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96.ヘンリエッタ
しおりを挟むレイは白目をむいていた。
なぜなら、目の前でフィルがヘンリエッタにずっと愛を囁いているからだ。
(そんなに好きなら、なぜこんな長い期間迷ってたんだ……)
今現在、フィルは吹っ切れた顔をして、ヘンリエッタを全力で口説いている。
結婚はすでに決まっているというのに。
ヘンリエッタも苦笑しているではないか。
しびれを切らした宰相がコホンとひとつ咳ばらいをした。
「あっ、ロジェさまいらしたんですね」
「ずっと居ましたが?」
「申し訳ありません、ヘンリエッタさましか見えませんでした」
今度は宰相が白目になりかけた。
瞬時に顔を引き締めていたが、僅かな表情の変化をレイは見逃さなかった。
「ではヘンリエッタさまが降嫁される日取りですが、三か月後ということでよろしいでしょうか」
「ええ」
ヘンリエッタがようやく口を開いた。
本来であれば妊娠の兆しがないと示すために半年ほど置くのだが、側室も含めて三か月で十分だろうと判断された。
半年後の戴冠式にはフィルと夫婦として参列することになる。
「お二人には酷なようですが、ご懐妊は戴冠式後でお願い致します」
宰相は表情を変えず事務的に伝えた。
三か月後の降嫁の意味が理解できない人が多く、王家の子だと主張する輩が現れないとも限らない。
「もちろんです。わたくしはフィルさまにご迷惑をおかけしたくありません。一年は置くつもりです」
「そんな!!」
思わずフィルが声を上げた。
先ほど、マノロ殿下とは何もなかったと、フィルに真実が伝えられたばかりである。
実に悲壮感が漂っていたが、ヘンリエッタの意思の強さは半端ではない。
(何せ、王家を相手に一人で闘ってきた方だからな……)
不本意なマノロ殿下との婚約中、ヘンリエッタはマノロ殿下が身長コンプレックスであることに気付いた。
そこからは様々な文献を読み漁り、自身の身長を伸ばす努力を続け、成長期を終えたころにはマノロ殿下よりも背が高くなっていた。
(おそらくは、そのようなことをしなくてもマノロ殿下より背が高くなっていた可能性はあるのだけれど)
レイが調べた限り、身長は両親からの遺伝であることが多いとされていた。
ヘンリエッタの父、エスコラ侯爵も背が高い。
侯爵に似ているのだと言われれば頷ける話である。
それに、背が高いと言っても、大男のフィルを前にすると、ずいぶん小柄に見える。
さらにヘンリエッタは義務的に行われる茶会の度に、マノロ殿下のコンプレックスを刺激することも忘れなかった。
むしろこれが効いたのではないかとレイは思ったのだが、ヘンリエッタはマノロ殿下の低身長を威圧感を与えないと称讃し、自身の高身長ぶりを嘆いてみせたのだという。
一見するとへりくだっているようでいて、マノロ殿下には侮蔑の色が見えたことだろう。
なぜレイが知っているかといえば、マノロ殿下の素行が問題になった際、ヘンリエッタ本人から聞いたからだ。
宰相とレイとヴィヴィアン殿下しか、これほど詳しくは知らない。
陛下とべイエレン公爵と、父には、身長の話を省き、必要な情報だけを報告した。
ヘンリエッタを守るための措置だと、宰相は語っていたが……今思えば、宰相は陛下のことも警戒していたのかもしれない。
ヘンリエッタも、そんな言葉だけで初夜を避けることはできないと思っていたらしい。
嫌われて、閨の回数が減るといいな、と思っていたという。
しかし、予想以上にマノロ殿下の心に響いた。
寝所に入り、ヘンリエッタを前にすると、彼のアレは、まったく役に立たなかったらしい。
これには侍医たちも困り果てた。
まさか王太子が不能などとは記録できない。
しかも大事な初夜である。
仕方なく、恙なく決行されたと記録された。
しかし、その後も何度挑戦しても上手くいかない。
それからは捏造が繰り返されたという。
侍医や側近、侍女たちは結託せざるを得なかった。
陛下ですら掴んでいない情報だった。
マノロ殿下の影たちは知っていたようだが、マノロ殿下自身が口止めをしていた。
このころはまだ、侍医と側近たちも側室に期待を寄せていた。
しかし。
最初こそ成したようだが、次第に側室とも上手くいかなくなる。
側室を茶会に呼び出し、どうすればマノロ殿下との閨を減らせるか、ヘンリエッタがこっそり伝授していたからだ。
表向きは、マノロ殿下に寵愛される側室をいじめているように見せかけ、こっそり伝授したというのだから舌を巻く。
マノロ殿下は醜く揉める妃たちの様子を観察して喜んでいたという。
「小さい、という言葉が苦手なのですわ。繰り返しているうちに萎えます」
「……そんなことで?」
初めて聞いたときは嘘だろうと疑った。
宰相はもっと疑っていたようで、閨の記録などを全て読んだらしい。
「ご側室の記録も捏造ですか?」
「はい。侍医たちは一度ならず二度までもと、とても焦っておりました。王太子殿下は本当に不能なのではないかと疑いがもたれて。侍医は責任を感じてしまい、隠蔽の罪を陛下に告白すると言いだしたのですが」
「マノロ殿下が止めた?」
「はい。不能となるのは妃たちに魅力がないからで、自分のせいではないと。メイド相手に試したいと騒ぎ始めましたが、第一子すら産まれていない状況でそれは許されないと侍医や側近が猛反対をして阻止しました。それからしばらくして、クリスティーヌさまを見つけたマノロ殿下は、彼女を愛妾として召し上げました。その頃には素行の悪い殿下は侍医や閨の記録係、護衛たちから軽蔑されておりましたが、それを止められる人はいませんでした」
「ではクリスティーヌさまも?」
表情は変わらなかったが、宰相が確認したいことはすぐに理解できた。
未来の夫としては気になるところだろう。
「召し上げられる前に私の侍女が手を回し、閨を回避する方法を伝授致しました」
「そうでしたか。ですが、寝所には痕跡はあったと聞きましたが」
「それはマノロ殿下自身が捏造したようです。ご自身の不能を晒したくはなかったようです」
「なるほど」
「ですが、あのように縛られたり……メイドたちの中には助けが遅くなり、いたぶられた子もおりました。怖い思いをさせてしまって、大変申し訳ないことを……」
ヘンリエッタは唇を噛みしめていた。
「ヘンリエッタさまが責任を感じることではないでしょう?」
思わずレイが口を挟むと、ヘンリエッタは首を振った。
「わたくしが勤めを果たせば、クリスティーヌさまも、メイドたちも被害に遭わなかったのです」
「そうでしょうか? 私はもっと酷い目にあったと思いますが?」
レイの言葉に、宰相もフィルも頷いた。
マノロ殿下が不能でなかったら、そこら中の女に手をつけていただろう。
被害はもっと大きくなったはずだ。
それこそ、生まれた王子が成長したころを見計らって、閨の教育係りという名目で強引にマイナが召し上げられてしまう未来さえ有りえた。
王子の閨の教育係は身元の確かな貴婦人が選ばれる。
慣例としては、夫を亡くした婦人が選ばれるが、不可能を可能にしてしまうのが王族だ。
王宮に呼ばれてしまえば、レイとて踏み込むことは不可能である。
本当に王子の教育係なのか、実際は呼びつけたマノロ殿下の寝室へ通されるのか、王宮の深部に携わる者にしかわからない。
嫌な予感に背筋が凍る。
レイの言葉に宰相が続いた。
「マノロ殿下の素行の悪さは元からです。いたぶられたメイドも残るような傷までは負わなかった。最悪の事態が避けられたのはヘンリエッタさまのお陰ですよ」
女性を縛ったり痛めつけることに快楽を覚えてしまったマノロ殿下は手が付けられなかった。
悪化することを察知して護衛を増やし、手を尽くしたのはヘンリエッタに他ならない。
そして。
マノロ殿下の母親であるフェオレッラの動向は、常に油断ができなかったという。
子を成せない役立たずという理由で幾度も毒を盛られたらしい。
ヘンリエッタは遅効性の毒を警戒し、毒見役を時間差で二人付けていた。
「温かいお食事を口にしてみたいです」
宰相に何か希望はあるかと聞かれ、ヘンリエッタが口にした言葉だった。
唇をかみしめ、憤りを隠せないフィルを見て、レイは安心していた。
(フィルならきっと、ヘンリエッタさまを幸せにしてくれるだろう)
しばらくはお預け状態のフィルの気持ちは痛いほどわかるが、それも過ぎてみればいい思い出になるだろう。
ヘンリエッタの手を取りながら「これからは私と一緒に、温かい食事をしましょうね」と声をかけるフィルを見て、ホッと息を漏らすレイであった。
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