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デオギニア帝国からの留学

ミユ(4)

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 目を覚ますと、視線の先にジークハルトの綺麗な顔があった。
 驚いて飛び起きてしまった。

 辺りはまだ暗く、深夜の香りがしていた。
 見回したが、いつもいる部屋付きのメイドがいない。
 一番小さい客室に滞在先を変えてもらっていたので、暖炉と毛布のお陰でドレスのまま寝ていても寒くはなかったのだが。

 どうしてここにジークハルトが?

 ジークハルトも目を覚まし、軽く伸びをしていた。
 椅子に座ったまま、腕を組んで寝ていたようだ。
 体は痛くならなかっただろうか?

「ジーク、首とか体とか痛くない? 大丈夫?」
「あぁ、平気だ。すまない。ミユが起きるのを待っていたのだが、うっかり寝てしまった」

 ジークハルトはシャツ姿だった。ボタンを三つも開けているので肌の露出が多い。相変わらず引き締まった素晴らしい体をしている。

 ジークハルトを見つめるミユの髪を、ジークハルトがするりと撫でながら言った。

「ミューと、そう呼べることが嬉しい」
「……ん? 最初は呼んでたよね?」
「最初とは意味が違う。あの頃は、ミユと発音できなかっただけだ」

 愛称とは特別なものだと、ここに来た日にジークハルトに言われた。
 ミユでは特別になれないのだと諦めていたら、ダンスの間に突然呼ばれて驚いた。

「ジークにとって、愛称はとても特別なことなのね?」
「それはもう」
「そっか。わたしも、ミューって呼ばれるほうが嬉しい」

 ミユの返事に、ジークハルトが嬉しそうに笑って頷く。
 ジークハルトはミユの手を取り、甲に口づけた。

「ミュー、私と結婚して欲しい」

「結婚!?」

 思わず瞳を瞬く。
 結婚、とは。

「嫌か?」
「嫌とかじゃなくて、どうして急に……シン兄様に何か言われた?」
「いいや? 私の意思だが……」
「本当に? 寝ぼけてない?」
「夜会が終わったら言うつもりだった。それで、起きるのを待っていた」
「サファスレートから、政略として結婚を望まれているということではなく?」
「歓迎はされているが、あくまでも私の希望だ」

 寝起きだからこんなにも混乱するのだろうか。
 夜会から帰って来る途中、眠気に負けて寝てしまったことが悔やまれる。
 
「わたしでいいの? なんの価値もないのに」
「この世に価値のない人なんていないと言ったミューが、そんなことを言うのはおかしいのではないか?」
「わたし……そんなこと」
「言ったな。初めて会った日に」
「あぁぁぁぁ、ごめんなさい。そんな偉そうなこと」

 よくよく思いかえしてみれば、確かにそんなことを言ったような気がする。

 あの頃のジークハルトは、世の中の全てを諦めたような顔をしていた。
 
 綺麗だけど無表情で、興味深そうにしていても、どこか冷めていた。

「思えば、私はあの時すでに、ミューに好意を抱いていたのではないかと思う」
「ジークはわたしのことが好きなの?」
「好きというより、愛していると言うほうが正しい」

 ジークハルトはさらりと言い放って、綺麗に微笑むと、ミユのむき出しの肩をするりと撫でた。
 恥ずかしさと艶めかしさに顔が熱くなった。

「ジーク」
「ん?」
「ヴァレンティーナ様のことはもう……いいの?」
「彼女とは、ずっと友だった。男女の仲ではない」
「……そう……」

 ミユとジークハルトが挨拶に行った時、綺麗に微笑んでいたヴァレンティーナの唇が、僅かに歪んだように見えた。

 ジークが気付いていないのであれば、わたしにだけそう見えるようにした……?
 
 小さな違和感が、ずっと胸の中で燻っていた。

 ジークハルトに恋心がなかったからといって、ヴァレンティーナもそうだとは言えない。

「気になるか?」
「そうね。でも、気にしても仕方がないし……それに」
「それに?」

 ジークハルトが首を傾げ、ミユの返事を待っている。

 金の髪がさらりと揺れた。
 何度この煌めきに目を奪われたことだろう。

 ジークハルトと結婚したら、サファスレートに住むことになるのだろうか。
 果たして、あのヴァレンティーナのような完璧な社交を身に着けることができるのだろうか。
 正直に言えば不安のほうが大きい。
 デオギニアが緩すぎて、ミユではサファスレートの王子妃になるには教養不足だろう。デオギニアはサファスレートの保守派から嫌われているし、政争の火種になりそうで、正直に言えば怖い。

 でも――

「ジークのことが、わたしも好き。でもずっと、それを認めてしまうと友だちで居られなくなるような気がして怖かったの。だからあまり考えないようにしてたような気がする」

 それなのに、心の隅ではジークハルトの特別な存在になりたいと思っていたのだから、恋とはままならないものだ。

 どこか寂しそうだったジークハルトが、徐々に心を開いてくれるようになり、とても嬉しかった。冷めていた瞳に熱がこもり、教授たちと意見を交わす姿は見ていて楽しかった。

 落ち込んでいると励ましてくれる、優しくて格好いいジークハルトを好きにならないなんて無理な話だった。

 たとえヴァレンティーナがジークハルトを好きだとしても、サファスレートの貴族に歓迎されなくとも、この気持ちを偽ることはできない。

「私はミューのことを、友だと思ったことはないが」
「それはショックかも。仲がいいと思ってたのに」
「もちろん、仲はいいだろう。しかし、私は初めからずっと、ミューのことを女性として意識していたからな」
「女性として……」
「そうだ。私は今まで一度も、誰かを強く欲したことがない。ミューが初めてだ」

 ミュー、と。
 近付いてきたジークハルトが耳元で呟く。
 応えるようにそろりと背に手を回せば、力強く引き寄せられた。
 シャツの下から、熱い体温を感じる。

「愛してる。結婚して欲しい。諦めるのは得意だったはずなのに、ミューのことだけは諦めることができない」
「本当に、わたしでいいの?」
「そなた以外に、誰とするというのだ」
「なんか、その言い方、お爺ちゃ……んっ」

 わたしもジークハルトが好きだと、結婚したいと返事をしようと思っていたのに。
 言葉は呑み込まれ、ただただジークハルトのキスに翻弄されてしまった。

「……っ、へんじ、わたしも結婚したいって、言おうと思ったのに」
「ミューが揶揄うから、ついカッとなった」
「ずいぶん感情が出るようになったよね」

 長い金色のまつ毛に縁取られた、青空のような瞳を見つめながら言った。
 その色が曇るところなど見たくないと、なぜかいつも思っていた。

「サファスレートでは、それは良しとされないのでな。感情を出さないのは得意だが、それでも今日は久しぶりの夜会だったので少し疲れた」
「そっか。それならもう寝る?」
「……どっちの意味だ?」
「どっちって!? 睡眠に決まってるでしょ!?」
「そうか。それは残念だ」

 冗談とは思えない口振りに、思わず目を見開いてしまった。

 たとえ結婚するにしても、サファスレートはお堅い国なので婚前はあり得ないだろう、などと一瞬考えてしまった。

「……ねぇ、ジーク、性格変わった?」
「いや? 恐らくこれが素だろうな」
「だろうなって」
「演じ過ぎて、本当の自分がわからなくなっていた。デオギニアでミューたちと過ごすうちに、ようやく本当の自分というものがわかるようになってきたところだ」
「難儀ねぇ」
「サファスレートに居れば、多かれ少なかれ、皆そういうところはあるだろう」
「わたし、サファスレートでやっていく自信ないなぁ。今日もいっぱいいっぱいだったし」
「それなら結婚後もデオギニアで暮らせばいい」
「そんなこと、可能なの!?」
「ミューのためなら、不可能を可能にしてみせよう」

 胸を張り、尊大に言い放ったジークハルトは、王子様というより魔王様のようだった。

「ジーク、ありがとう。大好き」
「あぁ、私もだ」

 好きと、素直に言えることが嬉しかった。
 友だちのままでいなければ失うような気がしていたわたしは、もう、ここには居ない。

 熱のこもったジークハルトの瞳に見つめられ、そっと目を閉じた。



* * *



 夜会から一か月の間に、デオギニア代表として二回ほど結婚式に出席した。グラント公爵家とルーズヴェルト侯爵家の結婚式だ。

 煌びやかでありながら、厳かなサファスレートの結婚式に、胸がいっぱいになってしまった。
 どちらのカップルも美しく、とくに女性たちはミユの創作意欲を大いにかき立てる容姿をしていた。

「ねぇ、ジーク」
「どうした?」
「わたし、アリシアさんとエミーリアさんにナイトドレスを贈りたくてたまらないのだけど」
「ほう?」
「際どい感じのデザインになりそうなんだけど、やっぱり駄目かなぁ」

 妖精のようなアリシアにはレースたっぷりの、ところどころ透けている膝上デザインがいい。そこから見える足は綺麗だと思う。
 知的なエミーリアには、裾の長い、スリットが深く入ったデザインが合うような気がする。肩ひもを細くして、美しい肩のラインを強調するといいだろう。
 
 デザイン画をざっくり描きながら妄想を垂れ流して見せた。

「これはぜひ、作って贈るべきだろう」
「怒られない? サファスレートの男性ってこういうの駄目じゃないの?」
「いや? むしろ喜ばれるだろうな」
「え、サファスレートの紳士、むっつり?」

 小声の呟きは拾われ、ジークハルトが片眉を上げて抗議してきた。

「男など、みんなそんなものだろう?」
「ジ、ジークも?」
「もちろん、大歓迎だ」
「そ、そうですか」

 自分が何を着るかなど、今は全く思いつかないけれど。
 いい笑顔でミユを見つめるジークハルトに、顔を引き攣らせながら頷いておいた。
 これは真剣に取り組まないといけない案件になりそうだ。


 そうして、いよいよ帰国の日が訪れた。
 
 ララを迎えにライドン伯爵邸に向かった。何度もコーディーとは別に帰国しようと試みていたようだが、シンからお許しが出なかった。

 ララは夫人との別れに泣きじゃくっていて、コーディーに肩を抱かれながら馬車に乗り込んだ。馬車内から何度も手を振っていたが、夫人は静かに笑うだけで最後まで手は振らなかった。
 ヒースとの挨拶もあっさりとしたもので、聞いていたよりもずっと厳しい印象を受ける方だった。

 窓を開けていたララたちの馬車から、ララの声が聞こえる。

「ヒース様と結婚できたらなぁ」

 ミユが思わず足を止めると、隣にいたジークハルトも何とも言えない顔をしていた。気にはなったが、ジークハルトと馬車へ戻る。

 ララは夫人との別れが寂しすぎて言ってしまっただけだと思うが。
 
 ヒースとナターシャが先に馬車に乗り込んでいたのは幸いだった。窓が開いていなかったので大丈夫だと思うが、もし聞こえていたらと思うと少し気まずい。ヒースとナターシャが相思相愛なのは明らかだからだ。

 馬車内で仲良く話す二人を見て、ホッと胸を撫でおろした。聞こえていなかったようだ。

 そうして一行は山を越え、長い道のりを経て、初夏の香りのするデオギニアに到着したのだった。

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