メビウスの乙女たち ~二人のダスラ~

仁川リア(休筆中)

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最終話『Age.16をもういちど』

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 お嬢様の十六歳の誕生日を無事越して、ラーセン邸は俄かに慌ただしくなってきた。春が来れば、お嬢様の……結婚式だ。
 過日、こんなことがあった。お嬢様の誕生日から遡ること一週間――。
「ダスラ、久しぶりね!」
「げろげろ……」
「相変わらずなんだから、もう」
 街へ屋敷の用事でお買い物に出た際、偶然(を装った)アグニと出くわす。とりあえずお茶でもと、内心すげーイヤだったけど我慢して喫茶店へ。
「ダスラも大変じゃない?」
「なによ、藪からスティックに」
「棒でしょ!」
 あなたがヴリトラ伯爵から密命を帯びてるのは知ってんだからね? でも警戒されないように、いつものように軽口を叩く。
「まぁ大変っちゃ大変。バースデーパーティーをやったかと思ったら、もう翌日からは輿入れの準備だからね」
 させないけどね。
「ナーサティヤ様もお忙しじゃない?」
「そうでもないよ」
「そうなの?」
 別の意味では忙しいけれど。もう孤児院支援事業の引継ぎも済んだし、王子妃教育は旦那様が王家に圧力をかけてラーセン邸に先生を招くという方針だったから、私は常にお嬢様の傍らにいられた。
 そして残り少ない独身の時間は友人たちと大事に過ごそうって決めて、お嬢様は毎日学院に通われてる。まぁ友人つーてもいつもの四人組ですけど。
 私が前世のときとは真逆の状況になってるのが、吉と出るか凶と出るか。私のときは最後までほとんど、学院に通えなかったんだよなぁ。
 そして私のときはそれが裏目に出た。せっかくダスラが私の部屋に仕込まれた毒瓶を発見して未然に防いでくれたのに、代わりに留守がちだった学園の机の中から発見されたのだ。
 だけど今世のお嬢様ナーシャは、平日はほとんど学院で過ごす。自宅のお嬢様の庶務室がガラ空きになるが、そこは私が毎日のように目を光らせているからナムチも動けないでいるようだ。
 だから、罠を張る。お嬢様の部屋への出入りが難しいとなったら、絶対ヴリトラ伯は動いてくると思ったから。
(そして案の定だ)
 もうなんていうか、アグニもナムチも大根役者。これで怪しまれてないとおもってるんだから恐れ入る。
「ナーシャ様は、もうほとんど学校に詰めてるよ。思い出作りね」
「あー、なるほどね。じゃあダスラは暇なの?」
 来た‼
「まぁそうね。ナーシャ様の部屋を掃除したらやることもないし、ここのところ休めてなかったしね。明日は有給をもらって日帰り旅行でも行こうかなって」
「いいわね!」
 そっちの都合がいいでしょう?
「ナーシャ様も帰りが夜遅くなるみたいで、明日ぐらいしか休暇とれなくて」
 ちょっと露骨かなと思ったけど、アグニは目をギラギラとさせてうなずいてる。処しやすいやつだ。
 そして翌日の昼日中、クローゼットの中に隠れていたら飛んで火にいるナムチ虫。特に訓練を受けてるわけでもなさそうで、簡単に取り押さえることができた。
 グルグルに簀巻きにして、地下牢へ。そして椅子に手足を縛り付け、口の拘束を解いてやる。
「ちょっ、なにするのよ‼」
 そういうお前こそ、なにしてたんだか。
「これ、なに?」
 ナムチが持ち込んだ、毒瓶。どう見ても毒としか思えないラベルを貼ってるのはなぜなんだい?
「し、知らないわよ」
「ナムチが持ってたのよ?」
「……」
 なんでこれで言い逃れができると思ったのか。
「まぁいいわ。これ、毒よね?」
「そ……そうなの?」
 いやいや? 訊いてるのは私。
(毒だと知らず……は、ないか。この露骨なラベルだもんね)
 ご丁寧にもドクロマークにDANGERなんて書かれてあって、これが毒じゃなかったら逆にびっくりだわ。
「で、誰の命令でこんなことをしたの?」
「な、なんのこと……」
 わかってる、簡単には言わないってことは。
「そう。じゃあ身体に訊くね?」
「どうするつもり⁉」
「まず、両手両足の爪をいただきます。尋問は二十個の爪すべてをいただいてから始めるので、爪を引きちぎってる最中に自白してもノーカンね?」
「ひっ‼」
 言っちゃなんだが、『暗部』の『授業』で拷問方法も学んでいるのだ。まぁこんなことするのは、ただの復讐だけど。
「いやいやいやっ! やめてっ、やめて言うからぁーっ‼」
「痛い痛い痛い! 言う、言うってば⁉」
 私が黙々と爪を剥いでいる途中、二本目から簡単に落ちた。泣き叫びながら中断を乞うナムチだけど、最初に私……言ったよね?
「早いってば、あと十二本残ってる。尋問は『全部』やってからだから」
「ごめんなさいごめんなさい、勘弁して本当に勘弁して‼」
「ちょっと黙ってて?」
 そして黙々と、四肢を拘束されたナムチの両手両足の生爪を工具ペンチを使って剥いでいく。そして私の傍らには、ペンを片手のトトトッちゃんが無言でその様子を『記録』していった。
 途中でナムチが気を失ったから水をぶっかけて、生爪剥ぎを再開。再び始まった地獄絵図で泣き叫びすぎて、ナムチの声はもう枯れている。
「では尋問、始めますね?」
「うえぇ……?」
 もう意識は朦朧、目は虚ろ。私は太ももに巻いたレッグホルダーから小型ナイフを取り出すと、それを思いっきりナムチのふとももにぶっ刺した。
「ひぎぃっ‼」
「この毒瓶をナーシャ様のお部屋に潜り込ませろって、誰に頼まれたの?」
「伯爵! 伯爵です、ヴリトラ伯爵‼ 言ったからもうやめて、助けて⁉」
 私は無言で振り向いて、トトトッちゃんにアイコンタクト。彼女(?)も無言でうなずいて、親指を立ててサムアップのポーズだ。
 証言は得られたとはいえ、ナムチは大事な証人。それ以降、うちの地下牢で『手厚く』葬っ……じゃなくてもてなしてる。
 裁判で証言するよう日々の洗脳教育で、すっかりナムチは廃人寸前の骨抜きになっていた。
 前の時間軸でのナムチは、毒を仕込むのは成功したけど口封じに消された。ちょっと内容が違うが、ほぼ同じ状況だ。
 ただいきなり連絡が途絶えたナムチにヴリトラ伯爵がどう判断したか心配だったけど、そこは案の定というかまたしてもアグニが探りを入れてきたので。
「ナムチ? あぁ、なんだか知らないけど屋敷を逃げだしちゃったのよ。着の身着のままでね」
「……そう」
「ってなんでアグニ、ナムチを知ってるの?」
「あっ! いやその、ちょっとした知り合いなのね」
「ふーん? まぁいいや。なんか『私を切り捨てようったってそうはいかない』ってヘンなこと言ってたのよね。なんのことだかわかる?」
「え?」
「いや、私が言われたわけじゃなくてね? 屋敷から消える前にそうつぶやいていたらしいの」
「へ、へぇ……」
 頬がピクピクしてますよ、アグニさん。必死に無関心を装おうとしてますね?
 餌は撒いた。これで、ナムチは口封じが怖くて逃げだしたとヴリトラ伯爵に伝えてくれるとありがたいのだけど。
 まぁ案の定というか、嬉々としてヴリトラ伯邸に入っていったとトトトッちゃんから報告を受けたときは声を出して笑ったよ。だけどアグニは、二度とその屋敷を生きて出ることはなかったんだ。
(前時間軸でナムチが口封じに殺されたのが、今世ではアグニにスライドされてる?)
 知らんけど。
 そしてお嬢様のバースデーパーティーを無事終えて、先日のこと。学院で起きた、スーリヤ嬢殺害未遂事件。
 どこぞの誰かがお嬢様が突き落としたと騒いだらしいけど、お嬢様には学院にいながら鉄壁のアリバイがあった。
(一挙手一投足をディヤウス侯爵家の『暗部』が監視、記録しているからね)
 それは秘密裏に陛下に手渡され、逆にお嬢様が突き落としたと証言した奴らが拘束されるはめに。
 次なる事件イベントは、アシュヴィン殿下殺害未遂事件だ。と言っても毒見役の方が死んじゃうのだけどね?
(気の毒だけど、助けるわけにはいかないの。ごめんね)
 殿下を廃嫡に追い込むには、どうしてもその手を血で染めてもらう必要があったのだ。というのも、
「えっ⁉ 殿下と伯爵がグル?」
「はい。ここのところ、密談の機会が増えています」
 ラーセンの園庭で、死角になっている植樹の下で私と彼女――トトトッちゃん。その日の定期連絡はまさに青天の霹靂、驚天動地だった。
 この二人は利害の一致を見たのだろう。ラーセン公爵家の没落と、スーリヤ嬢との婚姻。
「スーリヤ嬢と婚約するために、ナーシャ様に冤罪を着せて……あれ?」
「ダスラさん? どうしましたか?」
 なんか、大事なことを忘れてる気がする。待て待て、落ち着こう整理しよう。
「いやトトトッちゃん。もしね、毒殺未遂の冤罪をナーシャ様にかぶせることができたとしてもよ? 伯爵令嬢を婚約者にできるもんだろうか?」
「確かに……ちょっと無理ゲーですよね」
 無理ゲーてなんだ。
「もし殿下がそう希望されたとしても、陛下が反対されると思うんです」
「うん、トトトッちゃんの言うとお……り?」
(思い、出した!)
 確か前世の時間軸で陛下は、殿下の婚約破棄騒動で心痛のあまり倒れられて。そして王太子である第一王子は今、隣国に外遊中だ。
 それでアシュヴィン殿下が王の名代となって、私の処刑ほかを速やかに執行していった……。
「おかしい」
「ダスラさん?」
「あのタイミングでそうなるのって、よく考えたらヘンなの!」
「えっと、なんのことで……」
 トトトッちゃん、戸惑ってるな。ごめんね?
「お願い、トトトッちゃん。陛下が危ないかもしれない!」
「陛下が?」
「そう。ことをアシュヴィン殿下に都合よく進めるためには、陛下が邪魔になるの」
 通じるかな? まさか未来の話を信じてくれとは言えないので。
「なるほど……急ぎ立ち返り、ディヤウス侯爵様に進言いたします」
「あ、ちょっと待って」
「はい?」
 もし陛下が死なない程度に、たとえば致死にはいたらない毒を盛られていたとして。というか殿下や伯爵が盛ったとして。
(殿下サイドがやったという証拠が必要だ……)
 なのでもし毒が発見できても服用しないのはもちろんだけど、服用したふりをしてもらうのはどうだろう。殿下は上手くいったと思い込み、行動に出る可能性が高い。
「なるほど」
「まぁ私らみたいな下っ端一兵卒のアイデアなんて、採用されるかどうかは未知数だけどね」
「ですね。でも一応、併せて進言してみます」
「お願いね!」
 彼女とそんな会話をして数日後、事件てやつはいつも突然にやってくるんだ。
『アシュヴィン殿下殺害未遂!』
 新聞に、そんな見出しが躍る。
『毒見役が死亡、王宮は厳戒態勢に』
『犯人は誰だ? 連日の捜査続く』
 なんて、王宮周辺が俄かに殺気立つ。そして案の定、お嬢様が怪しいとか言いだしたバカがいたようで。
 殿下の署名が入った捜査令状を持って、衛兵たちがドカドカとラーセンの家に足を踏み入れる。お嬢様の居室を荒らし、鍵がかかった引き出しは壊してまで。
 だけどね、なんの証拠も出てこなかったんだ。旦那様は公爵としての面子をつぶされてぶちギレですよ。
「始まったのね」
「はい、お覚悟を」
 王家に怒鳴り込みかねない剣幕の旦那様を遠目に見ながら、私とお嬢様。衛兵たちが帰ったあとに、荒れたお嬢様の部屋を見るのは忍びなかったがこれもトトトッちゃんに『記録』してもらう。
「トトトッちゃん、陛下の様子はどう?」
「お元気に過ごされてますよ。ただ仮病なので、外出できなくて退屈してると聞きましたけど」
 連日報道される新聞には併せて、
『殿下に続き陛下も!』
『王家簒奪を目論む一派か』
 なんて不穏な見出しが書き立てられる。
 先日、陛下の食事に遅効性の毒が盛られているのが露見した。だがあらかじめ伝えてあったのもあり、飲んだフリして仮病を演じてもらっているのだ。
 バカ王子はあっさりとそれにひっかかって、なんの証拠もないのにラーセン邸に強硬立ち入り捜査に踏み切った。陛下が元気だったら、絶対反対してただろうね。
(まぁ元気なんだけどね)
 そしていよいよ、決戦……ううん、断罪の火ぶたが切って落とされる。被告はアシュヴィン殿下とヴリトラ伯爵にスーリヤ嬢、あなたたちだ。
 こちらの手持ちは、ディヤウス侯爵家の暗部が書き溜めたお嬢様の二年間。殿下はもちろん、スーリヤ嬢も害していない。
(強いて言えば、お付きのメイドがさんざっぱら鞭打たれただけだ)
 それはお嬢様が潔白ということの何よりもの証になる。
 そしてナムチの身柄。ヴリトラ伯爵の命令で、お嬢様の居室に今回殿下殺害未遂に使われた毒瓶を仕込もうとしたと白状した。
 ぶっちゃけ、ディヤウス侯爵家の『暗部』トトトッちゃんがもう記録したから死んでてくれて構わなかったのだけどね? 用は済んだし。
 とりあえずこれで、ヴリトラ伯爵は爵位剥奪どころか首に縄がかかるだろう。当然、その娘のスーリヤ嬢との再婚約なんて論外だ。
 いま私は、旦那様とお嬢様に帯同して王宮にやってきている。そして玉座の間……の外の通路で待機中。
 証拠もそろったので、旦那様はラーセン公爵として現在は陛下の名代である殿下に怒鳴り込むため登城したのだ。
 旦那様は毒で倒れたふりをしてくれている陛下とも密通済みで、知らぬはアシュヴィン殿下ばかりなり。私は中に入れないから漏れ聴こえてくる声でしか判断できないけど、ヴリトラ伯爵とスーリヤ嬢がなにやらわめいているのが聴こえる。
(終わるんだな……)
 私は壁にもたれかかり、ある種の達成感に満たされていた。
 ほどなくして扉が開き、両手を後ろ手で拘束されたヴリトラ伯爵とスーリヤ嬢そしてナムチを衛兵が引き立てていった。
 目が合ったけど、あちらからしたら私はただの平民メイドなので特に意に介されず。ナムチだけは、私の顔を見て『ヒッ!』とか言って震えあがってたけどね。
 二人が連行されて再び扉が閉まるまでの間、中から殿下の怒鳴り声が聴こえてきた。
「私は知らん、知らんのだ! ヴリトラ伯爵が勝手にやったことっ‼」
 バタンと扉が閉まって、漏れ聞こえる声も小さい。壁に耳を当ててみたら、
「そもそもラーセン公爵、口がすぎるぞ! いま現在、この国の王は私だ」
 いや、陛下の名代かもしれんが王子だろうが。だけどすかさず、
「思い上がるな、アシュヴィン!」
 って怒鳴り声が壁越しなのに私の耳をつんざいた。
「ち、父上⁉ どうして!」
 満を持して陛下が登場したようだ。殿下は、いま陛下が病の床に臥せってると思い込んでるからね。
「すごくびっくりしただろうなぁ」
 ぜひとも見たかった! そしてアシュヴィン殿下は、一つ致命的なしくじりを犯したんだ。
 ラーセン公爵邸に陛下の名代として強硬立ち入り捜査をしたこと? ヴリトラ伯爵とつるんでラーセン公爵家の没落を企んだこと?
 どちらも違う。強硬立ち入り捜査は、陛下の眉をひそめラーセン公爵を激怒させはしたがそれだけだ。ヴリトラ伯爵とのつながりは、残念ながら証拠をつかむことができなんだ。
 だけどまさか、陛下を行動不能にするために毒を盛ったのが露見するとは思わなかったのだろう。そっち方面でつついたら簡単に下手人が割れた。
 もし陛下を毒殺していれば、第一王子が王位を継ぐ。すぐにでも隣国から帰ってきただろう。
 だから第二王子である殿下としては陛下を生かさず殺さずとして第一王子の帰還を遅らせ、陛下名代という現時点での最高位に立つ必要があった。
 お嬢様に冤罪を着せて婚約破棄、ラーセン公爵家から爵位剥奪。ヴリトラ伯爵を侯爵にでも叙爵して、スーリヤ嬢との婚約締結……これを陛下の名代であるうちにやってしまおうというのが、アシュヴィン殿下の青写真だ。
 だが青いのは、殿下のケツだった。陛下に毒を盛るのに成功したら報酬を与えるという殿下直筆の手紙を下手人が持っていたから、それはもう陛下の怒髪冠を衝いたらしい。
 ディヤウス侯爵が止めなかったら殿下を罰してくれただろうけど、ヴリトラ伯爵にはうまいこと逃げられてしまうだろう。なによりお嬢様の潔白は晴れなかったかもしれない。
 だからこそ、このタイミングである必要があった。
 ――まだ、殿下への断罪は続いているようだ。
(歴代のダスラは、この瞬間を見届けたかっただろうな)
 そして、私のダスラも。ほどなくして、扉が開く。
「離せ、離すんだ! 私はこの国の王子だぞ⁉」
 アシュヴィン殿下だった。こいつもまた後ろ手に縛られ、衛兵たちに連行されていく。その後ろ姿を見送る私の心情は、不思議なくらい穏やかに凪いでいる。
(陛下暗殺未遂なんて、処刑は免れないだろうな)
 殿下は陛下を暗殺するつもりじゃなかっただろうが、毒を盛っておいてその言い訳は通じないだろう。たとえ目的が病の床に臥せさせるためであっても。
「公爵、ナーサティヤ嬢……本当にすまなかった」
「陛下、お顔をお上げください!」
 閉まっていく扉のすきまから、陛下と旦那様の声が聴こえる。スカートの両すそを持ってカーテシー最中のお嬢様が見えて。
 そのときにチラとこちらを見たので、私と目が合ってしまった。
(ダスラ、やったよ!)
 そう言いたげに、ニッと笑う。私も思わず、無言でガッツポーズだ。
 ――そして、扉が閉まる。
(あ、やっぱりそうなるのか)
 なんだか違和感を感じて、自分の両手をジッと見つめる。気のせい、いや気のせいじゃないんだろう。
「透けてる……」
 手のひらが透けて、その下にある見えないはずの私のつま先が見える。そしてそのつま先からさらに下、見えないはずの床の赤いカーペット地が見えるのだ。
 はっきり言って予想はしてたけど、当たってほしくない予想だったな。
(私は、消える……)
 そもそもダスラという人間は、ナーサティヤ・ラーセンが十六歳で処刑されて転生した魂だ。だからお嬢様が処刑されなかったら、ダスラという人間は産まれでてくるきっかけを失う。
 わかっていた、わかっていたことではあったけど。
(歴代のダスラは、私のダスラは……ナーシャが素敵な人と幸せな結婚をして愛する家族に囲まれて、それをお世話したかっただろうな。せめて見届けたかったに違いない)
 だけどそれはダスラが見ちゃいけない夢だった、絶対に見ることのできない夢だったんだ。この哀しいメビウスの環を断ち切ることは、ナーシャの幸せと同時にダスラの消滅を意味するのだから。
 メビウスの環は断ち切れた。この永遠に続くと思われた終わらない輪廻の環から、ナーシャが離陸テイクオフしていく――私を、置いてけぼりにして。
「はは……なんだよ、そりゃ」
 愚痴の一つもそりゃあ出てきますよ。私だって、完璧な人間じゃない。
 いま私の目にあふれている涙は、未練の涙か悦びの涙か。いやいや私、未練がましいのはやめよう。
(メビウスの環を断ち切れた悦びに、打ち震えて笑お?)
 泣くな泣くな。笑え、笑えよダスラ。愛する人を守れた矜持を胸に、至高の笑みをたたえてみせろ。
 だけどもし、もしも神様がいるのなら願わくば――いや、やめとこう。ないものねだりは、さ。
「きっついなぁ……」
 私の涙は確かに目尻からこぼれ落ちて、あごから滴り落ちていった。でもその涙は、床で砕け散る前に透けて消えて――。
 私がいなくなったら、ナーシャは悲しむだろうか。というより、この時間軸の『歴史』に私の生きた証は残るの?
(忘れ去られてしまうのかもしれない)
 この世界に生きた、私と出会った人たちから。ナーシャの、胸の中から。
 顔も名前も忘れられて、想い出にも変わらなかったらどうしよう。
(でもこれで、いいのかもしれない)
 ダスラは死なず、ただ消え去るのみ。ナーシャを哀しませることなく、笑って消えていくのだ。
 でも私、本当に忘れられちゃう?
(ハハ、きっつ……)
 これが私が生きたこの世界に最期に遺す、せめてもの愚痴――。(終)
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