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第六話『Age.15』
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「ナーサティヤ、小切手と印章だ」
「ありがとうございます、お父様」
「ナーシャ様、お持ちします」
「お願いね。ダスラ」
白紙の小切手帳と公爵家の印章なんて貴重品を、お嬢様が公爵様から預かる。そしてそれを、今度は私がお嬢様から預かる。
さすがにモノがモノなので、ちょっとした緊張感だ。なぜならば、もし私がこれを悪用すれば公爵家の財が引き出し放題なんである。
そしてそれを預けてくれるということは、紛うことなき『信頼』の証。そしてそれを見て、旦那様がちょっと寂し気な表情をなさる。
(ま、仕方ないでしょ)
これからお嬢様は、公爵領の孤児院めぐりをなさる。去年から、領内孤児院への支援金の支給は視察を兼ねてお嬢様が手ずからお渡しすることになったのだ。
その目的はズバリ、一年前に初めてお忍びで視察した孤児院にあった。子どもたちは不衛生で劣悪な環境で、十人が住むのにギリギリな間取りに四十人近くが押し込められていた。
またどの子も栄養が失調気味で、立ち上がれないでいる子さえいる始末。食事も満足に与えられず、外で遊ぶ気力も体力もなくて。
じゃあ公爵家から支援金が足りなかったのかというと、そうではない。孤児院の周囲の人たちから聞き集めた評判に不信感を持ち、あの日お嬢様は公爵家令嬢としての身分を明かして孤児院に乗り込んだのだけど。
「このお金は、どこにどう使われたの?」
帳簿を片手に、お嬢様がキッと年配女性の院長を見つめる。いや、睨む。
「見てのとおり、子どもたちが四十人もいます。毎日の食費だけでも精一杯で」
なんて言い訳をする院長の胸ぐらをお嬢様がつかみ、院長の胸元にある『ソレ』に一瞥をくれながら言ったのは。
「院長、このブローチは市井の人間でもなかなか買えない高級品だわ。それに」
パッとつかんでいた院長の胸ぐらを離したかと思うと、院長の後頭部に飾られているバレッタを髪の一部ごと引きちぎる。ぶちぶちぶちっと、イヤな音がした。
「ひいぃっ、痛いっ‼」
だが院長には興味を示さず、お嬢様はバレッタをマジマジと見つめると。
「あぁ、これ。ケバケバしいだけで趣味が悪かったから私が買わなかったやつだわ」
お嬢様は、昔の私がそうだったように宝石が大好きなんである。もちろん公爵令嬢なので、わざわざ宝石店に足を運んだりはしない。
(定期的に屋敷に宝石商を呼びつけていたのよね……)
領民が収めた税金でどうこうはさておき、そういったわけでお嬢様には宝石の審美眼が鍛えられていた。贋作を見分けることなぞ、朝飯前と言ってもいいぐらいで。
「でも無駄に高そうですね? 中央の石はゴミですが、その周囲の小さいのが……」
チラと横から覗き込み、私は口をはさむ。
いま目の前にいるお嬢様は、かつての私なのだ。つまり私も、宝石の目利きには自信があった。
「さすがね、ダスラ。本当にそのとおりで、大きなイミテーションの周囲を眇眇たる本物で飾って誤魔化してる」
「イミテーションの石が本物だとして、四百万といったところでしょうか?」
「市井で買うならそうね? でもあの宝石商、八百万を掲示してきたわ。当然買わなかったんだけど、買うバカもいたのね?」
バカにしたように、蔑みの視線を院長に注ぐお嬢様。
「それでも本物の石の値段だけでも二百万はするわ。そのお金はどこから出したの?」
そう吐き捨てて、ペイッとバレッタを放り投げる。それが院長の額に当たって落ちた。
その後に改めて調査してもらった結果、出るわ出るわ横領と孤児を虐待していた証拠のオンパレードが。院長は衛兵に拘束されて、裁きを受けて今はどこの刑務所にいるやら。
そしてお嬢様は改めて『支援金は、直々に私が視察したあとで手渡ししたほうがいいかも』と思いたち、それをなんと……家庭内別居していると言っても過言ではない旦那様、つまりお父様にご相談なさったのだ。
良く言えば見放してた、悪く言っても見放してた娘から突然事業の話を切り出されて、旦那様は最初惑ってらした。
当然だろう、私だってびっくりしたぐらいだ。だけど院長の逮捕やらなんやらと事態は進み、本来なら領主として旦那様が責められるべき事案をお嬢様がお救いなさった。
これに恩義を感じたのかどうか知らないが、ラーセン公爵として全面援助を約束してくれたのだ。まだ奥様とはぎこちないながらも、先日お嬢様が十五歳になった日には簡素ながらバースデーパーティーを開いてくれた。
つーか公爵令嬢ですよ? ドドーンと派手なパーティにしろよとは個人的に思ったけど。
「それでは行ってまいりますわ」
「あぁ、気をつけて行っておいでナーサティヤ。ダスラ、頼んだよ」
「かしこまりました、お任せください」
娘が率先して慈善事業を、公爵令嬢として行ってくれる。それに感心しつつも旦那様はどこか寂し気で……そして多分だけど、私はその理由を知っている。
「ナーシャ様、旦那様から『ナーシャ』と呼ば」
「ダスラ、しつこい!」
馬車の中、私の言葉を喰い気味に遮るお嬢様は瞬間的に不機嫌になる。
お嬢様と旦那様の仲が修復に向かう過程で、旦那様からお嬢様に『ナーシャと呼んでいいか』と打診があった。だがお嬢様は、
「私のことをナーシャって呼んでいいのは、この家ではダスラだけだから」
と頑として首を縦に振らなかった。ちょっと嬉しかったな、でもさ?
「でも親子なんですし、ナーシャさ」
なだめるように口を再度開くのだけど、その私の口……じゃなくて。なんと私の喉を片手でガシッとつかみ、
「もう黙りなさい! 私のことをナーシャって呼んでいいのはダスラだけなの‼」
「ぐえぇっ……わ、わがりまじだ!」
つかんだけだけじゃなくてですね、全力で握ってくるんですよ私の喉を。つぶれてしまいますがな!
(普通、口を押えるよね?)
とは思ったけど、あとが怖いので口には出さないでおいた。まぁそういうわけで、旦那様としてはお嬢様と私になにか含みというかモヤッってるようなんだよね。
特に、私に対してそれは顕著だ。
白紙の小切手帳と印章をお嬢様が手ずから預けることができ、愛称呼びが許された唯一無二の存在だってのに嫉妬してるご様子。旦那様の自業自得なので知るか!とは思うものの。
そしてそんな旦那様とは対照的に、お嬢様としては父ではなく領主として頼っただけみたいなところがあって。その温度差でね、私は風邪をひいてしまいそうです。
いつかこの穏やかに流れる時間が、親子間に真の雪解けを誘ってくれるのかな。そうだといいな。
喉を破壊されかけた私がゲホゲホ言ってたのが落ち着くと、お嬢様が口を開いた。
「でもこうして公爵家の馬車で公爵令嬢としての視察……去年、ダスラが言ってた懸念もそろそろ考えないといけないかな?」
「……全力で阻止しますよ」
「ダスラ!」
そう、去年。私がお嬢様に進言したのは、
『援助資金や物資が、ちゃんと孤児院のために使われているかどうか。ちゃんと「調べていますよ」という監視の目があれば、邪な考えを持っていてもそう簡単には犯罪に足を踏み入れないでしょう?』
それを受けて、最初はお互い町娘に化けてお忍びで視察した。結果として、院長が横領しているという不正を暴くことができたのだ。
だけど今は公爵令嬢として、ちゃんと先触れを出して公爵家の馬車で向かっている。お嬢様が危惧したのは、要は『お嬢様が視察に来るときだけごまかしてるかもしれない』という懸念だろう。
それはわかる、わかるの。でも一年前とは事情が違うのだ。
「それについては何度もお話していますよ? 院長の横領を阻止したこと、公爵家の名声を高めたことが原因かどうかはわからないですが、今のナーシャ様は気楽に街を歩ける身ではないのです」
「わかってるわよっ!」
機嫌悪いなぁ。でもしょうがないでしょう?
「これまで、何度危ない目にあったか忘れましたか?」
出る杭は打たれるというが、公爵領もしくはお嬢様の名声が高まることで困るバカがいるらしい。バカはバカらしく便所で頓死してろよとは思うが、よりによってお嬢様の身に危害をくわえようとするやつらも出てきたのだ。
(って思ったら、さっそくか……)
私も素人の手習いながら、公爵家の『影の御用』で働く裏の部署の方たちに弟子入りして、暇さえあれば『お嬢様を守る術』を授けてもらっている。今ならば、ちょっとした殺気ぐらいは簡単に気取ることができるのだ。
自慢じゃないが、その公爵家私設の『暗殺部隊』に本気で勧誘されるぐらいには修練を積んだ。そして多分だけど、前のダスラも。
(でなけりゃ、女性の細腕で筋骨隆々な看守を殺めるなんて無理だよね)
なんでそれをずっと不思議に思わなかったんだろうなぁ、私。
「ナーシャ様、ちょっとウンコしてきていいですか?」
「……いいけど、その隠語変えない?」
とっても嫌そうな顔で返してくるお嬢様に私はそれには応えず、御者に馬車を止めてもらう。御者にはこの『隠語の意味』は伝えてないから、私が便をもよおしたと本気で思ってるんだろうな。
「ではナーシャ様、ちょっとウンコしてきます!」
「言わなくていいから‼」
お嬢様のその叫びは、もうはるか後方に聴こえる。私はすでに馬車後方へ向かって暗殺部隊直伝の『足音がしない走り方』で飛び出していた。
そして風でスカートがひるがえった瞬間に、右ふとももに装着したレッグホルダーから投げナイフをまとめて三本取り出して、まず一本を建物横に置かれた箱の死角となっている部分へ。
もう一本を鬱蒼と茂る街路樹の枝葉の中に。返す刀で、杖をついて歩いてたお爺さんに向かってナイフを投げた。
一本目は手ごたえがあった。『グエッ!』とか聴こえたしね。
二本目は、眉間にナイフが突き刺さった刺客が木の上から落っこちてきた。もう絶命している。
だが三本目は、お爺さんに化けてた刺客が手に持った杖で私の投げナイフを叩き落とす。抜き身から刀身が見えたから、仕込み杖なのだろう。
分が悪いと判断したのか、老人に化けた刺客は脱兎のごとく駆け去っていく。
「逃したか……」
さすがに素人の手習いでは、本職の方には遠くおよばない。私は遅れて到着した数人の護衛兵たちに後始末をお願いすると、急いで馬車に戻る。そして乗り込みながら、
「ただいま帰りました」
と帰還報告。刺客どもは、例によって例のごとく雇い主の名前なんて知らないんだろうな。
(どうせまた、金で雇われた下っ端の食い詰めたチンピラなんだろうけど)
「お疲れ様、ダスラ。怪我はない?」
そして心配そうに訊ねるお嬢様に、私は安心させるように微笑んで。
「ウンコで怪我はしませんよ?」
私はお嬢様の渾身の蹴りで、馬車から転がり落ちた。
「あら、ダスラ?」
「アグニじゃない、久しぶり!」
プリンが食べたいといきなり言い出したワガママ怪獣のために、街へおつかいなうの私。列に並んでいたら、メイド仲間のアグニとバッタリ。
あ、お嬢様の名誉のためにフォローしとく。孤児院事業での(主に机上の)公務がここのところ忙しくて、デスクから離れられないでいるのだ。疲れてるときは、甘いものが欲しくなるよね。
ここのところお嬢様は寝不足で、情緒も不安定だ。それを、私を困らせることで鬱憤を晴らしている気がする。えぇ、ドンと来い!ですよ。
(私をサンドバッグにするのはいいんだけど、ちゃんと睡眠はとってほしいな……)
とりあえずお嬢様ご所望のプリンを買いに、こうして街までやってきたわけなんだけど。
メイド仲間といいつつ、アグニがお仕えするのは同じラーセン公爵家ではない。なおあらかじめ言っておくと、私はコイツが嫌いだ。
(でもアグニは、私を友人だと思ってるんだよね)
とある目的で、私はコイツと友達になった。なぜならば、アグニがお仕えするのはヴリトラ伯爵家であるからだ。
そしてヴリトラ伯爵がこよなく愛する一人娘こそが、ほかでもない『アイツ』なんである。
「ダスラ、今日はお休み?」
「ううん、おつかい。お嬢様にプリンを買ってくるように頼まれてね」
「へぇ? 歳相応なところもあるのね、『そっちのお嬢様』は」
アグニは、はっきり言って性格が悪い。友人のふりをしながら、影ではその悪口を言いふらす二枚舌の持ち主だ。
私とてこんなやつに友達と思われたくないが、目的が目的なのでしかたなく我慢している。
「どういう意味よ?」
お嬢様がなんかコケにされた気がして、思わず顔がムッとしてしまうな。でもそうじゃなかった、ターゲットは『あっちのお嬢様』だったみたいで。
「社交界でさ、ナーサティヤ様て評判いいのよ。公爵令嬢自らが孤児院の改革と視察に乗り出しててさ、陛下の覚えもめでたいと聞くわよ」
「へぇ? それは知らなかったな」
なんだか、嬉しいな。でも出る杭は打たれる、社交界てそんなところだ。
「対照的に、その婚約者でもあるアシュヴィン殿下の評判が悪いのよね。ナーサティヤ様をないがしろにして、『うちのお嬢様』と人目をはばからずにイチャイチャしてさ?」
「あー、らしいね」
その様子を直に見かけたことはない。正確に言うと『私』はない。
(前世では、イヤってほど見たけどね)
スーリヤ・ヴリトラ――アグニが奉公する伯爵家の令嬢で、殿下の浮気相手。んでもって私に階段から突き落とされたと嘘をつき、あることないこと殿下に吹き込んだ稀代の悪女だ。
確かに前世の私はスーリヤを階段から突き落としたことはあるんだけど、その件ではダスラに死ぬほど怒られて『そういうこと』はやめた。スーリヤが私に擦り付けた冤罪は、それとは別の事件である。
「スーリヤ様は、相変わらず?」
「えぇ、平民あがりのくせに威張ってばかり。旦那様が娼館で孕ませた不義の子がさ、なに偉そうにしてんのって感じ」
「そっち『も』大変ねぇ」
お互いそれぞれのお嬢様に対する鬱憤はたまっているので、私は心から同情する。
「殿下は、ヴリトラ伯邸に来たりする?」
「堂々とは来ないかな。お忍びつーか、王家の家紋を外した馬車で先触れなしに会いに来る感じね」
仮にも王子様なのだ。臣下のお屋敷にいきなり来ちゃうのか、あのアホ殿下は。
「先触れなしは困るわね」
「そう! そうなのよ‼ いくらお忍びだの、もてなしはいらないだの恰好をつけてもさ? 伯爵家としてはそうもいかないじゃない」
「だよね」
それはよーくわかる。
仕える主人の上司がいきなり職場に抜き打ちで来るようなものだ、通常の職務に加えておもてなしやらなんやら。正直言って、鬱陶しいことこのうえない。
「ねぇ、ちょっと話さない?」
私はプリンを購入する客の列から外れ、少し先にある喫茶店を親指で差し示す。
「私もおつかいだからなぁ、どうしようかなぁ?」
アグニは渋る素振りを見せつつ、私をチラッチラッと意味深に……はいはい、奢るわよ。奢ればいいんでしょ!
「なんか催促したみたいでごめんね」
いや、『みたい』じゃないですがな。スーリヤ嬢についての貴重な情報源だから、いやいや友達の芝居をしてあげてるわけで。
(そうじゃなかったら、一番つきあいたくない人種だな)
殿下もスーリヤ嬢も性格は悪いが、『実は』という部分がない。頭のてっぺんから足指の先まで黒いのだけど、アグニの場合はお腹は真っ白に見せかけて背中が真っ黒だからタチが悪いのだ。
喫茶店に入り、一番安いコーヒーを先んじて二つ注文。アグニがちょっと不満そうな表情を見せるが、お金を出すのは私なんですよねー。
「なんかおもしろい話ない?」
「伯爵家について?」
「うん」
お嬢様の理不尽な最期を阻止するためにも、できるだけの策は弄したい。もしヴリトラ伯爵に、爵位を返上せざるをえないほどの醜聞でもあればな。
「んー、うちのお嬢様が殿下と『いい仲』なのは旦那様も知ってるのよね」
そりゃ知ってるでしょうね、貴族たちの間では周知の事実だ。
「で普通ならさ? 殿下には婚約者様がいらっしゃるし、アシュヴィン殿下は第二王子とはいえ立派な王族。家格が違うから、もし婚約解消となってもうちのお嬢様が後釜には入れないわけよ」
「伯爵家なら、ギリあるかなぁとは思うんだけど?」
「ないない! そもそも領地経営はいい加減で、家計は火の車。伯爵家の領民からは評判も悪いから、ありえないと思うわ」
ふーん、いい情報を聞いた。しかしまーアグニ、自分が仕える家の情報をペラペラとよくしゃべるな?
(バカなんだろうな)
ま、そっちのがありがたいけどね。しかしヴリトラ領、そんなことになってんのか。
「爵位取り上げられたりとかあるかな?」
「どうだろうね。まぁ腐った伯爵だから、子爵や男爵に降爵はありえるんじゃない?」
いやそこは『腐っても』でしょうが。
かつてスーリヤ嬢が私にそうしたように、嘘八百並びたてて評判下げたろうかしら。うまくコトが運べば子爵か男爵に降爵して、ますます王家との縁談からは遠ざかる。
(個人的には、平民落ちか奴隷落ちしてほしいところだけどね)
こちとら家族の将来を人質に取られ、やってもない罪を認めて断頭台に登ったのだ。私を助けに来てくれたダスラをも、惨い方法で殺して……。
自分の処刑は、ある意味司法取引だったし諦めもあった。だけどあの日、ダスラが犬死にしたのは私の……。
「ちょっ、ダスラ大丈夫? どうしたの⁉」
「え?」
アグニがひどく慌てて、私の顔を覗き込んでくる。いや、なに慌ててんですかね。
「どうしたの? 体調悪いの?」
「なにが、って……あ」
私、自分でも気づかないで泣いてた。
「違う違う、コーヒーが熱くて舌を火傷しちゃって」
涙をそでで乱暴に拭いながらそう言い訳をしたら、ウエイトレスさんがやってきた。
「ご注文のコーヒーでございます」
そう言って、テーブルにコーヒーカップを置いて一礼して去っていくのだけど。
「……どのタイミングで熱いコーヒー飲んだのよ?」
「あはは」
ここはもう、笑ってごまかすしかない!
「まあ、いいや」
幸いにも、女の涙の理由は問わないでくれるようだ。
「さっきの続きだけど、そういうわけだから普通はさ? 親としても伯爵としても娘を諫めるのが普通じゃない?」
「まぁそうだね」
叶わぬ恋は苦しくてつらい。幸せな恋がしたいのは、身分の貴賤なく女の子たち共通の願いだと思う。
「でもなんだか、いや私が勝手に感じてることなんだけど」
「いいよ、話して」
「うん。旦那様ってばね、むしろお嬢様と殿下の恋路を後援したがってるところある」
なんですと⁉
「いやむしろ……そう謀略立ててそうなきらいがね」
「へぇ?」
私は必死に平静を装う。伯爵ごときが、娘を嫁入りさせて王家と縁を結びたがっている? しかも公爵令嬢という婚約者もいるのに?
「なんでそう思ったの?」
一応確認……下賤な噂話では、その情報元はいい加減である。ましてや性悪アグニのことだから、下手に誇張されている可能性もあるのだ。
「身分違いの恋てのもそうだけど、伯爵家としては王家に不敬を働いているという体面がなにより気になると思うのね」
「それはそうね。でも伯爵様って、娘を溺愛してると聞いてるけど?」
「まぁそうなんだけどね。でもだからって、『頑張って殿下の心をつかみなさい』なんて言うかな?」
傍目で見れば、娘の恋を応援する優しいお父さんだ。
だが決してとまでは言わないが、アグニいわく縁談成就は『まずありえない』レベル。いかに公爵令嬢と婚約破棄したとしても、公爵家はうちだけじゃない。
それに公爵家の下には侯爵家があって、次に辺境伯。辺境伯は伯爵位だが国境という軍事境界線を領地にしていて、侯爵同等とされているから殿下の妃となるのは身分的にここまでだろう。
(そうなると、いくら王子妃の生家になったからとて中央政権に面する領地を持つラーセン公爵家に睨まれたら……国が割れる)
仮にお嬢様と婚約破棄が成って、殿下はスーリヤと婚約したとしよう。王位継承権は第一王子に継ぐ二位だから、王子妃の父親をいつまでも伯爵位にとどめておくのは不自然だ。
(だから、侯爵位に陞爵する可能性が高い。でもそれでも、侯爵より公爵のが上だ)
そんな博打ちみたいなこと、やるかな?
(公爵様が第一王子派だから、第二王子陣営にとってお嬢様との婚姻はいわば人質を取るようなもの……)
だからバカ王子本人がどう思うかはともかくとして、お嬢様との婚約を破棄させて自分の娘を送り込むなんて、伯爵家としては破滅の未来しか待っていないのだ。
「なに考えてるんだろうなぁ。まさか謀反とか考えてないでしょうね」
内容が内容だけに、思わず小声になってしまうチキンな私。そしてその可能性が少しでもあるんだろうな、アグニもちょっと心配そうな表情だ。
「もし旦那様がヘマやってさ、こっちのメイド全員が解雇になっちゃったらそっちで面倒みてくれないかなぁ?」
「無理だと思うよ?」
人手は十分に足りているし、なにより公爵家は王家に準ずる立場だ。メイドの一人ひとりは大富豪の娘だったり、下位貴族の令嬢だったりするからね。
「庶民出身のメイドなんて、私ぐらいしかいないもん」
「そうなの⁉」
そんな私が分不相応にも公爵家の令嬢お付きのメイドなんてやれてるのは、はっきり言ってシンデレラストーリーともいえる奇跡なのだ。
「だからもしお嬢様のお付きを離れたら、メイドとは名ばかりの下働きになるでしょうね」
お嬢様の未来を変えるべく、その理不尽な最期を変えたいと思って頑張ってお嬢様のお気に入りになったのだ。殴られても蹴られても鞭打たれても、ただひたすらに耐え忍んで。
「それに言っちゃなんだけど、うちのお嬢様も結構なアレよ?」
「あ、そうだっけね。うちのとどっちがマシかなぁ?」
そりゃ『うちのお嬢様』に決まってるでしょうよ。……多分だけど。
――不意に、本当に不意に一つの可能性が突然脳裏をかすめた。
(前世でのスーリヤの自作自演による私の暴行容疑、そしてアシュヴィン殿下の毒殺未遂……使われた毒と同じものが、私の部屋から出た)
それは『誰がやった』のだろうか。
結果的に私は処刑され、公爵家は爵位を取り上げられて没落した。そしてスーリヤとヴリドラ伯爵は、殿下との婚姻における最大の懸念事項がなくなったのだ。
「考えすぎだろうか……」
「え?」
「あ、いやなんでも……ねぇ、もしさ?」
「うん?」
ちょっと深刻な表情を自分でしてたもんだから、カップに口を付けようとしたアグニの手が止まる。
「もし私が、『悪いこと』を頼んだら……アグニとしては報酬次第だったりする?」
「……」
あ、まずったかな? ヴリトラ伯爵が汚職にでも手を染めていたら、アグニを使ってその証拠を入手できるかなと考えたのだけど。
「まぁ、危険度次第なところはある」
壁に耳あり障子に目あり、キョロキョロと周囲を確認したのちに小声でアグニがそう応じてきた。
「そっか……ま、冗談なんだけどね?」
「なーんだ、冗談か! まぁダスラは貧乏だしね」
「お互い様でしょ!」
ごまかしきれたなんて思ってない、アグニの目は笑ってないから。つーか、私の目も笑ってないのだ。
これはつまり、この場では冗談を言い合っただけですよという芝居。いわば『いつか頼むかもしれないけど、そのときはよろしく』というね、そんなやつ。
そしてアグニは、ちゃんとそれを私から『受信』したようだ。腹黒いことは腹黒いやつが適任なんである。だから、
「……お金、貯めないとなぁ」
という私のひとりごと。そして、
「ま、貯金はいいことよね」
というアグニの返事は、文字どおりのそれではない。前世で理不尽な煮え湯を飲まされましたからね、腹黒さにかけてはアグニをどうこういえないかもしれないなと。
ただこいつは二枚舌の卑怯者だから、いつ裏切るかわからない。利用するだけ利用してポイ捨てるのが吉だろう。
ま、そんな日が来るかどうかは神の味噌汁もとい神のみぞ知るところだ。ほっといても没落してくれるかもしれないし、それは誰にもわからない。
結局この後は、どちらも他愛のない話をして場はお開きに。私がお金を払っている間に、アグニのアホはいなくなってやがんの。
「利己的なヤツだなぁ」
まぁそのアグニを、お嬢様を助けるための駒としてしか考えてない私も大概ですけどね。とりあえず一つの手段としてなので、確実にそれを実行するわけじゃないけど。
特に街でやることもないので、私は足早に帰路を急ぐ。まぁ走るのは馬車のお馬さんなんですが。
「ただいま戻りました」
邸内に入ると、偶然にもその場にいたお嬢様と鉢合わせした。
「ダスラ、おかえりなさい」
「……あ」
プリン買ってくるの忘れた。
いま私は、お嬢様の部屋で正座をしている。もう何時間経っただろうか、足裏の感覚がまったくしない。
「あのぅ、ナーシャ様?」
「なによ?」
庶務机で自らが手がけている孤児院事業を主とする公務中のお嬢様が、少しイラ立ちまぎれに私をジロリとにらむ。
「今からでも、プリンを買いに行きましょうか?」
「そんなこと言って、本当は正座から解放されたいだけでしょう?」
まぁそうなんですけどね。正確に言うと久々に渾身の鞭打ちを背中の生身にくらったから、手当てしたいってのもある。
言うまでもなく、正座も鞭打ちもプリンを買いにいって手ぶらで帰ってきた罰だ。さすがに自分でもそれはどうかと思うので、罰は甘受したのだけど。
「せめて、背中の手当てぐらいさせてもらえないかなぁと。すぐに戻ってまいりますので……ダメ?」
あ、しまった。最後の最後で敬語忘れた!
お嬢様もいきなり『ダメ?』なんておねだりされて、鳩が豆鉄砲を通り越して豆が鳩鉄砲をくらったようにキョトンとされてらっしゃる。怒られるかな?と思ったら、
「あははは! ダスラおもしろい!」
なんだか知らないがツボに入ったようで、お腹を両手で押さえて机に突っ伏して笑い死んでらっしゃいます。
「ひぃ……ひぃー‼」
笑いやんでは顔をあげ私になにかを言おうとするのだけど、その都度に再び笑いの波がやってきてまともに声が発せられないでいるお嬢様。そんなのが数回続いたのちに、やっと落ち着いてきたようで。
「薬は私が塗ってあげるわ」
「え?」
そう言ってお嬢様は、机の引き出しから軟膏を取り出す。軟膏の瓶に太いインキで、『ダスラ用』って書かれてるのはどういうことだテメー。
軟膏を常備しているのは知ってた。知ってたというか私があげた。
庶務仕事では紙で手を切ったりとかあるから、備えあれば憂いなしと思ってプレゼントしたんだけど、いつしかそれは鞭打った私の背中に対して使われるようになって。
「足は、今だけ崩していいわよ。そして背中をめくってちょうだいな」
「ありがとうございます」
さすがに遠慮はできない。足が洒落抜きでやばいことになってるし、背中の生傷が服に擦れて痛い。
お嬢様と二人きりなので、上はガバッと勢いよく脱いだ。ブラが落ちないように片手で押さえ、もう片方の手で後ろのホックを外す。
ついでにだけど、ちょっと崩しただけの正座からまだジンジンする足裏をポーンと放り出すように座り直す。はしたないと思うなかれ、男性の目が届かないところの女子なんてこんなものだ。
「ダスラの肌って、白くてきめ細かくて綺麗よね」
「ありがとうございます」
まぁ長年鞭打たれてますし、ほんの数時間前も打たれたばかりなので背中も赤いミミズ腫れだらけだろうから、それは言葉半分に聞いておこう。とか思ってたら、それを気取られたみたいで。
「あぁ、肩回りのことよ?」
「あ、そういうことですか」
確かに、肩回りは鞭打たれていない。夏場は肩の出る服を着ることもあるから、要は見えるところに傷はつけないというお嬢様なりのなにかだ(優しさとは言いたくない)。
「しかし、痛々しいわね」
お嬢様は背後にいるのでどんな表情でそれを言ってるのか知らないが、私は思わず……。
「お前が言うな」
とツッコんでしまう。自分で鞭打っといて、どういう言い草だゴルァ!
(あ、また鞭の上書きされちゃう?)
お前とか言っちゃったよ、もう覚悟だ覚悟……って思ったんだけど、お嬢様は特にそれは気になさらないご様子で。
「ふふっ、ごめんなさいね?」
いいですけどね。ちょっと間があって、ヒヤッとした感覚が背中を走る。
軟膏を手にとったお嬢様の指がやさしく、私の鞭打たれた患部をさすっていく。ちょっと滲みるけど、ここは我慢だ。
「私も筋トレしようかなぁ。ダスラの肌って本当に無駄な脂肪もなくて筋肉も浮いてて、正直理想なんだ」
なんですと? 理想?
(お嬢様はお世辞を言わない人だから、本心なんだろうな)
お世辞が通じないだけあってお世辞も言わない、なんて私を評したのはセレスだったかガネーシャだったか。
「いや、カーリーだったわ」
「カーリーがどうかしたの? っていうか、私たち二人しかいないからいいけど貴族令嬢を呼び捨てにするのはよくないわ」
「あ、もうしわけありません」
でもやっぱ私の、正確に言うと私の体型が理想って本心だろうかって。
「でもナーシャ様てば、私のことを『女として終わってる行き遅れのダスラ』って」
「そんなこと、言ったことないわよ? 誰と間違ってるのよ」
あ、そうか。これは私が前世でナーシャだったときにダスラに言ったんだった。
「うーん、筋トレですか」
それもいいかもなぁ? 前世で私が処刑された日まで、あと一年なのだ。
(もし私が同じ運命を辿って死んだとしても、お嬢様に護身術の嗜みがあったら……)
牢獄から無事逃げおおせて、遠くで幸せに暮らしてくれたら……ついついそんなことを考えてしまう。
「またお前が言うな案件になっちゃうけど、ほんとダスラの背中ってひどい有様よね」
「はは……」
もうツッコむ気もおきません。
女の子の腕力ですから、そりゃ皮膚を切り裂くほどの鞭は受けたことないけれど、それでも触ったら手のひらに古傷群のザラザラとした感触がするぐらいには私の背中の肌は修羅場ってる。
「このダスラの、白くて綺麗なカンバスを汚していいのは私だけ……うふふ」
「なにか言いました?」
「ううん?」
なんだかキモい言葉が聴こえてきたような気がしたんだけど、気のせいだろうか。
「ありがとうございます、お父様」
「ナーシャ様、お持ちします」
「お願いね。ダスラ」
白紙の小切手帳と公爵家の印章なんて貴重品を、お嬢様が公爵様から預かる。そしてそれを、今度は私がお嬢様から預かる。
さすがにモノがモノなので、ちょっとした緊張感だ。なぜならば、もし私がこれを悪用すれば公爵家の財が引き出し放題なんである。
そしてそれを預けてくれるということは、紛うことなき『信頼』の証。そしてそれを見て、旦那様がちょっと寂し気な表情をなさる。
(ま、仕方ないでしょ)
これからお嬢様は、公爵領の孤児院めぐりをなさる。去年から、領内孤児院への支援金の支給は視察を兼ねてお嬢様が手ずからお渡しすることになったのだ。
その目的はズバリ、一年前に初めてお忍びで視察した孤児院にあった。子どもたちは不衛生で劣悪な環境で、十人が住むのにギリギリな間取りに四十人近くが押し込められていた。
またどの子も栄養が失調気味で、立ち上がれないでいる子さえいる始末。食事も満足に与えられず、外で遊ぶ気力も体力もなくて。
じゃあ公爵家から支援金が足りなかったのかというと、そうではない。孤児院の周囲の人たちから聞き集めた評判に不信感を持ち、あの日お嬢様は公爵家令嬢としての身分を明かして孤児院に乗り込んだのだけど。
「このお金は、どこにどう使われたの?」
帳簿を片手に、お嬢様がキッと年配女性の院長を見つめる。いや、睨む。
「見てのとおり、子どもたちが四十人もいます。毎日の食費だけでも精一杯で」
なんて言い訳をする院長の胸ぐらをお嬢様がつかみ、院長の胸元にある『ソレ』に一瞥をくれながら言ったのは。
「院長、このブローチは市井の人間でもなかなか買えない高級品だわ。それに」
パッとつかんでいた院長の胸ぐらを離したかと思うと、院長の後頭部に飾られているバレッタを髪の一部ごと引きちぎる。ぶちぶちぶちっと、イヤな音がした。
「ひいぃっ、痛いっ‼」
だが院長には興味を示さず、お嬢様はバレッタをマジマジと見つめると。
「あぁ、これ。ケバケバしいだけで趣味が悪かったから私が買わなかったやつだわ」
お嬢様は、昔の私がそうだったように宝石が大好きなんである。もちろん公爵令嬢なので、わざわざ宝石店に足を運んだりはしない。
(定期的に屋敷に宝石商を呼びつけていたのよね……)
領民が収めた税金でどうこうはさておき、そういったわけでお嬢様には宝石の審美眼が鍛えられていた。贋作を見分けることなぞ、朝飯前と言ってもいいぐらいで。
「でも無駄に高そうですね? 中央の石はゴミですが、その周囲の小さいのが……」
チラと横から覗き込み、私は口をはさむ。
いま目の前にいるお嬢様は、かつての私なのだ。つまり私も、宝石の目利きには自信があった。
「さすがね、ダスラ。本当にそのとおりで、大きなイミテーションの周囲を眇眇たる本物で飾って誤魔化してる」
「イミテーションの石が本物だとして、四百万といったところでしょうか?」
「市井で買うならそうね? でもあの宝石商、八百万を掲示してきたわ。当然買わなかったんだけど、買うバカもいたのね?」
バカにしたように、蔑みの視線を院長に注ぐお嬢様。
「それでも本物の石の値段だけでも二百万はするわ。そのお金はどこから出したの?」
そう吐き捨てて、ペイッとバレッタを放り投げる。それが院長の額に当たって落ちた。
その後に改めて調査してもらった結果、出るわ出るわ横領と孤児を虐待していた証拠のオンパレードが。院長は衛兵に拘束されて、裁きを受けて今はどこの刑務所にいるやら。
そしてお嬢様は改めて『支援金は、直々に私が視察したあとで手渡ししたほうがいいかも』と思いたち、それをなんと……家庭内別居していると言っても過言ではない旦那様、つまりお父様にご相談なさったのだ。
良く言えば見放してた、悪く言っても見放してた娘から突然事業の話を切り出されて、旦那様は最初惑ってらした。
当然だろう、私だってびっくりしたぐらいだ。だけど院長の逮捕やらなんやらと事態は進み、本来なら領主として旦那様が責められるべき事案をお嬢様がお救いなさった。
これに恩義を感じたのかどうか知らないが、ラーセン公爵として全面援助を約束してくれたのだ。まだ奥様とはぎこちないながらも、先日お嬢様が十五歳になった日には簡素ながらバースデーパーティーを開いてくれた。
つーか公爵令嬢ですよ? ドドーンと派手なパーティにしろよとは個人的に思ったけど。
「それでは行ってまいりますわ」
「あぁ、気をつけて行っておいでナーサティヤ。ダスラ、頼んだよ」
「かしこまりました、お任せください」
娘が率先して慈善事業を、公爵令嬢として行ってくれる。それに感心しつつも旦那様はどこか寂し気で……そして多分だけど、私はその理由を知っている。
「ナーシャ様、旦那様から『ナーシャ』と呼ば」
「ダスラ、しつこい!」
馬車の中、私の言葉を喰い気味に遮るお嬢様は瞬間的に不機嫌になる。
お嬢様と旦那様の仲が修復に向かう過程で、旦那様からお嬢様に『ナーシャと呼んでいいか』と打診があった。だがお嬢様は、
「私のことをナーシャって呼んでいいのは、この家ではダスラだけだから」
と頑として首を縦に振らなかった。ちょっと嬉しかったな、でもさ?
「でも親子なんですし、ナーシャさ」
なだめるように口を再度開くのだけど、その私の口……じゃなくて。なんと私の喉を片手でガシッとつかみ、
「もう黙りなさい! 私のことをナーシャって呼んでいいのはダスラだけなの‼」
「ぐえぇっ……わ、わがりまじだ!」
つかんだけだけじゃなくてですね、全力で握ってくるんですよ私の喉を。つぶれてしまいますがな!
(普通、口を押えるよね?)
とは思ったけど、あとが怖いので口には出さないでおいた。まぁそういうわけで、旦那様としてはお嬢様と私になにか含みというかモヤッってるようなんだよね。
特に、私に対してそれは顕著だ。
白紙の小切手帳と印章をお嬢様が手ずから預けることができ、愛称呼びが許された唯一無二の存在だってのに嫉妬してるご様子。旦那様の自業自得なので知るか!とは思うものの。
そしてそんな旦那様とは対照的に、お嬢様としては父ではなく領主として頼っただけみたいなところがあって。その温度差でね、私は風邪をひいてしまいそうです。
いつかこの穏やかに流れる時間が、親子間に真の雪解けを誘ってくれるのかな。そうだといいな。
喉を破壊されかけた私がゲホゲホ言ってたのが落ち着くと、お嬢様が口を開いた。
「でもこうして公爵家の馬車で公爵令嬢としての視察……去年、ダスラが言ってた懸念もそろそろ考えないといけないかな?」
「……全力で阻止しますよ」
「ダスラ!」
そう、去年。私がお嬢様に進言したのは、
『援助資金や物資が、ちゃんと孤児院のために使われているかどうか。ちゃんと「調べていますよ」という監視の目があれば、邪な考えを持っていてもそう簡単には犯罪に足を踏み入れないでしょう?』
それを受けて、最初はお互い町娘に化けてお忍びで視察した。結果として、院長が横領しているという不正を暴くことができたのだ。
だけど今は公爵令嬢として、ちゃんと先触れを出して公爵家の馬車で向かっている。お嬢様が危惧したのは、要は『お嬢様が視察に来るときだけごまかしてるかもしれない』という懸念だろう。
それはわかる、わかるの。でも一年前とは事情が違うのだ。
「それについては何度もお話していますよ? 院長の横領を阻止したこと、公爵家の名声を高めたことが原因かどうかはわからないですが、今のナーシャ様は気楽に街を歩ける身ではないのです」
「わかってるわよっ!」
機嫌悪いなぁ。でもしょうがないでしょう?
「これまで、何度危ない目にあったか忘れましたか?」
出る杭は打たれるというが、公爵領もしくはお嬢様の名声が高まることで困るバカがいるらしい。バカはバカらしく便所で頓死してろよとは思うが、よりによってお嬢様の身に危害をくわえようとするやつらも出てきたのだ。
(って思ったら、さっそくか……)
私も素人の手習いながら、公爵家の『影の御用』で働く裏の部署の方たちに弟子入りして、暇さえあれば『お嬢様を守る術』を授けてもらっている。今ならば、ちょっとした殺気ぐらいは簡単に気取ることができるのだ。
自慢じゃないが、その公爵家私設の『暗殺部隊』に本気で勧誘されるぐらいには修練を積んだ。そして多分だけど、前のダスラも。
(でなけりゃ、女性の細腕で筋骨隆々な看守を殺めるなんて無理だよね)
なんでそれをずっと不思議に思わなかったんだろうなぁ、私。
「ナーシャ様、ちょっとウンコしてきていいですか?」
「……いいけど、その隠語変えない?」
とっても嫌そうな顔で返してくるお嬢様に私はそれには応えず、御者に馬車を止めてもらう。御者にはこの『隠語の意味』は伝えてないから、私が便をもよおしたと本気で思ってるんだろうな。
「ではナーシャ様、ちょっとウンコしてきます!」
「言わなくていいから‼」
お嬢様のその叫びは、もうはるか後方に聴こえる。私はすでに馬車後方へ向かって暗殺部隊直伝の『足音がしない走り方』で飛び出していた。
そして風でスカートがひるがえった瞬間に、右ふとももに装着したレッグホルダーから投げナイフをまとめて三本取り出して、まず一本を建物横に置かれた箱の死角となっている部分へ。
もう一本を鬱蒼と茂る街路樹の枝葉の中に。返す刀で、杖をついて歩いてたお爺さんに向かってナイフを投げた。
一本目は手ごたえがあった。『グエッ!』とか聴こえたしね。
二本目は、眉間にナイフが突き刺さった刺客が木の上から落っこちてきた。もう絶命している。
だが三本目は、お爺さんに化けてた刺客が手に持った杖で私の投げナイフを叩き落とす。抜き身から刀身が見えたから、仕込み杖なのだろう。
分が悪いと判断したのか、老人に化けた刺客は脱兎のごとく駆け去っていく。
「逃したか……」
さすがに素人の手習いでは、本職の方には遠くおよばない。私は遅れて到着した数人の護衛兵たちに後始末をお願いすると、急いで馬車に戻る。そして乗り込みながら、
「ただいま帰りました」
と帰還報告。刺客どもは、例によって例のごとく雇い主の名前なんて知らないんだろうな。
(どうせまた、金で雇われた下っ端の食い詰めたチンピラなんだろうけど)
「お疲れ様、ダスラ。怪我はない?」
そして心配そうに訊ねるお嬢様に、私は安心させるように微笑んで。
「ウンコで怪我はしませんよ?」
私はお嬢様の渾身の蹴りで、馬車から転がり落ちた。
「あら、ダスラ?」
「アグニじゃない、久しぶり!」
プリンが食べたいといきなり言い出したワガママ怪獣のために、街へおつかいなうの私。列に並んでいたら、メイド仲間のアグニとバッタリ。
あ、お嬢様の名誉のためにフォローしとく。孤児院事業での(主に机上の)公務がここのところ忙しくて、デスクから離れられないでいるのだ。疲れてるときは、甘いものが欲しくなるよね。
ここのところお嬢様は寝不足で、情緒も不安定だ。それを、私を困らせることで鬱憤を晴らしている気がする。えぇ、ドンと来い!ですよ。
(私をサンドバッグにするのはいいんだけど、ちゃんと睡眠はとってほしいな……)
とりあえずお嬢様ご所望のプリンを買いに、こうして街までやってきたわけなんだけど。
メイド仲間といいつつ、アグニがお仕えするのは同じラーセン公爵家ではない。なおあらかじめ言っておくと、私はコイツが嫌いだ。
(でもアグニは、私を友人だと思ってるんだよね)
とある目的で、私はコイツと友達になった。なぜならば、アグニがお仕えするのはヴリトラ伯爵家であるからだ。
そしてヴリトラ伯爵がこよなく愛する一人娘こそが、ほかでもない『アイツ』なんである。
「ダスラ、今日はお休み?」
「ううん、おつかい。お嬢様にプリンを買ってくるように頼まれてね」
「へぇ? 歳相応なところもあるのね、『そっちのお嬢様』は」
アグニは、はっきり言って性格が悪い。友人のふりをしながら、影ではその悪口を言いふらす二枚舌の持ち主だ。
私とてこんなやつに友達と思われたくないが、目的が目的なのでしかたなく我慢している。
「どういう意味よ?」
お嬢様がなんかコケにされた気がして、思わず顔がムッとしてしまうな。でもそうじゃなかった、ターゲットは『あっちのお嬢様』だったみたいで。
「社交界でさ、ナーサティヤ様て評判いいのよ。公爵令嬢自らが孤児院の改革と視察に乗り出しててさ、陛下の覚えもめでたいと聞くわよ」
「へぇ? それは知らなかったな」
なんだか、嬉しいな。でも出る杭は打たれる、社交界てそんなところだ。
「対照的に、その婚約者でもあるアシュヴィン殿下の評判が悪いのよね。ナーサティヤ様をないがしろにして、『うちのお嬢様』と人目をはばからずにイチャイチャしてさ?」
「あー、らしいね」
その様子を直に見かけたことはない。正確に言うと『私』はない。
(前世では、イヤってほど見たけどね)
スーリヤ・ヴリトラ――アグニが奉公する伯爵家の令嬢で、殿下の浮気相手。んでもって私に階段から突き落とされたと嘘をつき、あることないこと殿下に吹き込んだ稀代の悪女だ。
確かに前世の私はスーリヤを階段から突き落としたことはあるんだけど、その件ではダスラに死ぬほど怒られて『そういうこと』はやめた。スーリヤが私に擦り付けた冤罪は、それとは別の事件である。
「スーリヤ様は、相変わらず?」
「えぇ、平民あがりのくせに威張ってばかり。旦那様が娼館で孕ませた不義の子がさ、なに偉そうにしてんのって感じ」
「そっち『も』大変ねぇ」
お互いそれぞれのお嬢様に対する鬱憤はたまっているので、私は心から同情する。
「殿下は、ヴリトラ伯邸に来たりする?」
「堂々とは来ないかな。お忍びつーか、王家の家紋を外した馬車で先触れなしに会いに来る感じね」
仮にも王子様なのだ。臣下のお屋敷にいきなり来ちゃうのか、あのアホ殿下は。
「先触れなしは困るわね」
「そう! そうなのよ‼ いくらお忍びだの、もてなしはいらないだの恰好をつけてもさ? 伯爵家としてはそうもいかないじゃない」
「だよね」
それはよーくわかる。
仕える主人の上司がいきなり職場に抜き打ちで来るようなものだ、通常の職務に加えておもてなしやらなんやら。正直言って、鬱陶しいことこのうえない。
「ねぇ、ちょっと話さない?」
私はプリンを購入する客の列から外れ、少し先にある喫茶店を親指で差し示す。
「私もおつかいだからなぁ、どうしようかなぁ?」
アグニは渋る素振りを見せつつ、私をチラッチラッと意味深に……はいはい、奢るわよ。奢ればいいんでしょ!
「なんか催促したみたいでごめんね」
いや、『みたい』じゃないですがな。スーリヤ嬢についての貴重な情報源だから、いやいや友達の芝居をしてあげてるわけで。
(そうじゃなかったら、一番つきあいたくない人種だな)
殿下もスーリヤ嬢も性格は悪いが、『実は』という部分がない。頭のてっぺんから足指の先まで黒いのだけど、アグニの場合はお腹は真っ白に見せかけて背中が真っ黒だからタチが悪いのだ。
喫茶店に入り、一番安いコーヒーを先んじて二つ注文。アグニがちょっと不満そうな表情を見せるが、お金を出すのは私なんですよねー。
「なんかおもしろい話ない?」
「伯爵家について?」
「うん」
お嬢様の理不尽な最期を阻止するためにも、できるだけの策は弄したい。もしヴリトラ伯爵に、爵位を返上せざるをえないほどの醜聞でもあればな。
「んー、うちのお嬢様が殿下と『いい仲』なのは旦那様も知ってるのよね」
そりゃ知ってるでしょうね、貴族たちの間では周知の事実だ。
「で普通ならさ? 殿下には婚約者様がいらっしゃるし、アシュヴィン殿下は第二王子とはいえ立派な王族。家格が違うから、もし婚約解消となってもうちのお嬢様が後釜には入れないわけよ」
「伯爵家なら、ギリあるかなぁとは思うんだけど?」
「ないない! そもそも領地経営はいい加減で、家計は火の車。伯爵家の領民からは評判も悪いから、ありえないと思うわ」
ふーん、いい情報を聞いた。しかしまーアグニ、自分が仕える家の情報をペラペラとよくしゃべるな?
(バカなんだろうな)
ま、そっちのがありがたいけどね。しかしヴリトラ領、そんなことになってんのか。
「爵位取り上げられたりとかあるかな?」
「どうだろうね。まぁ腐った伯爵だから、子爵や男爵に降爵はありえるんじゃない?」
いやそこは『腐っても』でしょうが。
かつてスーリヤ嬢が私にそうしたように、嘘八百並びたてて評判下げたろうかしら。うまくコトが運べば子爵か男爵に降爵して、ますます王家との縁談からは遠ざかる。
(個人的には、平民落ちか奴隷落ちしてほしいところだけどね)
こちとら家族の将来を人質に取られ、やってもない罪を認めて断頭台に登ったのだ。私を助けに来てくれたダスラをも、惨い方法で殺して……。
自分の処刑は、ある意味司法取引だったし諦めもあった。だけどあの日、ダスラが犬死にしたのは私の……。
「ちょっ、ダスラ大丈夫? どうしたの⁉」
「え?」
アグニがひどく慌てて、私の顔を覗き込んでくる。いや、なに慌ててんですかね。
「どうしたの? 体調悪いの?」
「なにが、って……あ」
私、自分でも気づかないで泣いてた。
「違う違う、コーヒーが熱くて舌を火傷しちゃって」
涙をそでで乱暴に拭いながらそう言い訳をしたら、ウエイトレスさんがやってきた。
「ご注文のコーヒーでございます」
そう言って、テーブルにコーヒーカップを置いて一礼して去っていくのだけど。
「……どのタイミングで熱いコーヒー飲んだのよ?」
「あはは」
ここはもう、笑ってごまかすしかない!
「まあ、いいや」
幸いにも、女の涙の理由は問わないでくれるようだ。
「さっきの続きだけど、そういうわけだから普通はさ? 親としても伯爵としても娘を諫めるのが普通じゃない?」
「まぁそうだね」
叶わぬ恋は苦しくてつらい。幸せな恋がしたいのは、身分の貴賤なく女の子たち共通の願いだと思う。
「でもなんだか、いや私が勝手に感じてることなんだけど」
「いいよ、話して」
「うん。旦那様ってばね、むしろお嬢様と殿下の恋路を後援したがってるところある」
なんですと⁉
「いやむしろ……そう謀略立ててそうなきらいがね」
「へぇ?」
私は必死に平静を装う。伯爵ごときが、娘を嫁入りさせて王家と縁を結びたがっている? しかも公爵令嬢という婚約者もいるのに?
「なんでそう思ったの?」
一応確認……下賤な噂話では、その情報元はいい加減である。ましてや性悪アグニのことだから、下手に誇張されている可能性もあるのだ。
「身分違いの恋てのもそうだけど、伯爵家としては王家に不敬を働いているという体面がなにより気になると思うのね」
「それはそうね。でも伯爵様って、娘を溺愛してると聞いてるけど?」
「まぁそうなんだけどね。でもだからって、『頑張って殿下の心をつかみなさい』なんて言うかな?」
傍目で見れば、娘の恋を応援する優しいお父さんだ。
だが決してとまでは言わないが、アグニいわく縁談成就は『まずありえない』レベル。いかに公爵令嬢と婚約破棄したとしても、公爵家はうちだけじゃない。
それに公爵家の下には侯爵家があって、次に辺境伯。辺境伯は伯爵位だが国境という軍事境界線を領地にしていて、侯爵同等とされているから殿下の妃となるのは身分的にここまでだろう。
(そうなると、いくら王子妃の生家になったからとて中央政権に面する領地を持つラーセン公爵家に睨まれたら……国が割れる)
仮にお嬢様と婚約破棄が成って、殿下はスーリヤと婚約したとしよう。王位継承権は第一王子に継ぐ二位だから、王子妃の父親をいつまでも伯爵位にとどめておくのは不自然だ。
(だから、侯爵位に陞爵する可能性が高い。でもそれでも、侯爵より公爵のが上だ)
そんな博打ちみたいなこと、やるかな?
(公爵様が第一王子派だから、第二王子陣営にとってお嬢様との婚姻はいわば人質を取るようなもの……)
だからバカ王子本人がどう思うかはともかくとして、お嬢様との婚約を破棄させて自分の娘を送り込むなんて、伯爵家としては破滅の未来しか待っていないのだ。
「なに考えてるんだろうなぁ。まさか謀反とか考えてないでしょうね」
内容が内容だけに、思わず小声になってしまうチキンな私。そしてその可能性が少しでもあるんだろうな、アグニもちょっと心配そうな表情だ。
「もし旦那様がヘマやってさ、こっちのメイド全員が解雇になっちゃったらそっちで面倒みてくれないかなぁ?」
「無理だと思うよ?」
人手は十分に足りているし、なにより公爵家は王家に準ずる立場だ。メイドの一人ひとりは大富豪の娘だったり、下位貴族の令嬢だったりするからね。
「庶民出身のメイドなんて、私ぐらいしかいないもん」
「そうなの⁉」
そんな私が分不相応にも公爵家の令嬢お付きのメイドなんてやれてるのは、はっきり言ってシンデレラストーリーともいえる奇跡なのだ。
「だからもしお嬢様のお付きを離れたら、メイドとは名ばかりの下働きになるでしょうね」
お嬢様の未来を変えるべく、その理不尽な最期を変えたいと思って頑張ってお嬢様のお気に入りになったのだ。殴られても蹴られても鞭打たれても、ただひたすらに耐え忍んで。
「それに言っちゃなんだけど、うちのお嬢様も結構なアレよ?」
「あ、そうだっけね。うちのとどっちがマシかなぁ?」
そりゃ『うちのお嬢様』に決まってるでしょうよ。……多分だけど。
――不意に、本当に不意に一つの可能性が突然脳裏をかすめた。
(前世でのスーリヤの自作自演による私の暴行容疑、そしてアシュヴィン殿下の毒殺未遂……使われた毒と同じものが、私の部屋から出た)
それは『誰がやった』のだろうか。
結果的に私は処刑され、公爵家は爵位を取り上げられて没落した。そしてスーリヤとヴリドラ伯爵は、殿下との婚姻における最大の懸念事項がなくなったのだ。
「考えすぎだろうか……」
「え?」
「あ、いやなんでも……ねぇ、もしさ?」
「うん?」
ちょっと深刻な表情を自分でしてたもんだから、カップに口を付けようとしたアグニの手が止まる。
「もし私が、『悪いこと』を頼んだら……アグニとしては報酬次第だったりする?」
「……」
あ、まずったかな? ヴリトラ伯爵が汚職にでも手を染めていたら、アグニを使ってその証拠を入手できるかなと考えたのだけど。
「まぁ、危険度次第なところはある」
壁に耳あり障子に目あり、キョロキョロと周囲を確認したのちに小声でアグニがそう応じてきた。
「そっか……ま、冗談なんだけどね?」
「なーんだ、冗談か! まぁダスラは貧乏だしね」
「お互い様でしょ!」
ごまかしきれたなんて思ってない、アグニの目は笑ってないから。つーか、私の目も笑ってないのだ。
これはつまり、この場では冗談を言い合っただけですよという芝居。いわば『いつか頼むかもしれないけど、そのときはよろしく』というね、そんなやつ。
そしてアグニは、ちゃんとそれを私から『受信』したようだ。腹黒いことは腹黒いやつが適任なんである。だから、
「……お金、貯めないとなぁ」
という私のひとりごと。そして、
「ま、貯金はいいことよね」
というアグニの返事は、文字どおりのそれではない。前世で理不尽な煮え湯を飲まされましたからね、腹黒さにかけてはアグニをどうこういえないかもしれないなと。
ただこいつは二枚舌の卑怯者だから、いつ裏切るかわからない。利用するだけ利用してポイ捨てるのが吉だろう。
ま、そんな日が来るかどうかは神の味噌汁もとい神のみぞ知るところだ。ほっといても没落してくれるかもしれないし、それは誰にもわからない。
結局この後は、どちらも他愛のない話をして場はお開きに。私がお金を払っている間に、アグニのアホはいなくなってやがんの。
「利己的なヤツだなぁ」
まぁそのアグニを、お嬢様を助けるための駒としてしか考えてない私も大概ですけどね。とりあえず一つの手段としてなので、確実にそれを実行するわけじゃないけど。
特に街でやることもないので、私は足早に帰路を急ぐ。まぁ走るのは馬車のお馬さんなんですが。
「ただいま戻りました」
邸内に入ると、偶然にもその場にいたお嬢様と鉢合わせした。
「ダスラ、おかえりなさい」
「……あ」
プリン買ってくるの忘れた。
いま私は、お嬢様の部屋で正座をしている。もう何時間経っただろうか、足裏の感覚がまったくしない。
「あのぅ、ナーシャ様?」
「なによ?」
庶務机で自らが手がけている孤児院事業を主とする公務中のお嬢様が、少しイラ立ちまぎれに私をジロリとにらむ。
「今からでも、プリンを買いに行きましょうか?」
「そんなこと言って、本当は正座から解放されたいだけでしょう?」
まぁそうなんですけどね。正確に言うと久々に渾身の鞭打ちを背中の生身にくらったから、手当てしたいってのもある。
言うまでもなく、正座も鞭打ちもプリンを買いにいって手ぶらで帰ってきた罰だ。さすがに自分でもそれはどうかと思うので、罰は甘受したのだけど。
「せめて、背中の手当てぐらいさせてもらえないかなぁと。すぐに戻ってまいりますので……ダメ?」
あ、しまった。最後の最後で敬語忘れた!
お嬢様もいきなり『ダメ?』なんておねだりされて、鳩が豆鉄砲を通り越して豆が鳩鉄砲をくらったようにキョトンとされてらっしゃる。怒られるかな?と思ったら、
「あははは! ダスラおもしろい!」
なんだか知らないがツボに入ったようで、お腹を両手で押さえて机に突っ伏して笑い死んでらっしゃいます。
「ひぃ……ひぃー‼」
笑いやんでは顔をあげ私になにかを言おうとするのだけど、その都度に再び笑いの波がやってきてまともに声が発せられないでいるお嬢様。そんなのが数回続いたのちに、やっと落ち着いてきたようで。
「薬は私が塗ってあげるわ」
「え?」
そう言ってお嬢様は、机の引き出しから軟膏を取り出す。軟膏の瓶に太いインキで、『ダスラ用』って書かれてるのはどういうことだテメー。
軟膏を常備しているのは知ってた。知ってたというか私があげた。
庶務仕事では紙で手を切ったりとかあるから、備えあれば憂いなしと思ってプレゼントしたんだけど、いつしかそれは鞭打った私の背中に対して使われるようになって。
「足は、今だけ崩していいわよ。そして背中をめくってちょうだいな」
「ありがとうございます」
さすがに遠慮はできない。足が洒落抜きでやばいことになってるし、背中の生傷が服に擦れて痛い。
お嬢様と二人きりなので、上はガバッと勢いよく脱いだ。ブラが落ちないように片手で押さえ、もう片方の手で後ろのホックを外す。
ついでにだけど、ちょっと崩しただけの正座からまだジンジンする足裏をポーンと放り出すように座り直す。はしたないと思うなかれ、男性の目が届かないところの女子なんてこんなものだ。
「ダスラの肌って、白くてきめ細かくて綺麗よね」
「ありがとうございます」
まぁ長年鞭打たれてますし、ほんの数時間前も打たれたばかりなので背中も赤いミミズ腫れだらけだろうから、それは言葉半分に聞いておこう。とか思ってたら、それを気取られたみたいで。
「あぁ、肩回りのことよ?」
「あ、そういうことですか」
確かに、肩回りは鞭打たれていない。夏場は肩の出る服を着ることもあるから、要は見えるところに傷はつけないというお嬢様なりのなにかだ(優しさとは言いたくない)。
「しかし、痛々しいわね」
お嬢様は背後にいるのでどんな表情でそれを言ってるのか知らないが、私は思わず……。
「お前が言うな」
とツッコんでしまう。自分で鞭打っといて、どういう言い草だゴルァ!
(あ、また鞭の上書きされちゃう?)
お前とか言っちゃったよ、もう覚悟だ覚悟……って思ったんだけど、お嬢様は特にそれは気になさらないご様子で。
「ふふっ、ごめんなさいね?」
いいですけどね。ちょっと間があって、ヒヤッとした感覚が背中を走る。
軟膏を手にとったお嬢様の指がやさしく、私の鞭打たれた患部をさすっていく。ちょっと滲みるけど、ここは我慢だ。
「私も筋トレしようかなぁ。ダスラの肌って本当に無駄な脂肪もなくて筋肉も浮いてて、正直理想なんだ」
なんですと? 理想?
(お嬢様はお世辞を言わない人だから、本心なんだろうな)
お世辞が通じないだけあってお世辞も言わない、なんて私を評したのはセレスだったかガネーシャだったか。
「いや、カーリーだったわ」
「カーリーがどうかしたの? っていうか、私たち二人しかいないからいいけど貴族令嬢を呼び捨てにするのはよくないわ」
「あ、もうしわけありません」
でもやっぱ私の、正確に言うと私の体型が理想って本心だろうかって。
「でもナーシャ様てば、私のことを『女として終わってる行き遅れのダスラ』って」
「そんなこと、言ったことないわよ? 誰と間違ってるのよ」
あ、そうか。これは私が前世でナーシャだったときにダスラに言ったんだった。
「うーん、筋トレですか」
それもいいかもなぁ? 前世で私が処刑された日まで、あと一年なのだ。
(もし私が同じ運命を辿って死んだとしても、お嬢様に護身術の嗜みがあったら……)
牢獄から無事逃げおおせて、遠くで幸せに暮らしてくれたら……ついついそんなことを考えてしまう。
「またお前が言うな案件になっちゃうけど、ほんとダスラの背中ってひどい有様よね」
「はは……」
もうツッコむ気もおきません。
女の子の腕力ですから、そりゃ皮膚を切り裂くほどの鞭は受けたことないけれど、それでも触ったら手のひらに古傷群のザラザラとした感触がするぐらいには私の背中の肌は修羅場ってる。
「このダスラの、白くて綺麗なカンバスを汚していいのは私だけ……うふふ」
「なにか言いました?」
「ううん?」
なんだかキモい言葉が聴こえてきたような気がしたんだけど、気のせいだろうか。
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無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
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