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私は無知で愚かでした。
しおりを挟む豪奢なソファーに勧められるまま座ると、音もなく近付いてきたメイドが紅茶を出してくれる。侯爵夫人時代にもなかなかお目にかかれなかった高価なカップをおそるおそる持ちあげた。
「リリアンナさん、そんなに畏まらずともよろしくてよ」
先日、ダンスホールで聞いたばかりの声に背筋を伸ばすと、フレイヤが声を上げて笑った。
「クローディアの妹は存外面白いのね」
「そうか? ふわふわして綿菓子みたいで可愛いだけだと思うが」
クローディアは自慢げに胸を張って、紅茶を無造作に飲んだ。屋敷はもちろん置いてある物全てが豪奢、そんなイグレシアス公爵邸に居てもクローディアはクローディアだった。うらやましい。
「それで、聞きたいこととはなにかしら?」
「あー、これは内密なんだが、ここにいるリリィは20年ほど時間の巻き戻りを経験したらしくてな」
「……時間の巻き戻り」
ふぅん、とフレイヤは顎に細い指を当てて小首を傾げた。
「どこからどう見ても可愛らしいお嬢さんにしか見えませんけれど」
「まぁ、そこは信じられないかもしれないがーーその未来でな、リリィがフレイヤにこっぴどく馬鹿にされたらしくて、ずいぶん落ち込んだみたいでなー。どうせなら本人に聞いてみれば案外スッキリするんじゃないかと思ってな」
「お姉様!!!」
「なんだリリィ、いつも通りお姉ちゃんと呼んでおくれ」
リリアンナはぶんぶん首を振った。
ジルベールとの結婚式の際、クローディアの友人として招かれていたフレイヤに――驚いたことにクローディアとフレイヤは乗馬仲間だった――こっぴどく馬鹿にされたと先に言われてしまえば身も蓋もない。
リリアンナは、ダンスホールから颯爽と立ち去るフレイヤを見てから、自分の思い込みがあったのではないかと感じたのだ。毅然とした態度のフレイヤが友人の妹に嫌味を言う姿が一致せず、それをクローディアに相談してみれば、本人に聞いた方が早いと言って瞬く間に約束を取り付けてしまった。
本人とはいえ、未来のことを聞くなんて……。
断罪(などとマクシミリアンたちは呼んでいたようだ)の後でお邪魔するのは失礼だとクローディアに言うと『気にしてないぞ、むしろ面白がっていたから』などと言うので半信半疑で来てみたのだけれど、フレイヤは驚くほど凪いでいた。
「それで、わたくしはなんて言ったのかしら?」
「可愛らしい侯爵夫人ですこと、子爵家がお似合いですのにお可哀そう――だったか?」
ここまで言われてしまえばリリアンナは頷くしかなかった。
結婚してからのすれ違いや巻き戻りまでの顛末を話す間も、フレイヤは静かに聞いてくれた。その綺麗な瞳に蔑みはなく、リリアンナを嘲笑うような気配は感じられなかった。
話し終えたリリアンナに優しく微笑んだフレイヤは、感心したように頷いたのだった。
「クローディアの妹なのに真面目ですのね」
「失礼なやつだなー。私だって真面目だろう」
「誰がなんですって? いやだわ、なんだか耳がおかしく」
フレイヤはおどけたように両耳を塞いで笑った。
堂々とダンスホールから去った姿からは想像できないほどの可愛らしい笑顔で。
「で?」
「そのままの意味かしら?」
「だそうだ」
なんと端的な。
リリアンナは頭を抱えたくなった。
どうやら本当にこのふたりは気が合うらしい。
「こんなに無垢で可愛らしいお嬢さん、侯爵家なんて面倒な家に嫁がないほうが幸せではなくて?」
「だよな」
「えっ、」
リリアンナは首を傾げた。
「リリィ、フレイヤは常々、公爵令嬢なんて辞めたいって言ってるんだよ。公爵令嬢じゃなければ、ボンクラ第三王子なんて押し付けられないだろ? 災難としかいいようがない。災難といえばジルベールもだな」
リリアンナはさらに首を傾げた。
「リリアンナさんは、あまりジルベール様の立ち場をご存知ではないのかしら?」
「未来でも、あまり詳しくは知らないようだな」
「まぁ。それなら今のわたくしからもご忠告いたしますわ。無能と無能に挟まれ、苦労しかなさらないと――殿下が婿入りなさるから、今回は安心ですけれど」
アネットと関係していた者たちは学園内での不純異性交遊という醜聞により各家から放逐されることが決まった。アネットは自ら娼館行きを望んでいるらしく、そちらは関係者が訪れてしまう懸念があり審議中とのこと。マクシミリアンは女帝が治める一妻多夫の辺境の南国へ婿入りすることが決まった。
「陛下のお渡りはあるかしら?」
「南国の男はお強いらしいからな。熾烈な争いになるだろうなぁ」
ふたりの会話は『この紅茶おいしいですね』ぐらいの軽いものだった。
以前のリリアンナはジルベールの立場など何も知らずに結婚した。マクシミリアンの側近という華々しい場所にいる彼を誇らしく思っていたのだ。
ジルベールの口から、マクシミリアンはもちろん側近たちの悪口など聞いたことがない。仕事のちょっとした愚痴すらこぼさなかった。
周りがそれほど無能だったのなら、あの頃のジルベールは王城内でどれほど苦しんでいたのか。壇上で醜態を晒すマクシミリアンを思い返せば、ジルベールの苦労の一端を見たような気がして胸が苦しくなった。
自分の苦しみばかりに心を奪われ、ジルベールの本当の苦しみに心を寄せることさえなかった。
最低限の安らぎすら与えてあげられなかった上に、理解してくれないと駄々を捏ねていた。なんと愚かで幼稚なことだろう。
* * *
新入生歓迎会での婚約破棄騒動、並びに学園内での秩序の乱れを理由にマクシミリアンとアネットは退学。アネットと関係のあった者たちも自主退学となった。
何人か教師も退職したので、マクシミリアンやアネットに融通を利かせていた教師がいたとか、そもそもアネットと関係していた教師がいたとか、そんな噂話が後を絶たなかった。
そんな中、生徒の関心の矛先を変えようと秋に行われるはずの学園祭が春へと変更されることになった。各クラスの出し物を決めたり準備に追われているうちに、徐々に学園内での噂話が薄れていくのをリリアンナも感じた。
リリアンナのクラスでは仮装喫茶をやることになり、裁縫が得意なリリアンナは衣装作りに立候補した。担当するのは王様、お姫様、メイドに執事。既製服もあるが予算の関係で手作りすることになった。ダイヤではなくガラスのそれらしい石を安いジャケットやワンピースに付けていく作業を想像して、リリアンナはわくわくしていた。
今日は家庭科室で王様役の子の採寸をすることになっており、いそいそとメジャーやメモを用意して準備した。
巻き戻る前のイアンぐらいの背丈の男の子で、笑うとえくぼが出てかわいらしいアベル君は明るくて面白いのでクラスの人気者だ。
ネックから肩幅、袖丈、裄丈と測り、ジャケットを脱いでもらって胸囲と着丈、胴囲まで測る。
そこからはちょっと申し訳ない気持ちになりながら腰囲と総丈を測らせてもらった。あとは股下のみ、となったところで躊躇してしまった。
「リリアンナさん、さくっとやっちゃってもらって大丈夫!」
「ご、ごめんなさいね。それじゃぁ、失礼して」
アベルの前に屈んでメジャーを当てる。リリアンナにしてみれば、イアンの股下を測っている気分なのだけれど、年頃の男の子としては恥ずかしいだろう。さっさと終わらせなければと思うと少し焦ってしまう。
「動きやすくするために、すこし短めにしますか?」
「えっ、あっ、うんっ、任せるよ」
「なにを任せるって?」
上ずったような声を出したアベルに被さるように、ジルベールの声がした。リリアンナが顔をあげると、アベルとリリアンナを交互に見たジルベールがもう一度『なにを任せるって?』と言った。
「えっと、採寸してて……ジル、今日は早いのね」
「生徒会の引継ぎは昨日までだったからね」
扉にもたれて腕を組むジルベールは明らかに機嫌が悪い。測っていた数字をなんとかメモに書きつけながら立ち上がる。アベルは『採寸が終わったからリリアンナさんは帰ったって言っておくね』と言って走り去ってしまった。
「あ、ちょっと」
手を伸ばしたリリアンナの前にジルベールが立ち塞がる。ご丁寧に家庭科室の扉まで閉めた。
「えっと……採寸してただけよ?」
15歳のリリアンナだったらジルベールがなぜ怒ってるのか理解できなかっただろう。さすがに35歳のリリアンナにはわかる。
「そうだろうな、リリアンナにとっては」
ジルベールは片付けをしていたリリアンナの手首を掴んだ。決して痛くはなかったが、こんな風に感情を剥き出しにされることは今までなかったので驚いてしまう。
ジルベールはいつだって兄のように優しく見守ってくれる少し無口な大人の男性だったから。
「アンナ、結婚は卒業まで待つ。お願いだから婚約して欲しい」
ジルベールは手首を離してリリアンナを抱き寄せた。以前の婚約期間中、こんな風に強い意志をもって抱きしめられたことなどない。濃いジルベールの香りにくらくらした。
大好きなジルベールにこれ程の気持ちを向けられてしまえば、やり直す気持ちは自然と湧いてくる。アネットとのことが解決したこともあり、婚約を避けようとは思わなくなっていた。
けれども。
「私は、たくさんの人の運命を変えてしまったの。それが正しかったのか落ち着いて考える時間が必要だわ」
フレイヤは婚約破棄があったにもかかわらず、これで良かったのだと、リリアンナが責任を感じることなどないのだと笑ってくれた。王子妃教育を受けていた公爵令嬢の次の婚約が、そんなに簡単に決まるとは思えず、リリアンナの胸は切なくなった。
以前のリリアンナは無知で愚かだった。それがすれ違いの原因だとわかってしまった以上、はいそうですかと婚約に頷くことはできない。
ジルベールの幸せがかかっているから。
今度こそ、ジルベールを支えたいから。
「もっと自分を成長させてジルベールの奥さんだって、胸を張って言えるようになってから返事をしたいの」
なだめるようにジルベールの広い背中をゆっくり撫でた。最後に見たイアンよりも、ずっと男らしい体つきだった。
「嫌だ。そんな悠長なことをしている間に、君を他の奴らに取られてしまう」
「ふふふ、私はモテたこともないし、頭も悪いからそんな心配はいらないわ。家も貧乏だし、結婚するメリットが無いもの」
大好きなジルベールを、婚約という紐で縛りたい欲はリリアンナにもある。こうして抱きしめられれば心は震えるほど喜んでしまうのだから。
けれども、それでは駄目なのだ。同じことを繰り返さないためにもリリアンナ自身が変わらなければならない。
「それにね、私いま学園で学ぶことが本当に楽しいの。生徒はみんな可愛らしくて、頑張って勉強したら、家庭科の先生になれるかも――なんて」
思って――
その声はジルベールに塞がれ、吐息と共に吞み込まれてしまう。
そこには、リリアンナの知らない劣情に濡れたジルベールがいた。
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