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僕は絶対にあきらめないよ。
しおりを挟む見慣れたシャノン子爵家の絨毯に額をこすりつけて、ジルベールはアレクシスにリリアンナとの婚約を願った。
「事情はよくわかったよ。リリアンナ自身が望むのであれば反対はしない。他でもないイグレシアス公爵家のフレイヤ様が仰るのであれば疑う余地もないよ。殿下のことはいくら弱小貴族とはいえ、私の耳にも入る。だから君がそんなことをする必要はないんだよ」
優しく降り注ぐ言葉に首を振り、頑なに額で絨毯を撫で続けた。
* * *
生徒会に所属していた三年生は、ジルベールを除いて退学したため、任期より早く二年生へと引き継ぎがなされた。新たに生徒会長の席へ座ったフレイヤに、ジルベールは最後の挨拶をした。
「では私はこれで。フレイヤ様の今後のご活躍をお祈りいたします」
「まぁ、そんなに慌てずともよいではありませんか。お茶でも召し上がってくださいな」
フレイヤが優雅に言えば、心得たように従者がジルベールの横にあったテーブルに紅茶を置いた。フレイヤとジルベール、フレイヤの従者しかいない生徒会室が芳醇な香りに包まれた。リリアンナを少しでも早く迎えに行きたかったが無理なようだ。
「リリアンナさんとクローディアから時戻りについてお聞きしましたわ」
「私も先日リリアンナに聞いて驚きました。クローディアと親交があったとは」
「乗馬クラブが一緒ですの」
「なるほど」
椅子を引き寄せて向かい合うように座った。
「わたくしのお婆様が先代の王妹なのはご存知かと思いますが、そのお婆様から譲り受けた物がございまして」
従者がどこからか取り出した箱の蓋を開けてジルベールに見せる。中には王家の紋章の入った指輪が鎮座していた。
「殿下の素行に不安を感じたお婆様がわたくしに託した”時戻しの指輪”ですわ」
「時戻し……」
フレイヤが頷く。
「王が悪政を敷いただとか、混乱を招くほどの不貞があっただとか、理由は様々でしょうけれど。妃や姫らがそれらを止めるために受け継がれてきたものだとか。リリアンナさんのお話を聞いてから、未来のわたくしは指輪をジルベール様に使って欲しいとお願いしたのではないかと思ったのです。所持者であるわたくしが強く望めば、使用者は誰でも可能ですから」
「リリアンナではなく、私にですか?」
「わたくしとリリアンナさんはそれほど接点がなく、ジルベール様の置かれている立場を考えれば、そう考えるのが自然かと。時戻りの指輪は使用者自身が巻き戻るとは限らないのです。お婆様の話ですと、指輪を着けた人の願いに最も適した人物が巻き戻るのだと」
そう言ってフレイヤが申し訳なさそうに目を伏せた。
「本来ならわたくしが時戻しの指輪を使って過去を変えなくてはならないところですが、この指輪は本当に愛している人を手にかけた時に――代償、ですわね――必要な時間まで巻き戻ると伝えられていますので」
「代償……」
「ええ。ですから、わたくしでは時は戻せません。殿下のことは弟のような気持ちでしか見られなくて」
「それは……」
そうでしょうね、という言葉を呑み込んだ。年はひとつ下だけれど明らかにフレイヤのほうが大人だ。
「リリアンナさんは誤解されていましたけれど、ジルベール様とアネットさんの噂が立つということは、密かに逢瀬を重ねるふたりの橋渡しをさせられていたのではないかと思ったのです。彼女の身分では王宮内には入れませんから。ジルベール様は殿下を諫めながらも、ご自分が橋渡しをしなければ醜聞は避けられないと、そんな風に葛藤されたのではないかとーーわたくしの想像に過ぎませんが。わたくしも殿下とアネットさんが結ばれるように殿下に指輪を託すことも考えたかも知れません。けれども、殿下がわたくしの話を素直に聞くとは思えませんし。わたくしはきっと、諦めてしまったのでしょうね」
申し訳ないとフレイヤが頭を下げるので、慌てて止めた。
背中を伝う嫌な汗が止まらない。
指輪が政略結婚を余儀なくされる女性を救うための”心の拠りどころ”を目的とした偽物だったら、愛するリリアンナを手にかけただけで終わってしまった話だ。
それを本物だと信じた上にリリアンナを手にかけてまでやり直したいと願う未来だなんて――ただ真面目なだけで頭が切れるわけでもないジルベールが侍従候補だったのも、ひとえに側近候補に優秀な人材がいなかったから。
皆、成績も悪く家格だけで生徒会に所属していたようなものだから。今回のことで簡単に切り捨てられてしまったのも頷けるほどの。
第三王子といえども公務や責務はある。実質マクシミリアンを支えることができるのは、今と変わらずジルベールとフレイヤだけだったということになる。
そのマクシミリアンの婿入りも以前から打診されていたらしく、陛下の側近らは素行の悪い王子を厄介払いできる上に資源の宝庫である南国と国交がひらけるとあって上を下への大騒ぎになっていた。
未来で婿入りを阻んでいたのはジルベールなのか、それともマクシミリアンなのか。今となってはわからないことだが、いずれにせよ役に立たない第三王子の側近という立場は危うい。
「王子という立場では難しいと思うのですが、もしも殿下自身がアネットさんと結ばれるために時を戻すとするならば、彼女がフランツ男爵に見つかる前、幼少期まで戻らねばなりません。そこまで巻き戻るとなると不確定要素が増しますし、誰が戻れば可能なのか想像がつかないのですが」
「彼女は確か11歳で引き取られたのですよね」
「ええ、買われたのです。そういう意味で」
「……まさか! 男爵家には奥様もお子様も」
「そのまさかですの。しかも……元使用人との間にできた男爵の実子ですわ」
ジルベールは天を仰いだ。
次から次へと男に色目を使う彼女を心底嫌っていた。その背景を知ろうとも知りたいとも思わなかった。ジルベールに擦り寄って来た時も全力で拒否した。
マクシミリアンたちに近付いたのがフランツ男爵の指示だったのか、それとも彼女の意思だったのか。
「殿下もいつかは正気に戻ってくださると、今は一時の感情に流されているのだと、そんな風に思っていたのですが。私の甘さは誰も救わなかったということですね。リリアンナに苦しい思いまでさせて……」
「リリアンナさんからは見えない場所で、ジルベール様は相当なご苦労をされていたはずですわ。私が指輪を託すほど。無礼を承知で言わせて頂きますけれど、もう少し狡猾になりませんと魑魅魍魎に吞み込まれましてよ」
「反省します」
「ふふふ、反省はほどほどになさってくださいな。わたくしはジルベール様やリリアンナさんみたいな素直な方たちが好きですの。あぁ、クローディアのことも多少は」
クスクス笑う姿は普通の16歳の少女に見えた。
「ジルベール様。今度はリリアンナさんに嫌味なんて言わないとお約束しますから、おふたりの結婚式には呼んでくださいましね」
「もちろんです。結婚できるよう頑張りますよ」
ジルベールが笑うと、満足げにフレイヤも頷くのだった。
「ではそろそろ……」
ジルベールが立ち上がり、挨拶をして帰ろうとしたところで扉がノックされた。
フレイヤが『どうぞ』と返事をすれば、フレイヤの次の婚約者でバトマシス王国の第二王子であるジュリアーノ・ラウル・バトマシスが入って来た。
半年前に留学を終えて帰国していたが、フレイヤとの婚約のためにしばらくミディトゥリム王国に滞在するようだ。
彼とは何度か手紙のやりとりはしているけれど会うのは久しぶりだった。
「よう、久しぶりだな、ジルベール」
「お久しぶりです、ジュリアーノ殿下」
腰を折り礼をすると、相変わらずの気安さで『堅苦しいのは苦手なんだよ』と手を振りながら入ってきた。楽にしろ、という意味だ。
ジュリアーノはスタスタと長い脚でフレイヤに近付くと、『迎えに来た』と言ってフレイヤの頬に唇を寄せていた。従者が止める素振りを見せないので、この程度の触れ合いは公認されているということだ。
婚約直前の微妙な時期だというのに、意外と柔軟なイグレシアス公爵にジルベールは少し感心していた。それほど歓迎されている婚約ともいえる。
「ちょっと、いきなり何をなさいますのっ!! 離れてくださいませっ!」
「とりあえずジルベールを牽制しておこうかと」
「ジルベール様にはリリアンナさんという可愛らしい婚約者がいらっしゃいますのよ!?」
「そのリリアンナ嬢とはまだ婚約できてないらしいからな」
ジュリアーノはジルベールを見ながらニヤニヤと笑っていた。しれっとフレイヤを抱き上げて膝に乗せながら座ってしまう。
突然のことに真っ赤な顔で震えているフレイヤを見過ぎないように気を付けながら、ジュリアーノとの最初の出会いに思いを馳せた。
ジュリアーノが帰国する少し前のこと。
騎士団長子息とアネットの逢瀬が子息の婚約者に見つかってしまい、揉み合いになり令嬢が殴られそうになっていたところをジュリアーノが助けてくれたのだ。
騎士の風上にも置けない子息の行動にジルベールは激怒し、令嬢はもちろんジュリアーノにも謝罪するよう促した。
王子の側近が他国の王子に迷惑をかけるなど、そんな無礼が許される筈がない。
当事者である騎士団長子息はジュリアーノを逆恨みしており話にならず、マクシミリアンは王子が頭など下げられるかと言って怒り出した。宰相家子息も、公爵家子息も、そんなに謝罪したいのならばお前が行けばいいと言って説得にすら加わらなかった。
そうしてジルベールはひとり、ジュリアーノの滞在先である王宮の客室へ向かった。ジュリアーノは何か言いたそうな顔をしながらもジルベールを招き入れてくれた。
「お忙しいところ、申し訳ございません。本来なら本人が謝罪に伺うところですが」
「あー、そういう堅苦しいのはいいよ。あんたなら知ってるだろうけど、俺の母親は下級貴族出身の第二王妃で俺にも大した力はない」
気さくな話し方をする人だった。ソファーに雑に腰かけてゆるりと脚を組むと、ジルベールにも楽にしろと言ってくる。
「そういうわけには」
「真面目だねぇ、まぁいいや。バート、お茶」
ジュリアーノは侍従が用意したお茶を綺麗な所作で飲んだ。普段は敢えて無造作に見せているように思えた。
背が高く精悍な顔つきをしており、切れ長の瞳は黙っていると近寄りがたく感じるだろう。一見すると寡黙そうな雰囲気が令嬢たちに受け、噂になっていたのを思い出した。
こうして目の前で話してみれば、気さくでありながら口調とは裏腹にとても高貴で思慮深く、気遣いのできる人だとわかる。
「無能の尻拭いも大変だな。俺が側近と令嬢が揉めた時に居合わせたんで、帰る前に口止めに来たんだろ?」
図星だった。恥ずかしさで身が縮む。
ジルベールは心を落ち着かせるようにお茶を飲むと、深呼吸してから言った。
「殿下も周りの者も、今は少々羽目を外しておりますが、いずれ改心するかと――ジュリアーノ殿下におかれましては」
「だからいいって、そーゆうの。誰かに言うつもりもないし、興味ないから。俺はただ目の前で女の子が殴られそうになってるのとか、そーゆうのが見過ごせなかっただけ。じゃなかったら放っておくよ、あんなの」
そう言ってもらえるのは、正直とても助かるのだけれど。後々問題になりかねない案件をそのままにもできず、しかし、と言いかけたジルベールをジュリアーノが制した。
「まぁ、ただ見逃すってのも、あんたも落ち着かないだろうから、殿下たちが何をコソコソ準備してるのか教えてもらおうか」
「っ、………、」
マクシミリアンたちが計画している公開婚約破棄が既に漏れていることに動揺してしまった。
「いや、そんな悲壮な顔するぐらいならいいけど」
「いえっ、その……。殿下の計画は私が責任を持って止める所存で」
口に出すと羞恥で顔が赤くなるのを止められなかった。ジュリアーノはそんなジルベールを気の毒そうに見て溜息を吐いた。酷い計画に呆れているのだろう。当然だ。一国の王子が王命で結ばれた婚約を公衆の面前で破棄しようとしているのだ。馬鹿としか言いようがない。
「もしも、本当に婚約が破棄なんてことになったら連絡してよ。俺が次の婚約者に名乗り出るから」
ジュリアーノはそう言い残して母国へと帰って行った。あの時は、まさか本当に連絡することになるとは思わなかったし、ジュリアーノ自身も王命の婚約が破棄されるとは思っていないようだった。
ジュリアーノなら約束は守ってくれるだろうと思いながらも不安はあった。彼もまた自分の意思だけで婚約を結べる立場ではないからだ。
万が一のことがあればフレイヤの立場が危うくなる。それがわかっていても、泣きじゃくるリリアンナや、哀しそうに未来を語るリリアンナを見れば、マクシミリアンたちに婚約破棄を決行させるしかなかった。
それが一番手っ取り早く、マクシミリアンもジルベールたちも失脚できるからだ。
リリアンナが巻き戻りを経験するまで、自分たちは恋愛結婚するのだから何の障害もない、誰もが羨むおしどり夫婦になるだろう――などと本気で思っていた。
無条件でリリアンナに好かれていると、好かれ続けると、何も言わずとも愛されていると、愛され続けると思っていたのだ。
間違えたのは未来だけじゃないーーそう気付いた時の衝撃が今も心を揺さぶり続けている。
そんな、たったひとりの大好きな女の子を幸せにできない男が王子の行く末など背負える訳がない。
マクシミリアンかリリアンナか。
答えなど最初から決まっていた。
元々それほど能力があるわけでも出世欲があるわけでもなく、ただマクシミリアンと同じ年に生まれてしまったというだけでお守りを押し付けられたようなものだから。
計画を止めない決断をしたあと、フレイヤには秘密裏に婚約破棄計画を伝えた。驚いたことに彼女は全て承知していて準備は整っていると返事をもらった。
騒動後ジュリアーノからの返信に、ひとり娘であるフレイヤにイグレシアス公爵家への婿入りという形で婚約を申し入れると書いてあり、心底ほっとしたのだった。
「で、ジルベールはいつ婚約するんだ?」
フレイヤの髪をいじりながら言うジュリアーノはとても楽しそうだ。ジルベールが知らなかっただけで、ふたりはジュリアーノの在学中に交流があったらしい。縁を繋いだもののフレイヤの気持ちを無視した形になり、とても心配していたので仲睦まじい様子に胸を撫でおろした。
「迅速に」
「ぷっ、必死だな。いい顔してるじゃん。頑張れよ」
「はい。殿下も、この度はご婚約、誠におめでとうございます」
「ジルベールのおかげだな。ありがとう」
「いえ、私はなにも――それでは、そろそろ失礼致します」
真っ赤なままコクコク頷くフレイヤに頭を下げ、手を振るジュリアーノにも頭を下げ、踵を返した。
「いい加減おろして下さいませ!!」
「やだね」
そんな二人の声を聞きながら扉を閉める。
胸のつかえがひとつ消えたことに安堵しながら、リリアンナの元へと急いだ。
次の日、ようやく早い時間にリリアンナを迎えに行けると弾むような気持でクラスを覗いた。急いた気持ちを嘲笑うかのようにリリアンナは見当たらず、呆然と佇んでいたら親切な女子生徒が家庭科室にいると教えてくれたのでそちらへ向かった。
近くまで来ると中から声変わりしたばかりのような男子生徒の声が聞こえ、思わず駆け寄る。
「リリアンナさん、さくっとやっちゃってもらって大丈夫!」
「ご、ごめんなさいね。それじゃぁ、失礼して」
中を覗いてみれば、男子生徒の前に屈んでいるリリアンナがいた。思わずふたりの間に入って男を殴ってしまいたいほどの衝動にかられ、深呼吸しながらふたりの会話を聞いた。
「動きやすくするために、すこし短めにしますか?」
「えっ、あっ、うんっ、任せるよ」
「なにを任せるって?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「なにを任せるって?」
リリアンナは呆けた顔をして、真っ赤な顔をした男子生徒は首を振っていた。下心はないと言いたいらしい。
「えっと、採寸してて……ジル、今日は早いのね」
「生徒会の引継ぎは昨日までだったからね」
リリアンナがメモになにかを書きつけている間に、男子生徒に出ていくよう視線でうながす。赤い顔を引きつらせながら、コクコク頷いていた。
「採寸が終わったからリリアンナさんは帰ったって言っておくね」
男子生徒が横を通り過ぎる時に、もうひと睨みしておいた。逃げるように立ち去った彼をリリアンナが引き留めようとするので前を塞ぎ、後ろ手で扉を閉める。
「えっと……採寸してただけよ?」
「そうだろうな、リリアンナにとっては」
片付けをしていたリリアンナの手首を掴んだ。澄んだ蒼い瞳の長い睫毛が揺れて、ぽってりとした桃色の唇がすこし開いていた――元々美少女だったリリアンナは巻き戻り後、驚くほど艶っぽくなった。それはジルベールの余裕や怠慢さをいとも簡単に打ち砕いた。
「アンナ、結婚は卒業まで待つ。お願いだから婚約して欲しい」
手首を離して、リリアンナを抱き寄せ柔らかな淡い金の髪に顔をうずめた。
何度願っても頷いてもらえない。
未来でリリアンナを手にかけたジルベールを許せないのかもしれないと思い、聞いたことがあった。けれども、そのことは夢の一部のような、そういうことがあった、という認識が残っているだけだという――それもまた、指輪にかけられた呪いなのかも知れない――それならば頷いてもらえない理由はなんだろう。リリアンナからは好意を感じとれるし、こうして触れていても嫌がる素振りはないのに。
「私は、たくさんの人の運命を変えてしまったの。それが正しかったのか落ち着いて考える時間が必要だわ。もっと自分を成長させてジルベールの奥さんだって、胸を張って言えるようになってから返事をしたいの」
リリアンナの小さな手が背を這う。その手つきは母親のようで――あぁ、やはり巻き戻ってきたのだなと思いながらも子ども扱いされているようで焦りを感じる。
「嫌だ。そんな悠長なことをしている間に、君を他の奴らに取られてしまう」
「ふふふ、私はモテたこともないし、頭も悪いからそんな心配はいらないわ。家も貧乏だし、結婚するメリットが無いもの」
唖然としてリリアンナの髪から顔をあげると、あどけなさの中に包み込むような優しさを覗かせて笑っていた。
リリアンナがモテないなんて、君だけの妄想だよ。
「それにね、私いま学園で学ぶことが本当に楽しいの。生徒はみんな可愛らしくて。頑張って勉強したら、家庭科の先生になれるかも――なんて」
堪えきれず唇を塞いだ。
どうして今までこうせずにいられたのか。
吐息まで甘く、酔いしれる。
掻き抱いた背中は華奢で、これ以上強く抱いたら壊してしまいそうだ。
初めてした恋人のキスは想像以上だった。
唇を離すと、放心したリリアンナの顔が徐々に赤く染まる。次の瞬間、キュっと唇を引き結んだリリアンナがジルベールの頬を叩いた。
おっとりしたリリアンナに叩かれたのは予想外で驚いたけれど、唇に手を当て真っ赤になって震える彼女を見れば、男として認識してもらえたようで嬉しくなってしまう。
学園内で、しかも婚約もしてないのに破廉恥だと怒る彼女が愛おしかった。
「なぜ笑ってるの!」
「アンナが可愛くて」
「お、大人をっ、からかわないで!! 殿下たちのようなことになったらどうするの!?」
「彼らは乱れ過ぎだし、一緒にされたくない。僕たちは正式に婚約こそしていないけれど、将来を約束している恋人同士だよね?」
そう言って混乱しているリリアンナの手をそっと掴んだ。
強引である自覚はあったから、嫌なら拒めるように、ゆっくりと顔を近付けて触れるだけのキスをする。
「駄目って……言ってるでしょう」
「大好きだよ、リリアンナ」
そっと耳元でささやいた。吐息でリリアンナの緩やかなカーブを描く髪が揺れ、濃い肌の香りが立ち上る。
耳を押さえて震え出したリリアンナに追い打ちをかけるように『可愛い。大好き。愛してる』を繰り返して髪やおでこに口づけた。
未来の僕が無口という名の口下手で、自制心が強いという名の臆病者なら――僕は饒舌な勇者になるよ。
抵抗する気が徐々に失せてきたリリアンナを抱きしめながら未来の自分への決別を誓う。
「もう、そのぐらいで」
許して、と小さな声が聞こえたので体を離した。
帰り支度をしている間に気持ちが落ち着いてきたらしく、叩いてしまった頬を放っておけないと言われた。
リリアンナは小さなころからお転婆なクローディアの世話をしていて、小さな手で消毒液を塗ったり包帯を巻いたりしていた。その姿を見るのがとても好きだったし、お嫁さんみたいだと妄想していた痛い時期は長かった。
ようやく結婚できたはずなのに、未来の僕はどうかしている。
頬を冷やす目的で招かれたシャノン子爵家でチャンスを逃すわけもなく、床にひれ伏してアレクシスに婚約を願った。
慌てて止めに入ったリリアンナにも再び婚約を願い、それを見たコートニーが『そこまでするなら認めます』と返事をして、それをリリアンナが駄目だと言い張って。
それでも僕は絶対にあきらめなかった。
愛を囁き続け粘ること半年、案の定モテまくったリリアンナに釣書が殺到して困り果てたアレクシスの説得もあり婚約できた。
フレイヤの婚約が大々的に発表され、その仲睦まじい様子に安堵したのも頷いてくれた要因のひとつだったようだ。わざとリリアンナの前でいちゃついてくれたジュリアーノには頭が上がらない。
その三年後、持参金がないことを理由に時間を置こうとするリリアンナに対し、孫が見たいコートニーとエマの(エマはリリアンナの巻き戻り後とても冷たかった! 子爵家で一番冷たかった!)熱烈な後押しが加わりようやく結婚できた。
もちろん持参金なんて要らないし冷遇なんかするわけがない。
さらに一年後、長男のイアンが生まれ、あまりにも似ていて驚いて。
さらにそれから――
仲睦まじく過ごしていた僕たちの元に娘が生まれ、リリアンナに似過ぎていたせいでお嫁に行かせたくなくなった。
侯爵位を継いだ後も、社交シーズン以外は領地にいて新製品の開発に勤しんでいる。新しく作った生キャラメルが王室御用達になり王都で飛ぶように売れた。シャノン子爵家にも販売を許可したおかげでリリアンナの実家も潤ったようでなによりだ。
あれから20年。
僕は今も、可愛い奥さんと子どもたちに囲まれ幸せに暮らしている。
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