メビウスの乙女たち ~二人のダスラ~

仁川リア(休筆中)

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第三話『Age.12』

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「さぁ、背中を出してそこに両膝をつきなさいっ‼」
 お嬢様が、怒り心頭で叫ぶ。
「かしこまりました」
 そして私は、いつもどおり飄々とした表情でメイド服の上を脱ぐ。これまでワンピース型だったのが、『とある目的』のため上下別のセパレートタイプになったんだけど。
 背中側のブラのホックを外して、ブラが落ちないように胸の前で押さえつつ両ひざをついて準備完了。なんの準備だって、セルフツッコミいれたいところ。
「いくわよっ‼」
 お嬢様は言うが早いが、その手に持った鞭が私の背中を打った。
「……ッ⁉」
 一発のみならず二発三発、四発五発。最終的に合計で十発……私の筋肉質な白い背中は、あっという間に真っ赤に腫れあがる。
 二ヶ所ほど薄く血が滲み始めていたが、お嬢様は後ろめたそうに顔を背けて見て見ぬふりを決め込んだ。そんな顔するぐらいなら、最初からやらなきゃいいのに。
「ふんっ、今回はコレで勘弁してあげるわ」
「ありがとうございます、ナーシャお嬢様」
 そう応える私は平然としていて、とても十回鞭打たれた顔ではない。むしろお嬢様のほうが鞭打たれたような顔というか。
 今お嬢様の両頬は、真っ赤なヒトデのような手形が左右の頬にくっきりと浮かんでいる。私がくらわせた往復ビンタの痕である。
「ナーシャお嬢様を殴った罰は罰として受けますが、私に殴られた理由はご理解いただけますか?」
 ブラを着用し直し、恐々と上を着る。鞭打たれた直後だけに、布地が背中に擦れると激痛が走るのだ。
「……今度から気をつけるわ」
「えぇ、そうしてください」
 今から小一時間ほど前のこと。街への買い物の帰り、お嬢様と私が乗ったお屋敷の馬車が平民の子どもと接触した。
 もちろん御者の不手際もあるし、左右確認せずに飛び出した子どもも悪いんだろう。だがお嬢様は街で買ったばかりの服を家で着てみるのを楽しみにしていたため、怪我をしている子どもを介抱しようとする御者に。
「そんな平民なんかほっといて、早く馬車をだしてちょうだい」
 と命じたのだ。要はひき逃げしようとしたわけで。
 もっとも、そうしたところでお嬢様も御者も罪に問われない。身分制度というヒエラルキーが、公爵家を守るためだ。
 だけど私は、子どもと同じ平民としてというのもあるがそれを見逃したくはなかった。なによりお嬢様に、そういうことを平気でできる人間になってもらいたくなかったんだ。
 恥ずかしながら私がナーシャだったときは、そういうことを平気でできるクソみたいな令嬢だった。それを思い出して、胸が苦しくて。
 だからといって仕える主人に往復ビンタをかますのはどうかと自分でも思うが、私によるお嬢様矯正のための『遠慮のない指導バイオレンス』はいつものこと。そしてそれに逆上したお嬢様に、鞭打たれるところまでがお決まりのセットで。
 私とて、無条件で鞭打たれるのを看過しているわけではない。なぜ自分ダスラがそのような蛮行におよんだか、そしてお嬢様にどうしてほしかったのか。
 それをちゃんと伝えたうえで、わかってもらえたときのみ罰を甘受しているのだ。なのでお嬢様が無反省なときは、罰を甘受するどころかお仕置きを追加してもいた。
 最初は私の説教に耳を貸さないことが多かったお嬢様も、今や十二歳。さすがにこんな毎日が続けば多少は成長もするというもの。
 私を鞭打ちたさに反省したふりをすることもあったが、それらはすべてお見通しだ。こちとら誰にだか知らないけど騙されて、処刑までされた経験を持つ。
 人の機微というか、そういうのを察するのは鋭くなってる気がする。
 一介のメイドとしては解雇どころか逮捕もありえる乱暴な教育だけど、不思議とお嬢様はイヤではなさそう。だって、お嬢様が悪いことをしたとき。
 両親は無関心、ほかのメイドはお嬢様怖さに無条件で肯定するか見て見ぬふりをする中で、本気で怒ってくれるのは私だけだったから。
 そして怒るだけじゃなく、どうして怒られたのか。今後どう改善してほしいかを私は根気強く説いた。それは私以外の誰も、お嬢様には教えてあげないことばかりで。
 今や私は、お嬢様にとって母・姉・先生・メイド・奴隷という一人五役の存在になったと自負している(最後のはどうなのか)。
 とはいっても、そこは十二歳のわがままお嬢様。一年前のあの日に私と一緒に買いにいった鞭は、当初の目的どおり私を鞭打つためにフル活用することも忘れない。
 当初はワンピース型だったメイド服も、
「いちいち全身下着姿になるのは面倒です。私を鞭打ちやすいように、上下別の制服に変更していただけないでしょうか」
 という私の嘆願に、『ダスラを鞭打つために制服を変更する』という部分へ背徳的な快楽を感じたお嬢様は快諾。そして今に至るのである。
 もっとも、本当は面倒ではなくて恥ずかしいからというのが本音だ。だけど正直にそれを言ったところで、私がイヤがることを率先してやりたいお嬢様のことだ。
(もっと恥ずかしいことをしようって考えるだろうな)
 それが容易に想像できたからいかにしてそこはボカすか、上下別に変更する方向に持って行くか。そこは計算どおりにことが運んだのは幸いだった。
「待って、ダスラ。治癒ポーション取ってくるから」
 私の背中に血が滲んでいたことが、どうもお嬢様の心にひっかかっている様子。だからそう打診されたんだけど、私はやんわりとそれを制した。
「いえ、この程度だったら必要ありません。それよりナーシャお嬢様、くどいようですが」
「わかってるわよ! 平民が相手でも、思いやりの心を忘れるなっていうんでしょ‼」
 半ギレ、というか全ギレでお嬢様が捲したてる。
「そうではありません」
「え? 違うの?」
「思いやりはもちろんですが、『人間』としての心構えです。怪我をさせたら治癒する、介抱する。これは当たり前のことですし、それは誰が怪我をさせたかは関係がないのです」
 うーん、お嬢様はちょっと理解ができないって感じの表情だな。
「どういうこと? 確かに怪我した平民をほっといて去ろうとしたのは……まぁダスラが殴るほどのことなんだろうってのはわかったけど」
 私が怒ったから殴ったから、そんな理由で納得はしてほしくはない。だけど今回は、そこは堪えておくことにした。
「『高貴なる者の義務と責任ノブレス・オブリージュ』、はご存じですよね?」
「えぇ、まぁ」
 知ってはいるけどね、と言いたげにふてくされて横を向くお嬢様。そのお嬢様の顔を両手で掴んで、グイッと正面を無理やり向かせる。
「なにするのよっ⁉」
「もし私が一人で、街で馬車に轢かれたら? そして御者が馬車の中の主人の命令で、怪我をして倒れた私を放置して立ち去ったら?」
 それを聴いたお嬢様、思わずハッとした表情で私を見上げて。
「倒れた私に、誰もが手を差し伸べなかったら。私がそれで、死んでしまったならば……馬車の中にいたのが貴族だったとしたら、平民の私が死んでもナーシャお嬢様は当然とお考えでしょうか?」
 そう言う私の頬を、涙がつたう。
「あ、ダスラ……」
「私はナーシャお嬢様に、そのような腐った貴族にはなってほしくはないんです」
「……はい」
 私の言葉を受けてもうしわけなさそうに殊勝にうつむくお嬢様を見て、内心ほくそ笑んでしまうね。
 こっちがなにを言っても馬耳東風だった二年前と比べ、ゴリラだったお嬢様も猿並みにはなってきた。我ながらひどいたとえだなとは思う。
(実はこの涙、嘘っぱちなんですけどね)
 今や私は、涙を自由自在に流す特技を取得していたのだ。だけどそうとは夢にも思わないお嬢様、ハンカチをぶっきらぼうにこっちに差し出して。
「その、泣かないでよ……本当にもう、反省したんだからっ!」
 そう言いながら背ける顔は、照れくささのあまり真っ赤に染まっている。ちょっとだけ可愛いかな。
「ありがとうございます、わかっていただけて」
 私は優しく微笑んでハンカチを受けとるも、お嬢様にはばれないように小さく溜め息をつくのだけどね。
(本当は貴族や平民関係なく、一人の人間としてそう心がけてほしいな)
 だけど一度に、なにもかも理解させようとしても無理だ。お嬢様がかつての自分だったからこそ、それがわかる。
(だからまず一歩一歩、進んでいかなくては)
 お嬢様の手に握られた鞭には、グリップ部分にバーテープが巻かれていて中に彫ってある文字は見えない。もちろん、お嬢様は私に隠したくてそうしているわけで。
 そこに彫られた、『ナーシャ&ダスラ』の文字。私がお嬢様を愛したいと思っているように、お嬢様もまた私に愛されたいのだ。
(そのやり方が、ちょっと人とは違いますけどね)
 違うつーか、不器用つーか。


「ナーシャお嬢様が婚約、ですか?」
「えぇ」
 公爵夫人おくさまことお嬢様の母に呼ばれた私は、ついに来たと思った。
(私のときも、十二歳で婚約したんだっけ)
 その婚約相手は、第二王子のアシュヴィン殿下。『白薔薇の君』なんて呼ばれるほどの眉目秀麗さで、女関係も派手だった。
 常に入れ替わり立ち代わり女性を侍らせていて、ナーシャだった私には異性として興味を示さなかったお方。十六歳で処刑されるまでに殿下と会った回数は、両手の指で足りるほどだ。
 それはそれとして、いま私の目の前にいる公爵夫人――お嬢様の母であるのはもちろんだが、私の前世では実の母だった人。
(不思議だな……)
 今の私に、『かつての母』と相対しているという感慨はない。そりゃ前世では愛し愛された親子関係ではあったが、今の自分はダスラとして二十五年生きてきた別人なのだ。
 ではダスラとしての私を産んでくれた母はというと、気がつけば親戚をたらい回しにされていたのもあって全然記憶がない。なので自分が母と呼べる存在は、前世でお嬢様だったときの母のみだ。
(そしていま目の前にいる公爵夫人は、もう私の母ではない)
 なにより実の母娘でありながらお嬢様に感心を示さない公爵夫妻には、あまりいい感情を持っていない。もちろん、それは態度には出さないように気をつけてはいるけども。
「お相手をうかがっても?」
「もちろんよ。第二王子のアシュヴィン殿下です」
(やっぱりか)
 わかっていたのもあって、さほど驚きはないな。それにお嬢様は公爵令嬢なのだから、身分違いというわけでもないしで。
「驚かないのね?」
 少し意外そうに夫人が問うものの、どういう反応が正解なんだろ。わかんないや。
(今の私はお嬢様専属のメイド。おめでとうございます、とでも言えばいいのだろうか)
 つーかおめでたくないんですけどね、浮気野郎ですし。なにより、そいつのせいで私とダスラは死んじゃったわけで。
「そういうわけではないのですが……それで、いつお嬢様にお伝えするのですか?」
 自分のときは、ディナーの席で両親から伝えられた。笑顔で祝福してくれたものだから、これは自分にとってもいいことなんだと思って一緒に喜んだ記憶がある。
(だけど今この人たちは、お嬢様と食事をともにしないでいる)
 それにダスラ専用の鞭だって、自分がお嬢様だったときには持っていなかった。明らかに前周とは違った時間軸を、ナーサティヤ・ラーセンは歩んでいるのだ。
(そして今、ダスラである私も)
 自分がお嬢様だったころ、ダスラは口うるさいだけの専属メイドだった。ただ唯一共通しているのは、自分を叱ってくれるメイドもダスラだけだったという一点。
 ただそれも『メイド』限定の話で、両親はちゃんと叱ってくれた。だけど今のお嬢様の両親は、娘を叱らない。
 そして褒めもしない、笑顔で語りかけもしないのだ。だからこそなのか、かつての両親に対する感慨が私の中にないのである。
「それはあなたが決めてちょうだい」
「は?」
 一瞬だけ、思考が停止した。この人はなにを言っているのだろうか。
「私が決めた日時に、奥様か旦那様がお伝えするという意味でしょうか?」
「えぇ、そうよ」
 夫人の真意を計りかねて、正直困惑する。なぜこんな大事なことを伝える日時を、家族である自分たちではなく、一介のメイドである自分に任せるのかがわからなくて。
「どうして私めが、とお訊きしても?」
「だってほら、あの子は癇癪持ちじゃない? 大人しく話を聴いてくれそうな機会タイミングは、あなたならよくわかるでしょう?」
「……」
 お嬢様はまだ十二歳だ。その十二歳の娘の機嫌をうかがって、自分たちは前に出ようともしない。
(殴ってやろうかな)
 半分本気で、そう思った。
「もしなんでしたら、私からお伝えしましょうか?」
 そしてこれは、もちろん私なりの皮肉である。仮にも娘の将来、しかも王家との婚姻という大事な話をメイドから伝えますよという。
(さすがにこれは怒られるか)
 もちろん、私はそうなると思っていた。久々に、実に二十数年ぶりに『母だった人』に怒られるのもいいかと。
 ここらへん今や別人としての生を歩んでいるとはいえ、ダスラとしての私の思考は元はナーシャだ。自分としては割り切っているつもりでも、心のどこかで父をそして母を欲しているのかもしれない。
 だけどその淡い期待は、無残にも打ち砕かれてしまう。
「あら、いいの! 助かるわ‼」
「えっ……」
 そして夫人は王家からの書簡を私に手渡し、
「詳しいことはここに書いてあるわ。じゃあ頼んだわね?」
「……かしこまりました」
 そして書簡を手に、夫人の居室を出る。
(この母娘の溝は、ここまで深いのか……)
 いがみ合ってるわけじゃない、憎み合ってるわけじゃないのだ。それなのに、娘に婚姻の決定を告げるという大事なことすら他人に投げるのか……呆れて開いた口がふさがらない。
(こんな母では、お嬢様から距離を置くのも当然だな)
 そしてお嬢様は、私に依存する。そんなお嬢様を助けたいあまり、私もお嬢様に依存してしまうという共依存の関係が構築されていく。
「というか、お嬢様はこの婚姻に関してどう思われるのだろう?」
 一番大事なことを忘れていた。私は当時、どう思っていたっけか。
「私がなに?」
 不意に後ろから話しかけられて、ビクッと背が震えた。いや、いつからいたんですかあなた。
「あ、お嬢……ナーシャお嬢様」
「今、『ナーシャ』を省略しなかった?」
「いえ?」
「そう。もし省略したら鞭一回だからね?」
 半年ほど前、私はお嬢様を呼ぶ際に『ナーシャ』を頭につけるのを忘れたことがある。そのときお嬢様は激高し、私の背に鞭打ったのだ。
「約束よ。今度忘れたら、一回ごとに一回鞭打つから」
「かしこまりました」
 それが半年前のこと。可愛い約束だなと、ニマニマしそうになったのを覚えている。
 わがままで横暴といえばそうだが、この屋敷でお嬢様を名前で呼ぶのは私しかいないのだ。お嬢様にとっては死活問題なのかもしれないと、私は肝に命じようと思った。
「で、私がなに?」
「と言いますと?」
「さっき、私がどうこうと呟いていなかった?」
「あぁ……」
(耳聡いな?)
 心の準備もできていないし、どう伝えようかまったく考えていない。私はいつもの余裕を出せないでいる。
「ナーシャお嬢様にお伝えするように、奥様から伝言を預かっておりまして」
「ふーん、ママがね」
 お嬢様の顔に、『直接言えばいいのに』と書いてあるように私には見えた。ごもっともだと自分も思う。
「お部屋にうかがっても?」
「いいけど。ダスラの部屋じゃダメ?」
「それは構いませんが……」
 お嬢様が私の部屋に来たがることはこれまでになかったから、ちょっと困惑する。いや正確に言うと、何度も踏み込まれたことはあるのだ。
(まぁ主に鬱憤晴らしのためにだけど)
 だがそれはいずれも私が在室しているときであって、一緒に私の部屋に向かうというシチュエーションには心あたりがなかった。
「じゃ、鞭を取ってくるからそこで待ってて」
「……かしこまりました」
 なぜ鞭を取りに行くのか、訊くまい考えまい。考えると、溜め息しか出てこないからね。


「……今、なんて?」
 お嬢様の表情は険しい。私はなにか間違えただろうかと逡巡するが、肝心の答えはお嬢様しかしらないのだから動きようもなくて。
「ですから、おめでとうございます。第二王子殿下との婚」
「なにがおめでたいのよっ!」
「痛っ!」
 私が全部言い終わらないうちに、お嬢様の投げたティーカップが額を直撃する。幸い、中身は空だったようだけども。
「ナーシャお嬢様?」
「だからなんで……なんでっ……」
 婚約がイヤなのだろうか。まだ社交界デビューはしていないとはいえど、お嬢様は殿下とは初対面ではない。
(といって四歳差だし、男女の違いもあるから親密な仲ではなかったけども)
 そしてそれは自分がお嬢様のときもそうだったが、こんなに激情してイヤがる要素を殿下には抱かなかった。
「お嬢様、お聞かせください。今お怒りになられているのは、いったいどういう理由があってのことでしょうか?」
「……一回」
「え?」
「今、『ナーシャ』つけなかった」
「……」
 そうだっけと思いつつ、目に涙をためて結んだ唇を小刻みに震わせているお嬢様の表情を見ていたら、なんも言えないでいる私。
(これは、私への怒りではない……)
 かといって、私の知るかぎりではお嬢様はまだ初恋未体験だ。無条件で婚約をここまでイヤがる理由にも心当たりがない。
「早く背中を開けなさい!」
「あ、はい」
 鞭を片手に、涙目でお嬢様が泣き叫ぶ。
(こりゃ地雷踏んだかな……)
 そう思いつつも、私はこれまでに見たことがないお嬢様の勘気に触れて心配でたまらなかった。まだ十二歳だ、十二歳だけどもし怒っている理由が私と同じそれならば。
『ビシッ!』
 いつもより強い、感情のこもった鞭が私の白い背中に振り下ろされる。
(とりあえず、もう一度理由を訊いてみよう)
 そう思ったときだった。
『ビシッ!』
 今回は上着は完全に脱がずにたくしあげていただけだったので、それを下ろそうとした瞬間に二発目がきた。
「痛いっ!」
 呼ぶときに名前を付け忘れたのは一回だけだったので、鞭も一回だけだったはず。すっかり油断していて筋肉を締めるのを忘れていたから、その不意の痛みに思わず声がもれる。
「お嬢様、鞭は一回と」
「また忘れてる!」
 間髪を入れずに、三発目がきた。続いて四発目。
(耐えるか……)
 とりあえずは、気が済むまで打たせよう……そう覚悟した次の瞬間、背中に当たったのは鞭ではなく。
「ナーシャお嬢様?」
 振り向いて確認しようにも、そのお嬢様が私の背中に額をピタッとつけて寄りかかっているから確認のしようがなくて。そして両手は、私の両肩をガシッと掴んでいる。
(……傷が沁みるな)
 背中の鞭傷に、消毒液を塗布したときと似たような痛みが走る。だけどこれは消毒液じゃないことは、私が一番よくわかっている。
(お嬢様が……泣いてる)
 私の背に顔を埋めて、お嬢様が声を殺して泣いていた。その落ちる涙が背の鞭傷を通るときに、沁みるような痛みが走る。
「……」
 多分間違いないだろう、お嬢様が泣いている理由。それは――。
「なんで……なんでそれ、ダスラの口から聞くの……」
「ナーシャお嬢様……」
 やっぱりかと、私の唇も震える。そりゃそうだ、どこの世界に娘の婚姻決定をメイドから伝える親がいるというのか。
 お嬢様は、声を殺して泣き続けている。たまに漏れ聞こえる嗚咽は、激しい心の痛みが具現化された絞り出すような悲痛の声。
(これが十二歳の泣き方だろうか)
 私の背中も、憐憫と怒りの思いで震える。
(どうしよう)
 なんと言って声をかけてあげればいいのかとんと見当がつかなくて、途方に暮れてしまう。
 自分だったらこんなとき、どう言われたい? そう思い直しても、自分はこんな経験はナーシャ時代も含めてなかった。
 いま私は、上着を首まで脱いでそこで止めている状態にある。そして晒けだされた締まった白い両肩を、お嬢様が後ろからガシッと掴んでいる形だ。
 そして両手は服を下ろそうとした途中だったものだから、左手で服の右側を右手で服の左側を前側で掴んでいるわけで……このまま服を下ろしたら、お嬢様は背中に抱きついて泣いているわけだから服の中に閉じ込めてしまうことになる。
(一か八か……鞭の十発ぐらいは覚悟しよう)
 私はそう決心して、そのまま両手で服を下ろした。
『ズボッ!』
 って音がしたかしなかったか。お嬢様の上半身の自由を、完全に封印することに成功。
「なっ、ダス⁉」
 お嬢様の狼狽する声が、背中の筋肉を通じて聴こえる。
 だってそれはそうだろう、今お嬢様は私が強引に服を下ろしたものだから、さしずめ二人羽織りみたいに背中に閉じ込められてしまったのだ。
 もちろん私はわざとやったわけで、お嬢様が簡単に脱出できないように服のヘソ位置あたりを両手でキュッと軽く締める。
「ちょっとちょっと、なにやってるのダスラ⁉」
 服越しなものだから、お嬢様の狼狽える声がくぐもっているな。ちょっとこそばゆい。
「だってナーシャお嬢様、鞭は一発だけの約束でしたよ? ですからこれは、お仕置きなのです」
「!?!?」
 お嬢様は大パニックだ。自身の両手も私の肩を掴んでいたものだから、上半身まるごと私の背中に閉じ込められてしまったわけで。
 お嬢様は逃げ出そうと足掻くが、服のウエスト部分がキュッとしまってるので思ったようにいかない様子。もちろん、私が外側から締めているからだけどね。
「おりゃ! うりゃ!」
 そう言いながら私は、お嬢様を服の中に閉じ込めた上半身を右に左にと揺らす。お嬢様は大人の力に抗えず、されるがままに私の背中に片頬をつけたまま振り回されて。
「ちょっ、ちょっとやめなさいダスラ!」
「ダメです、お仕置きです!」
 なんだか楽しくなってきたな。お仕置きといいつつ、要はじゃれあっているのだ。
 だから私のその言葉も、ちょっとおどけたような笑いを含む感じになってる。そしてそれは、こっちの表情が見えないはずのお嬢様にも伝わって。
「ちょっ、ちょっとやめなさいってばダスラ、あははははは!」
 普段のギスギスした?主従の関係とは縁遠い、私に『可愛がり』されてしまっている状況。それが可笑しくて楽しくて、お嬢様も笑いが止まらない。
 そして私もまた、お嬢様が機嫌を直したのに伴って妙な高揚感を感じていた。
「謝るまで許しませんよ~!」
 普段は絶対に見せないような『お姉さんの顔』で、背後のお嬢様を挑発する。お嬢様はお嬢様で、
「あははははは! 謝らないもんっ、というか出してよ~!」
 私ごと左右に振られながら、腹筋が攣るくらい笑ってらっしゃいます。お嬢様の怒りと悲しみの涙は、いつしか笑い涙に変わっていく。
 結局双方が笑い疲れてしまい、ぐだぐだなままじゃれあいは終了。私は服が、お嬢様は髪がボサボサだ。
 二人とも両手と両ひざを床について、笑い疲れでぜぇぜぇと息も荒い。
「はぁ、はぁ、はぁ……お腹痛い……」
 もちろん、笑いすぎて。お嬢様の前でこんなに笑ったのは初めてかもしれない。
「ちょ、ダス、ダスラ……ひどい」
 お嬢様のほうは、そう言いながらもまだ笑いが治まらないのか唇が波打つ。
 逆上されるのを覚悟の上での悪ふざけだったけど、結果的にはお嬢様がバカウケしただけで終わった。もちろん、私も。
「髪がボサボサですね、ナーシャお嬢様」
 疲れた表情ながら微笑みながらつぶやく私に、
「誰のせいだと」
 と反論しつつも、お嬢様も苦笑いで。そして私はおもむろに立ち上がると、ドレッサーの前に行き櫛を手にする。
「こちらへどうぞ、御髪おぐしをお直し……あっ!」
 そうだ、ここは私の部屋だった。当然、櫛も私が普段使いしている物である。
「いまナーシャお嬢様の櫛を取りにいってまいりますね」
 そう言って櫛を置こうとしたら、
「ダスラの櫛で構わないわ」
 お嬢様はそう言って、ドレッサーの椅子に座った。
「え、でも私の櫛ですよ? イヤじゃありませんか?」
「……別にっ」
 少し照れながら、お嬢様が顔を背ける。そして、
「ダ、ダスラはイヤなの? 自分の櫛で他人の頭を梳きたくない?」
 ちょっと不機嫌そうながら、どちらかというと私を気遣うような口調で。うーん、私は構わないのだけど……お嬢様は、ばっちぃとか思わないのかな。
「そんなことありません。ナーシャお嬢様ならいいんです」
 まぁお嬢様がいいというのだから、その金色で長い髪に櫛を入れる。
「ナーシャお嬢様、すいませんでした。悪ふざけがすぎてしまいました」
「えぇ、まったくだわ」
 櫛で髪をとかされながらドレッサーの鏡越しに怒ってみせるお嬢様なんだけども、普段どおりの迫力はない。むしろ、怒っているポーズといった感じで。
「それで鞭、何回になりますか?」
「……鞭打たれたいの?」
 怪訝そうに、本当に怪訝そうにお嬢様が訊き返す。うん? いつもなら罰だとか言って鞭を振り上げてますよね?
「お嬢様がそうしたいのならナーシャ」
「は?」
「いえ、名前つけ忘れたなと思いまして」
 ナーシャお嬢様と言うべきところを付け忘れたので、最後に思い出したようにナーシャと付け足してみた。ま、ごまかしきれるとは思ってませんけど。
 だけど次の瞬間、お嬢様が盛大に吹き出す。
「待って待って! だからって普通お尻につける⁉ ダスラ、可笑おっかしい‼」
「あっ、動かないでください!」
 お嬢様は笑い涙を流しながら上半身を強く揺らせて笑うもんだから、髪を梳かせない。うーん、どうしようかな。
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