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27.想い
しおりを挟む腕の中にマイナがいないことに気付いて目を覚ました。
目の前にあったのは、いつも頭上に置いてあるはずのクッションだった。
レイの背中に、いやな汗が伝う。
(ニコがマイナの様子がおかしいとずっと訴えていたが、これのことか?)
キスをした次の日から、不自然に明るく振舞うマイナに疑問を抱いてはいた。
何がどうとは言えないが、不自然としか言いようがなかった。
(やっぱり、まだ早かったか)
じっくり育てるはずだった関係を一気に進めてしまった。
失敗したことはわかっていても、このクッションブロックを受け入れてしまえば、もっと距離を置かれる気がしてすぐさま排除した。
うっすら目を開けるたびに設置されているクッションに、若干イラっとしながら排除しつつ、もう二度と迂闊なことはしないと心に決めて慎重に距離を開けていたのだが。
昨夜のこと。
ニコの定期報告に、レイは身を固くした。
「マイナさまと……あの……閨を……お願いできませんか?」
「それは…………どうして?」
「私にも変化の兆しがいつだったのかは全く見当がつかないのですが……様子がおかしくなった日から、色々とお聞きしているうち、わかったことがありまして」
「わかったこと?」
「はい。マイナさまは何故か旦那さまが子作りを所望していると勘違いされたようです。そして、薄手のナイトドレスを纏ってみても、旦那さまに手を出されなかったと……旦那さまがその気にならないのは自分のせいだと、そう思われたようです」
「馬鹿な!! そんなわけがない!!」
(どれだけの理性で抑えていると!!)
「はい。私も何度も申し上げました。ですが『やっぱりわたくでは』と仰るばかりで。マイナさまの自己評価の低さは頑なで、私が何を申し上げたところで……」
侍女として不甲斐ないと、ニコは悔しそうに唇を噛んだ。
「事情はわかった。他には?」
「明日、大旦那さまが大奥さまをお迎えに来られるようだとゾラ先輩が仰っていました。長らくお世話になりましたとの伝言を承りました」
「ようやくか。長かったな……母が帰領するのであれば、閨は明日に。今晩では、マイナが母上の見送りに出られなくなる可能性があるからな。出られないとなるとマイナは性格上、とても気にするだろう?」
「…………はい」
ニコは一瞬、何かを言いたそうにレイを見つめ、仕方なさそうに頷いた。
そうと決まれば準備が必要だ。
閨事の次の日は仕事に行かず、マイナの傍にいたい。
幸いにも予算会議は昨日で終了している。
事後処理は山ほどあるが、休日をもぎ取るのは不可能ではない。
父と母を見送ったあとすぐさま登城し、宰相を説得したあと、ヴィヴィアン殿下にもしばらく休むことを伝え、急ぎの仕事を片付けてから屋敷に戻った。
マイナと昼食を一緒に食べ、徐々にいい雰囲気を作り、怖がらせないよう慎重に、でも愛しているという気持ちが伝わるよう情熱的に導くつもりだった。
ところが。
帰ってみればマイナはおらず、シモンから実家に帰ったと伝えられた。
目の前が真っ暗になり、思わず壁に手を突いたレイをシモンが慌てて支えた。
(遅かった……ニコの言う通り、昨日のうちに抱いてしまえばよかった)
持っていたお土産のケーキが手から滑り落ちた。
ベシャッという不快な音が、レイの理性を打ち砕く。
自信を無くしたマイナは、離婚を切り出してくる可能性がある。
レイにどれだけ想われているかなど、彼女は全く気付いていないからだ。
(婚約者不在だったわたくしを助けてくれた、とか言ってたしな)
あのときのすれ違いを、そのままにしたことが悔やまれる。
格好つけて彼女の気持ちが育つのを待つなどと言って、本当は嫌われるのが怖かっただけだ。
ベツォ国では、閨の不履行は離婚の正当な理由になる。
(――無理やりだろうと絶対に連れ戻す。そしてマイナを、部屋から一歩も出さない)
今朝までは、母を馬車に押し込む父を馬鹿にしていた。
余裕をなくすぐらいなら、浮気の偽装などやめればいいのにと。
母の気持ちを試すようなことばかりして、なんて愚かなんだと思っていた。
そんな父の気持ちが、今はわかる。
狂おしいほどの気持ちというのは、これほど余裕を無くすものなのか。
(やっぱり私には……あの人の血が流れている……)
愛馬に跨り、べイエレン公爵家へ向かいながら、仄暗い感情にずぶずぶと呑み込まれていった。
「レイさま? お仕事は?」
べイエレン公爵家の執事を問い詰めていたら、マイナが顔を出して首を傾げていた。
まるで何もなかったかのような、いつも通りの表情だった。
「マイナッ!!!!」
執事を突き飛ばす勢いでマイナに駆け寄り、無我夢中で抱きしめた。
(連れて帰ろう)
「どうしたんですか!? 何かあったんですか!?」
「マイナが実家に帰ったと聞いて、居ても立っても居られなくなって」
「ええ。わたくし、ちゃんとシモンに言ってから来ましたけど」
「実家に帰ると言ってたと」
「はい。ヨアンと約束していたことがあったので。お義母さまも帰られたので、わたくしも暇だしちょうどいいので」
「……家出じゃないのか?」
「誰が?」
「マイナが」
「まさかー。いまちょうどお家に帰りたいなって思ってたところですよ」
「そうか。今すぐ帰ろう」
(そしてすぐに抱いてしまおう。逃げられないぐらい、激しく)
完全に冷静さを欠いたレイに、べイエレン公爵が声をかけてきた。
「まぁそう言わずに、タルコット公もどうです? お昼は『らーめん』なんですよ」
「いえ、私は」
「えー。だめー? 美味しいよ? わたくし直伝のラーメンがいつでも食べられるのはべイエレン公爵家だけですよ?」
レイはマイナの「だめ?」に弱い。
反射的に全て許すぐらい弱い。
そして「だめ?」の問いかけと共に、理性が猛スピードで戻ってきた。
「……いただこう」
勢いで抱くなんて、今まで我慢してきた自分の努力を全て台無しにする行為ではないか。
それではずっと軽蔑してきた父と同じになってしまう。
さっきまでは父と完全に同類だった。
そんな自分に吐き気がする。
こんな男に捕まってしまったマイナが気の毒だった。
腕に抱いていたマイナをもう一度ギュッと抱きしめてから、そっと地面に降ろした。
(怖がらせてしまっただろうか?)
べイエレン公爵は食堂に戻ったようで、気を利かせたらしい執事と護衛も、大勢いるメイドも消えていた。
見上げてくるマイナの頭を撫でようと伸ばした指が震えていた。
マイナは二度瞬きをして、ドレスのポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭ってくれた。
若草色のドレスは母の見立てたドレスなのに、ちゃんとポケット付きだった。
マイナはいつも「ポケットがないとハンカチがしまえないじゃないですか」と言っていたから、母の見立てで大丈夫だろうかと心配していた。
(ポケットのことを伝えられるぐらい、母上と仲良くしてくれていたんだな……)
勘違いの多い母に、たくさん振り回されたことだろう。
それなのに、楽しくお茶をしたとしかマイナは言わなかった。
父に振り回されて疲れていた母も、マイナに癒されたことだろう。
長い間、レイとヴィヴィアン殿下も、王位継承権のせいで様々な思惑に振り回され、心を擦り減らし、その度にマイナに癒されてきた。
(結婚式のあと、殿下からマイナを任せると言われたのに私は何をやっているのだ)
「レイさま、落ち着いた?」
「うん、落ち着いたよ」
ひと呼吸おいて、今度は優しく抱きしめる。
「ありがとう」と耳元で囁いて、優しい香りがするマイナの髪にそっと顔をうずめた。
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