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花冠祭
31.人の恋
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「どうして、――どうして、カイネ兄様に花を渡してはいけないんですか?」
トゥーリッキをじっと見つめて、私は真正面から言葉を紡ぐ。カイネが僅かに目を瞬かせて、私を見つめるのがわかった。
これから起こることを予期して、微かな不安に震えるような、そんな視線。――だが、私は今から始めることを、やめるつもりはなかった。我が儘だが、それでも――それでも、今、ここでこそ、口にしなければ、変わらないことだと、思う。
私の行為によって、カイネに嫌われるかもしれない可能性だって、何度だって考えた。それでも、私にとって、一番大事なのはカイネとリュジのこれからの未来だ。今日、ここで、束縛を止め、崇拝を少しでも止めることで、謀殺されるカイネの未来を、もしかしたら止められるかもしれないのだから。
トゥーリッキは私を睥睨すると、「何を言っているの?」と、静かに言葉を口にする。
「花冠祭は、イストリア帝国の建国を祝うとともに、大事な人に花を渡す日です。それなのに、兄様は一度も花を受け取ったことがないと聞きました」
「それが何か、あなたに関係あるの?」
切り捨てるような言葉だ。――相手との言葉の応酬を、一切、望んでいないということがわかるような、冷え切った声。恐らく、私だけで無く、カイネ以外の家族にとって、ずっと向けられてきた態度なのだろう。
――これをリュジは何年も向けられていたのだな、と思うと、なんだか苦しくなってくる。実の母親が、自分に一切興味を持たず、さらには化け物と口にする。そんな状況にあって、よくぞあそこまで良い子に育ってくれたものである。推し、健やかに育ってくれてありがとう……、なんて心中で感謝を述べつつ、私はあります、と頷いた。
「兄様――カイネ様に、花を渡したいんです」
「図々しいこと。神に一つも愛されていない容姿をしていて、星の子であるカイネに、花を渡したいと?」
「そうです」
「ふざけないでちょうだい。カイネは神の子なのよ。エトルに愛されし子ども。陛下よりも、殿下よりも、誰よりも愛されている! 貴方とは違うのよ、貴方のような化け物とは」
確かに、メルの――私の容姿は、銀髪碧眼とは程遠い。銀髪碧眼以外を化け物と誹るのであれば、その範囲にもちろんメルも入るだろう。
カイネが「母上」と、静かに声を震わせる。カイネは苦しむような表情を浮かべながら、声帯を引き絞って出したような、そんな声を零す。
「やめてください。どうか。メルは、――メルも、リュジも、化け物ではありません」
「どうして? 本当のことでしょう。おこがましくも神に愛されしあなたのまわりをうろつく。そうすれば神の恩寵が一欠片でも手に入るとでも思って居るのかしら?」
「――母上……」
「神の恩寵は私以外、誰にも与えられない。そうでしょう? 私のものよ。だってカイネは私が産んだ。私の元に、神がカイネを遣わした。星の子、エトルの子、愛しの子、私の神様、私だけのものよ、誰にも渡さない」
まるでカイネを物のように扱う、と思う。渡さない、とか、私だけのもの、だとか。人としての扱いをしていない。そしてそれを、当然のように、カイネに押しつけているのだ。
――トゥーリッキは、もしかしたら、この世界が嫌いだったのかもしれない。明確に、神に愛されたものと、愛されなかったものと、線引きがされている、この世界が。
神に愛されしものは、エトルの眼差しを受け、星の子としての容姿を得る。だが、神に愛されなければ、それらの一つも、得ることは出来ない。
もちろん、星の子として生まれてくる人間の方が明らかに少ない。大多数が、神に愛されない子どもたちばかりだ。
だが、多くの人がそれでも神を崇め、イストリア帝国で日々を暮らしていく。こういうものだと、どこかで折り合いをつけながら、時たま現れる神の愛を受けた子どもを羨み、そして心を傾けながら、生きていくのだ。
けれど、そう、これは推測だけれど――トゥーリッキは、その折り合いをつけることが出来なかったのだろう。
神に愛されない容姿を化け物、と言ったが、それならばトゥーリッキ自体も化け物だ。彼女は化け物として暮らし、化け物として日々を生き、ある日突然、神を授かったのである。
それはきっと、化け物として日々を生きてきた彼女にとっては奇跡のような出来事だった。
――だからこそ、トゥーリッキは、過剰なほどにカイネを神として扱うようになってしまったのだ。
私は唇を引き結ぶ。沢山の推測をゆっくりと溶かすように飲み下しながら、トゥーリッキを見つめた。
トゥーリッキはもしかしたら、かわいそうな人なのかもしれない。けれど、だからといって、カイネを物のように扱うことが看過出来るかというと、そんなことは一切無かった。
「カイネ兄様は、神様なんですか?」
「当然よ。陛下も殿下も、見たことあって? 銀髪だけなのよ。銀色の髪を持つだけで、星の子、星の子とまるで神のように崇められている。その点、カイネは銀髪、そして碧眼、美しい瞳! 全てがエトルの生き写しなのよ。カイネが神でなくて、誰が神なの? 私が――私が、ずっとお祈りしていたから、エトルは、エトルは慈悲深く私の元に降りてきてくださったのよ!」
トゥーリッキは僅かに興奮したように、早口に言葉を続ける。感情の奔流が、まるで堰を切ったように溢れ出すようだった。
「エトルは――エトルは、恋をしない。エトルは愛を与えこそすれ、伴侶を持ったことはない。だからカイネもずっと私のもの。結婚もしない。恋もしない。伴侶も持たない。私だけの息子、私だけの神様。――だから、ずっと私の神様なの」
私はカイネをちら、と見る。カイネは視線を落としたままだった。その碧眼が、僅かに暗い色を宿していることに、トゥーリッキは気付いていないのだろう。
人生の全てを母親のために捧げろ、と言われているようなものである。カイネにとって、星の子として生まれたことは偶然だった。それなのに、そのせいで、彼は全てのことを諦めざるを得なくなっているのだ。
人として恋をすることも、誰かと想いを交わすことも、何もかも。
リュジが兄上、と小さく息を零す。私はタリオンおじさまを見つめた。やっちゃうけど良いですよね、というのを視線だけで送る。タリオンおじさまは場を静観していたが、私の視線に気付くと微かに目を伏せた。――まるで、謝罪をするように。
「お言葉ですが――神様も、恋をしたことがあるのを、トゥーリッキ夫人はご存知ありませんでしたか?」
「……何を言っているの?」
「プロキオンのこと、ご存知ですか?」
トゥーリッキは僅かに眉根を寄せる。私も後から調べたのだが、星の子であるプロキオンという存在自体は、エトルの神話を伝える本のいくつかに出てきていた。おおよそ、色々な活躍をした星の子であるらしい。
そのため、恐らく、エトルに関しての信仰心が大変に強いトゥーリッキであれば、プロキオンの存在を絵なり字なりで見たことがあるはずである。
考えた通り、トゥーリッキは鷹揚に頷いて見せる。まるで知識の差を見せつけるように、彼女は言葉を続けた。
「知っているわよ。星の子であり、騎士のプロキオン。――エトルを守り、戦場を駆ける姿はまるで犬のように勇ましく、美しい。エトルに愛されし子の一人でしょう。でも、残念ね、あなたが言うような話なんて無いわよ。浅学で物を言うのも、大概にして」
「――良ければ、トゥーリッキ夫人にご紹介したい一節がございます」
私は腰にはいていた杖を取り出す。一瞬トゥーリッキが身構えた。攻撃されると思ったのかもしれない。まさか、そんなことはしないのだが。色々と信用が無いらしい。当然とも言える。
杖を軽く揺らす。そうして、私は空中にプロキオンとエトルの姿を描いた。本に書かれていた通り、二人の容姿を忠実に模写する。
勇敢な騎士、プロキオン。そしてその傍に立つエトル。
「――騎士であり星の子であるプロキオンは、エトルと心を交わし、共に多くの日々を過ごした」
「貴方の下劣な創作神話を聞くような時間は無いの」
「いいえ。これは本当にあったことです。二人は愛し合っていたという記述。ご存知ありませんか? まさかそんなことはありませんよね? 世代は遡りますが――ずっと昔、きちんと神話書にも書かれていたものです。ある日、消されてしまったのですが――、それは皇帝によってのもの。教会の人々は、この説を支持し、これらについて書かれた書を大事に持っているのだとか」
文字を描いて、絵の傍に置く。そうして、出典元を明記。完璧だ。
「トゥーリッキ様はエトル様のことが大好きとのことですから、まさか、私よりもエトル様に関して知らないだなんて、そんなことは無いと思いますが」
「――ふざけないで」
「いえ。いいえ。本当のことです。もちろん、王都の教会に聞きに行ってくださっても問題ありません。私の話は彼らから聞き知ったものですから」
私はトゥーリッキを見る。トゥーリッキは苛立ちを表情に強く示していた。ふざけないで、と地を這うような声が耳朶を打つ。赤色の瞳が強く、怒りに煮えていた。――リュジと同じ目の色だ。それなのに、どうしてか、全然、違う。
「それで――兄様はエトル様が恋をしないから、伴侶を持たず、トゥーリッキ夫人の傍に居る、んでしたっけ」
「――ふざけないで、ふざけないで、何を言い出すの、こんなの聞く価値が――!」
「いいえ。聞いてください。貴方はエトルの神話をもって、兄様をがんじがらめにしたんです。トゥーリッキ夫人、あなたには聞く義務があります」
「楽しい茶会が、あなたのせいで、台無しになってしまうじゃない! 誰か、誰か、この女をどこかへやって!」
楽しいのは、――楽しかったのは、トゥーリッキ夫人だけだろう。リュジは動かない。タリオンおじさまも、カイネも。使用人が困ったように目配せをするのが見えた。
カタラ伯爵家子女メル。そう、私は腐っても伯爵の爵位持ちである。めったなことをしたら、どうなるか、という思いがあるのだろう。トゥーリッキの叫びだけが美しく飾り立てられた庭園に響き渡る。私は小さく息を吐いた。トゥーリッキの激情につられないように、つとめて冷静を装いながら、ゆっくりと口を開く。
「神様は恋をします。――ならば、そう、エトルの生まれ変わりとされる兄様だって、恋をしても問題はありません。いえ、――エトルの生まれ変わりの兄様だからこそ、エトルにとってのプロキオンのように、伴侶を得ても良いはずです」
「ふざけないで!」
トゥーリッキ夫人が手を振る。瞬間、その手に杖が現れた。
リュジが遣っていた、収納魔法と同じようなものである。こ、これは、もしかして攻撃されるやつでは、と思った瞬間、目にも留まらない早さでその杖から雷撃のようなものが繰り出される。い、いやだ、当たったら痛い奴――!
ほとんど反射的に目をつぶる。防御魔法を一切覚えていなかったのが運の尽きだろう。こんなことなら、何かしら覚えておけば良かった……!
身をすくめる、と同時に、ばちん、という音が鳴った。――衝撃は、無い。
え、音から先に来る系? もしかして、こう、少し時間を置いてから衝撃が来る感じの魔法なのだろうか。そういうのあるのだろうか。
その時に備えて体に力を入れる――が、どうにも、その時が来ない。恐る恐る目を開く。杖を持ったまま、トゥーリッキが「――タリオン!」と叫ぶのが聞こえた。
「邪魔をしないで! この――この悪魔を! 悪魔を、私は、私が、私が――! カイネのために……!」
「トゥーリッキ。――カイネはそんなことを望んでいないよ」
どうやら、タリオンおじさまが防御魔法か、もしくは攻撃魔法か何かを使って、私を助けてくれたらしい。直撃していたら、恐らく痛みに呻く日々が待っていただろうことを考えると、ちょっとだけ気が抜けてしまう。腰が抜けかけて軽く体をふらつかせると同時に、リュジが「メル!」と私の体を支えてくれた。
「そんなことないわ。私の意思はカイネの意思よ。カイネも、あの悪魔なんて、もういらないでしょう? ねえ? 嫌なことばかり囁くのよ――おかしいでしょう、必要ないでしょう、私とカイネの――ねえ、神様、ねえ!」
「母上……」
カイネがぽつり、と言葉を零す。トゥーリッキの傍に立ったままのカイネは、何度か瞬きをすると、その瞳からぼろ、と涙を零し始めた。耐えきれない、というように、彼は眉根をぎゅうっと寄せる。
「メルは――メルは、悪魔ではありません」
たった一言、反抗の言葉だった。恐らく、口にするのに、どれほどの勇気が必要だったのだろう。
月に数度帰ってくる母親におびえ、弟を化け物と誹る言葉を受け止め、自分だけの神であれと強要される。
それはきっと、幼い頃から、ずっと続く、――虐待のようなものだ。
兄様、と名前を呼ぶ。カイネは私を見て、困ったように笑った。「怪我がなくて良かった、本当に」と、彼は震えながら言葉を口にする。
トゥーリッキが目を見開いて、カイネを見つめるのがわかった。私は小さく笑って、元気を証明するようにぐっと拳を握ってみせる。私を支えてくれたリュジが「おい。はしたない」と言うのが聞こえた。
「ふざけないで……ふざけないで。悪魔。悪魔! 二度も私からカイネを奪おうとして! 許さない、許さない……!」
トゥーリッキの指先が、杖を持った手の平が、私をずっと指し示している。私が何か行動を起こしたら、すぐにでも攻撃をする準備は整っているのだと、突きつけるようだった。まるで銃口を向けられている心境に近い。
硬直状態が続くかと思われたが、その手を、タリオンおじさまが近づいて、ぎゅっと握り絞めて止める。トゥーリッキ夫人が悲鳴のような声を上げた。
「触れないで、化け物! 何をするの!」
「カイネ、リュジ、メル。遊びに行っておいで。門前に馬車が止まっていたが、あれはメルが呼び寄せたんだろう?」
「――良いんですか?」
思わず問いかける。タリオンおじさまは小さく頷いた。
それならありがたくそうさせてもらうことにしよう。そう、最初から、王都に行く予定は立てていたことだし!
まだ少しだけ震える腰を叱咤して、私はリュジの手を取る。そうして、カイネに近づいた。
「なにを言っているの! やめて! カイネが――神様が、私だけの神様が、神様が!」
「トゥーリッキ、私たちは話し合わないといけないよ。ずっと、ずっと――放り投げてきた、数々の問題を」
「やめて! いかないで! カイネ! カイネ!」
悲鳴のような声だった。カイネが僅かに震えて、困ったように視線を動かす。
だから、私は、その手を握った。震える指先に、もう怖がらなくて良いのだと、訴えるように。
エトルが恋をしていたから、カイネも恋をしていい。それはトゥーリッキに向けての言葉で、カイネに対しては違う。彼は神であることを強要されて、苦しんできたのだ。私がカイネを神と肯定すれば、それはトゥーリッキの二の舞になる。
だから――そう、言葉を翻すようで申し訳無いけれど。
「兄様」
「メル……」
「兄様は、人間です」
じっとカイネを見つめる。握った手に力を込める。せめて、この言葉が少しでも、彼の呪縛を取り払うように、祈りながら。
そう。兄様は人間で。――だから。
「誰かのものでもなくて、誰かのためでもなくて。――自分のために、行動して、良いんだよ」
カイネが小さく息を飲む音が聞こえた。美しい青色の虹彩が僅かに揺れて、ついで、泣きそうな顔で彼は微笑む。
「そう――そうだね。私は……、私は、人間だったんだ……」
「それはそうですよ。何言ってるんですか? 兄様が神様だったら、一日にしてイストリア帝国は滅びます」
リュジが僅かに辟易した声を出す。あんまりな言いようだった。カイネが僅かに笑い声を零す。確かに、と、カイネは続けた。青色の虹彩。美しい、星々に似たきらめきを持つ虹彩を輝かせて、彼は嬉しそうに笑った。
――少しでも、カイネの心の呪縛を解くことが出来ただろうか。わからない。けれど、そうあればいいと、強く思う。私は一呼吸置いてから、カイネの手を引っ張った。
「ほら、兄様、行こう! 王都の花冠祭は凄いんだよ!」
「兄上、以前、王都散策しようって言っていたでしょう。今日がその時、です」
同じようにリュジがカイネの手を握る。少しだけ照れくさそうに紡がれた言葉に、カイネは僅かに目を見開いて、それから小さく頷いた。
「そうだね、――そうだ。私は、二人と、ずっと――ずっと、王都で遊んだり、花をあげあったり、沢山の……沢山の、行事に参加したくて。そう、兄様はね、狩猟祭からずっと、二人と王都で、どうやって過ごそうか、ずっと考えて居たんだよ。ずっと、ずっと、二人としたいことが、沢山あったんだ……」
静かな声は、沢山の感情を持って紡がれる。私は頷いて、それから駆け出した。リュジが「おい! 急に走るな!」と怒ったように声を上げる。でも、仕方無いだろう。だって。
「早く行かないと、花冠祭が逃げちゃうよ!」
「いや、逃げるわけが――」
リュジが呆れたように声を上げる。けれど足並みを揃えるかのように、彼の歩幅がぐんと広くなったのが見えて、私は小さく笑った。
トゥーリッキをじっと見つめて、私は真正面から言葉を紡ぐ。カイネが僅かに目を瞬かせて、私を見つめるのがわかった。
これから起こることを予期して、微かな不安に震えるような、そんな視線。――だが、私は今から始めることを、やめるつもりはなかった。我が儘だが、それでも――それでも、今、ここでこそ、口にしなければ、変わらないことだと、思う。
私の行為によって、カイネに嫌われるかもしれない可能性だって、何度だって考えた。それでも、私にとって、一番大事なのはカイネとリュジのこれからの未来だ。今日、ここで、束縛を止め、崇拝を少しでも止めることで、謀殺されるカイネの未来を、もしかしたら止められるかもしれないのだから。
トゥーリッキは私を睥睨すると、「何を言っているの?」と、静かに言葉を口にする。
「花冠祭は、イストリア帝国の建国を祝うとともに、大事な人に花を渡す日です。それなのに、兄様は一度も花を受け取ったことがないと聞きました」
「それが何か、あなたに関係あるの?」
切り捨てるような言葉だ。――相手との言葉の応酬を、一切、望んでいないということがわかるような、冷え切った声。恐らく、私だけで無く、カイネ以外の家族にとって、ずっと向けられてきた態度なのだろう。
――これをリュジは何年も向けられていたのだな、と思うと、なんだか苦しくなってくる。実の母親が、自分に一切興味を持たず、さらには化け物と口にする。そんな状況にあって、よくぞあそこまで良い子に育ってくれたものである。推し、健やかに育ってくれてありがとう……、なんて心中で感謝を述べつつ、私はあります、と頷いた。
「兄様――カイネ様に、花を渡したいんです」
「図々しいこと。神に一つも愛されていない容姿をしていて、星の子であるカイネに、花を渡したいと?」
「そうです」
「ふざけないでちょうだい。カイネは神の子なのよ。エトルに愛されし子ども。陛下よりも、殿下よりも、誰よりも愛されている! 貴方とは違うのよ、貴方のような化け物とは」
確かに、メルの――私の容姿は、銀髪碧眼とは程遠い。銀髪碧眼以外を化け物と誹るのであれば、その範囲にもちろんメルも入るだろう。
カイネが「母上」と、静かに声を震わせる。カイネは苦しむような表情を浮かべながら、声帯を引き絞って出したような、そんな声を零す。
「やめてください。どうか。メルは、――メルも、リュジも、化け物ではありません」
「どうして? 本当のことでしょう。おこがましくも神に愛されしあなたのまわりをうろつく。そうすれば神の恩寵が一欠片でも手に入るとでも思って居るのかしら?」
「――母上……」
「神の恩寵は私以外、誰にも与えられない。そうでしょう? 私のものよ。だってカイネは私が産んだ。私の元に、神がカイネを遣わした。星の子、エトルの子、愛しの子、私の神様、私だけのものよ、誰にも渡さない」
まるでカイネを物のように扱う、と思う。渡さない、とか、私だけのもの、だとか。人としての扱いをしていない。そしてそれを、当然のように、カイネに押しつけているのだ。
――トゥーリッキは、もしかしたら、この世界が嫌いだったのかもしれない。明確に、神に愛されたものと、愛されなかったものと、線引きがされている、この世界が。
神に愛されしものは、エトルの眼差しを受け、星の子としての容姿を得る。だが、神に愛されなければ、それらの一つも、得ることは出来ない。
もちろん、星の子として生まれてくる人間の方が明らかに少ない。大多数が、神に愛されない子どもたちばかりだ。
だが、多くの人がそれでも神を崇め、イストリア帝国で日々を暮らしていく。こういうものだと、どこかで折り合いをつけながら、時たま現れる神の愛を受けた子どもを羨み、そして心を傾けながら、生きていくのだ。
けれど、そう、これは推測だけれど――トゥーリッキは、その折り合いをつけることが出来なかったのだろう。
神に愛されない容姿を化け物、と言ったが、それならばトゥーリッキ自体も化け物だ。彼女は化け物として暮らし、化け物として日々を生き、ある日突然、神を授かったのである。
それはきっと、化け物として日々を生きてきた彼女にとっては奇跡のような出来事だった。
――だからこそ、トゥーリッキは、過剰なほどにカイネを神として扱うようになってしまったのだ。
私は唇を引き結ぶ。沢山の推測をゆっくりと溶かすように飲み下しながら、トゥーリッキを見つめた。
トゥーリッキはもしかしたら、かわいそうな人なのかもしれない。けれど、だからといって、カイネを物のように扱うことが看過出来るかというと、そんなことは一切無かった。
「カイネ兄様は、神様なんですか?」
「当然よ。陛下も殿下も、見たことあって? 銀髪だけなのよ。銀色の髪を持つだけで、星の子、星の子とまるで神のように崇められている。その点、カイネは銀髪、そして碧眼、美しい瞳! 全てがエトルの生き写しなのよ。カイネが神でなくて、誰が神なの? 私が――私が、ずっとお祈りしていたから、エトルは、エトルは慈悲深く私の元に降りてきてくださったのよ!」
トゥーリッキは僅かに興奮したように、早口に言葉を続ける。感情の奔流が、まるで堰を切ったように溢れ出すようだった。
「エトルは――エトルは、恋をしない。エトルは愛を与えこそすれ、伴侶を持ったことはない。だからカイネもずっと私のもの。結婚もしない。恋もしない。伴侶も持たない。私だけの息子、私だけの神様。――だから、ずっと私の神様なの」
私はカイネをちら、と見る。カイネは視線を落としたままだった。その碧眼が、僅かに暗い色を宿していることに、トゥーリッキは気付いていないのだろう。
人生の全てを母親のために捧げろ、と言われているようなものである。カイネにとって、星の子として生まれたことは偶然だった。それなのに、そのせいで、彼は全てのことを諦めざるを得なくなっているのだ。
人として恋をすることも、誰かと想いを交わすことも、何もかも。
リュジが兄上、と小さく息を零す。私はタリオンおじさまを見つめた。やっちゃうけど良いですよね、というのを視線だけで送る。タリオンおじさまは場を静観していたが、私の視線に気付くと微かに目を伏せた。――まるで、謝罪をするように。
「お言葉ですが――神様も、恋をしたことがあるのを、トゥーリッキ夫人はご存知ありませんでしたか?」
「……何を言っているの?」
「プロキオンのこと、ご存知ですか?」
トゥーリッキは僅かに眉根を寄せる。私も後から調べたのだが、星の子であるプロキオンという存在自体は、エトルの神話を伝える本のいくつかに出てきていた。おおよそ、色々な活躍をした星の子であるらしい。
そのため、恐らく、エトルに関しての信仰心が大変に強いトゥーリッキであれば、プロキオンの存在を絵なり字なりで見たことがあるはずである。
考えた通り、トゥーリッキは鷹揚に頷いて見せる。まるで知識の差を見せつけるように、彼女は言葉を続けた。
「知っているわよ。星の子であり、騎士のプロキオン。――エトルを守り、戦場を駆ける姿はまるで犬のように勇ましく、美しい。エトルに愛されし子の一人でしょう。でも、残念ね、あなたが言うような話なんて無いわよ。浅学で物を言うのも、大概にして」
「――良ければ、トゥーリッキ夫人にご紹介したい一節がございます」
私は腰にはいていた杖を取り出す。一瞬トゥーリッキが身構えた。攻撃されると思ったのかもしれない。まさか、そんなことはしないのだが。色々と信用が無いらしい。当然とも言える。
杖を軽く揺らす。そうして、私は空中にプロキオンとエトルの姿を描いた。本に書かれていた通り、二人の容姿を忠実に模写する。
勇敢な騎士、プロキオン。そしてその傍に立つエトル。
「――騎士であり星の子であるプロキオンは、エトルと心を交わし、共に多くの日々を過ごした」
「貴方の下劣な創作神話を聞くような時間は無いの」
「いいえ。これは本当にあったことです。二人は愛し合っていたという記述。ご存知ありませんか? まさかそんなことはありませんよね? 世代は遡りますが――ずっと昔、きちんと神話書にも書かれていたものです。ある日、消されてしまったのですが――、それは皇帝によってのもの。教会の人々は、この説を支持し、これらについて書かれた書を大事に持っているのだとか」
文字を描いて、絵の傍に置く。そうして、出典元を明記。完璧だ。
「トゥーリッキ様はエトル様のことが大好きとのことですから、まさか、私よりもエトル様に関して知らないだなんて、そんなことは無いと思いますが」
「――ふざけないで」
「いえ。いいえ。本当のことです。もちろん、王都の教会に聞きに行ってくださっても問題ありません。私の話は彼らから聞き知ったものですから」
私はトゥーリッキを見る。トゥーリッキは苛立ちを表情に強く示していた。ふざけないで、と地を這うような声が耳朶を打つ。赤色の瞳が強く、怒りに煮えていた。――リュジと同じ目の色だ。それなのに、どうしてか、全然、違う。
「それで――兄様はエトル様が恋をしないから、伴侶を持たず、トゥーリッキ夫人の傍に居る、んでしたっけ」
「――ふざけないで、ふざけないで、何を言い出すの、こんなの聞く価値が――!」
「いいえ。聞いてください。貴方はエトルの神話をもって、兄様をがんじがらめにしたんです。トゥーリッキ夫人、あなたには聞く義務があります」
「楽しい茶会が、あなたのせいで、台無しになってしまうじゃない! 誰か、誰か、この女をどこかへやって!」
楽しいのは、――楽しかったのは、トゥーリッキ夫人だけだろう。リュジは動かない。タリオンおじさまも、カイネも。使用人が困ったように目配せをするのが見えた。
カタラ伯爵家子女メル。そう、私は腐っても伯爵の爵位持ちである。めったなことをしたら、どうなるか、という思いがあるのだろう。トゥーリッキの叫びだけが美しく飾り立てられた庭園に響き渡る。私は小さく息を吐いた。トゥーリッキの激情につられないように、つとめて冷静を装いながら、ゆっくりと口を開く。
「神様は恋をします。――ならば、そう、エトルの生まれ変わりとされる兄様だって、恋をしても問題はありません。いえ、――エトルの生まれ変わりの兄様だからこそ、エトルにとってのプロキオンのように、伴侶を得ても良いはずです」
「ふざけないで!」
トゥーリッキ夫人が手を振る。瞬間、その手に杖が現れた。
リュジが遣っていた、収納魔法と同じようなものである。こ、これは、もしかして攻撃されるやつでは、と思った瞬間、目にも留まらない早さでその杖から雷撃のようなものが繰り出される。い、いやだ、当たったら痛い奴――!
ほとんど反射的に目をつぶる。防御魔法を一切覚えていなかったのが運の尽きだろう。こんなことなら、何かしら覚えておけば良かった……!
身をすくめる、と同時に、ばちん、という音が鳴った。――衝撃は、無い。
え、音から先に来る系? もしかして、こう、少し時間を置いてから衝撃が来る感じの魔法なのだろうか。そういうのあるのだろうか。
その時に備えて体に力を入れる――が、どうにも、その時が来ない。恐る恐る目を開く。杖を持ったまま、トゥーリッキが「――タリオン!」と叫ぶのが聞こえた。
「邪魔をしないで! この――この悪魔を! 悪魔を、私は、私が、私が――! カイネのために……!」
「トゥーリッキ。――カイネはそんなことを望んでいないよ」
どうやら、タリオンおじさまが防御魔法か、もしくは攻撃魔法か何かを使って、私を助けてくれたらしい。直撃していたら、恐らく痛みに呻く日々が待っていただろうことを考えると、ちょっとだけ気が抜けてしまう。腰が抜けかけて軽く体をふらつかせると同時に、リュジが「メル!」と私の体を支えてくれた。
「そんなことないわ。私の意思はカイネの意思よ。カイネも、あの悪魔なんて、もういらないでしょう? ねえ? 嫌なことばかり囁くのよ――おかしいでしょう、必要ないでしょう、私とカイネの――ねえ、神様、ねえ!」
「母上……」
カイネがぽつり、と言葉を零す。トゥーリッキの傍に立ったままのカイネは、何度か瞬きをすると、その瞳からぼろ、と涙を零し始めた。耐えきれない、というように、彼は眉根をぎゅうっと寄せる。
「メルは――メルは、悪魔ではありません」
たった一言、反抗の言葉だった。恐らく、口にするのに、どれほどの勇気が必要だったのだろう。
月に数度帰ってくる母親におびえ、弟を化け物と誹る言葉を受け止め、自分だけの神であれと強要される。
それはきっと、幼い頃から、ずっと続く、――虐待のようなものだ。
兄様、と名前を呼ぶ。カイネは私を見て、困ったように笑った。「怪我がなくて良かった、本当に」と、彼は震えながら言葉を口にする。
トゥーリッキが目を見開いて、カイネを見つめるのがわかった。私は小さく笑って、元気を証明するようにぐっと拳を握ってみせる。私を支えてくれたリュジが「おい。はしたない」と言うのが聞こえた。
「ふざけないで……ふざけないで。悪魔。悪魔! 二度も私からカイネを奪おうとして! 許さない、許さない……!」
トゥーリッキの指先が、杖を持った手の平が、私をずっと指し示している。私が何か行動を起こしたら、すぐにでも攻撃をする準備は整っているのだと、突きつけるようだった。まるで銃口を向けられている心境に近い。
硬直状態が続くかと思われたが、その手を、タリオンおじさまが近づいて、ぎゅっと握り絞めて止める。トゥーリッキ夫人が悲鳴のような声を上げた。
「触れないで、化け物! 何をするの!」
「カイネ、リュジ、メル。遊びに行っておいで。門前に馬車が止まっていたが、あれはメルが呼び寄せたんだろう?」
「――良いんですか?」
思わず問いかける。タリオンおじさまは小さく頷いた。
それならありがたくそうさせてもらうことにしよう。そう、最初から、王都に行く予定は立てていたことだし!
まだ少しだけ震える腰を叱咤して、私はリュジの手を取る。そうして、カイネに近づいた。
「なにを言っているの! やめて! カイネが――神様が、私だけの神様が、神様が!」
「トゥーリッキ、私たちは話し合わないといけないよ。ずっと、ずっと――放り投げてきた、数々の問題を」
「やめて! いかないで! カイネ! カイネ!」
悲鳴のような声だった。カイネが僅かに震えて、困ったように視線を動かす。
だから、私は、その手を握った。震える指先に、もう怖がらなくて良いのだと、訴えるように。
エトルが恋をしていたから、カイネも恋をしていい。それはトゥーリッキに向けての言葉で、カイネに対しては違う。彼は神であることを強要されて、苦しんできたのだ。私がカイネを神と肯定すれば、それはトゥーリッキの二の舞になる。
だから――そう、言葉を翻すようで申し訳無いけれど。
「兄様」
「メル……」
「兄様は、人間です」
じっとカイネを見つめる。握った手に力を込める。せめて、この言葉が少しでも、彼の呪縛を取り払うように、祈りながら。
そう。兄様は人間で。――だから。
「誰かのものでもなくて、誰かのためでもなくて。――自分のために、行動して、良いんだよ」
カイネが小さく息を飲む音が聞こえた。美しい青色の虹彩が僅かに揺れて、ついで、泣きそうな顔で彼は微笑む。
「そう――そうだね。私は……、私は、人間だったんだ……」
「それはそうですよ。何言ってるんですか? 兄様が神様だったら、一日にしてイストリア帝国は滅びます」
リュジが僅かに辟易した声を出す。あんまりな言いようだった。カイネが僅かに笑い声を零す。確かに、と、カイネは続けた。青色の虹彩。美しい、星々に似たきらめきを持つ虹彩を輝かせて、彼は嬉しそうに笑った。
――少しでも、カイネの心の呪縛を解くことが出来ただろうか。わからない。けれど、そうあればいいと、強く思う。私は一呼吸置いてから、カイネの手を引っ張った。
「ほら、兄様、行こう! 王都の花冠祭は凄いんだよ!」
「兄上、以前、王都散策しようって言っていたでしょう。今日がその時、です」
同じようにリュジがカイネの手を握る。少しだけ照れくさそうに紡がれた言葉に、カイネは僅かに目を見開いて、それから小さく頷いた。
「そうだね、――そうだ。私は、二人と、ずっと――ずっと、王都で遊んだり、花をあげあったり、沢山の……沢山の、行事に参加したくて。そう、兄様はね、狩猟祭からずっと、二人と王都で、どうやって過ごそうか、ずっと考えて居たんだよ。ずっと、ずっと、二人としたいことが、沢山あったんだ……」
静かな声は、沢山の感情を持って紡がれる。私は頷いて、それから駆け出した。リュジが「おい! 急に走るな!」と怒ったように声を上げる。でも、仕方無いだろう。だって。
「早く行かないと、花冠祭が逃げちゃうよ!」
「いや、逃げるわけが――」
リュジが呆れたように声を上げる。けれど足並みを揃えるかのように、彼の歩幅がぐんと広くなったのが見えて、私は小さく笑った。
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