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55.嫌な日

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 朝からなんとなく嫌な日だった。
 お気に入りの靴ベラが折れたり、いつもヨアンに対してご機嫌なセラフィーナがご機嫌斜めだったり。

「どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」

 話しかけてみたが、プイッと横を向かれてしまった。
 昨日はご機嫌でニコのことも乗せてくれたのに。
 しばらくメルにばかりに乗っていたからだろうか。

(気難しい彼女みたい……)

 セラフィーナと仲良くなりたいと言って、ニコは二週間ほど頑張った。
 いざという時のためとはいえ、マイナのためならどこまでも頑張ってしまうニコがヨアンは可愛くて仕方がなかった。

「私はニコと申します。セラフィーナさんと仲良くしたいです」

 低姿勢で話しかけながら好物のにんじんを貢ぐ日々。
 成果はきっちり二週間後に現れた。
 セラフィーナが鼻先をニコの腕に摺り寄せたのだ。

「ヨアン、セラフィーナさん、怒ってないよね?」

 ヨアンに確認してくるニコは満面の笑みで、それはもう可愛かった。
 デレデレしていたヨアンに対して、セラフィーナが馬鹿にしたように鼻を鳴らしたぐらいだ。

 だから昨日のべイエレン公爵家からの帰りも大変円滑であった。
 ニコを乗せても怒らなかったし、なんなら可愛いと思っているような仕草さえあった。
 セラフィーナはお姉さんぶっていた。
 そしてヨアンにもご機嫌であることを伝えてくれていたのだ。

 ――昨日までは。

「どうしちゃったの?」

 熟練の馬丁に聞いても理由がわからないという。
 さっきまで普段通りだったのに、と。

 そして嫌なことは続いた。

「半熟玉子の崩壊……」

 ヨアンのハムエッグだけ、なぜか半熟過ぎた。
 ヨアンが食堂でご飯を食べるころにはお米が一粒も残っていなくて、仕方なくパンに挟んだらぶじゅぶじゅになった。
 黄身が全部出てしまい、服が汚れた。

 それからそれから。

 ……嫌なことじゃないこともあった。

(マイナさまの首筋にキスマークある……きっと他の場所にもあるんだろうなぁ。旦那さま、計画的に進めてるんだなぁ……)

 これは気付く人と気付かない人がいるから、たぶん内緒。
 マイナは朝からずっと、心ここにあらず状態だ。
 ニコは休日だからマイナを観察できない。
 付いていても気付かなかった可能性が高い。
 幼い頃からマイナ付きであることが決まっていたニコには、正しい閨教育しかされていない。

(たぶん、そこに至るまでのあんなことやこんなことはわかってない。男の汚さや単純明快な欲望も知らない……旦那さまは、かなり粘着系……じゃなかった溺愛系)

 女で失態などあってはならないので、ヨアンはかなり早い段階で経験を積まされた。

(意外って言われるけどねぇ。僕も一応男なんで)

 ミリアはキスマークに気付いている。
 意外とお姉さんだ。

 ちなみに、今日はヨアンが屋敷にいるのでカールは学園に行った。
 積極的な女の子に迫られてて困っているらしい。
 ちょっと生意気。


 さてさて、嫌な日はまだまだ続いた。


 学園から帰って来たカールと護衛を交代して、ルルに乗ってべイエレン公爵家に行き、コッコの玉子を貰って、フィルから手紙を預かった。
 帰ったら玉子が二つも割れててバアルを悲しませてしまった。
 ルルはやんちゃな男の子で、言うことをきかないわけではないが、セラフィーナとは違う意味で制御が難しい。

 ちなみに、べイエレン公爵家の雌鶏はすべて『コッコ』と呼ばれている。
 幼いころのマイナが『コッコ』と呼んだので、皆がそれを真似しているうちにそうなったのだ。


 嫌な気持ちのまま、手紙を城に出仕しているレイに届ける。
 セラフィーナが首を振って嫌がるので、再びルルに乗った。

(本当は大人しいメルちゃんがいいけど、今メルちゃんに乗ると、もっと怒りそうだから!! 昨日乗せてくれたのは、旦那さまにいい女ぶりを見せつけるためだったんだ……あの場面で僕らを乗せないと、旦那さまがマイナさまとイチャイチャできないから!! セラフィーナ怖い!!)

「どうした、ヨアン。何かあったか?」

「いいえ、大丈夫です……こちら、フィルさまからです。それでは」

 頭を下げて部屋を出ようとしたヨアンをレイが引き留めた。

「ヨアン、ヴィルヘルミイナへ行くといい」

「ヴィルヘルミイナ……イーロが前に働いてたお店ですか?」

「うん。そこにニコがいるから」



 ――今日は本当に嫌な日だ。

 胸騒ぎを覚えたまま通された部屋で、ニコは酔いつぶれていた。

「遅かったなぁ」

 のんびりと高い日本酒を飲みながら、エラルドはテーブルに肘をついている。

「おっと、そんな怖い顔しなくても指一本触れてねぇよ。わざわざ呼んだんだから、むしろ感謝して欲しいね……ってことで、そろそろ俺への牽制は終わりにしてくんない? この子をどうこうするつもりは俺にはさらさらないから。殺気を浴びるのって疲れるんだよね。わからない奴は気にならないんだろうけど、俺は無理」

 ニコの肩には毛布がかけられていた。
 この店のものだろう。
 エラルドのジャケットでも掛けてあろうものなら八つ裂きにしてしまいそうだった。

「んじゃ、ごゆっくり。俺は明日休みなんで、このまま女のとこ行くから」

 エラルドが消えたあとも、しばらく動けなかった。

(やだなぁ。マイナさまに執着する旦那さまの気持ちがわかっちゃうよ)

 感情のまま動いたら、ニコを壊してしまいそうだった。
 テーブルの上に残されていた酒をあおり、深呼吸してからニコを揺すった。

「ニコ、帰るよ」

「ん? あれぇ、ヨアンだぁ~!!」

 ニコが首に抱き着いてきた。
 まるで昨日のマイナのような、可愛い仕草にヨアンの喉がグッと音を鳴らした。

(これは、さすがの旦那さまも、ちょっとおいたするよね)

「そんなに呑んだの? お水飲む?」

「お酒なら呑むぅ~」

「お酒はもう駄目。帰るよ。立てる?」

 お願いだから少し離れて欲しいとヨアンは切実に願う。

「やだぁ、抱っこぉ!!」

(これってもう合意!?……いや、待て、早まるな、違う、違うよね……うん……)

 ニコを抱き上げ、再びルルに乗って屋敷に帰る。
 ニコは首にしがみついてくれてたけど、万が一落とすようなことがあっては大変なのでゆっくり進んだ。
 ルルは走りたがったので、なだめるのが大変でかなり疲れた。
 
(やっぱりメルちゃんがよかったなぁ。あの子は本当に穏やかで可愛いな……なんて思ってると、セラフィーナがヤキモチ焼くから帰るまでには無心にならなくては!! ほんとに彼女みたいだよ!!)


 屋敷に到着してからニコを黙らせるのも一苦労だった。
 遠くでセラフィーナが気の毒そうな顔をしていた。

(なんであんなに人間臭い顔するんだろう)

 いや、今はそれどころではない。
 人気ひとけのない厩舎だからよかったものの、ニコが離れてくれない。

(知らなかった。ニコって酒癖悪いんだ……)

 こんなに困ったのはヨアンの人生でも初というぐらい。
 仕方がないのでヨアンの部屋に運び込む。
 しかも自分の部屋だというのに窓から入る羽目になった。

(これから朝まで理性との闘い? 旦那さま、これを毎日? すごすぎる)




 * * *



「えっ、ヨアン!?」

 朝まで寝ないつもりだったけど、流石のヨアンも精神的な疲労により三時間ほど寝てしまった。
 ニコは慌てふためいている。
 どうしたって溜息が出てしまう。

「昨日酔いつぶれてたから、店から僕がここまで運んだよ。大声で離れないって言うから困ったの。仕方なくここに連れて来たけど、今から送るよ。誰かに会うとまずいだろうから窓からだけどいい?」

 シャツを羽織り、ニコを抱えた。
 エラルドの前であんな無防備な姿をさらしていたニコを、ちょっと脅かしておきたくなったけど、グッと堪えた。
 ここで焦って嫌われたくない。

「わた……わたし、あの」

 聞かなくてもニコが何を気にしてるのかはわかる。

「エラルドはもちろん、僕とも何もしてないよ。部屋にはソファーもないから、仕方なく一緒に寝かせてもらったけど。あと、僕は上半身に何か着ていると熟睡できないから裸だった。それだけ」

 ヨアンにとって、寝るときの服はスイッチを切っていいときと駄目なときの区別だ。

「全然記憶がなくて……ごめん、迷惑かけたことだけはわかる」

 シュンとしたニコは、やっぱり可愛かった。
 結局、ニコが何をしてもヨアンは許してしまうのだろう。

「昨日飲んだお酒は日本酒っていうお酒。あれは香りや口当たりがいいのに度数が高いから危険なお酒。ニコはあんまりお酒強くないみたいだから気を付けて。特に男と飲むのは危ないよ。エラルドは僕を呼んでくれたけど、他の男もそうだとは限らないからね?」

 素直に頷いたニコの額にキスをして窓からぬるりと出た。
 このくらいはご褒美として頂いておきたいところである。

 窓から窓への送迎の間、額に手を当てて真っ赤になったニコを視界の端で眺めながら、悪くない一日の始まりを感じるヨアンであった。




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