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どうやら私の勘違いのようです。

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 子爵邸まで送り届けてくれたジルベールはとても紳士だったのに、泣き腫らしたリリアンナを見たコートニーが彼を扇子で押して邸から追い出してしまった。
 肩を落として帰って行く姿がいつまでも心に残り、落ち着きを取り戻した後からはジルベールときちんと話し合うべきだという結論に辿り着いた。
 この時代のジルベールには何の非もなく、恋人とも呼べる関係の幼馴染から突然、婚約できないなどと言われれば戸惑うのも当然だろう。

 両親が反対しなかったこともあり、子爵邸の応接室で話をすることになった。
 ふたりきりにして欲しいとお願いしておいたので、リリアンナがお茶を淹れてジルベールの前に置いた。

「ありがとう、とても綺麗なお茶だね」

 貴公子然とした綺麗な所作でお茶を飲む姿に、懐かしさと切なさがこみ上げる。リリアンナは最近そんな感情ばかりになる自分に気付いて少し笑った。
 その笑顔を、食い入るようにジルベールが見ていたことには気付かなかったけれど。

「どうしてもジルベールに飲んで欲しくて取り寄せたの」
「良い香りだし、口の中がさっぱりするね。澄んだ緑色がとても素敵だね」
「やっぱり……同じことを言うのね。ジルベールがとても好きだったお茶なのよ」
「好きだったってことは、僕はこのお茶を嫌いになるの?」

 不思議そうな顔で尋ねるので、リリアンナは少し戸惑った。
 あらかじめ手紙で巻き戻りについては伝えておいたけれど、内容が内容なので詳細は書くことができなかった。

「嫌いになるのではなく、こうして一緒にお茶を飲むことがなくなってしまったの」
「どうして僕たちは、そんなにも仲違なかたがいしてしまったのだろう。想像がつかないな」

 寂しそうに眉を下げた顔はあまりにも幼く見えた。イアンそっくりのジルベールを抱きしめたくてたまらなくなる。
 けれども。
 イアンのことを抱きしめなかった私が、ジルベールを抱きしめていいのだろうか――

「未来の僕が君にそんな顔をさせたんだね」

 ジルベールの言葉にリリアンナは首を振った。
 ふたりの間にあったことをぽつぽつと語る間も、ジルベールはずっと眉を下げたまま静かに聞いていた。心を落ち着かせるように深呼吸してから、巻き戻りの原因になった出来事を話す。

「なんて最低なんだ未来の僕は!! 君を理解しようともせず、寂しい思いをさせた挙句、首を絞めるだなんて!!」
「私が悪かったのよ」
「アンナは悪くない!!」

 思わず小さい頃の愛称を出してしまったジルベールが口元を押さえて赤くなるのを見て、肩の力が抜けていくのを感じた。こうやって話せばちゃんと聞いてくれるのだから、もっと話をすればよかったのだ。
 怖がって逃げてばかりいては何も変わらないのだ。恐れずに本当に聞きたいことに踏み込まなくては、知ることのできない真実がある。

「巻き戻りなんて荒唐無稽な話、信じてくれるの?」
「もちろんだよ」
「信じてもらえないと思ったわ」
「アンナは嘘が下手だから。嘘ならすぐわかるよ。何年の付き合いだと思ってるの」
「生まれたときからだわ」
「そうだね、気付いたら一緒にいた」

 グレンジャー侯爵家の領地は広く放牧が盛んで乳製品が特産で、領地が隣だったシャノン子爵家はお隣のよしみで格安で分けてもらっていた。詳しい経緯はわからないものの先々代ぐらいから特に仲良くなったらしい。本来なら気安い関係になるのが難しい身分なのだからラッキーだったと思う。

「グレンジャー侯爵家の皆さんが大らかなおかげね。そうじゃなかったら、私はジルと仲良くなんてなれなかった」
「それを言うならシャノン子爵家だって大らかだよ? あの頃は馬車だったから、馬を休ませてもらったり、ご飯をご馳走になったり。宿屋か休憩所みたいな扱いをしてたんじゃないかってヒヤヒヤするよ」

 ジルベールはそう言って、お茶をひとくち飲んだ。リリアンナも口にする。すっかり冷めてしまったけれど、ふたりで飲むお茶はこんなにも美味しかったのかと、胸の中を何度目かの後悔が押し寄せた。

「ねぇ、アンナ」
「なぁに?」
「僕たち、やり直せないかな」
「……そうね……そうできたらいいのだけれど」

 いつから好きだったのか、そんなことすら思い出せないほど一緒にいた。これからもずっとそうなのだと、ただ幸せになれると疑いもせずに信じていたのだ、

 そうではないと知ってる今、ジルベールとアネットの関係をハッキリさせなければならない。それがわかっているのに、臆病な自分が顔を出す。冷たくなる指先を擦り合わせて、リリアンナは暗い顔をした。

「未来の僕が許せない? 首を絞めるだなんて、そんな酷いことをしたなら当然か。怖い思いをさせてごめん……今の僕が謝っても、アンナの傷は癒えないだろうけど」

 ジルベールが目を伏せた。長い睫毛が影を作り、顔色をいっそう悪く見せた。

「そのことなんだけどね、実はあまり思い出せなくなってるの」
「えっ?」

 ハッと目を上げたジルベールが、驚いたように口を開けた。
 リリアンナは頷いて続ける。

「もちろん結婚生活のことは覚えてるわ。でもね、あの日のあのことだけは夢の一部みたいな感じで。日に日にそれが強くなっていて。いまでは“そういうことがあった”という認識、それだけなの。不思議よね」

 忘れてしまったのだから怖くない。
 目を覚ました時でさえ、恐怖よりジルベールを想う切なさが占めていたのだ。

 それよりも――

 勇気を振り絞り、震える手を必死に握りしめた。

「ジル、あのね……」
「……うん」
「あなた、未来で浮気するのよ」
「まさか!! 僕ってそんなに最低なの!? その挙句、アンナのことを!?」

 ジルベールの顔は真っ青だった。体が小刻みに震えてもいるようだった。

「本当のことを教えて欲しいの。今も……他に好きな人がいるんじゃないの?」
「僕が好きなのは、昔からずっとアンナだけだよ」

 くしゃりと歪ませた顔は、もう少し何かあったら泣いてしまいそうなほどで、それを見たリリアンナの胸がギュっと痛む。思わず自分の胸に手を当てながら聞いた。

「未来を含めて、ちゃんと聞いたのは初めてかも」
「未来でも? それは情けないな……本当にごめん。こうなる前の僕は確かに言わなくてもわかるだろうって思ってたよ」

 悔しそうに歯を食いしばり必死に感情を抑えようとしているようだ。その自制心がより一層、彼を追い詰めたのかもしれない。

「うん、私も口に出さなくてもわかるだろうって、いつも思ってた。そうしているうちに、私たちはすれ違ってしまったの……」
「……ねぇ、アンナ。僕は誰と浮気したの?」
「アネット・フランツさんよ」
「あり得ない!!!」

 思わず机を叩いたジルベールは、ごめんと謝って机から手を離した。
 はじめて見る激しさにリリアンナは目をぱちぱちと瞬いた。

「す、好きなんじゃないの?」
「彼女のことは心の底から軽蔑している」
「そんなに?」
「大っ嫌いだね」
「ジルがそんなに怒るところ、初めて見たわ」
「僕も驚いてる。何より未来の自分に一番腹が立って。僕は本当に彼女と? 僕がそう言ったの? 現場でも見た?」

 リリアンナは小さく首を振り、『噂を聞いただけよ』と答えた。
 勘違いなら、未来のリリアンナは馬鹿だ。夫の浮気を許す貴婦人気取りをしていた道化だ。
 恥ずかしさと情けなさで泣きたいような笑いたいような気持ちになった。

 ジルベールも心の置き所が難しいようで『もう一杯、お茶を淹れて欲しい』と甘えたように言う。立ち上がって、ジルベールの好きな少しぬるめのお茶を淹れた。

 手渡したお茶をいっきに飲み干した後、顔をあげたジルベールはどこか吹っ切れたような、覚悟を決めた凛々しい表情をしていた。

「彼女は未来でも、だった?」
「え、ええ……確かご結婚はされていなかったかと」
「マクシミリアン殿下は?」
「フレイヤ様とご結婚されたわ」
「なるほど……。どうやら殿下たちの計画は、止めるのではなく遂行させたほうがいいらしい」

 ジルベールはそう言って、リリアンナが一度も見たことがない『悪い顔』で笑ったのだった。





 * * *





 新入生歓迎会と書かれた入り口を、ジルベールにエスコートされながらくぐった。
 制服姿ではあったけれど、細身でしなやかなジルベールは長身で目立つ。隣に並ぶリリアンナのことを知らない上級生は『誰あの子』と不躾な視線を寄越した。

「大丈夫?」
「大丈夫よ」

 できるだけ自然に見えるように微笑んでから頷いた。
 以前はもっと明け透けな嘲笑いや蔑みにさらされていたのだ。今は隣にジルベールがいてくれるだけで心強い。

 ダンスホールに全校生徒が集まっているせいで密度が高い。窓は開け放たれているが、少し蒸し暑く上着を脱ぎだす生徒が多かった。壇上にはジルベールを除いた三年生の生徒会メンバーが集まっていた。
 多くの生徒がワッと声を上げた瞬間、生徒会メンバーの中心から生徒会長の第三王子マクシミリアン・フィネガンが、アネット・フランツと共に前に出た。

 周囲は思わずといった感じで拍手をしていたが、リリアンナは演技でも拍手をする気になれず、ただ茫然と見上げていた。

「新入生諸君、今日は新入生歓迎会ということで、さぞ楽しみにされていたことだろう」

 マクシミリアンの開会の挨拶が始まった。誰もが隣に寄り添い腕を組むアネットとの密着した姿に戸惑いながらも聞いていた。

「君たちが入学して一か月が経ったが、学園はどうだろう? 君たちにとって過ごしやすい場所になっているだろうか? そうであれば生徒会長として嬉しく思う。勉学だけでなく、友情も、そして愛も育んで欲しいと切に願う――そこで」

 ねっとりとした視線をアネットに向けた後、マクシミリアンは顎を上げ不自然なほど胸を張った。

「私、マクシミリアン・ミディトゥリムは、フレイヤ・イグレシアス公爵令嬢との婚約を破棄し、アネット・フランツ男爵令嬢と婚約することをここに宣言する」

 突然の宣言に、生徒たちは静まり返る。視線はフレイヤ・イグレシアス公爵令嬢に注がれた。

「フレイヤ、貴様は幾度となくアネットに暴言を吐き、時には突き飛ばして怪我を負わせたが、その謝罪もない。非人道的な行いは決して許されるものではなく、到底、王族の一員として迎え入れることはできぬ。よって婚約は破棄させてもらおう」

 マクシミリアンは勝ち誇ったように笑う。

「左様でございますか」
「本来なら貴様のしたことはよくて停学、場合によっては退学だというのに謝罪もなしか」

 マクシミリアンが苛立ちを隠さずに言った。

「謝罪? 何についてです? そちらのご令嬢が殿下だけでは飽き足らず、宰相家ご子息やら公爵家ご子息、騎士団長ご子息と学園内で淫らな行為にふけるので汚らわしいと申したまで。学則に不純異性交遊の禁止がございますし、退学するのはどちらでしょうね?」

 フレイヤの軽やかともいえる口調が、内容の下劣さを際立たせた。

「なんだと!!!」

 顔を真っ赤にして唾をとばしたマクシミリアンを見て、腕を組んでいたアネットが顔を引き攣らせた。

「それから」

 フレイヤは凛とした声で制した。
 リリアンナの周囲にいた生徒の背筋が滑稽なほどピンと伸びた。
 決して大声ではないのによく通る声で、この場は完全に支配されてしまった。

「わたくしが突き飛ばして怪我を負わせたのではなく、そちらのご令嬢と淫らな行為にふけっているところに、偶然、殿方の婚約者が居合わせてしまい、その光景に驚き揉み合いになったとのこと。理由はわかりませんけれど、詳細の明らかな写真などもあるようですし、裁判になればよい証拠となりますわね、ホホホホホ」

 フレイヤは高笑いしながら、美しい銀髪をふわりと広げて踵を返した。
 その堂々たる姿に生徒たちは慌てて道を譲るのだった。



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