上 下
1 / 15

第一話・転生するのは俺のほうかよ!

しおりを挟む
 いつでも不幸というものは、突然やってくるのだ。
 幸福というやつは、比較的ゆっくりとやってくることが多いのに対して。
 その日も一人の女子高生が学校帰り、スマホに目を落としながら横断歩道を渡る。歩道の信号は、『赤』であるにもかかわらず。
 そしてその瞬間に鳴り響くトラックのけたたましいクラクション、タイヤの摩擦音。
「え?」
 その少女が気づいたときには、すでに視界はトラックのフロントしか見えない。運転席で四十すぎほどのポマードでその長髪をなであげたダンディな中年男性が、泡を食った表情で必死にハンドルを回しているのが見えて――。
『ドンッ‼』
 鈍い音がして、たちまちのうちに周囲の喧騒が大きくなる。その日、降って湧いたような不幸に襲われたのは……。
 そこは上も下も右も左も、前も後ろも漆黒の世界。その闇の中で、一つの魂が淡く白い光を発しながらあてもなくただよっていた。
 その形態は、いわゆる人魂ひとだまだ。
『そこな、哀れな魂よ……私の声が聴こえるか』
 どこからともなく響く、そのバリトンボイス。浮遊する魂は、戸惑ったように右往左往する。
『聴こえているか、哀れな魂よ』
 その言葉と同時に、白き魂の前に一人の男性の姿が顕現する。漆黒の長髪は床に届きそうなほど長く、その身にまとう衣服は和服にも似て少し違う。
「だ、誰だ」
『私はクロス。異界の冥府を守護する者……』
「異界の……冥府? じゃあ、じゃあ『俺』は死んだのか⁉」
『そうか、覚えておらぬか。そなたはトラックを運転中に、道路に飛び出した少女を避けて思いっきりハンドルを切った。間一髪のところで、その少女は助かったのだ』
(こういうとき、『主人公』は轢かれた側じゃねーのか?)
 その魂は、その場にそぐわない感想を思い浮かべる。だがその少女を轢かないですんたことに、ひとまずは安堵して。
「で、俺はなにかにぶつかって死んだわけだな?」
『……』
「なんか言えよ!」
『思い出すがよい、そなたがハンドルを切ったことでトラックは反対車線に飛び出した。そして……幼児七人を乗せた幼稚園のマイクロバスと正面衝突したのだ』
「……なんだって?」
『運転手と引率の先生あわせて合計九人、衝突の衝撃でバスは横転して炎上した』
「う、嘘だ‼」
『否定したくば、この先は話さぬが?』
「う……」
 なにかある、自分の失われた記憶の中に……その魂はしばし逡巡すると、
「つ、続けてくれ」
 と必死に声を絞り出した。
『その死因は衝突によるものと焼死、九人のいずれもがその場で亡くなり……お前は脳震盪を起こしただけで奇跡的に助かったのだ』
「は?」
 自分のしでかした代償の、そのあまりにも不釣り合いな差に男の魂は震える。
「ま、待て待ってくれ……俺は死んでない、のか?」
『まだ思い出さぬか。病院のベッドで目を覚ましたお前のもとに駆けつけたのは、幼児の保護者たち。口々に泣き腫らした目でお前に罵声をあびせる彼らに対して、貴様は泣きながら土下座をして侘びた」
「……」
 男の中で、そのビジョンがうっすらながら浮かび上がる。確かに記憶の中に、『それ』が存在していた。
『不憫な男よな。貴様にはなんの落ち度もないというのに』
「いや、あるだろ……」
 大人二人と未来ある子どもたち七人が乗るバスに自分の運転するトラックが反対車線から飛び出して正面衝突、突如としてその輝かしい未来を奪われたのだ。そして男は、『続き』をいま鮮明に思い出した。
「そうだ、それで俺は……発作的に侘びを叫びながら病院の窓からっ‼」
『そう、飛び降りたのだ。九階だったからな、即死だった』
「……クッ‼」
『それを無責任と咎めはすまい、むしろお前はその罪科つみとがを己が命で償おうとしたのだからな』
「いや違う、逃げたんだよ俺は……」
 男の霊魂がもらしたその発言に対し、クロスからの返答はない。
『そこでだ、お前にやり直しの機会をいまいちど与えようと思う』
「やり直し? 生き返らせでもしてくれんのかよ」
 そんなの無理だろうと、男の霊魂は割り切っている。だがクロスと名乗った異界の神は、優しく微笑んでこう言った。
『お前がハンドルを切る直前まで時間を戻してやってもよいが?』
「マジでか」
『あぁ、ただし……その後にどういう選択をするかはお前の裁量次第だがな』
「どういう意味だ?」
『しれたことよ。ハンドルを切らなければ、愚かにも赤信号で渡りだした少女がお前のトラックに撥ねられて死ぬだろう』
「……いや、ちょっと待て」
『選ぶがよい。九人の命と一人の命、どちらを助けるのか』
「待ってくれ、待ってくれよ! どこのトロッコ問題だ、そりゃよ⁉」
 トロッコ問題――線路の分岐器を操作できる位置にある男の話だ。そのまま列車が進めば、先の線路上で作業中の五人が轢かれてしまう。
 そこで分岐器を操作すれば、列車を他路線に追いやることができるのだが……その先の路線でもまた一人が作業中であった。つまり分岐器を操作すれば五人の命を助けることができるのと引き換えに、本来なら死ななかった一人が死ぬという『選択のジレンマ』として有名な心理学の話である。
 一人を犠牲にして五人を助ける功利主義か、誰かを犠牲にしてまで選択するべきではないという義務論か。この答えは、なにが正しいのか未だ今日こんにちまでに結論はでていない。
「ほかになんかねーのか⁉」
『ないわけじゃないがな。それはあまり現実的ではない』
「あるのかよ! 教えてくれ‼」
『簡単だ。ハンドルを逆方向に切ればいい』
「逆?」
『そうだ、右に切れば幼稚園のバスと正面衝突する。直進すれば少女を撥ね飛ばす。だが左に切れば、そこにある信号機の鉄柱に衝突してお前だけが死ぬ』
「‼」
『死ぬかどうかわからないと思うなよ? 我は冥府の神ぞ、『そうした』場合の予見なぞ簡単にできるのだ。だから現実的ではないと言った』
「そりゃどういう……」
『これはその少女の過失だろう? なんでお前だけが死ななければいけない』
 男としては理解できなかったが、これが第三者の思考としては正しいのだろう。だがその選択肢は、自分は誰の命も奪わずにすむ……男にとって、これ以上の選択肢はなかった。
「そ、そりゃありがてぇ! そうするぜ‼ えっと、クロスとか言ったか? すぐに俺を戻してくれ!」
『面妖な……死ぬべきは少女であろう?』
 クロスは、信じられないとばかりに呆れた表情を見せた。
「そ、そりゃそうかもしれないけどよ……その少女には明るい未来があるだろ」
『その明るい未来とやらは、お前にもあるが? 先ほどお前が言ったトロッコ問題とやらではないが、どうして年配の者の未来が年少の者の未来より軽いのだ?』
「ふ、そういう考え方もありか。俺みたいなおっさんの未来も子どもの未来と同等だと」
『私には、お前の考えのほうが理解できぬ』
 クロスの表情には、心底そう思っているであろう戸惑いが浮かんだ。
『よかろう、ただし無条件でことわりを覆すわけにはいかぬ』
「わーってるよ、タダより高いもんなしってな。で、俺はなにをお前に捧げればいい? 命か?」
『そんなポマード臭い命はいらん』
「ひでぇや」
『気分を害したか? では言い換えよう、そのタマキン臭い命は不要だ』
「もっとひどくなった!」
『お前には、私が管理する世界に転生してもらいたい』
(やっぱそういう流れなのな。姪っ子に貸してもらったラノベにあった、異世界転生てやつだ)
「いいぜ。で、その世界でなにをすればいい? 勇者にでもなって魔王を倒せばいいのか?」
『有り体に言えばそうだな。だがしなくてもいい、期待はしていない』
「てめぇどういう言い草だ、ゴルァ‼」
『かの魔「皇」に、人間ごときがかなうはずもないからだ。だが私も『天界のアレ』も万策つき果てた……もう髪の毛にでもすがる思いなのだ』
「藁より細いじゃねーか‼ てか、『天界のアレ』ってなんだ?」
『そうだな、お前の世界の言葉で言うならば「女神様」ということになるだろう。比して私は、「閻魔大王」というところか』
「なるほどな。俺が勇者的なことをやって、そのマオウとやらをなんとかしてくれればラッキーてか」
『ふ、同音異義語とはやっかいなものだな。お前の習得した言語にあわせて発言しているが、「おう」の部分は皇族の「こう」の部分と同じ漢字だ』
「なるほど、魔『皇』ね。それが?」
『数多もの魔王……こちらは「王様」の「おう」な。それらを束ねるのが魔皇ということだ』
「……皇帝と王の違いみたいなもんか?」
『そうなる。ちなみにだが、貴様が転生する先は我々が管理する地上の世界。そこでお前はただの人間だ』
「そりゃ人間だろうよ……ちょっと待て、『ただの人間』?」
『そう。だからお前にはなんの期待もしないと言っている』
「いやいや、なんかこうあるだろ? 剣技とか魔法とか、そういうチートがさ?」
『ふん、人間とは愚かよな。汗水流してスキルを獲得しようとは思わない……楽して太ったくせに、苦労して痩せることに文句を言うダイエッターのごとく』
「正論はやめろ!」
 男には、心当たりがあった。自身の生前は四十歳を越えてなお体脂肪率が一桁のストイックに鍛え上げられた肉体を誇ったが、ちょっと気を緩めただけで簡単に脂肪がつくのだ。
 そしてそれを落とすのは、並大抵の努力じゃ不可能だったのをいつもボヤいていたものだった。
「つまり、好き勝手暮らしていいわけだな? それでなんの結果も残せずに死んでも、元の世界に戻して……再選択の自由を手に入れることができる?」
『まぁ努力ぐらいはしてほしいものだが、期待はしていないから安心していい。期待はしていないぞ』
「二回言った!」
『まぁ私のほうでなにもしないというのも見ててつまらな……もうしわけないので、お前にはこのカードをやろう』
 その言葉と同時に、男の霊魂の前で宙に展開される七枚のカード。
「これは? ていうかてめぇ、見ててつまらないとかなんとか言いかけたか?」
『このカードには、それぞれの絵面に描かれた『式』の『入れ物』が入っている』
「無視かよ!」
『動物でも人間でもいい、お前にはそのカードに生けとし生ける者の魂を封じ込めることができる能力を与えよう。封じ込めた魂は、今後お前に忠実な『眷属』としていつでも呼び出して使えるようになる』
「どういう意味だ?」
『ざっくり言うと、人外の奴隷を作れるってことだな』
「ざっくりすぎるわ! つまりなんだ、たとえばこのカード……」
 男の霊魂は、一つのカードにスススッと近づく。そのカードに描かれているのは、上半身が人間ながら両手が鳥の羽、下半身は完全に鳥の女性だった。
 なぜ女性とわかったかというと、顔も美麗ながら上半身が裸であるために胸の乳房が露出しているからだ。
 いわゆる『ハルピュイア』と呼ばれる、ギリシャ神話における伝説の生物……またの名を『ハーピー』ともいい、ファンタジーの世界では定番の存在モンスターでもある。
「このカードに、なんかの魂を入れればハルピュイアが俺の眷属になるってことか?」
『おおむね正解だ。ただし、動物の魂をこめたらその知能は動物並みだ』
「……」
『少なくとも、人間の魂を入れねば使い物にならないだろうよ』
「いや、待ってくれ……それってどこかの誰か、罪なき人の精神的な死を意味しないか?」
 それどころか、物理的な死も意味するのだがそれには吉田は気づかない。
『そうだが?』
「そうだが、じゃねーよ! 非道すぎるだろ、そんなん‼」
『そこは罪人でも死刑囚でもよいではないか、むしろ魂の有効的な再利用だろう』
「俺にはお前の考えがわからねぇ……」
『奇遇だな、私にも貴様の考えがわからん』
 ただの人間である吉田と、魂を『地獄』と呼ばれる監獄で『洗浄』するのを生業とするクロスだ。わかりあえるはずがなかった。
「さっきから黙って聞いてりゃ、お前だの貴様だの……俺にも名前があるわっ‼」
『怒鳴りっぱなしのくせに、どこが黙って聴いていたというのだ?』
「うぐっ……」
『まぁいいだろう。そろそろ時間だ……最後に、お前の名前を訊いておこうか』
「吉田だ! 下の名前は」
 だがそれを言い終わらないうちに、男の意識は薄れていく。
(ちょっと待て、俺の名前は……)
 そして完全に、吉田はブラックアウトしていった。


 そこは、穏やかな湖のほとり。草木が揺れ、小鳥がさえずる楽園のような風景が広がっている。
 その湖畔に横たわっているのは、全裸の中年男性。身長は一八〇センチ半ばと大きく、その肉体はボディビルダーほどではないものの筋骨隆々としていた。
 長いストレートの黒髪が肩まで伸びていて、パチッと開けたその瞳も漆黒で。
「ここは……どこだ?」
 フルチンで立ち上がった吉田が、周囲を見渡す。風光明媚な自然がどこまでも広がっており、見渡す限りの景色の中にはとてもじゃないが人が住まう場所なぞ見当たらなかった。
「転生て、赤ちゃんからやり直すんじゃねーのかよ。知らんけど」
 そして吉田は、自身が全裸であることに気づく。
「おい、クロス! 服はどうした‼」
 思わず天を仰いで叫ぶが、返事はない。
(そういや、冥府の王?とか言ってたな)
 今度は下を向いて、
『おいクロス、聴こえるか! なんで俺は全裸なんだよ⁉』
 だが湖上に吉田の怒鳴り声が静かにわたって小さく反響するだけで、クロスからの返事は返ってこなかった。
「まいったな……サバイバルなんて経験ねーぞ」
 しかたないので、あてもなく歩きだそうとして気づく。
(そういやカードもらったんだっけ。あれはどこにあるんだ?)
 周囲をキョロキョロと見渡すが、どこにもそれらしきものはない。それどころか、お尻に違和感を覚える吉田である。
「まさか……」
 おそるおそる両手をお尻の割れ目にやると、そこにカードが七枚はさまっていた。
「なんじゃそりゃあああっ‼」
 お尻の割れ目に七枚のカードをはさんだ全裸の中年男性。現代ならば完全に通報され、『事案』としてその情報は近隣に広く流布されたであろう。
「ほかに方法なかったのかよ……」
 ぶつくさ言いながら、とりあえずは改めて一歩を踏み出す。しばし歩くと、道とはいえないながらもやっぱり道かな?というレベルの林道を見つけることができた。
 といっても、そこだけ土がむき出しだったというだけの獣道に近い。
「いま誰かに出会ったら、確実に俺は変態にしか見えないだろう……な?」
 余計なフラグを立てたせいだろうか、吉田の数メートル先に十歳には満たないであろう少女が籐製のかごを持って立ち尽くしていた。かごには、摘んだ薬草らしき束が入っていて。
 白銀の白金プラチナブロンドの髪が肩につくほどの長さで、その瞳はアイスブルーとアイスグリーンのオッドアイが愛らしい顔立ちだ。
「あ、こっ、こんにちは?」
 特に意味はないが、手に持った七枚のカードを掲げて少女に声をかける吉田。
 だが想像してみてほしい。少女の目線では、筋骨隆々で高身長かつ全裸のフルチン男性がカードを片手に挨拶してきたのである。
 しかも近隣では見かけないというか、少女の経験上では見た記憶がない特徴の異国人男性……。
「へ……」
「へ?」
「変態だーっ‼」
 そう叫ぶやいなや少女はかごを放り出して踵を返し、涙目で一目散にその場をあとにする。
「ま、待ってくれ‼」
 吉田はカードを片手に、少女を追いかけた。だが自身は裸足なのもあり、石ころなどが邪魔をして上手く走れない。
 対して少女は、とても子どもとは思えない速さで駆け去っていく。
「違うんだ、待ってくれ‼」
「なにが違うというんですか、この変態っ!」
 気の毒だが、少女のほうが正論である。数分追いかけっこが続いただろうか、やがて林道を抜けてあちこちに農家らしきものが散見する田園の景色が広がった
 そして少女の悲鳴を聞いて、農夫たちがクワやスキを片手に駆け寄ってくる。
「どうした、ノエルちゃん⁉」
「なんだなんだ、どうした?」
「お、おい? 裸の男⁉」
「変態っ、変態が私を追いかけてくるんです‼」
 追いかけてくるというか、最初に逃げたのは少女のほうだ。だが吉田が遅れて追いかけたのも事実で。
 農夫たちの視点で、くどいようだが高身長で筋骨隆々な全裸の異国人男性がカードを片手に少女を追いかけているのである。当然ながら、この後に彼らがくだした判断は決して責められるべきではないだろう。
 気づけば吉田は、尻を床につけた状態で馬小屋の柱に縛りつけられていた。相当の暴行を受けたのだろう、顔がパンパンに腫れ上がっていて視界も怪しい。
(ここは……?)
 馬糞の臭いが立ち込める中で、相変わらずの全裸である自分。そして柱に縛りつけられていて、お尻に感じる違和感。
「まさか⁉」
 足は開放されていたものの胴体と一緒に両手も後ろ手で縛られているので、確認することはできない。なのでお尻を少しスライドしたりなんかして……その割れ目に感じるのは、はさまったカードの感触。
「おいクロス、いい加減にしろ!」
 だがもちろん、クロスからの返事はない。そしてその声を聞きつけて、一人の農夫がやってきた。
「みんな、変態が目を覚ましたぞ!」
「変態ちゃうわ!」
 だが全裸でお尻にカードをはさんでいるのだ、どこから見ても変態です。本当にありがとうございました。
 わらわらと、農夫たちが農具を片手に集まってきた。その最後尾にノエルと呼ばれた少女が、涙目でガクガク震えながら農夫の後ろに隠れるようにしてこちらを涙目で見ている。
「おい貴様、どういう了見だ。名前を言え、どこに住んでいる⁉」
 精悍な若者が、クワの先端を縛られている吉田の鼻先に突きつけて叫ぶ。
「待ってくれ、誤解なんだ! 俺は住所不定で名は吉田。たまたま全裸で歩いているところに、その女の子に出会っただけなんだよ‼」
 住所不定なうえに、たまたま全裸で歩いていた中年の男。うーん……。
「十分、怪しいだろうが‼」
 ごもっともである。
「で、ヨシダとかいったか。お前の目的はなんだ! ノエルちゃんを誘拐して奴隷商人に売り飛ばすつもりだったのか?」
「待て、待ってくれ。いくらなんでも冤罪すぎる! 俺は本当に、全裸で歩いていただけなんだ‼」
 いくらパニックに陥っているとはいえ、吉田の弁解は農夫たちの疑念をさらに深いものにしていった。
「全裸で歩く理由はなんだよ!」
「気づいたら全裸だったんだっ‼」
「は?」
「いやだから本当に……気づいたら全裸で、湖のほとりで倒れてたんだよぅ」
 すっかりメンタルをやられてしまった吉田は、シクシクと泣き出してしまった。
 いい年した中年男性が、尻にカードをはさんだまま全裸で柱に縛られて泣いているのである。農夫たちは互いに顔を見合わせて、その対処に困惑した。
 そこへ、少女――ノエルがおそるおそる歩み寄って。
「えっと、おじさん? どこから来たの?」
「日本という国だ」
「ニホン?」
 ノエルが振り返り、その表情だけで農夫たちに問う。だが農夫たちは、誰もが初めて耳にするその単語に首をかしげた。
「ニホンていう村から来たの?」
「村じゃなくて、国なんだ……」
 なおも吉田、少女の前でもシクシクと泣きながら説明した。最初は毛虫を見るような目で見ていたノエルが、吉田を憐れむようなそれに変化する。
「えっと……ニホン村にいたのに、なぜか全裸で湖のほとりで倒れていたの?」
(いや、だから国だって)
 だが吉田には、それを訂正する気力もない。無言でうなずくだけが関の山だった。
「ねぇ、みんな。このヨシダって人は攫われてきたのかもしれない。そして湖のほとりに捨てられちゃったんだわ」
 なんで攫ってきたのに捨てるのか。子どもゆえだろうか、あまりにも不可解なその解釈ではあったが農夫たちは妙に納得し始めた。
 やがて口々に、気の毒だとか可哀想だとかの言葉を農夫たちがかわし始める。
「し、信じてくれるのか?」
 鼻水と涙をたらしながら、情けない顔で吉田はすがるような表情を見せた。ノエルは吉田を安心させるように微笑むと、
「私はヨシダを信じるわ。変態だと思って逃げてごめんなさい」
 そう言って頭を下げる。そのノエルの視線の先に、吉田の股間ヨシダが至近距離だ。
(神父様のよりおっきい……)
 ノエルはゴクリと生唾を呑み込んだ。自慢じゃないが、吉田のアレは平均男性のそれより太くて長い。
 一方で年端もいかない少女に頭を下げさせたとあって、吉田も冷静さを取り戻した。
「いや、ノエルといったか。謝らないでくれ……もとはと言えば、全裸で追いかけた俺が悪い」
 農夫たちが、もっともだとばかりに無言でうなずく。だがとりあえずは信を得た吉田、縄を外してもらって。
 その日は、自身が縛られていた馬小屋の農夫宅で一宿一飯の恩義にあずかることにした。
「ニホンて村は聞いたことないな。遠くなのか?」
 まだ三十代半ばほどの若い男性の主人が、飯を頬張る吉田に問う。先ほど吉田に、クワの先を突きつけて尋問してきた若者だった。
「わからないんだ。それよりここは、なんていう国……村なんだ?」
 そう言って、吉田は空になった器を置いた。すかさずその器を、農夫の細君らしき美麗な顔立ちの女性が手に取っておかわりを注ぐ。
「ここはミザール王国の首都・ゼータの郊外にある名もなき村です。ご存知ですか?」
 二十代後半だろうか、その細君がそう問いながら手渡す器を受け取りながら吉田は無言でペコリとお礼の会釈。その様子を見て、夫婦が少しびっくりして顔を見合わせた。
「知らない名前だ。私はどこか遠くから拉致されてきたのかもしれない」
 嘘ではない。ここはかの少女、ノエルが勘違いした設定に乗っかろうと決めた吉田である。
 だが吉田の先ほどの対応に目を見張った農夫の男性が、
「私たちも、ニホンという村を知らない。だが、ちゃんとした教育を受けた方とお見受けする」
 そう言って、黙って右手を差し出した。少しだけ困惑した吉田ではあったが、
「たいしたことではない。私を信じてくれて、しかも服と美味しい料理まで馳走になった礼を尽くしたまでだ」
 そう言って農夫の男の手を握り返した。そしてなぜか、細君のほうがニヤニヤと笑いながら――。
「あなた、聞きまして? こちらのヨシダは『美味しい料理をご馳走になった』とおっしゃいました」
「あ、あぁ。それが?」
「もうっ‼ あなたってば私の料理を、ちっとも褒めたことがないですね⁉」
「い、いや? あるだろ、そんなの」
「えぇ、新婚のときでしたならば?」
「あぅ……」
 やりこめられる主人を見て、吉田がプッと吹き出した。
「奥さん、そう責めてやりますまいな。毎日こんなおいしい料理が出てくる生活に慣れてしまって、舌が肥えてしまったのでしょう」
「まぁ、口がお上手ですこと」
 吉田としては特に他意はない発言であったが、細君は気をよくして染まった頬を両手で覆う。
「ただ、ご主人も。『ありがとう』は口にしなければ伝わりませんよ」
「う……ごもっともだな、ヨシダ。耳が痛いよ」
 気まずそうに照れて頭を掻く、その主人。そしてふと気づいたように、
「そういえば名乗っていなかったな、失礼した。俺はナギってんだ、そしてこっちは俺の嫁さんで」
「ナミっていいます」
 そう言って夫婦ふたり、頭をペコリと下げる。
「私はご存知のとおり吉田だ。おたくら夫婦のご厚意には伏して感謝を申し上げる」
「いやいや、最初は変態だと思ってクワでぼこぼこにしてしまった……すまない」
「気にしないでくれ、あれはしょうがない」
 そう言いつつも、吉田のこめかみに血管が浮かぶ。だが誤解を招いた要因は自分にあるので、あくまでにこやかな表情は崩さないで。
「明日以降なんだが、どこか住み込みで働ける場所はないだろうか? とりあえず今晩はお世話になるだろうから、夕食代と宿泊費は働いてお返ししたい」
「いやいやいや、気にしないでくれヨシダ。そんなつもりで置いてるわけじゃない」
「いや、しかし⁉」
「それに明日以降も、いてくれて構わない。ただ貧乏農家ゆえ、そんな毎日ご馳走も出せないが……」
「それでは私はただの穀潰しではないか。なんでも言ってくれ、手伝えることは手伝う。前世では肉体労働に近かったから、体力仕事なら自信がある」
「ゼンセ?」
「あ、いや。そこは忘れてくれ」
 思わず口走ってしまったその単語に、慌てて吉田は言い繕った。そしてそれを誤魔化すかのように、
「そういや『あの子』は? ご夫妻のお子だろうか」
「あの子?」
「ノエルちゃんのことですよ、あなた。ね?」
 最後の『ね?』は吉田に対する確認だ。吉田は無言でうなずいてから、
「ノエルちゃんにもお詫びを申し上げたい。この家にいるのか?」
「あぁ、ノエルか。あの子は……孤児なんだ」
「孤児?」
「うむ。この村にある教会が孤児の面倒を見ていて、ノエルは森へ薬草を摘みにいっては街に売りに行っている。今日もその道程で、全裸の変態に追いかけられたんだ」
「ナギ、お前なぁっ‼」
 まるで旧知の仲であったかのように、吉田は気さくにナギの肩に手を回して引き寄せた。だがナギも笑いながら、
「悪い悪い!」
 そう言いながらも、破顔一笑だ。
「そうか、孤児か……」
 実は、吉田も孤児である。一番古い自分の記憶は、施設の建物の横で父母恋しさに泣きべそをかいていて。
「孤児たちの力にもなってやりたいな……」
 思わずそう言葉をもらした吉田に、夫婦がニヤッと笑って顔を見合わせた。
「だったら、うちはいいですから教会へお手伝いに行ってくださいな。もちろん、うちから通われて」
 そうナミが提案するのに、
「そうだ、それがいい。森へ薬草を摘みにいくのだって、魔獣モンスターが出てくる可能性はゼロじゃない。ヨシダがノエルに帯同して守ってくれれば俺たちも心強いよ!」
 とナギが後押しする。
「いや、待ってくれ。それではあなたたちご夫婦に恩を返せない」
 戸惑ってそう述べる吉田に、
「なんのなんの。『親切の鎖』だよ、ヨシダ」
「親切の鎖?」
「あぁ。実は俺もナミも、かつては教会で保護してもらった孤児なんだ」
「なんと……」
「だから俺たち夫婦にとって、教会は実家も同然。だから教会を、神父さまと保護されている子どもたちを手伝ってくれるのなら……それは間接的に俺たちに対する恩返しになるんだ」
「なるほどな。そういうことなら是非もない、全力を尽くすよ‼」
「ありがとう、ヨシダ!」
「本当にありがとうございます、ヨシダ」
 右も左もわからない異世界で、吉田の進むべき道は定まった。だが不幸とは、いつでも突然やってくるのだ――。
しおりを挟む

処理中です...