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私の成績は下の下でした。

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 婚約前の顔合わせにすら出席していなかったクローディアが、アレクシスの知らせを受けて帰宅したのは巻き戻りから3日経った日のことだった。

 家族ぐるみで仲がいいのに今さら顔合わせって意味あるの?と書かれた手紙に唖然としたのを思い出した。
 15歳のリリアンナにとっては数日前のことだけれど、今のリリアンナには懐かしくも切ない遠い日のこと。あの頃はなぜ出席してくれないのか拗ねたのだけれど。

 黒髪をポニーテールにして、乗馬服で入ってきたクローディアは珍しく不安そうな顔をしながらリリアンナを抱きしめた。

「リリィ、体は大丈夫なのか?」
「むぐっ、お姉ちゃん、馬臭いよ」

 リリアンナは、抱きしめられた胸元から必死に顔をそむけた。

「そんなはずはないだろう? パトリックのいい匂いしかしないじゃないか」
「そのパトリック臭が凄いよ、お風呂入って来て」

 リリアンナを抱きしめて離さないクローディアをなんとか引きはがすと、あらかじめ沸かしておいた風呂に放り込んだ。馬で帰宅する予感がしていたので昼間だというのに沸かしておいたのだ。貧乏子爵家には贅沢なお湯だというのに、クローディアは頭から水をかぶっただけのような恰好で出てきてしまい、溜息が出てしまった。

 洗いっぱなしのクローディアの髪を拭きながら巻き戻りの話をすれば、最低最悪な不貞糞野郎だなと悪態をついた。クローディアはジルベールに対して同じ歳のせいか昔から容赦がない。

「それでね、お姉ちゃん、折り入って相談したいことがあるの」
「どうした?」
「私にこの家を継がせて欲しいの」
「ハァ!?」

 クローディアは黒曜石の瞳を見開いて、口をあんぐりと開けた。そんなクローディアを見ながら拭き終えた髪に櫛を通す。ストレートの綺麗な黒髪をうらやましく思っていた日々が懐かしい。

「婚約できない理由にしたいの」
「そんなのジルベールの不貞のせいにすればいいじゃないか」
「駄目よ、それは未来のことだもの。それに、未来でも現場を見たわけでも問い詰めて聞いたわけでもないし」
「そういう時はな、胸倉を掴んで揺すりながら聞けばいいんだよ。私と泥棒猫、どっちが大事なんだって」

 胸倉を掴む仕草をしながら言うので、思わず笑ってしまった。
 クローディアと話せばいつもこんな調子だった。破天荒というかお転婆というか。とにかく口は悪いし、ストレートな物言いは誤解を招く。けれども、そんなクローディアだからこそ話していると気持ちが楽になった。悩みが阿呆らしくなるという意味で。

 結婚後のリリアンナも、もっとクローディアに相談すれば良かったのだと思う。
 こんなこと言えない、実家に迷惑がかかる、私はもう侯爵家の人間なのだから。
 そんなことばかりに気を取られていた。

「お姉ちゃんに好い人がいるってことにして欲しいの」
「何っ!?」
「フリでいいの、その人は婿入りできないから、私がこの家を継ぐの。そうしたら嫡男のジルベールは諦めざるを得ないでしょう?」
「私に演技は無理だ」
「大丈夫よ、どうせただの言い訳だし。本当にそうならなくていいの」
「そんな嘘をリリィにつかせたくない。絶対に嫌だ」

 思いがけないクローディアの優しさに思わず笑みが零れる。
 髪を梳いていたリリアンナの手にクローディアの手が重なった。
 真摯なまなざしがリリアンナを見つめる。

「リリィ。本当にジルベールのことはいいの? 無理してない?」
「うん。誰も幸せになれないって知ってるから」
「変えられるとしても?」
「お姉ちゃん、ジルベールには他に好きな人がいるのよ?」
「本人から聞いたわけじゃないんだろ?」

 リリアンナは頷いた。
 直接聞くことなんて出来なかった。事実だとジルベールの口から聞くのが怖かったから。
 巻き戻った今でも、ジルベールにアネットのことを聞くのは怖い。

 だから私は、未来から逃げるのだ。

 黙ってしまったリリアンナの手を、重ねているクローディアの手が強く掴んだ。

「そんなことをして、本当に後悔しない?」
「しないよ。それに戻ったからこそ、したくても出来なかったことをするの。あのね、貴族学園に通うの。お父様も持参金が浮いたから通っていいって」
「……………………そうか」

 クローディアはたっぷりと間を空けてから、神妙な顔をして頷いた。




 * * *




「王立学園ならジルベールと離れられたのになぁ」

 巻き戻りからは一度もジルベールに会っていない。
 アレクシスが断っているようだった。
 できればクローディアのように全寮制の王立学園に入りたかったのだが、巻き戻りから過保護になったアレクシスが反対したのでそれは叶わなかった。

 リリアンナが必死に考えた家を継ぐという計画も、アレクシスに猛反対されてしまった。その嘘はグレンジャー侯爵家に対して失礼過ぎると言われ、恥ずかしくてたまらなかった。
 アレクシスの話ではグレンジャー侯爵夫妻はリリアンナがマリッジブルーになっていると思っていて、若いのだから急がなくていいと言ってくれているらしい。
 とりあえず今はそういう事にして、心を休めるようにと、アレクシスはリリアンナの背を撫でながら諭してくれた。

 学園に通うにあたり、とてもガッカリしたことがある。
 リリアンナの成績が非常に悪かったことだ。
 学園に入らず家庭教師に多少教わった程度で結婚してしまったリリアンナにとって、学園の編入試験はとても難しかった。付け焼刃の勉強と少々多めの入学金を支払うことでなんとか入学できたけれど、一番下のクラスの中でも下位だという。頑張らないと退学になってしまうだろう。

 息子のイアンが優秀だったのは、ジルベールの血筋のお陰だったのだと改めて思う。

 侯爵家に招くために貴族の方々の名前や顔、家系図から食事の好みまで、会話や食事の配慮のために覚えるのはとても苦労した。学園に入ってみればそれが無駄だったことに嫌でも気付いてしまう。高貴な方々は、この頃から人脈という基盤を築いていたし、リリアンナが必死に覚えたそれらも苦労などせずとも身につけていたのだ。

 茶会など開かなくともジルベールは王城勤めで高給取りで地位も盤石だったのだから、必要以上の社交は勢力図に影響が出てかえって迷惑だっただろう。『君の理想の侯爵夫人は古過ぎる』と何度も指摘されていた。

 学園に入れば理解できた言葉も、あの頃のリリアンナには理解できなかった。ジルベールの綺麗な顔が歪むたび哀しみを感じて意地にもなっていた。
 
 そこまでしてのに、陰では下位貴族上がりの成金夫人と言われていたのだから目も当てられない。教養のあるご婦人方からしたら、貴族学園どころか比較的簡単に入れる王立学園すら卒業していないリリアンナなど最初から蔑みの対象だったのだ。

 リリアンナは侯爵夫人時代の自分を思い出し、ため息を吐いた。学園帰りの日課になっているエマのお見舞いにトボトボと歩いて訪れた。
 無事に手術を終えたエマは、入院中に弱った足腰のリハビリの真っ最中で、その姿を見守ったり、リンゴを剥いて食べさせたり、温かい手を握ったりして過ごす。
 会えなくなって随分経ったエマにこうして会えるのは巻き戻って良かったことのひとつだ。

「私、あまり記憶力が良くなくて、それでね」

 その日あったことを報告する。最後に必ずといっていいほど『お嬢様は頑張ってますね』と頭を撫でられた。エマの優しさは、疲れ果てていたリリアンナを真綿に包み癒やしてくれた。
 クラスにも馴染んできたので、明日はお友達と買い物に出かけるのだと話したら、帰りにお小遣いを渡そうとしてくるので困ってしまった。
 リリアンナにとっては祖母のような存在とはいえ使用人に貰ってはいけない。そんな風に言えば『今は侯爵夫人じゃないんですからいいんですよぉ~』と一蹴されてしまった。

 最後に握らされたお金をお財布に大切にしまって、エマに何を買ってこようか考えながら歩いていた。考えごとに夢中で脇に停車していた車からジルベールが出てきたことに気付かず、手を取られ驚いている間に引きずり込まれてしまった。声を上げようとしたけれど、久しぶりに見た若いジルベールが、あまりにもイアンに似ていて声が出なかった。

「手荒なことをしてすまない。こうでもしないと会わせてもらえないから。学園では棟が違うし、朝からこんな話はできないし、帰りは生徒会の仕事もあって、終わった頃には君は帰ってしまっているし。ここの病院にエマが入院してると聞いたから、なりふり構っていられなくなって待ち伏せしてしまった。本当にごめん」

 ジルベールの憔悴した顔が、家を出る前のイアンにそっくりだった。息が詰まるほどに。

 イアンは貴族学園に首席で合格していたけれど、それを辞退して全寮制の王立学園へ編入してしまった。嫌いな母とこれ以上一緒に暮らしたくなかったのだ。小さな頃から少しも褒めずに育てたのだから仕方がないと思う。

 自分は甘やかされて育ったというのに酷い話だ。
 気付いた時には後戻りできないところまできていた。

「泣くほど僕が嫌いになった?」

 傷ついた顔をしたジルベールに向かって、ゆるゆると首を振った。

 ジルベールを嫌いになったことなど、結局、一度もないのだ。
 幼い頃から大好きで大好きで、徐々にふたりの距離が開いていく中で、哀しさはあっても憎しみはなかった。言葉にはできなくてもジルベールのこともイアンのことも心の底から愛していた――愛していたことを、思い出した。

 リリアンナがあきらめてしまった大好きなジルベールが目の前にいる。

 イアンと同じ顔をして――――

「イアンがっ」
「イアンって誰!? リリアンナの想い人?」
「こっ、子供」
「えっ、、、」

 絶句するジルベールを見て間違えたのだとわかるが、説明しようと口を開くと涙が止まらなくなってしまう。
 絶句の表情は拒絶にも似ていて、あの頃のジルベールのようで心は容赦なく抉られた。

「ちがっ、うっぐ……うえっ……」

 感情が嵐のように入り乱れ、何が現実で何が過去で何が未来なのか区別がつかない。

 リリアンナを諫めるジルベールの顔が、歪んだ顔のイアンが、哀しそうなジルベールが、苦しそうなイアンが、責めるジルベールが。

 若いリリアンナの体が、心を激しく揺さぶる。

 目の前にいるのはジルベールなのか、イアンなのか――息が、苦しい。


「リリアンナ、落ち着いて、ゆっくり、息を吐いて、……そう、ゆっくり、大丈夫だから」

 泣きじゃくるリリアンナの背を優しくさすり、何度も声をかけ、時には背中をポンポンとあやすように叩く。そのリズムに合わせているうちに、徐々に呼吸が落ち着いてきた。

 ジルベールはそれ以上何も聞かず、運転手にシャノン子爵邸に向かうよう指示した。

 到着するまでのあいだ優しく手を握ってくれた。なだめるようにジルベールの親指が手の甲をそっと撫でる。恋しかったジルベールの大きな手に安心感を覚え、その肩に寄りかかりウトウトしてしまった。

 長らく欠けていたリリアンナの心の箱が、ジルベールの香りと温もりで満たされていくのを感じていた。


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