75 / 125
75.可愛い
しおりを挟む(やってしまった……。いや、やってない!!)
目覚めたニコは素早く身なりを整え、髪をぎっちぎちに結い上げた。
就業中、しかも客室で、あんな淫らなことを。
窓に映るニコの顔は、この世の終わりのような色をしていた。
(何もなかった……いや、ありすぎて真っ白……最後の方とか、ほぼ記憶がないし……何で眠ったの、私……)
混乱はさらに続いた。
ヨアンが部屋にいないのだ。
(どこに行きやがった、あの男!!)
床を見ると、巻いていた包帯が落ちている。
(絶対動き回ってる!!)
ニコを翻弄し、好き勝手に動いていたではないか、ということに関しては片隅に追いやり、ヨアンを探しに行こうとドアノブに手をかけ、鍵がかかっていることに気付く。
開錠しようとしたところで鍵が回り、足音を立てずに入って来たのはヨアンだった。
「あれぇ? もう起きれたの?」
ポリポリ頬を掻きながら、間の抜けた声をあげている。
ニコはイライラして、ヨアンの顔をムギギギとつねった。
「痛い痛い痛い」
「こんなの痛くないわよねぇ!? 包帯を取ってフラフラできるぐらいだもんねぇ!?」
「ごめんって、旦那さまの部屋に呼ばれたから行ってきただけだってば」
「えっ」
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。ニコの姿は見せてないから」
ヨアンは無駄にキリッとした顔でとんでもないことを言ってきた。
「何で起こしてくれないの……ってそうじゃない、私の馬鹿、どうしよう。旦那さまに何て言ったらいいかわからない」
「ニコ、落ち着いて」
「落ち着けない、もう無理、私はクビ……昼間から就業中に客室で淫らなことを……私はもう今日から淫乱侍女って呼ばれる」
「二ーコッ!!」
半泣きでヨアンを見ると、両手をギュッと握られた。
「旦那さまにも宣言してきたんだけど、ちゃんと聞いて?」
「なに?」
「僕と、結婚してください!!」
「お断りします」
「えっ、なんで……さっきまであんなに情熱的に僕を好きだって、あんなことまでしたのに」
(あんなこととか言うな!!)
ニコはプルプル震えた。
その震えた姿さえ、ヨアンが可愛いと思っていることなど知らずに。
「ヨアンのことは大好きだけど、結婚はまた別」
「酷い!! 僕のことを弄んだの?」
「人聞きの悪いこと言わないで!! 私は仕事を辞めたくないの!!」
「辞めなくても結婚できるよ。旦那さまに許可もらったもん」
「…………でも、」
許可をもらったなどと言っているが、早々にニコが妊娠してしまえば仕事がままならなくなる。
ニコが思うように動けないとき、万が一マイナが妊娠したら誰が世話をするというのだろうか。
「僕との結婚が嫌なの?」
ニコは眉を下げたままふるふると首を振った。
もし結婚するのであれば、それはヨアンとだろう。
「結婚そのものが不安?」
それには素直に頷いた。
「そっか。マイナさまがこれからってときに、自分が妊娠したら困るから?」
「……何でわかるの?」
「そりゃあ、ニコのことはずっと見てきたしね」
「そう……」
「だからさ、ニコはそういう気持ちをちゃんと、僕に伝えてくれればいいんだよ。そうしたら一緒に考えられるでしょ?」
「でもまたこの間みたいに、マイナさまを一番に考えられない私になったりしないとも限らないし。そんなことになったら、私はマイナさまもヨアンも失ってしまう……」
気持ちを伝えろというヨアンに対し、素直に口を開くと、驚くほど情けない声と台詞が出てきた。
ヨアンの言葉がずっと心に刺さっていたのだとわかる。
「そんな私には興味ないって……言ってたし」
「あの時は確かにキツイこと言ったけど、僕がニコに興味あるのはもうわかってるでしょ? さっきも言ったけど、ニコを振り回しちゃうぐらいなら諦めようと思ってたんだよ。でもお互いに好きだって確認できたんだから、ちゃんと結婚しようよ。そうすれば、僕はもっとニコをフォローできると思うし」
「うん……ヨアンは頼りになるし、頼りにしてる。でも、頭ではわかっていても不安なの」
「うーん。じゃあ、とりあえずお付き合いから初めてみる?」
「お付き合い?」
「そう。休みが一緒のときは町に行ってご飯を食べたり。そういうことから初めてみようよ」
「……それなら」
「いいの?」
頷いたニコをヨアンが抱きしめた。
「就業中です、止めてください」
「えーーーー。お付き合いが成立した記念にちょっとだけ」
「駄目です」
「いいでしょ? ね、ちょっとだけ」
「駄目です、離れないなら付き合いません」
そう言うと、ヨアンは渋々離れてくれた。
ホッと息を吐く。ヨアンに抱きしめられると胸が苦しくてたまらないのだ。
ニコは誤魔化すように顎をあげ、胸をそらせて言った。
「それから、ちゃんと養生しないのであればお付き合いできません」
「……わかった」
ベッドに戻ったヨアンに毛布を掛けて、深呼吸してから廊下に出た。
(これは……カレーの匂い?)
屋敷中に独特のスパイシーな香りが漂っている。
カレーはマイナがベイエレン公爵家で作っていた料理で、マイナはスパイスを集めるのが大変だと言っていた。
ニコは急いでヨアンの昼食をもらいに厨房へ足を運んだ。
「あぁ、ニコ。ちょうどよかった。ヨアンの昼食できてるよ」
バアルがカレーを持たせてくれた。
トレーに乗った二人分のカレーを見て目を瞬く。
「二人で食べなさい。昨日から大変だったね。お疲れさま」
皺のたくさん入った目を細めてバアルが労ってくれた。
部屋で就業中によからぬことをしていましたなんて言えない。
絶対に言えない。
後ろめたい気持ちを抱えたまま廊下を歩いていると、今度はメイド長のアンに会った。
「あら、ニコ。帰ってきたときよりは顔色がよくなったわね。お疲れさま。ヨアンの看病をしていると聞きました。昨日から働き詰めで大変ね。手伝えることがあったら言ってね」
「ありがとうございます」
またしても身の縮む思いがする。
アンの一つの乱れもないお仕着せをみると、ニコの心が悲鳴を上げた。
(よからぬこと……よからぬことを……ごめんなさい、もう二度としません)
そんなニコの気持ちを知ってか知らずか、アンは諭すように口をひらいた。
「今は周りに誰もいないから、独り言を言うけど聞き流してね。もっと早く結婚してたら子どもを産めたのにって、いつも思うの。若い子にはそんな思いをして欲しくないのよ。だからタイミングは逃さないようにね……あぁ、歳をとるとお節介になっちゃって嫌ね」
「いいえ……ありがとうございます」
やっぱり皆、わかっているのだ。
屋敷に到着したニコが泣きそうだったことも、何も手につかないぐらいヨアンの怪我を心配していたことも。
(きっと、私がヨアンを大好きだってことも知られている)
そして歓迎されているのだろう。
トレーを持つ手に力がこもる。
寝ているヨアンに、やっぱり結婚しようと言ったらどんな顔をするだろう。
(私が結婚して子どもを先に産んだら、マイナさまが身籠ったとき、経験上のお手伝いがたくさんできるかも? それに、私が子どもに気を取られて、何か間違えそうになっても、ヨアンならちゃんと叱ってくれるだろうし……)
「あぁ、ニコ。お疲れさま」
今度はシモンに会った。
どことなくホッとしたような顔をしている。
「顔色がよくなったね」
夫婦で同じことを言うのだな、とニコは感心してしまった。
ヨアンとも二人のようになれるだろうか?
「すみません、ご心配をおかけしました」
「大変だったね。色々あったというのに立派でしたよ。今日はヨアンとゆっくり過ごしていいと旦那さまも仰ってたから、気にせずにのんびりしなさい」
「ありがとうございます」
シモンに深々と頭を下げて、ニコは再び歩き出した。
アンのお陰で後ろめたさを感じずに素直にシモンの言葉を受け入れることができた。
胸にあたたかいものがこみ上げ、胸がいっぱいになる。
この気持ちを、ヨアンに伝えたい――
部屋に戻り、ヨアンと一緒にカレーを食べた。
マイナが大好きなカレーだ。
「ねぇ、ヨアン」
「なぁに?」
カレーでベッドが汚れるといけないので、二人でソファーで並んで食べた。
「私がいつからヨアンのことが好きだったか知ってる?」
「うーん……昨日?」
「ふざけてるの?」
「じゃあ、この屋敷に来てから!」
「……私が十歳のときよ」
ヨアンの口からお米がポロリと落ちた。
それを見たニコは落ちた米をすぐさま拾う。絨毯にカレーの色がついてしまったら、綺麗にするのが大変だ。
「それって出会ってから、割とすぐじゃないの?」
「そうよ。私が他の使用人の子どもに、名前をからかわれてたときよ」
「……男の名前だ、へーんなの! だっけ?」
「そう。他国では珍しくないけど、ベツォ国では一応男性名だから」
「可愛いのにねぇ?」
「……あのときも、ニコって可愛い名前だねって言ってくれた」
「そんなことぐらいで好きになっちゃうの? ニコって騙されやすいの!?」
「あのころは純粋だったの!!」
「今だって純粋だよー。僕がさっき色々したら真っ赤だったし」
「さっきのことは言わないで!!」
「もうー。わがままー」
「ちゃんと話を聞いてくれたら結婚してもいいかなって、言おうと思ってたのに!! もう知らない」
「えっ!? 何!? 何で?? 何でそうなったの?? ねえ、何で!?」
「言わない!! もう絶対言わない!!」
(マイナさまもそろそろカレーを召し上がったかしら? それとも、まだお部屋で旦那さまとゆっくりなさっている? そういえば、旦那さまは随分お帰りが早かったのね?)
隣で喚くヨアンを無視して、マイナのことを考えながらカレーを頬張るニコであった。
1
お気に入りに追加
501
あなたにおすすめの小説

〖完結〗幼馴染みの王女様の方が大切な婚約者は要らない。愛してる? もう興味ありません。
藍川みいな
恋愛
婚約者のカイン様は、婚約者の私よりも幼馴染みのクリスティ王女殿下ばかりを優先する。
何度も約束を破られ、彼と過ごせる時間は全くなかった。約束を破る理由はいつだって、「クリスティが……」だ。
同じ学園に通っているのに、私はまるで他人のよう。毎日毎日、二人の仲のいい姿を見せられ、苦しんでいることさえ彼は気付かない。
もうやめる。
カイン様との婚約は解消する。
でもなぜか、別れを告げたのに彼が付きまとってくる。
愛してる? 私はもう、あなたに興味はありません!
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
沢山の感想ありがとうございます。返信出来ず、申し訳ありません。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

【完結】白い結婚成立まであと1カ月……なのに、急に家に帰ってきた旦那様の溺愛が止まりません!?
氷雨そら
恋愛
3年間放置された妻、カティリアは白い結婚を宣言し、この結婚を無効にしようと決意していた。
しかし白い結婚が認められる3年を目前にして戦地から帰ってきた夫は彼女を溺愛しはじめて……。
夫は妻が大好き。勘違いすれ違いからの溺愛物語。
小説家なろうにも投稿中
望まれない結婚〜相手は前妻を忘れられない初恋の人でした
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
【忘れるな、憎い君と結婚するのは亡き妻の遺言だということを】
男爵家令嬢、ジェニファーは薄幸な少女だった。両親を早くに亡くし、意地悪な叔母と叔父に育てられた彼女には忘れられない初恋があった。それは少女時代、病弱な従姉妹の話し相手として滞在した避暑地で偶然出会った少年。年が近かった2人は頻繁に会っては楽しい日々を過ごしているうちに、ジェニファーは少年に好意を抱くようになっていった。
少年に恋したジェニファーは今の生活が長く続くことを祈った。
けれど従姉妹の体調が悪化し、遠くの病院に入院することになり、ジェニファーの役目は終わった。
少年に別れを告げる事もできずに、元の生活に戻ることになってしまったのだ。
それから十数年の時が流れ、音信不通になっていた従姉妹が自分の初恋の男性と結婚したことを知る。その事実にショックを受けたものの、ジェニファーは2人の結婚を心から祝うことにした。
その2年後、従姉妹は病で亡くなってしまう。それから1年の歳月が流れ、突然彼から求婚状が届けられた。ずっと彼のことが忘れられなかったジェニファーは、喜んで後妻に入ることにしたのだが……。
そこには残酷な現実が待っていた――
*他サイトでも投稿中

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。
112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。
愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。
実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。
アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。
「私に娼館を紹介してください」
娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

【完結】大好き、と告白するのはこれを最後にします!
高瀬船
恋愛
侯爵家の嫡男、レオン・アルファストと伯爵家のミュラー・ハドソンは建国から続く由緒ある家柄である。
7歳年上のレオンが大好きで、ミュラーは幼い頃から彼にべったり。ことある事に大好き!と伝え、少女へと成長してからも顔を合わせる度に結婚して!ともはや挨拶のように熱烈に求婚していた。
だけど、いつもいつもレオンはありがとう、と言うだけで承諾も拒絶もしない。
成人を控えたある日、ミュラーはこれを最後の告白にしよう、と決心しいつものようにはぐらかされたら大人しく彼を諦めよう、と決めていた。
そして、彼を諦め真剣に結婚相手を探そうと夜会に行った事をレオンに知られたミュラーは初めて彼の重いほどの愛情を知る
【お互い、モブとの絡み発生します、苦手な方はご遠慮下さい】

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~
Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。
走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる