?」
「そうだな。だがその前にデュラ、お前に話しておくことがある」
「あん?」
 アルテは立ち上がると、あごで扉方向を指す。
「クラリスは申し訳ないが、しばらくここで待っていてくれないか。あちらで時間を調整して直後に戻ってくるようにするから、そう待たせはしないはずだ」
「……かしこまりました」
 架空の存在のとまでは思っていないが、すぐそこに天界へと通じる扉がある。アルテとそして多分デュラも、創造の女神と親交がある。
 クラリスはそのとてつもなくスケールの大きい話に、のまれないようにするのが精いっぱいであった。


 ここは天界、シマノゥ教で創造の女神とされるロードが構築した天上の空間。ティーテーブルを、ロードとアルテそしてデュラが囲む。
「とまぁそんな感じで、魔皇リリィディアは永の眠りについたわけだが」
「すごい話だな」
 原初の少女神・リリィがロードとクロスを創造したこと、魔皇となって魔界を創造し天界と冥界に喧嘩を売ったこと。両神に封印されて、三界戦争が終結したこと。
 くわえて魔法少女として前世の記憶を持たないまま転生したものの、その陰惨な結末を経て魔皇として再度覚醒してしまったこと。
 デュラは、まるで信じられないかのように驚愕しつつも納得していた。なにより天界の女神が目の前にいるのだ、納得せざるを得なかった。
「で、そのリリィディアって奴は眠ったままなのか?」
「いや。一度だけ復活しかけたことがある」
「へぇ?」
 心なしか、アルテの表情は暗い。そしてそれは、女神ロードも。
(これから聴かされる話は、ただごとじゃなさそうだな……)
 思わずデュラは身震いしてしまう。そしてその内容は、それどころじゃない驚愕の事実だった。
「私はそこにいるロードババアに、復活の兆しを見せた魔皇リリィディアを屠るために創造されたんだ。正確には、私の前世がだが」
「ふむ」
 デュラはチラとロードを見やるが、ロードはさっきから無言でお茶をすするだけで。
(つーか、ルビ!)
 世界広しといえど、創造の女神……いや正確には創造の女神はリリィディアであるのだが、それでも天界を構築したのはロードだ。そのロードをババア呼びするのなんてアルテぐらいしかない、デュラは思わず感服する。
「前世、私はアルテミスと名乗っていた。そして勇者として鍛錬を積み、リリィディアが復活する寸前でその肉体……いや、違うな。魂といったほうがいいか、それを六つの斬撃でバラバラにした」
「さすがだね」
 気軽にそう応じつつも、デュラはアルテのティーカップを持つ手が小刻みに震えるのを見逃さない。
(なんだ、なにがくる……?)
 これからアルテの口から出てくるのは、おそらくとんでもない話なんじゃないか。そう思って、自身の背筋にもひんやりとした感覚を覚えるデュラである。
「六つの斬撃で七つになったリリィディアの欠片……それは世界のほうぼうに散らばっていった。これが一万五千年前の話だ」
「一万五千?」
 デュラの、ティーカップを持つ手が止まる。
(アルテ姉の年齢じゃねーか)
「前世の私は『とある理由』でその一万五千年前に死んだわけだが、それはクラリスにも話す内容だからここでは割愛する。要はリリィディアが再び、この世に顕現しようとしているってことだ」
「おっかないね。まーた世界が滅びかけるのか?」
「多分な」
「……おい」
 それまで黙って聞いていたロードが、静かにティーカップをテーブルに置いた。
「そこからは私が話しましょう。アルテミスが……アルテがバラバラにしたリリィディアの魂は合計で七つ。その七つが、再びリリィディアを復活させるために自我を持って生まれ変わってきているのです」
「んーとつまり、その魔皇リリィディアが七分割して今この世に顕現している……ってことでいいのか?」
「そうです」
 そこで、チラとロードとアルテが見つめあう。
「……で? ここからが本題なんだろ?」
 デュラのティーカップも、もう空だ。ロードとアルテのただならぬ雰囲気に、デュラの表情も強張る。
「その七つ……まず一つは、妖精として転生してきました。といっても現世に存在する妖精じゃなくて、リリィディアが魔皇だったころに魔界に住んでいた妖精です」
「へぇ。『はじまりの妖精イニティウム・フェアリー』てわけか。ティア姉もそうだよな、確か」
 ベネトナシュ王国は揺光の塔の守護者、ティア。その小さな体躯に秘める膨大な魔力は、世界を数度滅ぼすことができるほどの埋蔵量だ。
「そして二つ目は、『原初のエルダー・ドワーフ』として生を受けたのです」
「ターニーがそうじゃなかったか」
 ミザール王国は開陽の塔の守護者、ターニー。その卓越した鍛冶技術は大陸一だし、同時に素手格闘でも驚異的な強さを誇る。
 なにかに気づいて、思わずアルテの顔も確認するデュラ。アルテは無言で頷くのみで。
「三つ目。これはリリィディアが最初に転生したときの、『最古いにしえの魔女』として」
「……ソラが多分、それだよな」
 デュラのこめかみに、冷たい汗が流れる。いくらなんでも……いくらなんでもと思いつつ。
「四つ目は、ハイエルフですね」
「……アルテ姉以外に、ハイエルフっていないよな?」
「あぁ」
 重い空気が、場を支配する。
「五つ目、これは九尾の」
「妖狐だっていうんだろ?」
 アリオト王国は玉衡の塔の賢者、イチマル。その正体は九尾の狐だが、見た目は狐ながら二足歩行で言語も解す。
「……六つ目ですが」
「さっさと言ってくれ、大体の予想はつく。焦らされるのは好きじゃないんだ」
 これからロードの口から告げられる事実、それは疑いもなくそうなのだろうとデュラは戦慄した。
「そうですか。六つ目は、デュラの予想どおり『真祖の吸血鬼トゥルー・ヴァンパイア』ですね」
「……つまりなにか、私ら塔の賢者六人衆。実はリリィディアだって? 大元は同一人物だっていうのか?」
 神なのだから人物という表現は似つかわしくないが、自分が神の一片だとはどうしてもデュラは受け入れ難かった。
「そういうことです。俄かに信じられないかもしれませんが……ただ私もクロスも、あなたがたが六人でいるうちはこの事実を告げるつもりはありませんでした」
 苦渋の表情を、ロードが浮かべる。
「六人でいるうちは、ってなんだ?」
 そう疑問を呈すデュラに、
「バラバラになったリリィディアの魂は七つ……そう言っただろう」
 とアルテが確認する。デュラは小さく『あぁ』とだけ頷いて。
「六つの魂であれば、リリィディアは復活できないのですが……一万五千年目にして、七つ目の魂が今世に顕現してしまったのです」
「へぇ……それで? リリィディアが復活してしまうから、私ら六人とその七人目を屠ろうってか? ロード様とクロス様が?」
「そういうわけではないのですが……」
 殺気立つデュラに、ロードは困惑の表情を浮かべる。
「私もクロスも、どうしてよいのかわからないのです。なにより、地上界に直接干渉はできないのですから」
「……で、なんでこのタイミングなんだ?」
 こんな大事な話は、いつでもできたはずだとデュラは逡巡する。
(なんでクラリスを塔に待たせてまで、『今』なんだ?)
 そして一つの可能性が、デュラの脳裏をかすめた。それはとてもじゃないが、デュラにはどうしても受け入れがたい可能性。
「おいちょっと待て、その七人目って⁉」
「はい。地上界最大の帝国の皇女である、クラリス・カリストがその七人目なのです」
「嘘だろ……」
 呆然とするデュラに、ロードとアルテは厳しい視線を投げかける。
「デュラ、信じられなくても信じろ。でないと話が進まない」
「いや待ってくれアルテ姉、よくよく考えたら私はアルテ姉ともクラリスとも……ティア姉やイチマル、ソラやターニーと私は『一つの魂』だってことだよな?」
「魂は七つだ。ただ、七つ揃った意味……これはリリィディアが、この世に再び目覚めようとしている予兆になるとみて間違いない」
「よしてくれ!」
 バンとテーブルを叩きながら、思わずデュラは立ち上がる。そして踵を返そうとするその後ろ姿に、
「十七年前だ」
「……なにがだ?」
 アルテのその言葉に、デュラの足がピタッと止まる。
「クラリスがこの世に誕生したのが、さ。彼女は人間だからな」
「それがどうした」
 デュラは振り向きざまに、そう吐き捨てる。
「まぁ聞け。この十七年間、なにも起こらなかった。だからあくまで可能性の話をしているんだ」
「可能性、ね」
 デュラは溜め息をつくと、椅子に座り直す。
「この話、ほかの四人は知っているのか?」
「ソラとティア、イチマルには話した。ターニーには、ティアから伝えてもらうことになっている」
「ふん」
 ソラは知ってやがったのかと、デュラは少し気分がよくない。だがアルテはそのデュラの表情を読んで、
「言っておくが、私はこの話をソラにしたときにデュラもいたぞ?」
「へ?」
「私としてはデュラとソラ二人にまず話すつもりだったんだが、途中からさっさと寝てしまっただろ‼」
「……さーせん」
 思わず身を小さくすぼめるデュラに、ここまで無表情だったロードは思わず苦笑いだ。
「まぁ知ったからといって、今なにかをしようというわけではありません。ないのですが……」
「ですが?」
「クロスの考えは私と違うようなのです」
 冥府の番人、クロス。ロードがいうには、クロスはリリィディアの復活阻止に対して強硬な手段を用いようとしているのだという。
「ですので、気をつけてください」
「気をつけろって言われても……」
(神に手を出されて、どうしろっていうんだ?)
 いくらデュラが人外の存在であっても、とてもじゃないが神に抗えるほどの力をもっているわけではない。
「安心しろ、デュラ。さっきババ……ロードも言っただろう? 両神は直接地上界に手出しはできない。神と戦うバトる展開にはならないさ」
「なにを言いかけたんですかね」
 ロードは溜め息をつくと、デュラに向き直る。
「かつて私がアルテミスを創造して地上界に顕現させたように、クロスもまた同じ手段を用いる可能性があるということです」
「なるほど?」
「そしてその場合、七人の中で一番狙われやすいのが……」
「……クラリス、ってわけか」
 クラリスはただの人間である。翻って六賢者はたった一人でも帝国を支配できるだけのポテンシャルを秘めているので、クラリスが一番の標的ターゲットになるのは必然であった。
「クラリスには、このことを話すのか?」
 ロードが、無言でアルテを見やる。アルテはデュラを安心させるかのように、優しい表情を見せて口を開いた。
「しばらくは秘していようと思う。皇帝になるために、必死で頑張ってる最中だからな。水を差すのはデュラだって反対だろ?」
「もちろんだ、そうしてくれ」
 そしてデュラは天を仰ぐ。
(私とクラリスが……同じ、か)
 その表情かおは、見上げた先にある青い空とは真逆にどこまでも晴れなかった。


 デュラがアルテと一緒に天界に訪れている間、クラリスは天権の塔でお留守番……なのだが、ソファに座ったまま眠りに落ちていた。そして夢うつつのクラリスの脳内に直接響いてくるのは、少女の声。
『クラリス……クラリス……』
 真っ白な空間。前も後ろも、上下左右も真っ白で……浮いているようで足は地についている、不思議な感覚。
 立ちつくすクラリスの後ろから、自身を呼ぶ声が聴こえる。
(またこの夢……)
 最初にこの夢を見たのは、デュラの住まう天璇の塔だった。それから何度か、同じ夢を見る。そして今また、同じような白い空間でクラリスを呼ぶのは――。
「あなたは誰なの?」
 クラリスの目の前に立っているのは、クラリスより二~三歳ぐらい歳下と思われる少女。ふわふわでくせっ毛のショートヘアーは明るい金髪で、トパーズのようなこれまた黄金の瞳。
 額には黄玉トパーズをあしらったサークレット。オフショルダーのトップスも、フリルレースのミニスカートも黄色だ。手に持った魔杖マジックワンドも黄色で。
 たとえて言うならば、たんぽぽのような『魔法少女』がクラリスの目の前に立っていた。
(やっぱ何度見ても、あの水色の衣装の子みたいだな)
 メラクで、デュラと二人で蕎麦屋に入ったときのことだ。大陸全土に支店があるチェーン店で、屋号を『羽猫はねこそば』という。※『箱根そば』とは無関係です。
 立ったまま食べる形式で、それは皇女として育ったクラリスにとっては斬新なスタイルであった。そしてそれは、デュラに勧められるまま立ち食い蕎麦にチャレンジしたときのこと。
「見てるな」
「なにがですか?」
 最初にそれに気づいたのはデュラだった。
「ほら、あそこに奇抜な衣装の女の子いるだろ? 水色の髪と水色の瞳の」
 デュラに小声でそう言われて、その視線の先をクラリスは確認する。水色のミディアム・ヘアーで、その瞳も燐灰石アパタイトのような澄んだ水色。
 これまた髪と瞳と同じ水色のチューブトップ、ヒラヒラとレースのついたミニスカートも水色で。ご丁寧にくるぶしが少し見えそうなアンクルブーツも水色だ。
 その長くて白い脚をババーンと晒しているさまは、皇女として育てられてきたクラリスとしては『はしたない』と思えてしまう露出っぷりだった。
 その水色の少女が、両手で丼を持ったまま意味深にデュラとクラリスを見つめている。
「デュラ、知り合いですか?」
「いや、知らん……知らんけど、なんだろ。どっかで見たような気がしないでもないんだが」
 小声で二人がささやきあっていると、その水色の少女は丼に残ったおつゆを一気に飲み干して店を出て行く。
「すごい恰好でしたね、デュラ」
 呆然としてつぶやくクラリスに、デュラからの返答はない。
「どこで会ったんだっけ……」
 そう小さく呟くデュラ、これが天璇の塔を出る前の出来事だ。
(あの水色の子よりちょっと露出は少ないけど、衣装ベースが似てるかもしれない)
 どこかの国の民族衣装かとも推測してみたが、どちらも初めて見るファッションだ。あの水色の少女と関係があるのだろうかと、クラリスは逡巡する。
「……私は、クラリス。クラリス・カリストです。あなたは?」
 よく考えれば、最初にあちらから名前を呼んでいるのだ。改めてこちらから名乗る必要はないと思ったが、相手の名前を問うならばこれもマナーだとクラリスは思って。
「メラクからずっと、私の夢に出てきていますよね? いい加減、名乗ってくれてもよくないですか⁉」
 この夢はもう、何度目だろう。少なくとも両手の指の数を越しているのだ。
 だがその黄色の少女はクラリスの名前を呼ぶだけで、それ以外は一言も発さないのである。だから今回も、なにも言ってくれないだろうと諦めかけていたそのときだった。
「なんで……」
「え⁉」
 見ると、その少女は目に涙をいっぱい溜めている。
「あの……?」
「リ……なんで、声が同じなのっ‼」
(声が……同じ? 誰と?)
 その少女は唇を震わせて、必死に涙が落ちないように堪えているようにクラリスには見えた。そして――。
「クロス様、やっぱ無理だよ……」
「何が⁉」
(クロス様⁉ 冥府の?)
 惑うクラリスに、その少女が踵を返して……一歩進んで、止まる。そして背を向けたまま、
「ララァ」
「え?」
「私の、名前」
 そう言ってその少女が向こうに駆けだすのと、寝ていたクラリスの瞳が開くのが同時だった。
(ララァ、って言ったな)
 初めて聞く名前だし、会ったこともない。だけどクラリスは、必死に涙を堪えていたその少女の泣き顔をどっかで見たような気がしてならなかった。
「誰なんだろう?」
 一人で悶々としていると、背後の扉が――アルテ曰く『天界への扉』が開く。
「あ、デュラ……」
「クラリス⁉ なにかあったのか?」
「え?」
 デュラが心底慌てたような表情で、クラリスに駆け寄る。
「あの、デュラ?」
「なんで泣いてんだ、クラリス!」
(泣いてる? 私が?)
 クラリスはおずおずと、自分の両頬を触ってみる。指先に、涙の水滴の感触。
「あ、いや……また『あの夢』を見たんです」
「あぁ、黄色の少女が出てくるやつか?」
「はい」
 この夢の話は、デュラにもしてあった。だが今回のように夢の中で会話をかわしたのは初めてで、泣いてしまったのも初めてで。
「で、それでなんで泣いてるんだ」
「わかりません……」
(私はなぜ泣いているのでしょうか)
 それは遠い遠い追憶の中で、ララァと名乗ったあの黄色の少女を知っているような気がして。だがどれだけ記憶を探っても、掴んでは手のひらからこぼれ落ちる砂のように頭のすみからこぼれ落ちていく――。


「連れてきたぜ」
 天界へと続く階段、デュラに連れられてクラリスが初めて足を踏み入れる。
「ようこそ、クラリスですね? 私はロード、あなた方が『創造神』と呼ぶものです」
 ロードの放つ『創造神』という言葉に、デュラが若干の反応を見せる。
(創造神、ね)
 それは先ほど聴いた、魔皇リリィディアの話。つまりロードは、偽りの創造神ともいえるのだから。
「お初にお目にかかります、ロード様。私はクラリス、クラリス・カリストと申します」
 クラリスは、片膝をついて頭を深々と下げる。
(まさかまさかまさか! 本当の本当にロード様⁉)
 内心は心臓がバクバクしているクラリスだ。心の動揺を悟られないようにと気をしっかりと持つが、それらはすべてロードにはお見通しである。
「そんなに緊張せずともよいですよ、クラリス。ここには、私をババア呼ばわりする不遜な輩もいますからね」
 そう言って、アルテをチラリと見やりながら『ホ、ホ、ホ』とロードは笑ってみせた。当のアルテは、どこふく風である。
「まぁクラリス、座りな。デュラも」
 アルテに促されるままに、二人はテーブルにつく。ロード・アルテ・デュラは先ほどまでお茶を飲んでいたので、ロードはクラリスにのみお茶を用意した。
「わっ、私のためにそんなっ‼」
 当然ながら、クラリスは困惑を隠せない。創造神と信じる女神が、自分一人のために茶を淹れてくれているのだから無理もなかった。
「私とアルテ、デュラはもう飲みましたからね。これ以上飲むと、お腹がタプンタプンになってしまいます」
 クラリスの遠慮を、ロードは笑って流しながらカップにお茶を注ぐ。クラリスはそれを恭しく受け取ると。
「それで私は、その……どうすれば?」
 クラリスがそう思うのも当然である。いま自分の前には、創造の女神がいる。そして神を除けば、生けとし生くる者の頂点に立つ賢者二人が同席しているのだ。
「私からの試練の話だ」
 助け船を出すかのごとく、アルテが口を開いた。
「ソラからは、意地悪な試練だったそうじゃないか?」
「いえ、あれは私にとって大変勉強になりました」
 キッと表情を引き締めて応えるクラリスだが、
「飯食っただけだろ」
 とデュラが茶化す。クラリスはロードとアルテに見えないように、テーブル下のデュラの太ももを抓った。
いてて……」
 思わず顔を顰めるデュラに、ロードもアルテも苦笑いを隠せない。
「私からの試練は、かつてクラリスの母であるディオーレにしたものと同じにしようと思う」
「はぁ……と言っても、アルテさんからどのような試練を母が受けたかは存じ上げないのですが」
「だろうな。口留めしているから」
 そう言うアルテの表情がどこか寂し気なのが、クラリスには気になってしょうがなかった。
「そしてクラリスもまた、私からの試練で知った『事実』は口外無用に願いたい。これは地上界のどこにも、その痕跡が遺されていない……いわば帝国、帝室の『秘された歴史』だからだ」
「『秘された歴史』、ですか」
 クラリスのそれには応えず、アルテはデュラに向き直る。
「あぁ。ついでだから、デュラも『見る』か?」
「見る? いいぜ、付き合う。私には一度話したって言ったっけな? まだ見せてもらってはないんだろ?」
「だな。とりあえずクラリスの肩にでも留まってな」
「へーいへい」
 デュラはそう応じると、黒い瘴気のようなものを噴出させながらその身体を蝙蝠へと窶す。そしてパタパタと羽ばたいて、クラリスの肩にチョコンと留まった。
「クラリス、君は帝国の歴史をどこまで知っている?」
 アルテのその問いの真意がわからず、クラリスは惑って言葉が出てこない。そんなクラリスの緊張をほぐすかのように、ロードはニッコリと笑って無言で頷いてみせた。
「私の知る限りでは……一万五千年前、カリスト一世が建国したと。血脈は途中で途絶えたものの、『皇帝に相応しい者かどうか』のみを基準にして後継を選び、そして栄えてきたと」
「ふむ……ディオーレは約束を守ってるんだな。ちゃんと地上界に遺された『大嘘』だけをクラリスに学ばせているようだ」
 アルテが、少し忌々しそうに吐き捨てた。
「あの、それはどういう……?」
 そのただならぬ雰囲気に、クラリスは思わずしり込みしてしまう。
「あぁ、気にしないでいい。そしてクラリスもまた、『ここで知った』ことは誰にも教えるな。たとえ、君が後に産み育てるであろう息子や娘であってもだ」
「もちろんです、約束します」
「うん、まずはどこから話そうかな……まず初代皇帝・カリスト一世の血は絶えていない。ここで地上界の歴史から『絶えた』とされるのは、正当な跡継ぎが途中でいなくなったということだけを意味する」
「と言うと?」
「帝位継承権を剥奪、もしくは放棄……あるいは女系だったりと帝国の都合や解釈によって、皇帝の血ではなくなったとされる話だ。この意味がわかるか?」
 クラリスは顎に手を当ててしばし思案に暮れる。そして一つの心当たりを見出して、毅然と顔を上げた。
「つまり、物理的な血……これは絶えていないということでしょうか」
 クラリスは、アルテが放った言葉を脳内で精査してみる。
(帝位継承権がなくなったとしても、その身体に流れる血は否定されない……そういうことだろうか)
 クラリスのその考えを読んだのか、アルテが無言で頷いてみせた。
「その子孫たちが今、カリスト帝国を構成する七ヶ国の王家となっている。いわばクラリス、そういう意味では君もカリスト一世の血を引いているのさ」
「じゃあ母の出身であるフェクダは元より、メラク、メグレズ、アリオト、ミザール、ベネトナシュ……それらの王家は、すべて祖を同じくする一族であったという」
「そうなる。まぁ初代から一万五千年も経っているんだ、もうほぼ別の一族といっても過言じゃないけどな」
 初めて聞かされる驚愕の事実に、それでもクラリスは不思議と頭が冴えわたっていた。仮にそうだとして、だからなんだというのだろうという考えに帰結してしまうのだ。
「まぁクラリスがそう思うのも、無理はないでしょう。アルテ、本題に入っては?」
 話に横入りしてきたロードだったが、アルテからは一瞥されただけで無視されてしまう。そして露骨に、ふてくされてみせた。
「これから知る事実、これはクラリス……君にとって、大変つらいものになると思う。覚悟を決めてほしいんだ」
「わかりました」
「端的に言うとクラリス、君の前世の話になる」
 アルテがそこまで言ったとき、
『チチッ‼』
 不意にクラリスの肩に留まっているデュラが小さく反応した。
(おいアルテ姉、魔皇リリィディアの話はクラリスにはしないんじゃなかったか⁉)
 念話である。そしてアルテもまた、念話で返す。
(そっちの話じゃないから安心しろ、デュラ。クラリスもまたティアと同じように、複数の前世を持つ身だ)
(ティア姉みたく? ふーん……まぁいいか、しばらく黙ってるから続けてくれ)
 大陸最東端にあるベネトナシュ王国は揺光の塔を守護する『始まりの妖精イニティウム・フェアリー』であるティア。六賢者ではアルテに継ぐ次女格で、彼女もまた魔皇リリィディアの生まれ変わりであると同時にそうでない前世を持つことをクラリスが知るのは先の話である。
 アルテと蝙蝠形態のデュラがただならぬ雰囲気で見つめあってるのを、クラリスは黙って見守っていた。だがデュラが振り向いて、続いてアルテに視線をやったのを機に会話のバトンが戻ってきたのを察っして口を開く。
「私の前世、ですか?」
「そう、一万五千年前の君は私の……かけがえのない友人だったんだ、クラリス。いや、アセラと言うべきか」
 そう言って重い口を開いたアルテの瞳に、涙がたまっていた。


 創造の女神・ロードが魔皇リリィディアが七年後に降臨すると告げたあの日から、七年。リリィディア討伐のための勇者としてロードに創造されたアルテミスも、皇宮騎士隊で鍛錬に励む中で十七歳の誕生日を迎える。
「お姉さまっ‼」
「うわっ⁉」
 いよいよリリィディア討伐に向かおうと準備を進める日々の中で、皇宮内を首から下は完全装備フルアーマーで歩いていたアルテミスの後ろから抱きついたのは――。
「アセラ殿下!」
「やだもうっ‼ アセラって呼んでくださいってお願いしてますぅ!」
 プゥッと頬を膨らませてぶんむくれているのは、時の皇帝・カリストの三女でアセラ皇女だ。御年十四歳で、帝位継承権は第七位。
 ひざ裏まで伸びた長い白金プラチナのブロンドは光沢を放っており、その瞳には紫水晶アメシストを彷彿とさせるパープルの蠱惑的な光が宿る。それは皇室の血を引いたものの証でもあった。
 前髪を上げて見せている額には、同じくアメシストのヘッドドレス。だがアメシストよりもおでこの艶っぷりのほうが明るく、アルテミスはいつも『でこっぱち』と呼んではアセラをからかっていた。
 だが勇者とはいえど一平民、そして相手は皇女だ。だから、
「二人きりのときならともかく、皇宮内ですよ殿下」
「二人しかいないじゃない!」
 玉座に向かう赤絨毯の敷いてある通路には、アルテミスとアセラ皇女……と、通路左右に一定間隔を置いて衛兵たち。
(ったく、衛兵はいないことになってるのかな? 皇室の人間の考え方は独特だな)
「殿下。私は皇帝陛下に呼び出しをうけているので、この手をお離しくださいませ」
「い、や、ですぅ!」
「まったく……」
 アルテミスは困ったように嘆息すると、力づくで自身を抱きとめているアセラ皇女の両手を引っぺがす。
「お話はあとで聞きます。取り急ぎ、皇帝陛下へ謁見せねばなりませんので」
「お姉さまが冷たい……」
 なおもぶんむくれるアセラ皇女だ。仕方がないので、
「アセラ、すぐに行くからお部屋で待ってな」
 衛兵には聴こえないように小声で囁き、アセラ皇女のおでこにキスをするアルテミス。
「ほわぁ~‼ は、はい!」
 両目がハートマークになったままのアセラ皇女を残し、アルテミスは歩を進める。
(アセラの部屋に行ける暇があるといいが)
 だがそれも叶わないかもしれない。あれから七年、魔皇リリィディアが降臨すると女神ロードが告げた年だ。
「おそらく……出陣命令だろうな」
 時は来た、アルテミスはそれを自覚して身震いする。両の拳を、ギュッと握りしめて。
「勇者・アルテミス様、おあがりーっ‼」
 よく声の通る衛兵のそのかけ声とともに、扉が開く。皇帝の玉座がある謁見の間に、アルテミスは足を踏み入れた。
 玉座へと続く道。皇室政府の重鎮や軍の上層部、錚々たる面子が居並ぶ中を勇者アルテミスは毅然と歩を進める。
 そして玉座壇下に誰よりも一番皇帝に近い位置まで歩み寄ると、サッと片膝をついて。
「勇者・アルテミス。お召しによりただいま参上仕りました」
「うむ、大儀である」
 初老の皇帝は、目を細めてアルテミスを見下ろしながらそれを労った。
「帝国お抱えの占者によれば、かの魔皇はかつて自身が根城としていた廃城跡にて復活の兆しがあるとのことだ。勇者アルテミスよ、貴殿はその場所に心当たりがあるか?」
「ございます。女神・バ……ロード様曰く『リリィディアの霊柩』にて永きに渡り眠りについているとのこと。それはかつて、魔皇リリィディアが本拠地としていた城塞であるとか」
 ロードについてなにか言いかけて、慌てて訂正するアルテミスである。
「ふむ、ロード様がおっしゃるなら間違いなかろう。それではこちらも竜騎兵、歩兵、魔導師団を結成してそなたの」
「お待ちください、陛下」
「む?」
 それまで頭を垂れていたアルテミスが、キッと顔を上げる。
「リリィディアの霊柩にては、女神・ロードの加護を賜っていない者が足を踏み入れることはできませぬ」
「なんじゃと⁉」
「眠りについているとはいえど、魔皇が放つ瘴気。これは『普通の人間』では近づいただけで魂が蒸発してしまうのです」
「魂が……」
 そして自分は、女神・ロードの加護を賜っている。それすなわち、この仕事はアルテミス単独でしか成し得ないことを意味していた。
「よって魔皇リリィディア復活阻止は、私め一人にお任せくださいませ」
「う、うむ……」
 このとき、小さく皇帝が舌打ちしたのをアルテミスの耳が捉えていれば、そしてその意味を理解できていれば歴史は大きく変わったに違いない。だが不幸にも、アルテミス破滅の号砲はこのときに鳴らされたのかもしれなかった。
「ロード様に於いては、皇帝陛下にもその旨を伝えたと伺ったのですが?」
「うっ……うむ、確かに夢の中にて神託は受けた。だが、本当に其方一人だけで悲願は果たせるのだろうか」
 皇帝にとって、それは屈辱的な内容だった。魔皇リリィディアのいる廃城跡、『リリィディアの霊柩』に近づけるのはアルテミスだけだという事実。
 そして皇帝が派兵する兵は、役に立たないのだと思い知らされた気がして。
(もし勇者・アルテミスが単騎で魔皇の封印に成功すれば、皇室の権威が揺らぎかねぬ)
 もちろん、魔皇リリィディアの封印ができねば世界は滅亡への一途を辿るだろう。だからこそ、その忸怩たる感情は顔には出さなかった。
「みなの者、聞いてのとおりだ。魔皇の下へ辿り着けるのは、勇者アルテミスのみと相成った。我らには我らの、できる限りのことを為せ!」
「ハハーッ‼」
 皇帝の間に、野太い男たちの声がこだました。
 そしてその日の晩、アセラ皇女の寝室にて――公式記録には残されない、来訪者が一人。
「アセラ……もう泣かないで」
「アルテミス! だって、あなた一人を行かせるなんて……万が一のことがあっ」
 泣き叫びながらいやいやをするアセラの唇を、アルテミスの唇が半ば強引に塞いだ。
「んっ……‼」
 それは二人がかわす『いつもどおり』の、いやいつも以上に濃厚な接吻キス
「大丈夫だ、アセラ。私は必ず生きて戻る、約束するよ」
「アルテミス……」
 帝国の皇女と、女勇者。身分いやそれ以前に性別すら大きな乖離があったものの、この二人は身も心も結ばれていた。
 だがそれは、決して表にできない禁断の関係で。
「死地に赴く私に、ご褒美をくれないか?」
 そう言ってアルテミスは、アセラ皇女のナイトドレスの前ボタンを外していく。やや小ぶりながら形のいいアセラの胸が窓から差し込む月明りに照らされて顕わになるが、それを掴もうとしたアルテミスの両手首をアセラが強く握って寸前で制した。
「アセラ?」
「いま死地、って言った!」
 そう言って、アセラ皇女はプーッと膨れてみせる。
「いや、それは言葉のあやであって⁉」
「もう一度約束してください! 必ず生きて戻ると‼」
 アルテミスは無言で、自分の手首を握るアセラ皇女の指を優しく引きはがす。そしてアセラ皇女の目じりにたまった涙を己の指先で拭うと、それをペロリと舐めとった。
「何度でも約束しよう、必ず生きて戻る。だからアセラ」
「……はい」
 月明りが雲に遮られて、寝室が一時の闇に染まる。窓からの風が、薄明かりの蝋燭の炎を吹き消した。
 完全に深い闇に包まれた寝台の上で少女二人の身体が交錯して、互いを貪るかのようなその秘め事は夜すがら続いたのである。
 そして翌日、ポラリス山脈の奥深く。アルテミスは古代竜エンシェント・ドラゴン・アストライオスと対峙していた。
 人間の女性としては一九〇センチにも届こうかという高身長のアルテミスであっても、アストライオスの巨躯の前ではその指の爪先ほどもない矮小な存在にすぎない。
「人間よ、どうしてもここを通るというのか」
「無論だ」
 スチャッと聖剣を抜くアルテミスであったが、どことなく本気度は感じられなかった。むしろ、あちらの出方を待つかのように微動だにしない。
「どうした、人間よ。来ぬのか?」
「原初の竜よ、どうかそこを通してはもらえまいか?」
「……互いに無血にて、ということかの?」
「そうだ。私の目的は、あなたを倒すことではないからだ」
 しばしの間、無言で一人と一匹は見つめあう。そしてアストライオスは大きく羽を広げて、アルテミスを見下ろす。
「我の名はアストライオス。この先に眠る、最古いにしえの創生神の御霊を守護する者ぞ。そなたの名前を訊こうか?」
「私はアルテミス、女神ロードの眷属だ」
「そうか、ロードの……アルテミスよ、どうかあのお方を救ってやってくれ」
 そう嘆願するアストライオスの瞳は、慈愛の光が宿っていたようにアルテミスには見えた。
「? 救う、とは?」
「かの少女は、今の姿で復活することを望んでおらぬ……ゆえに」
「少女、だと……?」
 自分は、女神ロードに魔皇リリィディアの復活を阻止するべく創り出された勇者だ。当然ながら、リリィディアが世界を亡ぼす存在とだけしか知らない。
 だから、突如としてアストライオスの口から洩れ出た『少女』という言葉に困惑を隠しきれなかった。
「……少し、しゃべりすぎたようだ」
 だがそんなアルテミスに興味を失ったかのように、アストライオスはそう言って大きく羽ばたく。
「ま、待ってくれ!」
「頼んだぞ」
 羽ばたきによる強風に、アルテミスは一瞬ひるむ。そして砂ぼこりが晴れたあとでアルテミスが見たのは、もう遠くの山頂に消えていく豆粒ほどの竜のシルエットだった。
「救う? 少女とは……」
 ゴクリと生唾を呑み込んで、アルテミスはアストライオスが立ちふさがっていた場に向けて一歩を踏み出す。
(リリィディアもまた女神、いや少女神なのだろうか)
 そんなことを考えながら歩を進めていくと、やがて目の前に開けた場所にそびえ立つは古びた廃城。ところどころ壁が崩れ落ちていて、生き物の気配すら感じられない。
「すごい瘴気だ……」
 肉眼で見てわかるほどに、黒い煙のような正気があたり一面に立ち込めている。その瘴気にあてられたのか、すべての草木は枯れ落ちていた。
「これがリリィディアの霊柩……」
 かつて世界を滅せんとした魔皇が眠る城。すべての来訪者を拒まんがするかのように、その廃城は夥しい瘴気に包まれている。
「アセラ……待っていてくれ」
 アルテミスは聖剣を抜くと、慎重にその廃城の門をくぐった。一歩一歩と歩を進め、やがて玉座らしき椅子がひな壇の上にポツンと置いてある一室にたどりつく。
 その玉座はもう何千何万年と主不在の悠久の時を過ごした残滓とでもいおうか、指で触れただけでも崩れ落ちそうなほど朽ち果てている。
「……⁉」
 そしてその玉座の背後に、なにやら蠢く瘴気の塊。それはまるで意思を持ったかのように膨張を始めていた。
(このままでは、国全体を包み込むほどまでに成長してしまう‼)
 アルテミスの危惧したとおり、その瘴気はすでに玉座をも包み込むほどに膨張していた。そしてなおも膨張しながら、ゆっくりとひな壇を降りてくる。
(一刻の猶予もないな……)
 アルテミスは静かに聖剣を振り上げると、瘴気に向かって飛び込んでいく。
六道破断エクシティウム‼」
 そしてその瘴気がアルテミスを包み込む寸前に、六つの斬撃が瘴気を切り裂いた。悲鳴にも似た断末魔の悲痛な叫びが、玉座の間に反響して響く。
 斬り裂かれた瘴気が、まるで蜘蛛の子を散らすように中空へと飛び立つ――その数六つ。それらは天井を突き破り、闇夜の中を四方八方に散っていく。
「終わった……のか?」
 そのときアルテミスは、散っていく瘴気を見上げていたからこそ気づかなかった。六つの斬撃では、瘴気は七分割されるのだ。
 場にとどまった七つ目の瘴気の欠片は、ゆっくりと地面に吸い込まれるようにして消えていく。そしてアルテミスが再び視線を落としたとき、すでにそれはもう跡形もなく。
「あっけなかったな……いや、私じゃなければ城に近づいただけで蒸発しただろうが」
 それは女神・ロードの加護によって。
「アセラのもとへ帰るか」
 安堵の笑みを浮かべ、アルテミスは踵を返した。だがこのとき、アルテミスはおろかロードそしてクロスも想像すらしなかったに違いない。
 天空に散っていったリリィディアの欠片の一つが、再びアルテミスの来世の依り代として転生してくることを。そして地に消えた七つ目の欠片が、一万五千年後に帝国の皇女・クラリスとして転生してくることを。
 城へ帰ったアルテミスを待っていたのは、皇帝からの賛辞と莫大な褒章そして爵位。アルテミスは皇帝に促されるままに城に滞在し続けることにして、それからの時間を周囲に気取られないようにアセラとキャッキャウフフキマシタワーな毎日を送る。
 だがその裏で皇帝によるアルテミス破滅のための罠が少しずつ構築されていくのを、このときアルテミスは知る由もなく――。


「いかん、このままじゃダメ人間になる気がする……」
「アルテミス?」
 アセラ皇女の寝室にて、二人全裸で一つベッドの中。今日も今日とて忍ぶ恋を満喫する二人だ。
 魔皇を倒して以来、皇帝から『褒美準備中』とのことで、サプライズとしたいから皇城にとどまってほしいと要請されてはや一ヶ月。
「そろそろ街に出てみたいもんだが」
「それはダメよ、アルテミス。なんでもアルテミスのご褒美を建設中だってお父様が……」
「建設中?」
「あっ⁉」
 口を滑らせてしまい、思わず両手で口を押えるアセラ皇女。おそるおそるアルテミスの顔色を窺うも、その表情は苦笑いしきりで。
「屋敷か銅像か……そういうのは勘弁願いたいものだが」
 だが皇帝としては、国をいや世界を救ったアルテミスに対してなにも下賜しなかったら逆に体面が悪い。受け取らざるを得ないだろうなとアルテミスは嘆息する。
「とりあえずアセラ、いつごろになったら外出許可が出るのか皇帝陛下に訊ねてみてくれまいか」
「それは構いませんわ。というか、私はもうそろそろだと聞いております」
「そうか」
(そろそろ、とか建設中とか。アセラは事情を知らされているのだな)
 自分としては、魔皇リリィディアの降臨をとりあえずは阻止した。よって、あとは故郷の街に、両親の元へ帰るだけだと思っていたのだ。
(だがそれは、アセラとの……)
 そう、愛するアセラ皇女との別れを意味した。だが元より、爵位を賜ったとはいえ貴族では最下層の男爵位。
 絶対に報われない恋だったのだ。まぁそれ以前に女同士なのが一番のネックだったのだが……。
「私はもう起きるよ、アセラ。身体が鈍ってしまいそうだから、そろそろ鍛錬も再開したい」
「わかりました、アルテミス。騎士団には私から伝令つなぎを入れておきましょう」
「ありがとう、助かる」
 ベッドから出たアルテミスの、一九〇センチ近い鍛え上げられた肉体が窓から差し込む朝陽の照り返しを受けて黄金色に光る。
「素敵……♡」
「そうかい? ありがとう」
 そう言って、まだベッドで上半身を起こしたままのアセラ皇女の額にキスをする。
 この幸せな時間も、永遠ではない。アルテミスは、胸がキューッと締め付けられる心地がした。
「ではそろそろ着替えるか」
 そう言ってアルテミスが一歩を踏み出したときだった。
「……⁉」
 扉の外に異様な気配を感じ取り、すばやくベッドのマット下に隠してある剣を取り出すアルテミス。と同時に、扉がバーンと乱暴に開かれた。
「何者だ‼」
「勇者アルテミス‼ 帝位簒奪の容疑およびアセラ皇女への強制わいせつ罪でその身柄は拘束させていただく!」
 扉から、わらわらと衛兵がなだれ込んできた。全員フル装備で、両手に槍を持ってアルテミスにその切っ先を突きつける。
「近衛隊長⁉ これはどういうことだ‼」
「アルテミス殿、残念ですな。あなたは清廉潔白なお方だと信じておりましたものを」
 全裸で剣を持ったアルテミスを、槍を持った近衛の衛兵が半円の形でベッドを取り囲んだ。寝具で上半身を隠したままのアセラは、ベッド上で青くなって震えている。
「アルテミス殿、抵抗なさいますか?」
「……私の拘束が目的なのだな? なんの罪状か知らぬが、ちゃんと調べてもらえるのだろうか?」
 険しい顔で近衛隊長に問いかけるも、アルテミスは内心冷や汗がダラダラである。
(まだ十四歳のアセラ皇女と裸でエッチしてたなんて、そりゃやべーわな)
 とかなんとか思いながら。だが、『帝位簒奪』については心当たりがない。
「まずは皇女殿下のそばから離れていただこう。剣も床に置いて両手を上げろ」
「……あいわかった」
 どういう容疑だとしても、ここで抵抗するのは得策ではない。なにより、背後のベッドには全裸のアセラ皇女がいるのだ。
(アセラの裸を、衛兵ごときには見せられん)
 そう思って、アルテミスは大人しく捕縛される道を選んだ。そしてそれは、アルテミスにとって最大の誤った選択であったことは夢にも思わず。
「服ぐらいは着てもよかろう?」
「……許可しましょう」
 服といっても、シンプルなワンピースのナイトウェアだ。下着はどこに放り出したか覚えていないので、
(パンツどこだっけ)
 とか呑気なことを考えながらとりあえずワンピースを羽織る。そして大人しく両手を上げてベッドから遠ざかると同時に、ロープを持った数人の衛兵がアルテミスを取り囲んだ。
「下着はそこらへんに落ちていないか?」
 アルテミスのその発言に、衛兵たちは無反応だ。そのままアルテミスの両手を下げさせ、後ろ手で縛り上げていく。さらに腰にも縄で縛り、その端は左右で衛兵が手に握る。
「ものものしいな」
「アルテミス殿、逃げようなどとは考えないことだ。このロープは呪具で作られているから、いかなアルテミス殿ほどの怪力であっても千切ることは叶わぬ。また、捕縛対象の能力を著しく制限する弱体化デバフもかかる」
「⁉」
 アルテミスは、素手で城を破壊できるほどの規格外の怪力だ。そしてひとたび剣を持てば、斬れぬものはない剣豪。くわえて攻撃魔法の心得もあった。
(確かに、今の私は並みの十七歳ほどの力しか出せないようだ)
 後ろ手に縛られた両手を、試しに力任せに左右に引いてもびくともしない。縄が手首に食い込んだだけだった。
 そこでようやく、アセラ皇女が我に立ち返る。
「お待ちなさい! なぜアルテミスが捕縛されるのです⁉ 私とアルテミスは、同意の上で愛し合っていたのです!」
「……殿下、それは聞かなかったことにします」
 近衛隊長は、苦い表情でアセラ皇女の弁明を一刀両断にした。そして返す刀で、
「殿下におかれましても、当面は近衛隊の監視下に置かせていただきますのでご容赦のほどを」
「は? ちょっと待ってくれ隊長。私だけならともかく、なぜアセラまでが⁉」
 そこまでは大人しく縄を受けたアルテミスだったが、動揺の表情で近衛隊長にくってかかる。といっても後ろ手で縛られているから顔を突き出す形になったのだが、腰から左右に伸びた縄を掴んでいる衛兵たちが強引に引っ張った。
っ!」
「アルテミス‼」
 ドサッと後方に尻もちをつくアルテミス。呪具で弱体化されているため、簡単に後方へ吹っ飛んでしまった。
「なにをしている!」
 顔を上げたアルテミスが見たものは、同じく両手を前で縛られるアセラのむき出しの上半身。小さいながら形のいい乳房が、その場にいる衛兵たちの目に晒されている。
「アセラのっ、殿下の裸体を隠せ!」
 アルテミスのその叫びを受けて、衛兵の一人が慌ててアセラ皇女の背中から寝具を一枚被せた。だが両手が捕縛されているものだから、その小さな胸の谷間が少し顔を出している。
「なぜ殿下まで⁉」
「皇帝の命令ですので」
「皇帝の⁉ しかもさっき言っていたな、帝位簒奪と。どういうことだ?」
 アルテミスのその言葉には口をつぐみ、隊長はベッド上のアセラと向き合った。
「殿下、もしアルテミス殿を力づくで助けようなどとはなさいますな。その瞬間から、アルテミス殿を逆賊として処さなければならなくなりますゆえ」
「……本当にお父様の命令ですの?」
「ハッ」
 アセラ皇女は無言で、両手の縄に向かって小声で魔法を唱える。一瞬だけアセラ皇女の手首周辺が明るく光ったものの、縄から発する別の光によってそれはかき消されてしまった。
「こちらにも弱体化の呪法が施されているようですね」
 そう言ってため息をつく。
「いいでしょう、どうせ冤罪なのです。調べてもらえればわかること」
「アセラ……」
「アルテミス、なんて表情かおをしているのです。誤解なんてすぐに解けますわ」
 そう言ってニッコリと笑うアセラ皇女だったが、アルテミスが見た最後のアセラになることは今は知る由もなく。そしてそれはアセラも同様で、最後に見たアルテミスとなるのだった。
 そこからの事態は、目まぐるしく動く。
 アルテミスに対しては言い分なぞほとんど聞いてもらえない、取り調べともいえない取り調べが続いた。それはときに拷問じみた手段も交えていたが、アルテミスは頑として無罪を主張する。
 アセラに対しては、ただ自室に軟禁されるだけの日々が続く。両手に弱体化の呪がかかっている鉄の枷がされている以外は、普段と変わらない生活を送っている。
 扉の外には常に衛兵が複数名、窓はご丁寧に外から板が打ち付けられている。若干十四歳の華奢な筋力、しかも得意の魔法が封じられているとあってはアセラはこれ以上どうしようもできなかった。
「アルテミスはなにか吐いたか? いや、吐きようがないだろうな」
 皇帝の玉座にて、厭らしくほくそ笑むのは皇帝その人だ。
「えぇ。ですが、『調書』のほうは仰せのとおりに仕上がっております」
 傍らでは、宰相が手に持った資料を片手に無表情で切り返した。
「細工は流々だな。して、城下の様子は?」
「それは陛下御自身で御覧なさいまし」
 そう言って宰相は、窓際に歩みより城壁の外に目をやる。遅れて皇帝が窓際にやってきて、その様子を見ながらほくそ笑んだ。
「魔女を出せーっ!」
「勇者を許すな! 勇者に死の裁きを!」
「希代の悪女を火あぶりにしろ!」
 民衆が口々にそう叫びながら、固く閉ざされた城門前に押し寄せていた。
「魔皇を倒した勇者による、過分な褒章の要求。それにともない、帝国民の税金は五倍に。そして男どもは勇者・アルテミスのために建設される新たな城の普請のため、不休無償で十八時間労働の毎日……民衆の不満は、もはや爆発寸前にてございますれば」
「くっくっく……なにもかもがうまくいきよるわい」
 魔皇の復活を阻止して凱旋した一ヶ月前、アルテミスは帝国中から世界を救った勇者として崇められる対象となっていた。なにせ、帝国軍の兵は一人も使わず単騎で倒したのだ。
 そしてそれは同時に、皇帝よりも勇者が秀でていると万民が認める世論の流れとなってしまい、それは皇帝が危惧したとおりになった。
「皇帝よりも敬畏を集める存在など、国を傾ける虫よ。くわえてアセラを寝取るなど、もってのほかだ」
「仰せのとおりにございます」
「して、この後の段取りは?」
「欠席裁判にて、公開処刑を。そろそろ市井に、それの触れが出されるてはずになっております」
 皇帝は宰相のその言葉を聞いて、安心したように胸をなでおろす。
「アセラはどうしておる」
「陛下に合わせろと、アルテミスに合わせろと相変わらず騒いでおりますが……あの部屋からは蟻の子一匹逃れることはできませぬ」
「うむ、重畳である」
 そしてアルテミスが牢の中にいるまま、本人不在で裁判が行われた。といっても一方的に裁判官がアルテミスの公開処刑を告げるのみで、それは五分とかからぬ茶番であった。
 そして処刑当日、あの日捕縛されてから初めて太陽の光を目にしたアルテミス。後ろ手に縛られ、腰にはあの日と同様に縄で逃げられないように左右の兵がその端を持つ。
 処刑場に向かう道すがら、国民たちは悪しざまにアルテミスを罵り、腐った卵や石を投げつける。当のアルテミスは、死んだ魚のような目で引っ張られるままに刑場へとその一歩一歩を踏み出していく。
(なぜこうなったのだ……)
 凱旋当時、誰もが自分に感謝の言葉を述べ英雄だともてはやした。自分が世界を救ったのだと、それなりに自負していたのだ。
 だが今やアルテミスは国の、国民の敵に成り下がっている。
 情報操作プロパガンダ――勇者・アルテミスの名声の高まりを懸念、いや下世話な言い方をするならば嫉妬した皇帝による、誤った世論操作。これによりアルテミスは、傾国の勇者との烙印イメージを国民に植えつけられてしまったのだ。
(アセラはどうしているだろうか)
 捕縛されてから一度も着替えていないナイトウェアのワンピースはボロボロで、ところどころ血が滲んでいる。両手と両足の爪は、すでに全部引きはがされていて。
 すでに生きる気力も絶えようかというとき、それでもアルテミスはアセラのことが心配でたまらなかった。自分と同じように辛い目にあってはいないか、ただそれだけが気がかりで。
 刑場に到着し、アルテミスの首に縄がかけられる。その横で、近衛隊長がアルテミスには全然心当たりのない罪状を次々と読み上げていき、民衆の怒りの興奮ボルテージはとめどめもなく上昇していく。
「アルテミスッ‼」
 その様子を、城の窓から悲痛な叫び声をあげながらアセラ皇女が見つめていた。
 両手には呪具の枷が、窓には外から板が打ち付けられているものの、その隙間から見えるのは首に縄がかけられたアルテミスの変わり果てた姿。
「やめてっ! やめなさいっ‼」
 決して届くはずのない声を、窓の外に向けて発する。だが無常にも、銅鑼の音と同時に『引けーっ!』という合図がアセラ皇女の耳にも届いた。
 アルテミスの体躯が一瞬だけガクンと揺れたあと、首にかかった縄が締まりアルテミスの身体が高く宙に浮いて。
「いや、いや……いやーっ‼」
 首から吊られたアルテミスの身体がビクビクビクンッと痙攣して、やがて動かなくなる。民衆の喜びの歓声が、ひときわ大きくなった。
「そんな……嘘、でしょう?」
 まるで信じられないものを見たかのように、アセラ皇女は脱力して膝をつく。その瞳からは涙……ではなく、血の涙が溢れだしていた。
「嘘……嘘……嘘……」
 両手で顔を覆って、念仏のようにそれを繰り返す――そして、次の瞬間。
「いやあああああああっ‼」
 そう叫んだアセラ皇女の身体から、赤い瘴気が周囲八方に広がっていった。手枷が腐食してボロボロと朽ち落ちて、弱体化の呪が解ける。
 その魔法にあてられたのか、扉の外の衛兵たちがバタバタと次々に倒れていった。自らが流した血の涙が両手を染め、それがやがて一つの形――血の剣に変貌していく。
「絶たなきゃ……こんな、悪魔の血を絶たなきゃ……」
 ブツブツとつぶやきながら、その剣を手にアセラ皇女は立ち上がる。そして扉まで歩み寄ると、それを一刀両断にしてみせた。
 鋭利に斬れた扉の上端がガコンッと落下して、その勢いで扉が開く。アセラ皇女はフラフラと自室を出て、どこかへと歩み去っていった。
「陛下っ! たっ、大変でございます! アセラ殿下が逃亡しました‼」
 皇帝の間に続くレッドカーペット、刑場から戻った皇帝が足早に急ぐ。そしてその後ろから、青い顔の宰相がそう叫びながら駆けよってきた。
 だが皇帝は眉一つ動かすことなく、不敵な笑みを浮かべている。
「もうアルテミスの処刑は終えたのだ。今さらアセラが抜け出したとて、どうにもなるまいよ」
 そう言いながら扉を開けた皇帝の前には、信じがたい光景が広がっていた。大臣や衛兵たちが青白い顔でガクガクと震えながら、入ってきた皇帝を見つめている。
 中には失禁した者、失神しているのだろうか倒れた者もいた。そのうちの幾人かは、口から泡まで吹いている。
「いかがいたした⁉」
 その尋常でない雰囲気から、皇帝の顔色が変わる。立ち込める陰惨な空気に交じって鼻腔を刺激するのは、夥しい血の臭いであったからだ。
「あ、あれを……」
 なんとか立っているのがやっという有様の衛兵が、震える手で玉座を指さした。
「なっ‼」
 そしてそこに目をやった皇帝が見たものは、まさに『地獄絵図』であったといえよう。玉座の周りに、数個のスイカ大のボールが転がっている……ように最初は見えた。
「まさかあれは、カペラ⁉」
 玉座の横に転がっていたのは、皇妃・カペラの首。
「ああっ、あぁ……あれは、カノープスなのか?」
 そしてその横に、長男の皇太子・カノープスの首だった。
「そ、それにアーク! デネブ⁉ プレセアまで……なんだ、なにが起こったのだ⁉」
 第二王子のアーク、第一皇女のデネブ、第二皇女のプレセアの首もまた、無造作に玉座の周りに転がっていた。第二王子のアークにいたっては、まだ齢五歳の子どもである。
 そのときユラリ……と人影が、玉座の後ろから姿を現した。真っ赤な血の剣を握りしめ、血の涙を流しながら身体中を返り血で真っ赤にした、第三皇女のアセラだ。
「あ、あぁ、アセラ? な、なんで」
 震える声で立ち尽くす皇帝の前に、フラフラとアセラ皇女が歩み寄る。
「お父様……こんな汚い血が、国を世界を救った勇者を悪人に仕立て上げるような汚らわしい血統は……残ってはならないのです」
 そう言いながら、アセラ皇女は血の剣を振り上げる。
「まっ、待っ……」
 アセラを制しようとして伸ばした皇帝の両手が、一閃したアセラ皇女の血刀によってボトリと床に落ちた。
「ぎゃあああああっ‼」
 断末魔の叫び声をあげて両ひざをついた皇帝の上から、血に塗れた瞳でアセラ皇女の憤怒の瞳が見下ろす。
「すぐに私も参りますゆえ」
 小さくそう呟いたその瞬間、皇帝の首がゴトリと落ちた。首の断面から赤い鮮血がほとばしり、その躯がバタリと床に倒れる。
「殿下!」
「おやめください、殿下!」
 周囲が慌てて声をかけるも、誰もが恐怖のあまり足がすくんで動かないでいた。そのアセラ皇女は、父なる皇帝の首を落としたその血の刀を今度は自分の首に当てている。
「この汚い血は……私で最後」
 そう呟いた次の瞬間、アセラ皇女の首もまた床に落ちた。自らの手で、自らの首を落としたのだ。
 首が落ちたアセラ皇女の身体は倒れることなく、その血の刀を握ったまま首の断面から嘆きの赤い鮮血を吹き出しながら……立ったまま、アセラ皇女の命も潰える。その壮絶で陰惨な姿に、その場にいる誰もが言葉を失ってしまっていた。


 テーブルを囲んで女神ロードとアルテ、そしてクラリスと肩には蝙蝠形態のデュラが、机上の水鏡を見下ろしている。
 ここまでのアルテの前世、アルテミスの記憶。そしてその後の、アセラ皇女による復讐劇はこの水鏡を通じて四人の前に映し出されていたのだ。
「こ、これは……実際にあったことなのですか」
 クラリスの唇が、震える。心配そうにそれを見やるロードとは対照的に、アルテの表情はどこか寂し気だ。
「私の処刑後のことはロードから話に聞いただけで、私も初めて見るのだがな……」
 そう小声で囁くアルテの目じりに、涙が浮かんだ。
「アセラ……」
 そして前世の恋人を呼ぶその小さな声は、かすれて聴きとるのがやっとなほどで。
 しばしの静寂のあと、アルテが改めて口を開く。
「とまぁ以上が一万五千年前、一度皇帝の血筋が途絶えた……かと思われたできごとだ」
『思われた? アセラ皇女は皇家を根絶やしにしたんじゃないのか?』
 意味深なアルテの発言に対し、デュラが念話でその発言の真意を問いただす。
「皇帝には、庶子がいたのさ。平民の女性に産ませた隠し子がさ」
『へぇ?』
「かの皇帝には兄弟がいなかった。なので皇家の血も途絶えたかと思われたんだが、かのできごとから半月後に、その庶子の存在が明らかになった……かろうじて残った皇帝の血を継ぐその子が、新たな皇帝として立位するに至ったってわけ」
 アルテは、水鏡に目を落としたまままだ震えているクラリスに目をやる。
「クラリス。ポラリス大陸を構成する七ヶ国の王室、そして君の先祖にあたるのがこの庶子である初代カリスト皇帝になる」
「……私の、先祖?」
「あぁ」
『ちょっと待てよ、アルテ姉。じゃあなにか? アセラ皇女は……自らが呪った血筋の子孫として、クラリスとして再びこの世に生を受けたと?』
「そうなるな。難儀なことだ……」
 あっけらかんと話すアルテだが、クラリスの表情は重い。
「……これが私からの試練だ、クラリス。君はその血の意味を、哀しい過去を知らなければいけない。そして、権力の使い方を誤らない皇帝にならなければいけない。それが私の、そして私の前世であるアルテミスの……君の前世であるアセラ、全員の願いなんだ」
 そのとき初めて、アルテの瞳から涙がつたって落ちた。


 神界、ロードの住まう神殿をあとにして三人は再び天権の塔へ。アルテがお茶を淹れるも、クラリスは手を付けられずにいた。
 ソファに座って俯いたままで、デュラが心配そうに声をかけるもまったく反応しない。アルテが困ったように、口を開いた。
「クラリス、君はなにを考えている?」
「……」
「顔を、あげてくれないだろうか」
 今から二十年近く前、クラリスの母・ディオーレがこの塔にやってきたときも同じ歴史を見せた。自らの皇家の血が、世界を救った勇者を卑怯な手段で処刑して一度はその血筋が途絶えかけたという事実に、ディオーレが驚愕していたのを覚えている。
(だが、ディオーレのときとは状況がはるかに異なる)
 ディオーレは、ただ単に子孫であったというだけだ。それでも、自らの先祖がやらかした悪しき過去にこれでもかとばかりに頭を下げて謝られた。
 しかしクラリスの場合、当のアセラ皇女の転生体なのだ。いわば感覚としては、自身の家族による罪にも等しかった。
「まいったな」
 どうしていいかわからず、頭を掻くアルテ。そこでようやく、クラリスが重い口を開いた。
「ごめん……なさい……」
「え?」
 そして震える唇で、止まらない涙を拭おうともせずに一気にまくしたてる。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 私の前世の父がごめんなさい! そしてごめんなさい、私は……アセラだったときの記憶がないのです!」
「クラリス……君はクラリスだ。もう、アセラじゃない」
 アルテは小さく微笑みながら、そう言ってクラリスの頭に手をやる。
「憶えてないのは仕方がない。普通は前世のことなぞ、誰しも覚えていないものさ」
「でもっ!」
「ただ、知っていてほしかったんだ。いや違うな、心得ておいてほしかった」
「え?」
「クラリス、君には……もう一つの前世に等しい、封印された記憶がある」
 アルテがそれを告げた瞬間に、それまで黙って見守っていたデュラが血相を変えて立ち上がった。
「おいアルテ姉、ちょっと待て!」
 クラリスと、ここにいるアルテとデュラの二人。ここにはいないイチマルとソラ、ターニーにティアの賢者六人衆をあわせた七人が、かつて一つの魂だったこと。唯一神だったことを告げるのかと、デュラは警戒したのだ。
『その話は、クラリスにはまだ早すぎる‼』
 アルテにだけ届くように、デュラが念話を飛ばす。
『わかっている。すべてを話すわけじゃないから、静観しててくれないか』
 アルテとデュラはしばし見つめあい、やがてデュラのほうが諦めたように再び着座した。嘆息しつつも、アルテをジロリと一瞥してけん制する。
「クラリス、今はまだ話せないが……これから君を取り囲むであろうありとあらゆる事象に、負けない人間であってほしい。心折れない皇帝となってほしいんだ」
「アルテさん?」
「……いずれ、わかる。それを話すタイミングは、デュラ。お前にまかせていいか?」
「いいけどね」
 それを受けて、しぶしぶといった塩梅でデュラがそっぽを向いた。
「で、アルテ姉からの試練は合格なのか不合格なのか。どっちだ?」
「歴史を直視すること、逃げないこと。そして艱難辛苦に抗い、立ち向かうこと。それさえ約束してくれるなら、私から言うことはもうなにもないね」
 膝の上に置いた拳をギュッと握りしめて、乱暴にそでで自分の涙を拭うクラリス。それでもキッと顔を上げて、アルテを見つめる。
「約束、します‼」
「わかった。では最後に……その、お願いがあるのだが」
「? なんでしょう?」
 急に赤面して、ドギマギと不審な挙動に陥るアルテ。なにか言いだしたいのだけど言いにくい、そんな雰囲気で。
「アルテさん、なんでもおっしゃってください!」
 すがるように、クラリスが言葉を紡ぐ。過去、いや前世の自分の家族がしでかしたことを考えれば、是非もないことだ。
 だがアルテは、チラチラとデュラを見やり口を開きかけては噤む。どうしたんだろうと訝し気になるデュラとクラリスだったが、デュラは小さく嘆息すると蝙蝠形態に姿を変える。
『私がいたら言いにくいことみたいなんでな、ちょっと席を外すわ』
 そう言うが早いが、パタパタと窓の外へ羽ばたいていく。そして塔に残された二人の間に、しばしの沈黙が流れた。
「クラリス、その……女同士で気持ち悪いと思うかもしれないが」
「はい?」
「君がアセラではないことはわかっている。だが私は、アセラときっちり別れを告げたわけじゃなかった」
「はい」
 ロードの元で見た水鏡では、二人は寝所でいきなり引きはがされたのだ。それ以降、アルテミスはアセラ皇女に会うことは叶わなかったし、アセラ皇女が最後に見たのは首を吊られて絶命するアルテミスだった。
「自分で君はアセラじゃないと言っておきながら、勝手なお願いなのだが。最後に、最後に一つだけ私の願いを叶えてほしい」
「願い、とは? それに、最後って……」
(アルテさんじゃなくて、アルテミスさんとして?)
 その意味に思い当たり、クラリスは目を瞑って顔を上げる。
「ありがとう」
 そう小さく呟いて、アルテはクラリスの唇に自分の唇をあわせた。何分ほどそうしただろうか、アルテの唇が離れるときに小さく漏れたその言葉は。
「さようなら、アセラ」
 一万五千年経ってやっとアルテは、前世で愛したアセラに別れを告げることができたのだ。そして互いの唇を橋渡す唾液の糸をその長い指で絡め取ると、キッと顔を上げていつものアルテに戻る。
「クラリス、次に君が向かうはアリオト王国は玉衡の塔。そこにイチマルがいる」
「は、はい!」
 女性同士でキスをするという初めての体験で少し狼狽していたが、両頬を自分でパンと叩いてクラリスは気を引き締めた。
「イチマルから課せられる試練、それは恐らく……いや、私の口からは言うまい。だが、君の母親・ディオーレはその試練を克服できず、泣いて勘弁してもらったと聞く」
「皇帝陛下が……母が、ですか?」
 母なる皇帝であるディオーレのイメージとあまりにもかけ離れたその話に、クラリスは思わずキョトンとしてしまった。いったいどれほどつらい試練を、母は課せられたというのか。
 ちょうそのタイミングで、窓から蝙蝠形態のデュラが戻ってきた。黒い瘴気をシュワシュワと立てながら、もとの吸血鬼の姿に戻る。
「話は終わったか?」
「あぁ」
 出鼻をくじかれて、面白くなさそうにアルテが応えた。だがデュラはそれを気にするでもなく、クラリスの少し赤く染まった頬に気づいて。
「……ところでクラリス、なんで赤面してんだ?」
「ななななっ、なんでもないですっ‼」
「そう?」
 アルテとのキスを思い出して、さらに赤面してしまうクラリス。思わず両手で顔を隠してしまう。
「なにがあったんだか?」
 さっぱりわけがわからず、デュラは二人の顔を交互に見比べる。だがどちらもなにも弁明する気配がないので、それは嘆息して諦めた。
「じゃあ次はイチマルのところだな。アルテ姉、世話になった」
「あぁ、達者でな。クラリスも」
「あ、はい」
 やっと我に返ったクラリスの、まだ幼さが残るその顔を見ながらアルテは心持ち心配そうな表情を浮かべた。
(クラリス、君はイチマルの試練で『絶望』を知るだろう。だが君なら、それを打破することができると信じている)
 心の中で激励エールの言葉を贈り、アルテは無言で右手を差し出した。そしてクラリスも自らの右手を差し出し、固く握手を交わす。
 そして二人は、アルテに別れを告げて天権の塔をあとにする。次に目指すはアリオト王国、玉衡の塔へ――。
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