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しおりを挟む実家に戻ろう、という選択肢は、ほとんど消え去っていた。
実際、今、実家に帰ったとして、本当に逃げ切れるかどうか、もしかしたら家族まで自分の今の状況に巻き込むかもしれない、という不安があった。そもそも、あそこまで冬里に執着している加賀のことである、電車に乗って逃げたとして、追いかけてくることが容易く想像出来た。
かがち様の昔話によると、かがち様の嫁探しはお盆の間だけ行われる。ならばそれをどうにかして越えさえすれば良い。そうすればきっと、なんとかなるだろうという楽観的な考えと、なんとかなるはずだ、という、どこか確信めいた思いがない交ぜになっていた。
――なら、準備することは。決まっている。
昔話では、まんじゅうを置いてかがち様を騙したとされていた。同じことをすれば良いのだ。
まんじゅうを置き、いれてほしいと願う加賀に、戸口に置いてあるから持って帰れ、と言えば良い。その時、もしかしたら上手く言葉が発せられなくなることも考えて、冬里は先んじて携帯のボイスメモにお帰りください、という声を吹き込んでおいた。
まんじゅうは、スーパーで売っていたものを購入した。地域の子ども用に洋菓子を籠に入れたものを置き、かがち様用、と書いたお菓子をそこから少し離れた場所に置く。まさか軒先にそのまま置かれたまんじゅうを手に取る子どもは居ないだろう。
後はもう、ただひたすら、自分が加賀の声によって酩酊しないことを祈るだけだ。
加賀の声は不思議だ。まるで酒を一気に飲み込んだ時のように思考が酩酊し、善悪の区別がつかなくなる。行動の後先を考えず、今、加賀に求められていることをしたい、と強く思うようになってしまう。
あの声は魔性だった。見た目も、蠱惑的な面立ちも、浮かべる一つ一つの表情が淫靡で、私を誘う。絶対に顔を合わせないようにしないといけない。
玄関口の扉に鍵とチェーンをかけて、そうしてから私は息を吐いた。携帯を見ると、母親からの着信履歴がいくつかある。
朝、「お母さんそっち行こうか?」というメッセージが送られてきて、それに少しだけ泣きそうになった。母を巻き込むわけにもいかない、と、大丈夫、ありがとう、お盆が過ぎたら必ず帰るから、というメッセージを打ち込んで、眦に浮かんだ涙を指先で拭った。
そう、私は、今日で加賀との関係を終わらせる。
――確かに、加賀は――かがち様は、かわいそうだと思う。彼の今までを思うと、同情の念が湧き出てくるのだって、無いとは言えない。
人の為に身を挺したというのに、いざお礼を求めると、蛇には娘をやりたくない、と人間の我が儘に振り回されているのだ。そのくせ、人間はこれまで通り村を水害から守るように求められる。そうしないと娘を差し出さない、と。
人質を取られながら、良いように扱われた過去。自身が欲しかったものをようやく手に入れることが出来るというのなら、必死になるのだって、理解は出来る。
けれど――それでも。私は、加賀の嫁となることは、出来ない。
準備を進めている内に、陽がくれる。呼び鈴の音が鳴った。それに体をびくりと震わせて、玄関口に向かう。沢山の子ども達が、いっせいに「こんにちは、いれてください」と声を合わせるのが聞こえた。
ばらばらの音程に、ばらばらの速度。それを少しばかり微笑ましく思いながら、「お帰りください。戸口に置いてあります」と告げると、わあわあと喜ぶ声が耳朶を打った。
これもらっていいの、これほしい、おいしそう。沢山の声が響いて、感謝と共に消えていく。そっと庭園に面する方の窓から見ると、次は隣家の老婆の元へ走り去っていく子ども達の姿が見えた。子ども達がいっせいに声を上げる様子は、なんだか少しばかりじんわりとあたたかくなるような心地を覚える。
そっと窓から体を離し、私はテレビをつける。祖母がよく使っていた椅子に背を預けながら、見るともなく映像を眺めて、途中で消した。
集中が続かない。携帯の画面を点けて、そのまま友人のアカウントなどを流し見する。そのうちに、いつのまにか、かがち様のお祭りについて、調べ始めていた。
先日調べた時と同じような内容が、小さな文字としてずらずらと画面上に並べ立てられている。中には童話ベースのようなものもあり、おまんじゅうで作られた人を、大事に大事にしようとしている蛇の姿が挿絵のように描かれているものもあった。
冬里はそっと息を吐いて、それから唇を噛む。陽が暮れ、ゆっくりと闇の帳が空を覆い隠すようになる。雨戸とカーテンを閉めると、室内は一気に暗くなる。
夕飯を食べる、気力はなかった。作る気力もない。ただ、今日一日が平穏に過ぎることだけを願う気持ちが、胸の中で膨らみ始めた頃。
呼び鈴が鳴った。
冬里の肩が震える。一気に呼吸が浅くなるのがわかった。一瞬、無視をするべきではないか、と思ったが、そうしていると、もう一度呼び鈴の音が鳴る。ぶー、ぶー、と言う音が絶え間なく響く。
行くしかないのだ。そして、追い返すしか、無い。
携帯を手に、冬里は玄関口まで向かう。玄関の扉をそっと窺うと同時に「冬里」と優しい声が耳朶を打った。
紛れもなく、加賀の声だ。
「こんにちは。いれてください」
「――」
「迎えに来たよ。僕のお嫁さん、僕の番。どうか中に入れて。ねえ、一緒に暮らそう。一緒に過ごそう。大事に大事にするから。だから、――いれて、冬里」
加賀の声は、遠近感が狂うような、そんな声音だ。扉の外から響いてきているはずなのに、耳元で囁かれているような気もする。ずっと聞いていると、思考が犯されていくような、蠱惑的な魅力の満ちた声。
冬里は必死に呼吸をする。加賀の声を聞いただけなのに、体の奥が熱を宿し、体温が高くなっていくのが、自分でもわかった。既に自身の体は、加賀によって犯されているのだろう。
奥の奥だけを、除いて。
「は、――あ、」
お帰りください。喉が震える。言葉が上手く出来ない。僅かに言葉を詰まらせながら、冬里はようやく、言葉を続けた。
「おか、えり、ください……」
「……冬里?」
「戸口に、おいて、あります」
瞬間、背筋が粟立つような感覚を覚えた。一瞬にして手に鳥肌が立つ。冬里の周囲を漂う気温が、一瞬にして氷点下まで下がったかのような感覚を覚えた。
加賀が小さく笑う。
「これが?」
囁くような声だった。
「これが冬里?」
ごそごそと、何かを――恐らくは、まんじゅうを、持ち上げる音が聞こえる。加賀が小さく喉を鳴らして笑った。そうして、静かに言葉を続ける。
「これは、冬里じゃないよ」
たった一言。断ずるような声音だった。ぼと、と何かが落ちる音がする。しゅるしゅると、重たく、湿り気のある何かが、戸口を隔てた向こうで、とぐろを巻く音がする。
「これは冬里じゃない。僕のお嫁さんは、番は、冬里は、水で崩れないお嫁さん。キスをした時に壊れないお嫁さん。触れた時に僕の名前を呼んでくれるお嫁さん。これは崩れる。壊れる。名前を呼ばない」
ノブががた、と音を立てる。がちゃがちゃと狂ったように動き出すそれに、冬里は小さく息を詰まらせた。
「冬里。僕のお嫁さん。いれて。いれて、いれて。冬里が言ったんだよ。おいでって。うちの子になればいいって。冬里。冬里が欲しい。冬里、ちょうだい、冬里をちょうだい、僕だけのものにするから。一緒に過ごそう。一緒に暮らそう。いれて。いれて、冬里、いれて」
温度の無い声音が、早口に言葉を続ける。
「冬里。冬里、いれて。いれてください。こんにちは、いれてください。いれてください。いれてください。いれてください。いれて、いれて、いれて、冬里、いれて」
扉が軋むように動く。冬里は小さく息を飲んで、その場から後ずさった。そうして、祖母が寝室にしていた部屋に飛び込むように入り、扉を閉めて布団に潜り込む。その間も、どこから響いてきているのか、加賀のいれて、という声がずっと耳朶に反響していた。
ぎゅっと耳を押さえるようにして耐えていると、不意に、きし、きし、と軋むような音が響き始めた。
天井から、音がする。ぎし、ぎし、と室内が揺れる。一瞬錯覚かと思ったが、本棚ががたがたと音を立てるのを見て、錯覚ではないのだ、とぞっとする。
「冬里」
静かな声が聞こえる。頭上から、あるいは、床下から。
「冬里。いれて。冬里、冬里、家族になろう。ずっと待っていたんだ。誰かが僕を受け入れてくれることを。受け止めてくれることを。冬里、冬里だけが、僕のことを受け入れてくれる。ねえ冬里、お願い。いれて。――いれてください」
恐怖で言葉が声にならない。冬里は震えながら、携帯を取り出す。そうして、録音しておいたメッセージを再生した。
「お帰りください。戸口に置いてあります」
「――冬里」
「お帰りください。戸口に置いてあります」
「どうして?」
「お帰りください。戸口に置いてあります」
何度か再生を繰り返していると、不意に、室内の電灯がばち、と音を立てて明滅した。瞬間、携帯の画面が真っ暗になる。電源が切れたのか、と、冬里は震える手で電源を付け直そうとするが、上手くいかない。
「冬里、……冬里、受け入れて。いれて。僕を、いれて。中に、冬里、いれて」
誰も――誰も、冬里が居る家に起きている異変に、気付かないのだろうか。家が揺れている様を見て、誰も助けの手を差し伸べることはしないものなのだろうか。
わからない。そもそも、外から見たときに、この家はどうなっているのだろうか。
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