長命種の愛は重ため

うづき

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8-1.隣村の『隣人』

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 朝、目を覚ますと同時に、視界一杯にフィラスの顔が映り、思わずエステルは体を引いた。瞬間、壁に頭をぶつけて悶絶する。痛い。
 悲鳴を押し殺しながら、エステルはフィラスを見つめる。エステルが一人で慌てている中、周囲の喧噪を一切気にせずに安らかに眠りについているフィラスに、なんともいえない感情がふつふつと沸いてくる。

 そもそも、昨日寝る前に部屋に入った際は、鍵をかけたはずだ――それなのにどうして、フィラスはここに居るのだろうか。確認するように扉に目を向けるが、鍵はやはりかかっている。
 ……フィラスのことだから、もしかしたら鍵を開ける魔法を使って入って来たのかもしれない。想像が出来たし、何の罪悪感も持たずにやっているであろうことも、なんとなく察しがついた。一人で寝るの寂しいし、よし、エステルの所に行こう、くらいの気持ちだったのではないだろうか。

 フィラスからしたら、エステルが怒ったところで、幼い頃一緒に寝ていたのだから今して何の問題があるの? という感じなのだろう。フィラスの中で、エステルは本当にどのような姿形に見えているのか。確実に十八を迎えた女性の姿では無い事だけは確かだ。

 呼吸を繰り返して、エステルはフィラスに触れる。体温がじんわりと手の平を伝って滲んできた。優しく揺らすと、フィラスの眉根に皺が寄る。瞼がひく、と痙攣をして、ゆっくりとそれが開いた。白金色の瞳が、覚束なさを宿しながらエステルを眺める。

「エステル……」
「おはよう。フィラス。どうして私の部屋で寝ているのか説明してくれる?」
「ふ。あは」

 少し棘のある口調でエステルが言うと、フィラスが息を零すようにして笑った。緩慢な動作で手が伸びてきて、そのままエステルの肩をそっと抱き寄せてくる。

「だって、エステルと一緒に眠りたかったから。それだけだよ」

 思った通りの言葉が、思った通りの温度の声で返ってくる。エステルは眉根を寄せた。

「……私、あの、そろそろ結婚を考える年なんだけど」
「知っているよ。嬉しいな。いつ結婚する? 僕はいつでも良いよ、エステルに合わせる」
「……あのね……」

 本当に分かっているのか、分かっていないのか、よく分からない口調でフィラスが笑う。抱き寄せたエステルの肩口に顔を埋め、くすくすと喉を鳴らして、そろ、と背中を撫でてくる。
 毒気を抜かれるような笑い声だった。だから、エステルの中で燻っていた、『起きたら色々言おう』という気持ちは、水に濡れるようにして鎮火してしまう。

「もう。……私じゃなかったら、フィラス、本当に怒られていたからね!」
「大丈夫。エステル以外の所に潜り込むことはしないよ。エステルの傍にしか、居たくない」
「……とりあえず、私、着替えて、シャワーも浴びてくるよ」
「うん。僕も行こうかな」
「当然のように付いてこないで」

 昨日の夜、お酒を沢山飲んで、そのまま這う這うの体で宿に辿り着いたことは覚えている。本来なら、フィラスに声をかけて帰るべきだったかもしれないが、そこまで頭が回らなかった。
 もしかして、そのことを怒って、フィラスはエステルの部屋に潜り込んだのだろうか――僕を放置して帰るなんて! とか。エステルが驚くようなことをしてやる! とか、そう思ったのでは。
 考えて、エステルは首を振る。それは無いような気がした。フィラスは基本、そんなに怒ることはないし。

 本当に単純に、一緒に眠りたいから、部屋に来た。ただそれだけなのだろう。
 フィラスからしたら、ただそれだけの行為に、朝からこんなにも心を乱されてしまう。エステルはどきどきする胸を指で撫でながら、息を吐いた。
 とにかく、体を清潔にしたい。それに、衣服も着替えたい。昨日は結婚式に際して、少しだけ上等な服を着ていた。今日は村に帰り、後回しにしていた仕事をしなければならない。なんにせよ、普段着に着替えるのは必要なことだ。

 付いてこようとするフィラスを部屋の中に押しとどめ、エステルは宿の主人にシャワーを使って良いかを尋ねる。宿といっても、一つ一つの部屋に浴槽からシャワーから設置されているわけではない。王都にあるような宿でなければ、尚更だ。基本的にシャワーは一つ二つほど設置されていて、それを泊まる人々で譲り合って使用することになる。

 幸いなことに、朝にシャワーを利用する人は居なかったようで、エステルは直ぐにシャワーにありつくことが出来た。いそいそと服を着替えようとした、瞬間、腕輪がちゃり、と音を立てた。
 ユーリから渡された、魔除けや呪い返しの効果がある腕輪だ。昨日貰って、その場でつけて、――それから、そのまま、眠ってしまったようである。

 慌てて腕輪を外す。綺麗な石のはめこまれた箇所を指先で辿ると、微かなとっかかりのようなものを覚える。
 見ると、石が割れていた。注視しないと分からない程度に、ヒビが入っている。

「え……」

 どうしてだろう。渡された時は、こんなヒビは無かったはずだ。――寝ている間に、どこかにぶつけてしまったのだろうか。覚えが無い。
 渡されたばかりのものを、壊してしまった。しかも、大事な友人から貰ったものだったのに。
 若干泣きそうになりながら、エステルは腕輪の石をすりすりと撫でる。ユーリには絶対に言えない。――帰宅したら、石の補修をして、もう一度腕輪に取り付けるようにしよう、と決めながら、腕輪をハンカチの中に丁寧に挟んでから、エステルはシャワーを浴びた。

 体を洗いながら、そう言えば昨日怪我をした場所が痛まないな、と思いながら視線を手の平に向ける。
 昨日、木や土砂を必死に避けようとして擦り傷を負った手の平は、けれど、どうしてか既に治りきっていた。傷跡なんてものの一切が見当たらない。隣村に着いた当初は、じわじわと痛んでいたのだが、式が進むにつれて怪我をしていたことを忘れてしまうくらい、全く痛まなくなっていた。いつの間に治ったのだろう。というより、治る速度がおかしい――気がする。

「……もの凄く治癒能力が上がったのかな……」

 わからないが、無いものは無いのだから、それ以上考えようもない。エステルは手の平を指先で撫でながら、いそいそと体を洗い終わった。思ったよりも軽い傷だったのかもしれない。
 髪をタオルで拭いた後、外に出る。宿の主人にシャワーを浴び終えたことを伝えなければならない、と声をかけた瞬間、宿の戸口が開いて、香しい匂いと共に誰かが入って来た。

「お邪魔します、配達にきたよ」

 聞き覚えのある声だった。見ると、昨日の夜、話をした男性――ケイの姿が目に入る。
 配達にきた、と言っているように、手には大きなバスケットのようなものを持っていた。中には、香しい匂いを漂わせる、焼きたてのパンが詰まっている。

「あれ、昨日の!」

 ケイもエステルに気付いたらしく、宿の主人にバスケットを渡しながら快活な笑みを浮かべる。エステルは頷いた。

「おはようございます。昨日ぶり、ですね」
「そうだね。――なんて、偶然めかしてるけど、実はさ、ここに隣村の人達が泊まるって聞いてて。それもあって、配達に志願して来たんだよね。会えるかも、って」

 ケイは言葉を弾ませる。――なんだか歯の浮くような事を言われているような気がする。ただ、それが嫌みに感じられないのは、ケイ自身が快活で、そしてあっけらかんとした性格に見えるから、だろう。

「昨日は大丈夫だった? 部屋まで送れば良かったね」
「大丈夫です。ケイさんは、ええと、郵送屋さん……ですか?」
「そう見える? 実は、代々パン屋なんだよ」

 からからと笑いながら、ケイはバスケットの中からパンを一つ取り出すと、そのままエステルに手渡してくる。

「これ一番美味しいから! まあなんでも美味しいんだけど!」
「――ありがとうございます、頂いても良いんですか?」
「良いよ。大丈夫。だよな?」

 ケイが宿の主人に同意を求めるように視線を向ける。宿の主人が「また始まったよ」と言い出すあたり、多分、こういうことは初めてではないのかもしれない。

「良いって」

 唇の端を持ち上げて、歯を見せるようにしてケイは笑う。一言たりとも良い、とは言っていない気がするのだが、ここで固辞をするのも状況にそぐわない気がした。エステルはパンを口に運ぶ。ふわ、とした食感のそれに、少しだけ硬い――木の実のようなものが入っている。

「これって……クルミか何かですか?」
「そう。それに、少しだけ果物の干したのが入ってるんだ」

 確かに、少しだけ酸味のある果物の味がする。エステルは頷いて、美味しいです、とケイを見た。
 ケイは笑って、「良かった。ねえ、そうだ、エステル。聞きたいことがあって」と囁いた。ちょうど、待合室のようになっている出入り口の、空いた席を勧められて、エステルは少しだけ迷った後腰を据えた。
 物を貰った手前、直ぐに退散をする、というのはあまりにもな行為だろう。エステルの向かいに腰をおろし、ケイは潜めるように言葉を続ける。

「あの――君の村には、神に愛されし隣人が住んでいるんだろ?」
「ああ、フィラスのことですか?」
「そう。こっちには居ないからさ、もう村中その人の話で持ちきりで。姉に色々聞いてこいって言われてて」
「居ない……」

 紡がれた言葉を、繰り返すようにしてエステルは瞬く。ケイが頷いた。

「正確には、『居た』けど、『居なくなった』が、正しいかな」
「居なくなった? ですか?」
「そう。――これはおれのじいちゃんの、そのまたじいちゃんの、じいちゃんの、じいちゃんが生まれるずーっと前、この村にも居たらしいんだ」

 そうなのか。全く知らなかった。ただ、それも当然だろうな、と思う。山を一つ挟んだ向こうに、神に愛されし隣人が住んでいる――だなんて、知るよしも無いだろう。それも、ずっと昔に住んでいたのなら、尚更だ。

「その隣人は、女性で……ずーっと一人で過ごしていた、らしい」
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